2014年3月30日日曜日

どれを読んだらいい?

先日ある相談を受けた。

仮にその方をAさんとしておこう。

Aさんとはかれこれ1年以上の知り合いである。
Aさんは現在キリスト教主義学校の学生である。

今から1年以上前、Aさんからの最初の相談は、「まるっきりライトのものを読んだことがないのだが、(また英語でさくさく読めるわけでもないが)、何かライトの書いたもので手頃なものはないだろうか」、というものだった。

それ以来何度か読書ガイダンスみたいな相談を受けた。

先日受けた相談をここに紹介して、小さなライト読書会が、あるキリスト教主義学校で始まっていることと、「ライト読書ガイド」の一例を書いてみたい。

以下にAさんからのメール文章を要約し(しかし大胆に編集・改変して)、更に『インタヴュー形式』に翻訳した上で、簡単な「ライトの『救済論』読書ガイド」としてみたい。

Aさん:
またご相談させてください。
今度学校の方で組織神学の「救済論」の授業が始まるんです。
多分カルヴァン主義の立場からの救済論だろうと思います。
でも自分は、カルヴァン主義の救済論と言っても、今までちゃんとその系列の本を読んだことがないのでどうしたもんかなー、と思っています。

小嶋:
Aさんは確かご出身の教会はウェスレヤン系だったよね。

Aさん:
えー、確かに母教会の牧師はウェスレヤン系の神学校を出ていますが、自分としては穏健なカルヴァン神学の影響を受けているのではないかと思っています。

小嶋:
えーそうなんだ。しかしある程度まで(プロテスタントの中の)どの神学的立場から影響を受けているかは分かるが、それがどう言う神学的内容なのか説明しろ、となるともう一つはっきりとしない、そんな感じですかね。

Aさん:
ところで、ジョン・マーレーの「キリスト教救済の論理」をご存知ですか。
やはり自分が影響を受けた母教会の牧師の立場である穏健なカルヴァン神学の救済論を理解することから始めるのがいいかなと思っているのですが。

小嶋:
うーん、たしかジョン・マーレーの本は何か1冊持っていたと思うけれど、それがその本だったかどうかはよく思い出せないなー。どっちにしても英語の本、原書だけれどね。
ところで「オルド・サリューティス(ordo salutis)」知っている? 日本語だと「救いの順序」って訳されていると思うんだけど。

Aさん:
えーとどうかなー。多分聞いたことないと思いますけど。
ところで小嶋先生、先日の「ライト読書会案内」で、
    既にご承知の方も多いと思いますが、まだライトのような解釈を熟知していない方には、いわゆる「贖罪論」のような論理形式的(抽象的、非歴史的)理解を再検討する機会になるかと思います。
と書いているのですが、やはりライトの「救い」の理解はカルヴァン神学とは違うのでしょうね。その違いも知りたいと思っているのです。

小嶋:
今までライトを読んだ中で、「救い」に関してはどんな事柄をカバーしましたか。

Aさん:
そうですねー、これまで「天国」や「義認」については多少はかじってきたとは思いますが・・・。
やはり断片的でしたね。ですから、ライトがキリスト教の救いをどのようなものとして捉えているか、その本丸を知りたいわけです。


と、ここまではある程度「インタヴュー形式」にするためかなり編集した箇所もありますが、以下が小嶋の回答そのままです。
そんなことも考えて「オルド・サリューティス」をベースに選定しました。
救済論を組織神学的に展開する時、大抵この「救いの順序」を使って叙述されます。
これはカルヴィン系もウェスレヤン系も共通です。
ですから先ず「オルド・サリューティス」に慣れることが前提かな。

で、ライトですが、彼のスタンスは「聖書」が先で、神学的伝統(カルヴィン系、ウェスレヤン系、その他)はその後です。

で結論から言うと、この論文です。
http://ntwrightpage.com/Wright_New_Perspectives.htm

そしてニュー・パースペクティブとかニュー・パースペクティブ・オン・パウロ(略してNPP)が目下の論争ポイントで、(途中略)

ライトのJustificationはパイパーの批判に対する反駁として書かれた本ですが、依然としてニュー・カルヴィニスト系の人たちからの批判は絶えません。
 
その一例としてライトの上記論文を批判分析したブログ記事を紹介しておきます。余裕があれば読んでみてください。

http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2007/07/analysis-4-bishop-nt-wrights-ordo_02.html 
 
http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2009/08/wright-and-righteousness.html 
 
http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2009/07/wright-in-general.html 
 
三つ挙げましたがそのまま優先順位と取ってもらって結構です。オルド・サリューティスをメインにしました。

ついでにこのライト→ヘルム→バードの流れで以下を紹介しておきます。

http://euangelizomai.blogspot.jp/2007/07/nt-wright-paul-helm-and-ordo-salutis.html
と言うわけで、Aさんは今頃これらの論文を読んでいることと思います。

それにしても小嶋が主宰する(リアル)ライト読書会の他に、このような学生たちのライト読書会が出来ているなんて、嬉しいですね。

2014年3月24日月曜日

Jewish Creational Monotheism: BW3's Take on PFG

I'm lately blogging somehow about monotheism and high christology by way of introducing PFG review articles.

This morning I found in BW3's blog yet another post discussing the topic from PFG.

But first, this is what BW3 thinks the important argument for monotheism in PFG:
Those who wish to argue that Christianity is not a monotheistic religion will have to come to grips with Tom Wright’s recent massive tome entitled Paul and the Faithfulness of God particularly the first major section in Part Two where he discusses early Jewish and early Christian monotheism at great length (over 150 pages worth).
and he goes on to make, basically, 2 key points.

1. The Israelites monotheistic affirmation is NOT about its internal nature but about affirming their God, YHWH, the only one god who made the universe, against polytheisms (esp. "any and all forms of dualism") of their surrounding nations.

2. This, in Wright's word, "creational monotheism," is the framework in which we should understand what Jewish and Gentile followers of Jesus believed about his deity. So
...Jesus was never seen as a second deity alongside of God the Father, or a human or an angel promoted to divine glory by means of the resurrection. He was on the Creator side of the ledger when the universe was made says John 1, and he made the universe with God the Father...
So my question is exactly when was Jesus firmly established as with the One God of the universe, YHWH, by the early followers?

Historically speaking, depending on the synoptic gospels, Jesus was held by the disciples, first as the eschatological prophet (mighty in words and deeds), and then (or at the same time) the Messiah, and finally as the Messiah and Lord (co-equal with the Creator God) after Easter, though there was a brief period of loss of faith between the death and the post-Easter appearances.

And my next question is exactly when and how was this Jesus-included creational monotheism "traditioned" by the first followers?

Is the brief summary gospel statement in I Corinthians predicated on the creational monotheistic framework? And since that already-presupposed monotheistic framework came to be in need of explicit expression later when the gospel message was brought to the Gentile world with less and less Jewish biblical background, was the Trinitarian formula (or its near equivalent) surfaced on the scene as in the Apostle's Creed?

2014年3月22日土曜日

(リアル)ライト読書会レポート

今年1回目の読書会。
(2014年3月22日、巣鴨聖泉キリスト教会の隣、活水工房ティールーム)

参加者は小嶋も含めて4名でした。
(写真も撮ったのですが、2枚ともとんでもないピンボケで使い物になりません。)

予定していて来られなかった方や、来ようとしていたのだが仕事が入ってしまって、と言うことで久し振りのこじんまりとした会でした。

最初にゆったり時間を取って自己紹介から。

それからテキスト(A4、5ページ)を段落ごとに区切って、内容チェック、キーワードの解説や理解のポイント確認、と言う風にして進めておよそ1時間20分ほどで終了。
キーワード: actors, eschatology, the eschatological drama, the Temple, the new exodus, YHWH return, vocation
一応大事な部分だけ読み上げました。
以下その部分を抜粋してみます。
Jesus believed it was his vocation to bring Israel's history to its climax. Paul believed that Jesus had succeeded in that aim. Paul believed, in consequence of that belief and as part of his own special vocation, that he was himself now called to announce to the whole world that Israel's history had been brought to its climax in that way. When Paul announced `the gospel' to the Gentile world, therefore, he was deliberately and consciously implementing the achievement of Jesus. He was, as he himself said, building on the foundation, not laying another one (1 Corinthians 3:11). He was not `founding a separate religion'. He was not inventing a new ethical system. He was calling the world to allegiance to its rightful Lord. A new mystery religion, focused on a mythical `lord', would not have threatened anyone in the Greek or Roman world. `Another king', the human Jesus whose claims cut directly across those of Caesar, did.

Jesus was bringing Israel's history to its climax; Paul was living in the light of that climax. Jesus was narrowly focused on the sharp-edged, single task; Paul was celebrating the success of that task, and discovering its fruits in a thousand different ways and settings. Jesus believed he had to go the incredibly risky route of acting and speaking in such a way as to imply that he was embodying the judging and saving action of YHWH himself; Paul wrote of Jesus in such a way as to claim that Jesus was indeed the embodiment of the one God of Jewish monotheism.
最初に参加者のお一人から、「どう言う意味でイエスとパウロがintegrateされているのか、知りたい」、との要望がありましたがこの二つの段落でほぼ見当が付けられると思います。

それから二つ目の段落の最後に下線をしたところは、「ハイ・クリストロジー」と「ユダヤ教唯一神観」とがどのように歴史的に形成されたのか、と言う問題に関わる、ライトの福音書資料から跡付けられる「史的イエス探求」による「下からのキリスト論」を圧縮して提示しているものと言えるでしょう。
鍵となる概念はイタリックしたようにembodyと言う受肉の歴史、と言えるでしょう。

※キリスト論についての歴史的アプローチとしては、原始キリスト教史におけるイエス・キリスト崇拝の実際的表現を証拠としてアプローチするラリー・フルタド教授のLord Jesus Christのようなものと(史的イエス探求に懐疑的なカトリックの岩島神父はこちらのアプローチを高く買っている。参照、史的イエスと史的キリスト?)、ライトのように福音書からそのまま再構成するアプローチがあるように思う。リチャード・ボウカムもキリスト論についてのまとまった論考を準備しているらしいが、恐らくYHWH's unique identityの中にイエスが組み入れられる、というラインで追跡しているだろうと思う。

2014年3月21日金曜日

フルタドのPFG書評2

前回、ラリー・フルタド教授(エディンバーグ)が御自身のブログで始められた、ライトのPFG書評のことを少し紹介しました。

今回はシリーズ2本目の記事から、特にフルタド教授が釈義的に疑問としている点を拾ってここにメモしておきます。

一つ目のポイントはパウロはイエスを、「人として、受肉して(イスラエルの民の許に)帰還したヤハウェ」、つまりフルタド教授が「イエス」と「ヤハウェ」を区別する概念として用いるダイアディック(“dyadic”)と比べると、より「イエス」と「ヤハウェ」の同一性が高い見方になるのではないか、と指摘します。
But, to engage critically some specifics, I really don’t see evidence in Paul’s letters of an explicit emphasis that Jesus is the “return of YHWH” embodied and in person.
次は新約聖書時代における「ハイ・クリストロジー」がどのように元となるユダヤ教「唯一神観」の変異として出てきたか、に関わるパウロの貢献度についてです。
Wright’s treatment seems to me, however, to credit Paul with a lot in the formulation of this “mutation”.  But I wonder if this is misjudged.
フルタド教授は、ライトは余りにもパウロをクリエイティブな神学者とし過ぎていないか、パウロはもっと先行する伝統に拠っているのではないか、と指摘します。

2014年3月18日火曜日

フルタドのPFG書評開始

ライトのパウロ研究に関するマグナム・オパス(主著、大著)となるPaul and the Faithfulness of Godについての書評は、このブログでも紹介した通り何人もの学者仲間たちが行なった(ウィザリントンはまだ継続中。現在シリーズ24回目がアップされている。)

今度はラリー・フルタドの番だ。リンク

ライトはそのアカデミック・スタンスが内容的にはかなり保守なのに、学友であったマーカス・ボーグやジョン・ドミニク・クロッサンなどとの対話を厭わない、オープンな学者だ。

しかし盟友と言う間柄もある。
最近は少々ぎごちなくなった感があるリチャード・ヘイズなど。

ラリー・フルタドとの距離はこの記事にもあるように「信頼関係」がベースにあるようだ。
しかし昨年Theologyと言う専門誌から書評を頼まれ、1600ページを超える大著に対し与えられた語数(字数ではない)1800と言う極めて限られた制約の中で賞賛の言葉だけでなく、幾つか疑問点や見解相違点も盛り込む、と言う仕事を果たしたようだ。(雑誌の出版はまだ。)

当然盛りきれなかった事柄はかなりあるようで、それが今回の自分のブログでの投稿となったようだ。

最初にフルタドが取上げたポイントは「義認」だ。

As an example, I found stimulating his emphasis that in Paul the “justification” of believers is essentially God’s eschatological judgment, extended now to those who put faith in Jesus’ vindication expressed in God raising him from death and exalting him to heavenly glory.
この下線部分は、既にジョン・パイパーとの論争で著わされた


Justification-Gods Plan and Pauls Visionでも示されたように「現在の義認と終末の義認との関係」にかかわってくることだ。

さてどんな書評になるか楽しみに読ませてもらおう。

2014年3月2日日曜日

2014年度(リアル)読書会、その2

ちょうど3週間前となりました。
今年第1回目の読書会のリマインダーです。 

日時:2014年3月22日(土)、午前10時~12時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会(人数によって工房ティー・ルームか会堂)

課題テキスト: Who Founded Christianity: Jesus or Paul?
http://www.beliefnet.com/Faiths/Christianity/2004/04/Who-Founded-Christianity-Jesus-Or-Paul.aspx
(※テキストはドキュメントとしてではなくウェッブサイトに数ページに渡って表示されています。面倒な方のためにPDFにしたもののリンクを以下に貼っておきます。
出席なさる方はなるべくこの文書をお用いください。討論の時ページ数など統一できますので。)

Who Founded Christianity: Jesus or Paul?

さて討論のトピックとしては
①イエスがそもそも教祖かどうか
 これに対する議論として、ライトは既に書かれたイエス研究書の要約を提示します。
 すなわちイエスの自己理解、自己の使命理解です。
 神学的には「神の国」の一世紀的文脈での実現(イスラエルの歴史・ストーリーのクライマックス)はどのようになされたのか、と言うことになるかと思います。

②パウロはイエスの「神の国」宣教をどう受け継いだのか
 ライトはしばしばこのような議論でイエスとパウロが並列的に比較され分析されるのに対し、一つのストーリーの展開(クライマックス→インプリメンテーション)と言う形で統合的に理解しようとします。

 既にご承知の方も多いと思いますが、まだライトのような解釈を熟知していない方には、いわゆる「贖罪論」のような論理形式的(抽象的、非歴史的)理解を再検討する機会になるかと思います。
 
 もちろんライトの歴史神学的解釈が細部まで正確であるかは議論の余地があると思いますが、大筋においてユダヤ教(唯一創造神、選びと契約、終末論)からキリスト教がどのように出てきたのか、旧約聖書と新約聖書の繋がり、等の問題を整理するかなり程度のよい議論が提供されていると思います。

 是非熟読して疑問点などを絞り込んで読書会にご参加いただければ幸いです。

 なおご出席の方は3/19までに小嶋までご連絡ください。

問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)