2015年3月24日火曜日

FB読書会 2015年3月近況

11月近況」以来更新が滞っていました。
ぼやぼやしているうちにレントに入り、次週は早受難週です。

Surprised By Hopeに続く本は、Simply Christian となったことは既にご報告しました。


実際に『シンプリー・クリスチャン』を読み始めたのは2月に入ってからです。

数ページずつ小分割し、世話人以外の人たちにもリーダー(Reader/Leader)担当して頂いています。

イントロ・・・SH
1章、Putting the World to Rights
 イントロ・・・HTさん
 The Cry for Justice・・・HKさん
 A Voice, or a Dream?・・・TMさん
 Tears and Laughter・・・KYさん
 Christians and Justice・・・HKさん

2章、The Hidden Spring
 イントロ・・・TKさん

と、ここまで来ています。

以下支障ないと思う限りにおいてですが、各担当者が訳出したものから抜粋して紹介します。

イントロ・・・SHさん
イエスに従うことの意義は、単に、死後に今よりもっと良い場所に行けるようにすることではなく、キリスト者の抱く希望の本質は、その希望が現在の生活に反 映されることにある。そう考えると、この世でのさまざまな課題について、新しい取り組み方が見えてくる。
本書の結論に近づくに従い、第一部で取り上げた 「声の響き」が、再び聴こえてくるだろう。もはや、ただ神の存在をほのめかすものとしてではなく、この世界にあって神の国のために働くという、キリスト者の召命を支える重要な要素としての「声の響き」である。
1章、Putting the World to Rights
 イントロ・・・HTさん
 正義への情熱に関しても同じようなことが当てはまるように思える。私たちは正義がこの世界を支配する夢を見、そこで私たちが何をなすべきかは分かっているように思えるが、現実の中では、その夢を説明することができない。

 今回の箇所を読みながら以下の名言を思い起こしました(※担当者の感想)
「国家をこの世における地獄と絶えずしてきたのは、人々が国家をこの世における天国にしようとしてきた、あの努力以外のなにものでもない」(F.ヘルダーリン)
The Cry for Justice・・・HKさん
 もう一度、人々は自分自身に問うている。「一体これは何だ?」と、「我々はこの状態から回復されうるのか?」と。
 もう一度、我々は自分自身に問うている姿を見ているのだ。「正しくあろうとするのにこの様は何だ?」と。「すべきでないことをなぜ斯くも頻繁にすることになるのだ?」と。
A Voice, or a Dream?・・・TMさん
これら三つの伝統[注 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教]は様々な点で互いに異なるが、他の宗教や哲学との違いを次の点では共有している。すなわち、声を聞いていると思う理由は、実際にその声を 聞いたからだ。それは夢ではない。その声を聞き返し、その声を実現させる方法がある。それも現実の人生で。わたしたちの実際の生活で。
Tears and Laughter・・・KYさん
イエスはお祝いごとの行われていてみんながたらふく飲み食いしているパーティーによく足を運んでいます。
また彼はめちゃくちゃな誇張表現で言いたいことを 明らかにしたりもしました:『君たちさー、友達の目の中の木くずを取ろうとしてるけどさー、自分の目の中に丸太ん棒はいってるんだよなぁー!』
 またイエ スは弟子たち、特にリーダー格の弟子におもろいあだ名をつけたりもしました。(小石のシモンには大岩ペテロ、ヨハネとヤコブには「イナズマブラザーズ」) イエスが行くところどこでも、人々はワクワクしていました、それは神が動き始めてる、新しい救いの計画の気配がする、世界が正しく組み替えられると彼らが 信じたからです。
Christians and Justice・・・HKさん
 これらの人々の話は繰り返し繰り返し語られる必要がある。これらの物事をきちんとするということは、クリスチャンたちが行ったことをまともに受け止めた ことによるのだ。しかし、これらのことに取り組むことは、人々をトラブル、ときには死に至らせるほどの暴力に巻き込まれることになる。
 20世紀は多くのク リスチャンの殉死者を生んだが、それは、彼らが信仰の問題だけでなく、信仰から導かれる義に対して恐れを知らない態度で取り組んだからである。デートリッ ヒ・ボンフェファーを見よ。エルサルバドルでのオスカー・ロメロを見よ。そして、Martin Luther Kingを。
2章、The Hidden Spring
 イントロ・・・TKさん(※これは筆者、小嶋のことです。訳出ではなく要約しました。長くなりますが紹介します。)

現代西洋人のキリスト教との距離(隔たり)を
 ①「ポストモダン」、
 ②「ポストキリスト教」、
 ③「ポスト世俗」
と言う諸特徴から捉えていたが、「スピリチュアリティ/霊性」の状況を啓蒙主義以降の「システム(The System)」から解読している。


ライトがこの状況を説明するために用いるのは結構手の込んだ喩えです。
(これは邦訳出てからじっくり読んでください。ここで説明するのは野暮だと思いますので。)

啓蒙主義以降西洋社会では、世俗化と呼ばれるシステムが徹底してきました。
政教分離など宗教は公共圏から「私事」に隔離されました。
Surprised By Hopeが描くような二元論的「あの世」志向キリスト教は「私事」化した宗教として「統治者」にとって「安全」なものになりました。

しかしこの間合理主義全盛のもと殆ど破綻なく「安全な水道水」だけで庶民に賄われてきたと見えた「霊性の深み(Hidden Spring)」が突如あっちこっちに水を噴出してきました。


具体例として挙げられているのは、
 ・ニューエイジ神秘主義
 ・タロット(占い)カード
 ・水晶
 ・ホロスコープ

しかし、何と言ってもその際たるものは「9.11」になるかと思います。
様々な宗教者集団の武装化。
自分たちの信念を「私事」で収めておくことができずに公衆の目前で破壊やテロ行為に及ぶ「妄信」の徒が輩出する状況。

※以上が所謂「ポスト世俗」現象と言えると思います。

果たして啓蒙主義の合理的支配は「霊性」を閉じ込めておくことができるだろうか。
・・・と言うような問題提起の仕方で「近代西洋社会における霊性の行方」を描写します。


以上です。
また「近況報告」します。

2015年3月6日金曜日

チャールズ・E・B・クランフィールド(1915-2015)

新約聖書学、特にロマ書注解で貢献した英国の学者、チャールズ・E・B・クランフィールドが先日天に召された。

ビブリオブログスフィアーではもう幾つか「追悼記事(オビチュアリー)」が出ているが(※記事の最後に幾つかリンクを貼っておいた)、ライト読書会ブログとしてはライト自身の記事を紹介することにしよう。

読める人はリンクを辿って読んで頂きたいが、英語が大変な人のために3箇所だけ選んで引用してみた。

(1)新約聖書(釈義)学の偉大な「模範」としてクランフィールドを称えている箇所(周到に釈義されたものに対抗するような説を立てるには、「早朝からネジリ鉢巻」で格闘する覚悟が必要・・・とユーモアを効かせている)
The remarkable thing about this commentary is that, even though I now disagree with Cranfield on several of the major interpretative issues, his steady and persistent laying out and weighing up of all the exegetical options remains a model of ‘how to do it’. You always know, with Cranfield, that if you are going to take a different line you will need to get up very early in the morning and hold your nerve through some highly complex discussions of texts and theological issues.
(2)「パウロにおける律法」の扱いでライトが苦悩している時、大勢に反してクランフィールドが出した見方がライトが正しいと思っていたものだったことに感動して、「思わず跪づいて神に感謝の祈りをささげた」と言うエピソードを紹介している箇所。
Though I do not think Paul’s discussion of the Jewish Law was primarily about moral restraint, this easy-going rejection of the law, and a facile opposition between ‘law’ and ‘gospel’, was the order of the day, and I was having difficulty combatting it. At that point I came across Cranfield’s essay on ‘Paul and the Law’, published earlier, and then subsequently incorporated into the long essay on Pauline theology at the end of the second volume of the Romans commentary. I think that was the first time I ever spontaneously knelt down and thanked God for an academic article. It said what needed to be said at a time when nobody else was saying it.
(3)ある日クランフィールド家でお茶をいただいた時、クランフィールドとC・K・バレット(2011年没)にちょうど挟まれた席に座った時のことを、「象と犀の間」と面白く表現している箇所。
On one memorable afternoon, during a conference in Durham, I went to a meeting in the Cranfield home, and found myself sipping tea between the great man and C. K. Barrett. I felt like a small puppy sitting between an elephant and a rhinoceros. These were men who, for all their differences, showed the next generation what it looked like to hold together massive scholarship and deep personal faith and commitment. 

その他の記事のリンク
(1)ニジェイ・グプタ
(2)マイケル・バード
(3)ベン・ブラックウェル