2013年10月28日月曜日

イエスの復活の身体①

先日(10月9日)持たれた「第2回N.T.ライト・セミナー(案内簡単な報告)」

 

天と地が出会う場所:神殿、イエス、そしてN・T・ライトの空間理解

 と言う基調講演をなされた鎌野氏は、その中で「神殿」の理解を、どのようにライトが「イエス」理解に繋げているかを

『天と地が出会う場所としてのイエス、そしてキリスト者共同体』

と言う部分で5つのポイントにまとめている。

その第5ポイントは以下のようになっている。(ネットではまだ公表されていない論文なのであしからず。)
第五に、イエスの昇天を通して、地におけるイエスの遍在が可能となった。天と地は全く同じ種類の空間ではない。地にいる限り、イエスはある特定の場所にしか 存在することははできなかっただろう。しかし、天は地に十分に浸透している。天にいるからこそ、イエスは地のあらゆる場所にいることが可能となった。イエ スは王として天の王座につき、そこから全地を導いているのだ(脚注31)。
※脚注31とは、ライトの2011年刊、Simply Jesus: A New Vision of Who He was, What He did, and Why He Matters、の191-2ページ(ペーパーバック版、ハードカバー版は、195-6ページ)。
この「イエスの遍在」ということについて、当日のセミナーで、フロアーから質問があった。
イエスの昇天によってイエスの肉体は現在遍在するのか。このような書き方だとイエスは肉体を持ったまま天に着座した、と読めるのですが・・・。
これに対して鎌野氏は(質問者は聖餐におけるイエスの臨在のことにも言及されたので)聖餐におけるイエスの臨在に関する理解が「象徴説」から、よりルター的 な、あるいはよりカトリック的な理解に近づきつつある、としながら「イエスの遍在」に関しては「遍在」が可能になったのだけれども、それは「汎神論」的な意味での「遍在」のあり方とは違う。
とおよそそのような回答をなされた。

筆者は基調講演へのレスポンデントとして同席していたのだが、この質問には人一倍関心があったので、ついでに意見を言わせて頂いた。

筆者は、ライトが「キリスト教起源」シリーズ第3巻の「神の子の復活」で、復活したイエスの身体が、パウロ(第一コリント15章)によれば「朽ちない身体に 変わった(トランスフォーム)」としているのをどう表現したら良いか探しあぐねて用いた言葉がtransphysicalityだ、と紹介した。
そしてその理解はSimply Jesusでも継続されている、と発言した。

しかしそもそも transphysicalityと言う言葉自体ライトの造語であるし、また果たして昇天の時のイエスの身体性は、復活後40日間弟子たちに顕現された時の身体性と同一であるかどうか、筆者は改めてその点を確認する必要があるのではないか、と思っている。

これはかなり推論的な思索にならざるを得ないので、ライトと言えどもそれほど「確実性」を主張していないものだと思う。

と言う訳でどこまでライトが言う transphysicalityに肉薄できるか分からないが、あくまで試論として、あるいは断想的なものとして書いてみようと思う。

(次回へ)



2013年10月13日日曜日

ライト・インタヴュー「パウロ研究論文集」

ライトの「キリスト教起源」シリーズの第4巻は、実際には4冊組のような形で出版されることはこのブログでも何度も案内してきました。

本体である「パウロと神の信実(Paul and the Faithfulness of God)」は1700ページの2冊組ですが、それと合わせて出版される「パウロ研究」論文集について、アズベリー神学校のベン・ウィザリントンがインタヴューをしています。


N. T. Wright's Pauline Perspectives Part 1
N. T. Wright's Pauline Perspectives Part 2

パート2では、ベン・ウィザリントンがこれまでの間に「義認」についての理解の変化があったかどうか、あったとしたらどのように変わってきたのか、と言う質問をしています。

それに対してライトは、初めの頃学者たちが提供している解釈が非常に不満足なものであるとの認識からスタートし、次第にクリアーになって行った経過を簡単に述べています。

①「神の義」(は人に分与されるものではないこと・・・旧約聖書)
②聖霊の働き
③「キリストにいる」のモチーフ
がライトの義認理解の発展に寄与している、と語っています。

次の部分にライトが言わんとしていることがよく出ていると思います。

The big thing to get across now, I think, is that the question ‘who then are the true family of Abraham’ and ‘how do I get my sins forgiven’ are not ultimately different questions. God called Abraham to undo the sin of Adam, so that to belong to Abraham’s family (Rom 4, Gal 3) is to be part of the family whose sins have been dealt with on the cross. Splitting these two themes apart, I now see in my old age, is the direct result of several false antitheses that have bedeviled western theology for long enough.

「義認」と「新生」の関係についての質問には殆んど答えていませんね。
ライトは新約聖書ではもっと違うことが中心的に語られている、と言っているようです。

2013年10月2日水曜日

PFG入門

PFGとは11月1日発売予定のライトの新刊、Paul and the Faithfulness of Godの略称です。

既に目次、イントロ、1章が出版社の「フォートレス」のサイトで読めるようになっています。(リンク

それに先立って、既に原稿を入手しているらしい、スコット・マクナイトが自分のブログで「入門」を開始したようです。

We will call it "PFG"

興味のある方はどうぞお早く。