ラベル 天国 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 天国 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年9月26日水曜日

『驚くべき希望』読書会

4月以降、N.T.ライトFB(フェイスブック)読書会はお休みしていました。

9月になり首を長くして待っていた驚くべき希望』(あめんどう)がついに出ました。

それで読書会を再開することにしたのですが、今回新たな試みとして
(1)『驚くべき希望』専用の
(2)「公開グループ」の
(3)ライト・ビギナーに焦点を合わせた
読書会を立ち上げました。

その名も N.T.ライト『驚くべき希望』読書会 です。


公開グループですのでメンバーにならなくても読むことはできます。

でも読み始めたらいろいろ分からないことが多く、できたら一緒に読み進める仲間がいたらいいな・・・と思う方は「メンバーとして参加する」ことを考えてみてはどうでしょうか。


N.T.ライト『驚くべき希望』読書会 ページに掲載した「説明」を以下にご紹介しておきます。

よくお読みの上よろしければご参加ください。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

英国の新約聖書学者N.T.ライトの『驚くべき希望(Surprised By Hope)』(あめんどう、2018年9月刊)専用の読書会です。

『驚くべき希望』専用の「公開」グループの読書会として、
 (1)この分厚い本を読み通す仲間を作り、
 (2)質問や疑問があればシェアし、
 (3)(本を理解するための)参考となる情報をシェアするプラットホームを目指します。


「公開」グループの読書会として次のことをお守りください。
 (1)メンバーは『驚くべき希望』を入手している方に限定します。(原書、Surprised By Hope、で参加したい方も受け入れますが、シェアする内容は日本語にてお願いします。)
 (2)メンバーは、本を読み進めるのに適した《質問》や《疑問》をシェアしてください。
 (3)メンバーは、本を読み進める励ましとなるような《感想》や《気づいたこと》をシェアしてください。

※「ディスカッションや議論」について
 シェアされた《質問》や《感想》から「ディスカッション」に発展する場合もあるかと思います。
 『驚くべき希望』の(終末論と呼ばれる)神学的内容については様々な解釈がありますが、この読書会ではその一つである「ライトの解釈」を☆読んで理解する☆ことが目的です。他の解釈とどちらが正しいか議論して決着を付けることではありません。
 多少の意見の交換は構いませんが、その場合でも他の人が本を読み進める妨げとならないよう、短く切り上げるか、グループ外で続けてください。

このグループの「管理人/世話役」
 2013年から、N.T.ライトFB(フェイスブック)読書会は「非公開」グループとして活動してきました。(現在も続いています。)
 その管理人/世話役としてグループをリードしてきたのが、小嶋・中村・川向の3名です。
 この『驚くべき希望』専用の「公開」グループ読書会も同じ小嶋・中村・川向の3名がリードします。
 (ちなみに中村氏は『驚くべき希望』の訳者でもあります。)

『驚くべき希望』を他の方々と一緒に読みすすめたいなーと思われる方はどうぞ参加なさってください。







2016年10月24日月曜日

「『福音』再考」について

まもなく日本伝道会議(分科会)「N.T.ライトの義認論」が終わって一ヶ月となる。

すでに神学ディベートとしてこのウェブサイトで掲載した「対話に向けて、1~9」は撤収したが、何らかの報告と云うか感想みたいなものをぼちぼち書こうと思っている。


ところで、一週間後となる第5回 N.T.ライト・セミナー(概要)では「いま、福音は」と云うテーマで「義認(論)」や「救済(論)」よりもキリスト教会にとってはより生命線ともいえることを取り上げようとしている。

用語としてはあるかもしれないが「福音論」という論議や論争はあまり聞かない。

一つには福音が「自明」とされていることがあるかもしれない。

あるいは「福音」とは義認論とか救済論とかキリスト論を入れるパッケージのようなイメージなのかもしれない。(何でも入れられるから中身についてそんなに心配しなくてもいい、みたいな・・・。)



さて、その第5回 N.T.ライト・セミナーの案内で、「ちょっとした紹介」にイントロとして書いた文章がある。『福音再考へのアプローチ』と云う文章の一部引用だが、ここに転載してみる。


 今回発題講演者にお招きした谷口氏は2008年から「福音とは何か」を『リバイバル・ジャパン』誌にリレー連載した。「福音」とは何かを意識的・持続的に取り上げた氏に全93回に及んだ連載記事の総括レポートを依頼したのは当然の流れかと思っている。福音派(と聖霊派)の牧師たちは「福音」をどう理解しているのか。彼らの福音理解にはどれくらい幅や多様性があるのか。あるいは逆に(判で押したように)画一的なのか・・・

 谷口氏の総括レポートにコメントしていただく高橋、坂原両氏はベテラン牧師と按手礼前の伝道者という組み合わせである。お二人にも事前に「福音」について自らの視点を簡単に示して頂くため「三つの質問」のうち二つ選んで回答してもらった。
(1)谷口氏の問題意識・問題提起

 2008年に「福音とは何か」連載シリーズを谷口氏は始められた。

 毎回記事の冒頭には「福音とは何か」シリーズの「狙い・視点」が掲げられているが、それはこうなっている。

福音を語るためには、福音を理解していなければならない。しかし果たして、私たちはその『福音』を正しく総合的に理解しているのだろうか。
谷口氏の問題意識と問題設定は、福音を伝える側がどれだけ「福音」とその内容を「正確に、総合的に」理解しているだろうか・・・ということを掘り下げるものであっただろう。

 自分たちが「受け」そして「伝えた」福音が、その指し示す事柄の把握の確かさの点でも、内容の豊かさの点でも、何か欠けているところ、十分整っていないところが(まだまだ)あるのではなかろうか・・・というような問題意識があったのではなかろうか。

 昨今の教勢衰退、伝道不振、牧師不祥事頻発の状況が、教会(界)人をひたひたとその中心であり根拠である「福音」への理解に対する自省へ促しているのではなかろうか・・・。


(2)福音を取り巻く二つの「パラダイム・シフト」状況

 個人的に注目したことがある、という意味での「二つ」であってまだ他にもあるとは思う。

 「大和郷にある教会」ブログで、『福音派のパラダイム・シフト』というシリーズを全7回掲載した。(2013年6~8月)

 紹介したゴードン・T・スミスの論文が分析したのは、18-19世紀(大西洋を挟んだ)欧米福音派を席巻したリバイバリズム(信仰復興運動)に端を発し20世紀以降ほぼ全世界に普及した
「回心体験」、そしてそれを中心に組み上げられた教会の伝道・礼拝・教育(霊的形成)の構造的性格 
であった。

 問題の出発点となる「回心体験」についてスミスは以下のように(かなり大鉈で斬る様に)定義している。
回心体験の中心は「死後の(永遠の)いのち」であり、「死んだら天国に行く」のが救いと考えられた。この世は伝道のため以外には殆んど意味がなく、もっぱら未信者を天国に入らせるのが教会の使命であり、そのような伝道が重んじられた。
 福音を取り巻くと断ったが、スミスの論考は「福音とはそもそも何を指すのか」とか「福音が語る内容はどこからどこまでか」というようなことだけについての反省ではなく、「福音」ということで教会が実践している事業(礼拝・伝道・教育)の中心となってきた「回心体験」とは何であったか・・・という問い直しであったといえる。

 このリバイバリズムという運動の中で定義された「福音の見方」、そしてそれに連動した教会の実践(礼拝・伝道・教育)を「一つのパラダイム」として分析した、というのが大事な点ではないかと思う。

 一つはこの「200年くらいの間支配的であったパラダイム」、と云う歴史的視点。

 もう一つは「回心体験」を中心にして教会事業が展開された、と云う(教会)社会学的視点。
  

 [スコット・マクナイト『福音の再発見』についての補足]

 マクナイトの本はある意味で「福音再考」だが、議論自体はかなりタイトでスミスのようなブロード(大風呂敷とも言えるが)ではない。

 「福音」それ自体が厳密に何を指すかについての考察は新約聖書に遡って「聖書神学的に」論及されているが、議論の比重はスミスが対象とした「回心体験」を生み出した「メッセージ」とその「提示の仕方」に絞っている。

 「天国に行くための罪の赦しによる救い」は宗教改革時点での「救済論的集中」から端を発し、その後の西洋キリスト教史における「個人的・主観的」キリスト教の発展・強化の文脈にあるもので、(一世紀)使徒的福音を尺度とした見た時、それは「個人的(罪からの)救いに特化した」福音であり、結果的に矮小化・(二元論的な面では歪曲)と分析される。(故に現在の福音派は「福音」派ではなく、実質「救い」派とみなされる。)


二つ目の「パラダイム・シフト」 状況とは、言わずと知れた「『パウロ研究』の新しい視点(NPP)」のことである。

 ここでは詳しいことは書けないが、伝道会議の発題で最初に指摘したように、「義認」理解を巡るパラダイム・シフトは「新約聖書学」(その中の「パウロ研究」)というアカデミックな世界で先ず起こったことが、N.T.ライトと云う類まれなコミュニケーターを通して一般信徒等に浸透した現象である。

 指摘したように「アカデミックな世界」での常識や知見が、そのまま「キリスト教会」に受け入れられるわけではない。かなりの隔たりがあり、説教のために聖書研究や聖書解釈をしている牧師たちでさえ聖書学の最新研究には殆ど不案内なことが普通だ。

 そのような大きな隔たりを一人で何冊も本を著したり、各地で講演して埋めて行くライトの働きは先ずは賞賛されてしかるべきだろう。

 「福音再考」にポイントを絞ると・・・

 やはり問題となるのは「どれだけ歴史的に検証しようとするのか」ということではないだろうか。

 歴史的資料を広く積極的に用いようとするか、それとも「新約聖書」文書を特別視して同時代の歴史的資料と一線を画し限定的に用いようとするか、「検証の入口」でもかなりな違いを生む可能性があるのではないか。



 以上「福音を取り巻く二つのパラダイム・シフト」として「回心体験」と新約聖書学における歴史研究の深まりを挙げた。

 後者に関しては論ずることはしなかったが、いずれにしても「福音とは何か」を問う時、どういう文脈で問いを発しているかを自覚できると、「問題の再設定」や「方法論」が次第に視野に入ってくるようになるのではなかろうか。

2015年5月14日木曜日

『クリスチャンであるとは』発売決定

ライト元年を飾る、ライトの一般向け著作初邦訳!

『クリスチャンであるとは』(原題:Simply Christian)
 ーーN・T・ライトによるキリスト教入門ーー
 著者 N・T・ライト
 訳者 上沼昌雄
 四六版 並製 344頁
 定価 2,700円(2,500円+税)

小嶋 崇さんの写真



お待たせしました。

5月末に出るみたいです。

ぜひ読んでください。

そして友人・知人にオススメください。

お金に余裕ある人はプレゼントしてください。

自分の教会の牧師にもオススメください。

スタディー・グループや読書会でテキストにお選びください。



※何人もの協力者によって翻訳が吟味されました。

※編集者の汗と涙が滲む、苦労本。

※スコット・マクナイト『福音の再発見』からちょうど2年。ついに真打登場!


あめんどう社のウェブサイトに「予約受付サイト」が来週には設定されるようです。

出版社を支援するためにも、Amazonではなく、直販ネットショップをご利用ください。

2014年12月18日木曜日

イエスの復活の身体④

ライトにとって「復活」がキリスト教の中核的メッセージであることは、彼のキリスト教の包括的把握が「創造→新創造」であると見做すことで、ある程度明らかではないかと思う。

しかし、
①中世以降のキリスト教がギリシャ思惟的二元論に浸透されて、「死んでからあの世に行く」救済教になり、
さらに、
②啓蒙主義の支配下で「私的、敬虔主義的信仰」に閉じ込められた後、
③もう一度「本来の使徒的な福音」である、「全宇宙を視野に入れた包括的レスキュー・ミッション」に再起動されるために、

ライトがことさら主張したポイントは
④単に「復活」ではなく「身体を持った復活」であり、
⑤罪と死に隷属されているとは言え、依然として全体として贖われるべき被造世界に対する「イエス」のメッセージ

であった。

ここまではライトの主張は説得力があり、特に欧米のキリスト教圏における受容は(理解度において深浅はあろうが)広範なものがあるように思う。

しかし脱キリスト教化した、世俗化した層への到達度・浸透度となるとどうなのだろう、との疑問はあるだろう。

キリスト教内にあっても、同じ新約聖書学のギルドにいるジョン・ドミニク・クロサンやマーカス・ボーグとの討論によって、どれだけ感化できただろうか。

もちろんライト一人に「本来の使徒的な福音」のアポロジストとしての役割を押し付けるのはどうかとは思う。
既にこれまでの旺盛な著作活動、講演活動で、ライトは多くの者たちを啓蒙してきたし、それによって「キリスト教が新しく感受できる」ようになった人はかなりの数に上るだろう。

しかし、敢えて、ここで「身体の復活」の含意を掘り下げるとどんな問題が出てくるだろうか。

幾つかのも問題はぼんやりとは脳裏に上るが、余りしつこく議論されてきていないものが幾つかあると思う。

①「復活の身体」の連続と非連続の問題
所謂、死後の2段階移行において(ある意味分離した)『身体』と『意識(たましい)』はどのような再統一を与えられるのか、と言う問題。
ライトが好んで用いる比喩が、ジョン・ポルキングホーンの、「今のハードウェアが死んでなくなっても、(神のもとに)保存されたソフトウェアーは維持され、(死者の復活で与えられる)新しいハードウェアーに再インストールされる」、というものである。

『意識(たましい)』の問題を『自分』あるいはアイデンティティーの問題として考えるとどうだろう。
身体的には全く更新しながら、どうやって『自分』が回復されるのだろうか。

このような疑問にライトが用いるのが、「人間の身体は細胞レベルで考えれば7年くらいで殆ど全部入れ替わるが、7年前も今も同じ『自分』として保持されているではないか」、と言うものだ。

②「万物が更新」した世界が最早朽ちることなく、永遠に続くとすると、果たして人間は一体何をして過ごせば充実感を得られるのか。「終わりがない」ことは却ってつまらなくないか。


以上のような、より哲学的な問題をライトと、イェール大学のシェリー・ケーガン教授が討論している動画を紹介しよう。


※ケーガン教授は身体的復活を信じないけれども、少なくともその可能性まで否定するつもりはない。ただ彼にとってもし「復活の身体」があったとしても、そのような「生」がとても魅力的であるようには思えない。そのような疑問をライトにぶつけている。



※この動画を見ながら「ライトの後に来るキリスト教アポロジスト」はかなり高レベルの知性やユーモアが必要だろうなー、と思いました。

2014年11月11日火曜日

復活:学問と信仰

「イエスの復活の身体」と言うテーマで何回か投稿したのがそのままになっている。
イエスの復活の身体 ①
イエスの復活の身体 ②
イエスの復活の身体 ③
しばらく前、ネットでこんなものを見つけた。
原口尚彰『新約聖書の死生観』
本稿は2013年8月26日に東北学院大学で開催された「第7回教職(牧師・聖書科教師)研修セミナー」で行った講演原稿に加筆したものである。
とある。まだ最近のものと言うことだ。

新約聖書(福音書、パウロ書簡、黙示録、)文献に沿って「死生観」について概観したもので、ドイツ語、英語、日本語による研究文献を参照している。

その中にはN. T. Wrightのものは何も見当たらない。

あっさりとした概観の印象だが、「まとめと展望」の中に以下のような感想と言うか観察が加えられている。
現代の教会も教理としては,世の終わりにおける死者の復活の思想を維持しているが(使徒信条第三項やニカイア・コンスタンティノポリス信条第三項を参照),信徒が現実に持つ信仰において,終末の到来の切迫感や死者の復活の希望のリアリティは薄れ,死後は天に召され,他の召天者たちと共に神の御許で憩うイメージを漠然と抱いている場合が多いのではないだろうか。(強調は筆者)
少なくともこの観察は、ライトがSurprised By Hopeで指摘した、Going to heaven when you die、神学が日本でも踏襲されている、と言うことを傍証するものではないか。

2014年2月26日水曜日

イエスの復活の身体③

「続く」とした後大分経ってしまった。

前回ライトが復活後のイエスの身体の状態を指す造語として使用した、トランスフィジカリティーについて紹介した。

まだ訳語が見つからないのでカタカナで表記しておく。

ルカ文書では、イエスは復活後40日間弟子たちに現れた後、「天に上げら」れて見えなくなる。
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章9-11節、新共同訳)
昇天から着座と言う事になるわけだが、ライトはSimply Jesusで、「イエスが天にいることによって、地上に遍在することができるようになる。もし地上に留まっていれば、そういうことは出来ない。イエスの昇天とは、イエスが地とは隔絶した天に消えていなくなるのではなく、天において主として地を統治をなさるためだ」と言う趣旨のことを書いている。

では天におられる間、イエスのトランスフィジカリティーはどのように保たれ、また「遍在」はイエスのトランスフィジカリティーとどのように関わってくるのだろうか。

イエスの復活の身体① では、イエスのトランスフィジカリティーはSimply Jesusでも継続されている、と書いたが、今読んでみたが発見することは出来ない。
どうやら視界から消えているようだ。

今回イースター後のイエスのトランスフィジカリティーを考える上で念頭にある聖書箇所は使徒言行録の二箇所だ。
このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。(使徒言行録3章21節、新共同訳)
ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。(使徒言行録7章55-56節、新共同訳)
かなり強引なこじつけになるかもしれないが、敢えて補助線として「ライティアン」な筋でまとめるとこうなる。

①復活したイエスは「新しい神殿」として天と地を結びつける存在である。

②天と地は時空間的連続の中にはないが、「扉を隔てて行き来できるような異なる次元の領域である。」(Simply Jesus)

③復活したイエスは天に上げられ、そこから地を統治する。

④最終的に「天と地が合一する時」まで、すなわち御子がすべての統治権を父に返還するまで、御子・イエスは天に留まって統治を完了しなければならない。(Ⅰコリント15章24-25節)

イエスのトランスフィジカリティーは、ではどんな意義があるのか。

今回は取上げないがその身体性はパウロの回心体験が「霊的」なものではなく、復活のイエスの証人として目撃者証言者のリスト(Ⅰコリント15章)に加えられている点でも重要である。

ステパノの幻はそのパウロのような目撃者証言とはみなされていないようだが、クリストファー・ローランドがThe Open Heavenで指摘しているように、「真正な幻体験」とすると、イエスのトランスフィジカリティーを例証するものと受け止められるのではないだろうか。

2014年2月15日土曜日

「死後のいのち」再考

現在、フェイスブック読書会の方は、
Surprised By Hope、の10章に入ったところです。

進行速度は大分落ちました。

この本を紹介する動画は幾つもあると思いますが、今回はカルヴィン大学で収録されたインタヴューを紹介したいと思います。


2013年8月2日金曜日

「天国」続

先日紹介したポーラ・グッダーとともに忘れてならないのはN.T.ライトの少し古いが「新天、新地」についてのブックレットと新刊でしょうか。

(もちろん現在FB読書会で読んでいるSurprised By Hopeはより包括的な一般向けの本ですが。)


これは1999年に出された本ですね。
アマゾンUKでは2.95ポンドで現在「在庫切れ」になっています。

アマゾン日本では新品が2,800円となっていますね。

新刊では、Creation, Power and Truthが現代における「天国」(だけではないようですが)に関する「世界観」的混乱の問題として扱われているようです。(以下、スクリブドからコピペ)
the church has often simply not noticed that you can affirm the Trinity, the incarnation, the atonement, the resurrection, the call to bodily holiness, and still work within a narrative which colludes with Gnosticism. That is precisely what happens when orthodox Christians think, speak, pray and live as though the main aim of the game were simply to ‘go to heaven when you die’, embracing a private, detached spirituality in the present and a world-denying and escapist eschatology in the future. We can criticize the second-century Gnostics for their redefinition of the word ‘resurrection’ so as to mean, not a new bodily life after a time of being bodily dead,but a spiritual life in the present and hereafter; but this position is, worryingly, held just as much by those post-Enlightenment pietists and evangelicals whose major and overriding concern was to stress ‘heaven’ as the Christian’s true home, and who used the word ‘resurrection’ as a metaphor for going to that home at last.
とあるように二世紀のグノーシス主義が、啓蒙主義の影響下で、正統主義・福音主義を標榜する敬虔なキリスト者のあいだでも、同様に復活しているではないか、と指摘していますね。

以上、「天国」に関するちょっとしたフォローアップでした。

2013年7月24日水曜日

創造された天(国)

ライト教授はSurprised By Hopeを書く前から西洋キリスト教、及び一般大衆に浸透した「天国観」が聖書のテキストとは大分違うものであることを度々指摘してきた。

ライト教授によれば、大衆化された「天国観」とは
People believe they go to heaven when they die.
Heaven is a place people go to when they die.
のような表現で説明される。

さらにライト教授がこのような「天国観」を修正し、より聖書的な言語に近づけるために使うフレーズが
Life After "life after death"
である。

一旦人々の頭の中に定着した「天国」のイメージはなかなか変更しがたいものだ。
しかし聖書学者たちは聖書のテキストに即して、この大衆化された「天国観」を修正しようと努めている。

そんな聖書学者の一人、Paula Gooder


の本のタイトルがそのものズバリ、HEAVENだ。


ポーラ・グッダーのHPには天国や地獄、死生観などについて聖書から解説した音声ファイルやYoutubeビデオへのリンクがある。

以下に一つ紹介する。

 

 
ここで一箇所だけ拾って引用しみよう。 多少なりともポーラの言わんとしていることを感じることができるかもしれない。
Heaven, therefore, is not an eternal realm, far, far away from earth.
Heaven is a spacial created realm, very very close to earth, created to be alongside earth.
(※まっちょっとディクテーションは完璧ではないかもしれません。あしからず。)

2013年7月22日月曜日

『天』と『地』は二つで一つ

かなり長い間(主に)西洋キリスト教のイマジネーションを支配してきた二元化し、切り離された「天地観」に対し、ライトはその著作や講演の至るところで再考を促す。

キリスト者も(キリスト者ではなくても、そのような西洋キリスト教「天地観」の影響下にある人たちにも)、ライトは新鮮な(ライトの大好きな形容詞、"fresh")捉え方、理解の仕方を提案する。

以下は長くなるが引用です。(ひとさまの引用の孫引きなので、小嶋自身はチェックできません。あしからず。)
Acts 1:9-10のコメンタリー(Acts For Everyone)のようです。
In the Bible, heaven and earth are the two halves of God’s created world. ... Talking about ‘heaven and earth’ is a way, in the Bible, of talking about the fact, as many people and many cultures have perceived it to be, that everything in our world (call it ‘earth’ for the sake of argument, though that can be confusing because that is also the name we give to our particular planet within our particular solar system, whereas ‘earth’ in the Bible really means the entire cosmos of space, time and matter) has another dimension, another sort of reality, that goes with it as well.
ちょっと()の中の挿入ですが、こう言う風に私たちの住む惑星「地」球と、全被造物における物質的世界に区別して考えるのも興味深いです。
You could call this other reality, this other dimension, the ‘inner’ reality, if you like, thinking perhaps of a golf ball which has an outer reality (the hard, mottled surface) and an inner reality (the tightly-packed, springy interior). But you could just as easily think of earth as the ‘inner’ reality, the dense material of the world where we live at the moment, and ‘heaven’ as the outer reality, the ‘side’ of our reality that is open to all kinds of other things, to meanings and possibilities which our ‘inner’ reality, our busy little world of space, time and matter sometimes seem to exclude.
ここではゴルフボールと言う球体をイメージしながら、「中身」と「外殻」とで一つであるようなものが天と地なのだ、と説明しています。
If these illustrations don’t help, leave them to one side and concentrate on the reality. The reality is this: ‘heaven’ in the Bible is God’s space, and ‘earth’ is our space. ‘Heaven’isn’t just ‘the happy place where God’s people go when they die’, and it certainly isn’t our ‘home’ if by that you mean (as some Christians, sadly, have meant) that our eventual destiny is to leave ‘earth’ altogether and go to ‘heaven’ instead. God’s plan, as we see again and again in the Bible, is for ‘new heavens and new earth’, and for them to be joined together in that renewal once and for all. ‘Heaven’ may well be our temporary home, after this present life, but the whole new world, united and transformed, is our eventual destination.
これは今N.T.ライトFB読書会で読んでいる、Surprised By Hopeで繰り返し強調されているポイントです。

上記の引用が「使徒の働き1章9-10節の註解だとすると、このビデオも参考になるでしょう。

 

2013年7月2日火曜日

キリスト教の福音の中心:刑罰代受?、地獄?、復活?

アンドリュー・ウィルソン氏が「復活」の最重要性(Ⅰコリント15章)を強調するのに、面白い提示の仕方をしている。

次の三つの命題のうち、もし真実と判定された場合、最もキリスト教信仰にダメージを与えるのはどれか、と聴衆に問いかける。

①イエスが十字架の上で死なれたのは私たちの身代わりとしてではなかった。
②地獄(ヘル)と言うような場所は存在しない。
③キリスト者は死ぬと、魂(ソウル)は肉体から解き放たれて天国に行きそこに永遠に存在する。

答えはもちろん③だ。

そしてⅠコリント15章の講解に入っていく。



Catalyst Festival 2013 - Main Meeting 1 - Andrew Wilson from Catalyst on Vimeo.

なるほど。
そうやって入っていくやり方もあるか。

でもそれだと「ビリーフ(信じている事柄)」中心のキリスト教紹介にはなるね。

2013年5月4日土曜日

クーリエ・ジャポンが注目したN.T.ライト(追記)

 前回の投稿では、クーリエ・ジャポンの「キリスト教の『天国』は〝死後の場所〞ではなくなった」 と言う記事を紹介し、この記事がTIME誌の特集Rethinking Heavenで、ジョン・ミーチャムが書いた記事の翻訳(要約)である・・・と書いた。

 しかし、改めて二つの記事を比較して見るとクーリエ・ジャポンの記事はかなり省略・編集されたものであることが判明した。

例えばTIME誌記事の以下の二つのパラグラフ引用を見ていただこう。(下線は筆者)
Yet we don't necessarily agree on what heaven is. There is, of course, the familiar image recounted by Colton Burpo. But there is also the competing view of scholars such as N.T. Wright, the former Anglican bishop of Durham, England, and a leading authority on the New Testament. What if Christianity is not about enduring this sinful, fallen world in search of a reward of eternal rest? What if the authors of the New Testament were actually talking about a bodily resurrection in which God brings together the heavens and the earth in a wholly new, wholly redeemed creation? 

Jesus was to return, probably imminently, to set the world to rights. "When 1st century Jews spoke about eternal life, they weren't thinking of going to heaven in the way we normally imagine it," explains Wright, the New Testament expert, who is now at the University of St. Andrews. "Eternal life meant the age to come, the time when God would bring heaven and earth together, the time when God's kingdom would come and his will would be done on earth as in heaven."
 そして該当するクーリエ・ジャポン記事からの引用
 このように現代では、バーポのような幼い者からグラハムのような年長者にいたるまで、天国は現世と隔絶した、平和と希望と愛が得られる世界だと考えられている。
 だが、そんな天国観を真っ向から否定する勢力がある。
 その代表とも言える人物が、英国の元ダラム大主教で、新約聖書研究の第一人者でもあるN・T・ライトだ。
「紀元1世紀のユダヤ人が永遠の命について語っていたとき、現代の人々が考えるような天国を思い浮かべることはありませんでした」
 現在はセント・アンドリューズ大学に勤めるライトは、そのように語る。
「永遠の命とはやがて来る時代のことです。神が天と地を一つにするときのこと、神の国が現れて、その御心が天と同じく地上においてもなされるときのことを指していたのです」
この「バーポ」で始まる1つ目のパラグラフから、ほぼ逐語的に訳出された2つ目のパラグラフの間に、ミーチャムはかなりの分量を用いて天国観の変遷史や、天国観が「この世」の生活にもたらす影響などを、自身のキリスト者としての述懐を交えながら語っている。
 さらに、一世紀ユダヤ教からキリスト教が胚胎した思想的過程についてもかなり専門的研究をよく読みこんだとみられる詳しい解説を施している。

 日本の読者の宗教・キリスト教に関するリタラシーに配慮したものかもしれないが、「からだのよみがえり」「新創造」「被造物全体の贖い」など重用ポイントが省かれていることは大変気になるところだ。

 敢えて言えば、これは「翻訳権を取得」して書かれた記事とは言え、内容的にはほぼ「天国観」にだけ焦点を当てて大々的に編集された「つまみ食い翻訳」といわざるを得ないのではないか・・・。

2013年5月3日金曜日

クーリエ・ジャポンが注目したN.T.ライト

日本でも最近一種の「キリスト教ブーム」がある。

それは主に教会の外、メディア現象としてのそれである。

橋爪大三郎と大澤真幸の「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)は、2012年の新書大賞に選ばれ、30万部を越す売り上げだそうである。

雑誌でも「キリスト教」を特集したものが幾つもある。 (朝日デジタル、2011年

この他にも、濱野智史「前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48」 (ちくま新書)が挙げられるか・・・。

(こんなことに時間を取っていると本題に入れないのでストップ。)

クーリエ・ジャポン2012年8月号の特集
9つの“新常識”で読み解くこんなに不思議な「世界の宗教」
その2番目キリスト教の『天国』は〝死後の場所〞ではなくなった

に「新しい天国観」の旗手の様な存在として、N.T.ライトが紹介されている。

と言っても要するにTIME誌の特集Rethinking Heavenで、ジョン・ミーチャムが書いた記事の翻訳(要約)であるが・・・。


いずれにしてもある種キリスト教の中の論争的な議論の急先鋒としてN.T.ライトが紹介されたことにはいささか不本意な観があるが、ミーチャムがまとめた記事自体は、「この世」への働きかけを動機付ける天国観としてその意義を認めていることには納得する点もあるだろう。(その辺がクーリエ・ジャポン編集部も関心持っている部分らしい。)
 


2013年5月2日木曜日

天国が本当の「キリスト者の希望」なのか?

現在フェイスブック上のライト読書会(右コラムの『関連サイト』)では
SURPRISED BY HOPE
を読んでいます。

キリスト教会で現在一般に持たれている「天国観」は伝統的・正統的キリスト教の教えとは大分隔たりがあることを様々例証しながらライト教授はSURPRISED BY HOPEを書き進めています。

そのもっとも身近な一例として千の風になって(「大和郷にある教会」ブログ記事)が挙げられています。

と言うことでしばらく「天国」をキーワードにライト教授が書いた論文、インタヴュー記事、ビデオクリップなどを紹介して行きたいと思います。

今日はHeaven Is No Our Homeを紹介します。

"The traditional picture of people going to either heaven or hell as a one-stage, postmortem journey represents a serious distortion and diminution of the Christian hope."
このクリスチャニティー・トゥデー誌に寄稿された論文では、新約聖書の記者たちが一貫して「この世界」が神の救済・贖いの対象であり、キリスト者の希望である「からだのよみがえり」はその中心をなすものであることを代表的聖書箇所から説明していきます。

その中でも恐らく二つの聖書箇所に関する誤解(?)が影響が大きいのではないかと思います。

①ピリピ3章20節
わたしたちの国籍は天にある。
②ヨハネ福音書14章2節
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
①については、むしろその後に「・・・そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」とあるように、"Jesus will come from heaven in order to transform the present humble body into a glorious body like his own."と言っています。

②の聖書箇所はしばしばキリスト教葬儀で引用される箇所ですが、その場所はキリスト者にとって「終の棲家」ではなく、「からだのよみがえり」までの「(途中の)休息所」であることが言われています。

ご興味をもたれたらどうぞ記事の方をクリックしてお読みください。
前半2ページは関連聖書箇所の解説、後半2ページは聖書的な「死後のいのち」観による、宣教・キリスト者生活の建て直し、が述べられています。