2016年7月27日水曜日

「N.T.ライトの義認論」発題1 資料

ライトの義認論:
小嶋発題 パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」資料

(「『パウロ研究』に関する新しい視点」から抜粋)

ここまで見てきたように、「(誰かの無罪を)弁明・擁護する(vindication)」のに用いられる用語、「義とする(ディカイオー)」の関連表現は 法廷用語である。だから正義の神を法廷イメージを用いて言い表すことは適っている。神は最後には世界を正しく回復するはずのお方であり、神はそのように約 束され、その約束は守られる。しかしどのようにその約束を実現するかは、創世記12章以降で見ると、アブラハムと結ばれた契約を通してであることが分か る。とすれば、神の契約への忠実と、神の義とは、別な二つのことではなく、密接に繋がったものである。見てきたように、「デカイオスネー・セウー」フレー ズはその両面性を示している。


神が誰かのことを弁明・擁護する(vindication)と言うとき、神にとってそれは宣告を下すことである。私たちには二重に見えようとも、恐らくパ ウロにとっては単一に見えたのではなかったか。宣告とは、(A)ある者が「正しい」とされる(イエスの死によって罪の赦しが既になされているので)、こと とそして、(B)そのある者が真に契約の家族の一員とされていること、を指す。この家族とは、神がもともとアブラハムに約束していたものであり、今やキリ ストと聖霊を通して創造され、ユダヤ人も異邦人もともに等しく信仰をベースにして形成される単一の家族のことである。


私がこのような解釈を提出する理由は、同じ場所にありながらばらばらに置かれているように見える多様な分類・区別も、手繰り寄せて整頓することで(繋が り、まとまりが)見えてくるのではないか、ということである。ルターの「法的(forensic)」とカルヴィンの「子とする」の対立、シュヴァイツァー とサンダースの「法廷」と「キリストとの一体(incorporative)」の対立、などがそれらの分類・区別のことである。パウロの言わんすることが 契約神学を下敷きにしていることを一度でも押さえておけば、これらの二項対立は乗り越えられる。


このサブセクションの主要論点の第一は、これら二つのこと(罪の赦しを与えられた罪びとを正しいと宣告し、そして、多民族による一つの家族の一員であるこ とを宣告する)はパウロの脳裏では緊密に連携している、ということである。さらに言えば、後者の論点(家族への所属)がロマ書3章やガラテヤ3章ではとて も重要であると主張することが、前者の論点(神の法廷で義と宣言された者の一人とされる)の重要性を軽減するものではない、ということである。


このポイント(契約神学が下敷きになっている)は多少見えにくいが決定的に重要である。すなわち、神がアブラハムと契約を結んだのは、[旧約]聖書の大枠 から言っても、パウロにおいても、アダム来の「罪」とその影響を除去し、良き創造のわざそのものとして完成に導くためである。かくして、神が罪の赦しを宣 言し、また契約の民の一員と宣言することは、詰まる所、二つ別々の事柄ではないのである。
___________________________________
New Perspectives on Paul (http://ntwrightpage.com/Wright_New_Perspectives.htm)
引用部分は↓(最初と最後の文章)
"The language of vindication, the dikaioo language, is as we’ve seen lawcourt language....Thus God’s declaration of forgiveness and his declaration of covenant membership are not ultimately two different things."

「N.T.ライトの義認論」発題1



パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」
 (支持の立場からの発題 要旨)
 小嶋 崇


  N.T.ライトは、「大きな構図で物を見る人間(Big Picture person)」と自身を描写します。聖書の細かな釈義点についても詳細な議論のできる人ですが、彼の真骨頂は、「聖書全体を貫くテーマ」を、細部を余り 犠牲にすることなく説得的に示す力量ではないかと思います。


 ライトの「義認論」に関しては、ここ数年で日本の福音派の中でも、「新しい『パウロ研究』の視点」と共に紹介されてきました。しかし、この日本伝道会議 の場では、「新しい視点」からの主張点である、①「第二神殿期ユダヤ教」の特徴として挙げられる「契約遵法主義(covenantal nomism)」、②「律法の行い」は異邦人との民族的区別を表わす「割礼・安息日・食物規定」は横に置いておきます。


 その代わり、「義(ディカイオー)」語群が「法廷言語(lawcourt language)」を用いながら、
 (A)神の前に(罪びとを)義と宣言すると同時に、
 (B)異邦人もユダヤ人と共に「アブラハムの子孫」「神の民の一 員」であることを宣言する、
両面を持っていることに注目します。即ち、パウロ書簡において義認は「救済論」と「教会論」とを一緒に言い表す教えでもある、 とのポイントに集中します。


 「パウロにとって義認は救済論と教会論の両方を合わせたもの」とのライトの議論が正しければ、プロテスタント諸派、特に「福音派」の神学と実践に大きな 問題を投げかけます。
 それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。



(ライトの義認関連論文の一部を抜粋翻訳し資料として使います。別投稿します。)

「N.T.ライトの義認論」 (第6回 日本伝道会議・分科会)



 N.T.ライト読書会を主宰する小嶋からのご案内させていただきます。


 この度「第6回日本伝道会議」の分科会で「N.T.ライトの義認論」(コード ①−11)が「神学ディベート」と云う形で取り上げられることになりました。

 2016年9月28日(水)、14:00~15:30
 神戸コンベンションセンター

 丁度2ヵ月後となりました。
 
 図らずも小嶋が「支持派」側の発題を担当することになりました。
 また「慎重派」からは神戸ルーテル神学校の校長も勤められたことのある橋本氏が発題します。


 当日の分科会は全体でも90分という短い時間です。とても十分な討論をすることは無理です。ライトを余りよく知らない参加者も多いと想定されます。討論の内容を幾らかでも理解して臨んでいただくために、この「ライト読書会ブログ」のウェブサイトを用いて 期間限定で「情報提供」の場 を設けることにしました。

JCE6分科会「神学ディベート ――N.T.ライトの義認論――」
主催:JEA神学委員会 代表:関野祐二(鶴見聖契キリスト教会、聖契神学校)
発題者:小嶋 崇(巣鴨聖泉キリスト教会、N.T.ライト読書会)
     橋本 昭夫(宝塚ルーテル教会、神戸ルーテル神学校)
司会: 関野祐二(神学委員長、聖契神学校校長)
        佐々木望(神学委員会担当理事、バプ連合守谷教会牧師)

ディベートの時間枠
 a. イントロ(10分)
 b. 討論(50分)
  発題 1、小嶋「パウロの義認の教えは『救済論』と『教会論』」(15分)
  応答、橋本(7.5分)
  発題 2、橋本「N. T. Wrightの義認論を吟味する ―ルター神学の立場から―」(15分)
  応答、小嶋(7.5分)

 c. フロアとの質疑応答(30分)
 
 今後(少しずつですが)「発題要旨」「参考資料(12)」「解説」等を掲載して行く予定です。

 なおこの分科会の主催はJEA神学委員会ですが、このウェブサイトでの管理責任は小嶋にあります。

2016年7月21日木曜日

「悔改め」と「信仰」再考

新約聖書において「信仰」の意味はどういうものか。

プロテスタントの伝統にいると、「信仰」は強調されるが、その意味はいかにと立ち止まって考えることは余りなかったように思う。

もちろん宗教改革原則の「信仰義認」での意味と、福音派における「回心主義」の意味とを合わせて「伝統」としてきたので、その文脈における意味で由としてきた経緯があると思う。

しかしここ30-40年の「『パウロ研究』における新しい視点(New perspective on Paul)」とも連動して「ピスティス・クリストゥー」がかなり議論に上るようになり、狭義の「信仰義認」だけでなく、そもそも「福音を信じる」とは何か、が問われるようになってきた。

しかし、その前に「悔改め」にも言及しなければならない。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
(マルコ1:14-15、新共同訳)
新約聖書、一世紀の文脈では「悔改め」と「信仰」は「神の国の到来という終末的事態」に呼応するものとして現れた。

問題は、この「一世紀的ユダヤ・キリスト教」の文脈で「悔改め」と「信仰」議論されるときに緊密に参照される「終末(エスカトン)」「黙示(アポカリプティック)」の及ぼす意味合いが、それから時と文化・言語を隔てた今日のキリスト者が「イエス・キリスト」や「福音」や「義認」や「信仰」について語るときにどうなっているか、ということである。

あるいは、それらはどこへ行ってしまったのか、と問い直すことも出来るだろう。

おそらくこの問題を要約するフレーズとして最も流通しているのが、「『既に(already)』と『未だ(not yet)』であり、これら二つの緊張関係として議論されるやり方であろう。

この「時の間にある」問題を、キリスト教信仰の歴史的課題として自覚し、問題にしている場合、二千年の教会史の中で「幾つかの対応パターン」があった。(各千年期説のバリエーションのことではない。)

 ※しかし以上はイントロなので、ここではそのことを論じず指摘するだけに留める。


(1)「悔改め」


新約聖書での重要なテーマである『悔改め』が、なぜ神学的に議論されることが少ないのか、とブロガーで新約聖書学博士のクリス・ティリングが問題提起している。

そして、共感を込めてドイツの学者らしい、トマス・ゼーディングを引用(訳)している。
The coming of the kingdom doesn't depend on repentance. It's the other way around: The necessity and possibility of the repentance and faith depends on the nearness of the kingdom.
「神の国」の到来は悔改めが招き寄せるのではない。実際はその逆だ。悔改めと信仰が必要になりそして可能になるのはその神の国が近づいていることによるのだ。

この「一世紀的ユダヤ・キリスト教」の文脈で重要だと思われる「悔改め」のポイントは、「アブラハム契約」の祝福を受け継ぐべき「割礼を受けた契約の民」が「悔改めのバプテスマ」の必要をヨハネから訴えられていることである。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。(マルコ3:7-10、新共同訳)
ここには「神の国の到来」を間近にした時点での「契約の更新」の暗示があり、その時に通る「神の怒りのさばき」と(恐らく)契約律法による義の問題とが絡んでいるのを見ることが出来るのではないか。


(2)(福音に対する)信仰

個人的には、「福音とは何か」ということでスコット・マクナイトの『福音の再発見』をかなり手広く紹介してきたが、改めて新約聖書の歴史的文脈により近く接近した「信仰」のニュアンスに分け入る時が来ているのかな、と思っている。(それに関してはまた書くつもり。)

福音のコンテントは何か、「救いの方法」か、それとも「主イエス・キリスト」か。

当然普通のキリスト者はこれら二つのことを別のこととは思わず、単にそのときの強調の違いであり、どちらにしても実質上は両方を含む、と考えて「問題化」しないで済ますのではないか。

しかし「強調の違い」は「パースペクティブの違い」であり、信仰者生活に「実質上の差異を生じさせる」としてマクナイトは問題化したわけであった。

さて「信仰」のニュアンスの違いとして考える際に、ギリシャ語ピスティスを「信仰(faith)」「忠実(faithfulness)」「忠誠(loyalty)」として区別しながら問題に迫ろうとしているらしい著書二つを、先輩ブロガーでもあり、新約聖書学者でもあるマイケル・バードが Pistis as Faith or Faithfulness or even Loyalty?  で紹介している。


以上、(1)も(2)も基本的用語である「信仰」「福音」の整理に有益のようであるのでお勧めしておこうと思う。

2016年7月15日金曜日

今日のツイート 2016/7/15

「今日のツイート」とは、「大和郷にある教会」ブログで常設しているエントリー項目ですが、この話題はやはりこちらが適当ではないかと思い、越境してきました。(笑)


一見して「宗教史学派」の「ヘブライスト対ヘレニスト」を踏襲した「大雑把」な物言いで、およそ(キリスト教青年部の人がイスラーム法学者から指摘されて)「なるほど」というほどのことはないと思うが・・・。

せめて、

(1)「パウロの『律法蔑視』」とはいかなるもので、どのようなロジックのもとにそのような「パウロ観」、そして「キリスト教(発達史)観」になって行ったのか、ということを検証するきっかけにしてはいかがだろう。

(2)「イエスが教祖」のキリスト教は「実質パウロ教、特にプロテスタントには」・・・のような「大まかな見取り図」をあたかも事実のように鵜呑みすることは、多大な新約聖書学・初期キリスト教学の研究成果を一切無視するようなもので、前途有為な「キリスト教青年」においてはそのような「知的逃避行動」は慎んで欲しいものだ。

※手始めに、ライトのWho Founded Christianity: Jesus or Paul?
あたりから読まれてはいかがでしょう。


2016年7月5日火曜日

FB読書会 2016年6月報告

7月を迎えました。

いつものように過ぎた6月の報告です。
『クリスチャンであるとは』の13章から15章を読みました。

6月中に「フォーマット」を変え、「指名制(強制ではありません)」でより多くのメンバーに担当してもらえるようにしました。15章から導入しています(結果はご覧のように上々です。)

第13章「聖書

255-7ページ
 そのように [聖書がインスパイアリングな書物であるように] 見ようとする人は、おそらく意図的にそのことを選択肢<1>の世界観に押し込めようとしているのだ。
 一方、「聖書の霊感」という考え方を擁護してきたかなり多くの人が、聖書を選択肢<2>の枠組みで見てきたのも事実である。それは、純粋な「超自然的」介入によって起きたと考え、著者の意図などまったく認めない。
257-8ページ  
 神がご自分の世界で働こうとするとき、神のかたちを担う被造物である人を通して働こうと願っているということである。しかも、できる限り人との知的 [intelligent] な協力体制を望んでおられるので、・・・、ことばを、またことばを通したコミュニケーションを中心にしたいと望まれている。
 すなわち聖書は、単なる啓示を証言しているのでも、それを反映しているだけのものでもなく、むしろ啓示そのものであり、神の啓示の本質的な部分として広く教会で扱われてきたのである。
258-9ページ


 ・・・神の召し出した民が、その務めを果たすためのエネルギーの提供である。聖書の霊感について語るとは、そのエネルギーが神の霊の働きからくることを表現する言い方の一つなのである。
 言い方を換えれば、聖書は、物事を調べ上げたり、正しく理解したかを確認する単なる参照資料ではない。それは神の民を整え、神の新しい創造と新しい契約 の目的を果たさせるのである。また義のわざに就かせ、霊的なあり方を保たせ、すべての面での関わりを築き、推進させ、神ご自身の美しさをもたらす新しい創 造を生み出すためである。

259-60ページ
 そのため私は、聖書に関して「無謬」、また「無誤」という用語を用いることについては不満はないが、個人的にはそれを使わないようにしている。私の経験では、これらの用語についての議論は多くの場合、・・・あらゆる種類の理論の世界に引き込んでしまう。

第14章「物語と努め

262-4ページ 
聖書は一言で言えば、少し異なりはするが愛の物語(ラブ・ストーリ)である。聖書の権威とは、そこに加わるように招かれている愛の物語という権威である。(p.252)
ということは、「聖書の権威」に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中には、共同体としても、個人としても、自分たちを浸 すことである。それはまさに、クリスチャンの指導者たちと教師たち自身が、そのプロセスの一部になることであり、聖書を読む共同体の<中だけ>ではなく、 その共同体を<通して>、より広い世界の中で、世界のために神が働かれているプロセスの一部にならない、ということでもある。(p.264)
《コメント》
>「聖書の権威」に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する
ってところにつながってくるように思いました。・・・演じる舞台は、教会の中だけではなくて、キリスト者が生きている現実世界だ、ということになるのでしょう。
一部では、この神の役割を果たす場所が、教会、とりわけ日曜日の教会でなければならない説をとる方々もおられるようなのですが、そうでないぞ、とライトさんは私たちに迫っているようかのように思いました。
265-6ページ 
神は確かに、聖書を通して語られる。聖書を通して教会に語り、さらに神の助けにより、教会を通して世界に語られる。この両面が大切である。ここでもその考 え方を、天と地の重なりという見方から見てみるなら、よりいっそう理解できる。また神の未来の計画が、イエスにおいてすでに私たちに届き、神がすべてを新 しくする日のために、今もそれを遂行しておられることを考えるなら、よりいっそう理解できる。
聖書を読むということは、祈ったり、典礼を分かち合ったりするのと同様、天のいのちと地のいのちが結ばれる手段の一つである。(p.265
267ページ 
聖書のことばから神の声を聴くとは、誤りのない見解を聞くことではない。
268-9ページ 

イエスについてクリスチャンが信じていることは、こう生きなさいという招きのナラティブを生み出し、さらにその物語に生きることで、この世界での具体的使 命への招きを生み出すということなのである。そして、知的な、思慮深い、神の似姿を担う人間としてその使命に従おうと追及する人を、神は聖書を通して支 え、方向を示す。

270-1ページ 
決定的に重要なのは、聖書は神とイエスと世界についての正しい情報の単なる収納庫ではなく、むしろ、生ける神がご自分の民として私たちと世界を救いだし、 新しい創造の旅へと送り出し、その旅の途上にあっても、聖霊の力によって、私たちを新しい創造の担い手とするための手段の一部だということである。 (pp.270-271)

272-3ページ 
真理は(神に感謝すべきことに)、それよりさらに複雑である。というのは、神の世界はそれよりももっと複雑で、事実、更に興味深いものだからなのである。(p.273)
《コメント》
真理は複雑、というのは大事かなぁ、と思います。・・・無理やり平板化された真理が大手を振って歩くふしがあり、それが問題を複雑にするような気がします。 そして、「文字どおり」と「比喩的」が2種類を指して使っており、それはキリスト者にも影響しているのが、更に問題を複雑化させているのではないか、という指摘です。
274-5ページ 
「文字どおり」という言葉が「具体的・具象的」という意味になり、「比喩的」とは「抽象的」、あるいは具体的・具象的とうい意味と反対の意味を負うようになる(例えば「霊的」のように。そうなるとますます混乱が起きる。)
聖書の物語全体のポイントの一つは、神がこの世界を愛し、救いだそうとしていることであり、現実の歴史の具体的事柄を通して、その計画を実現し、それを神の民の具体的生活やわざを通してなそうとしていることなのである。(p.275)
276-7ページ 
二番目に強調しておきたいことは、聖書を読む人、注解者、説教者の誰もが、ある特定の文章について、どの部分が「文字どおりの意味」の具体的現実であるか を問う前に、どの部分が「文字どおりの意味」で、どの部分が「比喩的意味」で、どの部分が両方の意味を持っているかを調べる自由がある、ということであ る。当ことは、前もって、「聖書のすべてを文字どおりにとらえるべきだ」と決めたり、前もって「そのほとんどを比喩的にとらえるべきだ」とするような単純 な決めつけはできない、ということである。(p.276)
278-9ページ 
即ち、聖書はまぎれもなく神から教会への贈り物であること、それは教会を整えてこの世界のために貢献するようにさせるためである。そのため、聖書を真剣に 学ぶことは、天と地がかみ合い、神の未来の目的が現在に到来する一つの手立てなのであり、またそうすべきだということである。(p.279) 

第15章「信じることと属すること

280-7ページ
 

個人的な霊的成長や究極的な救いは、むしろ副産物なのであり、神はより包括的で中心的な目的のために私たちを召しているのだ。その目的は明確である。それ は新約聖書のいたるところに記されている。すなわち神は、まさに知恵と愛に富んだ義なる創造者であり、世界を腐敗させ、隷属させている力を、イエスを通し て滅ぼしたこと、そして聖霊によって世界を癒し、刷新するために今も働いていることを、教会を通して世界に広く知らせようとしていることである。
《コメント》
クリスチャン信仰とは個人的なものだが本来「教会」という全体のためにある。また教会は家族のように(互いを兄弟姉妹と呼ぶように)親しい交わりがあるが、同時に外からの異なる人たちをも受け入れていかなければならない。
287-9ページ 
初期のクリスチャンは実際、復活こそが人類のすべてに必要なことだと信じていた。それは、いずれ終わりの時がきて、神が世界を新しくする日のためだけにで はなく、現在の生活において必要なことなのである。神は終わりの時に新しいいのちを与えてくださる。それに比べれば、現在の生活は単にその影にすぎない。 神は、究極の新しい創造においてこそ、新しいいのちを与えようとしている。しかし、新しい創造はすでにイエスの復活によって始まっており、神はいま、現在 のこのとき、私たちがその新しい現実に目覚めることを願っておられる。(289) 
《コメント》
もし、新しい創造が始まっていて、新しい現実が拡大しているのであれば、様々な分野において働いている、目覚めたキリスト者が各々召されている場所で、その現実に気づき、発見していく生活を送れるのではないだろうか。仕事場や、導かれた場所で、福音を語ることのほかに、その仕事や、場所が、天と重なり合 い、かみ合うことを、もたらすのもキリスト者であり、そして新しい現実に気づき、体験し、分かち合うことが福音を生きることではないだろうか。そうであるならば、すべてのキリスト者がパイオニアであり、宣教師であることに納得できる。
290-1ページ 
私たちは現在、キリストの光を受けながら闇の中で生きている。それゆえ、ついに太陽が昇るときには、その準備ができている。描写を変えると、やがてその日 がきて神が私たちを呼び出し、最高傑作の絵を完成させる時に至るまで、いま私たちは盛んにその素描を描いている最中だと言えるだろう。まさにそれが、福音の呼びかけにクリスチャンが答えるということである。(290)
《コメント》
ライトは、将来完成される最高傑作の下絵(素描)を私たちがすでに描き始めているのだと語っています。私たちクリスチャンが描いているなんとも拙い下絵 (現実の姿、教会の有様)だけを見ていると、これが将来どのようにして、神の最高傑作(神の王国)として完成されるのだろうかと戸惑いを覚えますが、ライ トの視点は優しいですね。

様々な欠けや痛みを抱えて生きている私たちですが、神はそのような私たちであっても、これから完成される最高傑作の共同制作者としてご覧になっておられる、そう語っているように聞こえます。
大体以上となります。


6月は、入会3名で、トータル201名となりました。
  

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。