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2017年8月8日火曜日

Salvation By Allegiance Alone 7

さて、『Salvation By Allegiance Alone』という一冊の本についての様々な紹介記事を見てきました。

それだけこの本が、「福音・救い・信仰・キリスト者生活」をトータルで再確認する、特に「王なるキリストを中心に」再構築する必要を訴える本になっているので注目を集めたのではないかと思います。

今回この「7」でシリーズを終了するにあたって、もし一番簡単な紹介文、最も導入として的を射ている「帯文」は・・・(まだ本書そのものを読んでいないで言うのも何ですが)これではないでしょうか。


"Matthew Bates argues that faith or believing is not mere assent, not easy believism, but covenantal loyalty to the God who saves his people through the Lord Jesus Christ. Bates forces us to rethink the meaning of faith, the gospel, and works with a view to demonstrating their significance for true Christian discipleship. This will be a controversial book, but perhaps it is the controversy we need!"
Michael F. Bird, lecturer in theology, Ridley College, Melbourne, Australia
 このバードの表現に即して言えば、
(1)easy believism
(2)Christian discipleship
(3)covenantal loyalty
あたりが特に目に付きます。

マクナイトの紹介でも何度か出てきたと思いますが、ボンヘッファーが強調した「弟子(付き従う)」としての能動的信仰面が、「救いの恵みを受ける(「安価な恵み」の問題)」という受動的信仰ではなかなか伴わない、ということがこの本の主張の背景にあると思います。

また宗教改革来の課題である(信仰に対して)「行い」をどうするか、倫理とか「キリスト者生活」の問題が、(組織)神学的には「聖化」や「キリスト教倫理」という形では取り組まれてきましたが、やはり「(個々人の)救いの完成」というフレームを越えては解決できていないのではないか、ということがあると思います。

一つの《中間考察》として

前回6でも言いましたが、このシリーズは「大和郷にある教会」ブログの『救いについての「教理」』
と並行して進めてきました。

いまこちらのシリーズを終えるにあたり思うことを一つ二つ挙げておきたいと思います。


(1)(救いの)共同体面をどのように回復するか

これだけ注目を集める『Salvation By Allegiance Alone』が様々に指摘している「救い」をめぐる問題群は、(宗教改革後の)プロテスタント諸教派共通の問題となってきたように思います。

簡単に言えば「個人的な視点」がかなり強くなったわけです。

それは「制度的な教会」、つまりカトリック教会への様々な過剰反応として現れてきた面を含むと思います。(たとえばその一つは「サクラメント」と「ヒエラルキー的職制」の問題がダイレクトに繋がって見えるということとか・・・。)

いま宗教改革の伝統に属する教会の「教えと実践」でかなり基本的なところで見直しが起こっていることの背景に考えられるのは・・・やはり一つの大きな要因は「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)」ではないかと思います。

たくさんの書評を紹介してきましたが、ある意味指摘されている問題群は「キリスト教文明」に典型的に起こりそうな問題だと思います。

簡単に言えば「キリスト教が文化」な環境、「信仰」や「救い」に中途半端に接することが多い環境です。

ノミナル(名ばかり)・クリスチャン、(幼児)洗礼は受けたが・・・その後はさっぱり、というクリスチャン文化です。

キリスト教がマイノリティーだったり、キリスト教に対して敵対的だったりする文化圏では、信仰にしても救いにしても中途半端に過ごすことはそれなりに難しい。やはり覚悟がいります。

(しかし「キリスト教がマイノリティー」だからといって「教会文化」がない、育たないと言うことではありません。)

そういう意味でも、バードが(アリージャンスと同意に?)使った「covenantal loyalty」はなかなか示唆的です。

個人主義的視点から見た場合、「救い」の「信仰」に「契約共同体」的側面があることを自覚するのはなかなか難しい。

「洗礼式」の式文では「(教会)入会式」的な側面がありますが、リバイバリズムの背景が強い教会では「回心」の後に 「洗礼を受けて・教会に入る」意識がどうしても強くなりがちです。
(「回心」と「洗礼」とは教会共同体を中心にしてなるべく分離しない、時間的にも重なるような枠組みが必要に思います。)

(2) 「日本」の文脈との連絡の仕方

第1点で指摘した「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」がそれなりに正しいとすると・・・いわゆる日本における「欧米の最新神学思潮・流行導入傾向」 ということで二重に注意が必要になるかもしれません。

日本語文化圏というのは「近代」国家ということでいえば「日本語の代わりにどれか近代諸国家の言語を第一言語として国家制度を整える」という国家政策を取らずにきた結果である、と言えます。(この現象の文化面からの重層的分析として水村美苗の『日本語が亡びるとき』があります。この記事この記事 など。)

明治以来、一生懸命「知識人」たちが最新科学技術及び文化情報を「翻訳」して国民全体の教育レベルを維持してきたわけです。

残念ながら福音派「神学」では最近この志向にブレーキをかける傾向があるみたいですが・・・。

さて、『Salvation By Allegiance Alone』がNPP等のアカデミックな議論の延長上、つまり「聖書学」からの「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への波及、という文脈で捉えた場合、「日本」の文脈との連絡の仕方は二つのフロントで評価・導入するという問題になると思います。

① すなわち「聖書学」での議論の積み上げへの評価が必要と言うこと。

このことは「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への影響とはある程度切り離した形で必要だと思います。
※このシリーズでは紹介しませんでしたが、ニジェイ・グプタが「この本は内容はわざわざ議論される必要がないほど(聖書学的見地からは)すでに前提的なものである・・・」みたいな嘆きをその紹介記事で添えています。
現状は「聖書学」の評価を独立してするほどまだ(欧米の福音主義でも)基盤が強くないような印象です。そのため予防・防衛的に悪影響のありそうな思潮・潮流に限定して 水際作戦を展開するメンタリティが先行気味・・・などと言うことも散見されるのでしょう。

もちろん「トレンド・流行」にだけ敏感になるのも問題ですが、日本が「島国鎖国的メンタリティ」を引きずる伝統があるとすると、世界の(神学的)動向に絶えず注意を向けていることには積極的であっていいと思います。

② もう一つのフロントである「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」のフロントですが、これに関してはむしろ「教派神学」的伝統にしても、「福音主義」という今日(20世紀)的神学運動にしても、日本ではほぼ受動的であったし、今後も同様に推移しそうな感じです。

だとすると、逆に言えば、「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」に対しては(皮肉な言い方になりますが)ある面余裕をもって対応できるのではないか・・・。

「キリスト教がメジャーからマイナーに転落する」経験は日本においては得られそうにありませんが、「キリスト教がマイナー」な環境でどう「教えと実践」を展開するかという問題に対してはそれなりの備えがあると思います。

今回のシリーズで紹介した中では、アンドリュー・ペリマンが最も自覚的にこの問題を捉えているので、この面では一番参考になると思います。

ただしペリマンの「キリスト教の福音の地平線」設定は慣れないとかなりラディカルに響くと思いますが・・・。

それでは7回も連載したシリーズを(めでたく)終了いたします。



2016年10月24日月曜日

「『福音』再考」について

まもなく日本伝道会議(分科会)「N.T.ライトの義認論」が終わって一ヶ月となる。

すでに神学ディベートとしてこのウェブサイトで掲載した「対話に向けて、1~9」は撤収したが、何らかの報告と云うか感想みたいなものをぼちぼち書こうと思っている。


ところで、一週間後となる第5回 N.T.ライト・セミナー(概要)では「いま、福音は」と云うテーマで「義認(論)」や「救済(論)」よりもキリスト教会にとってはより生命線ともいえることを取り上げようとしている。

用語としてはあるかもしれないが「福音論」という論議や論争はあまり聞かない。

一つには福音が「自明」とされていることがあるかもしれない。

あるいは「福音」とは義認論とか救済論とかキリスト論を入れるパッケージのようなイメージなのかもしれない。(何でも入れられるから中身についてそんなに心配しなくてもいい、みたいな・・・。)



さて、その第5回 N.T.ライト・セミナーの案内で、「ちょっとした紹介」にイントロとして書いた文章がある。『福音再考へのアプローチ』と云う文章の一部引用だが、ここに転載してみる。


 今回発題講演者にお招きした谷口氏は2008年から「福音とは何か」を『リバイバル・ジャパン』誌にリレー連載した。「福音」とは何かを意識的・持続的に取り上げた氏に全93回に及んだ連載記事の総括レポートを依頼したのは当然の流れかと思っている。福音派(と聖霊派)の牧師たちは「福音」をどう理解しているのか。彼らの福音理解にはどれくらい幅や多様性があるのか。あるいは逆に(判で押したように)画一的なのか・・・

 谷口氏の総括レポートにコメントしていただく高橋、坂原両氏はベテラン牧師と按手礼前の伝道者という組み合わせである。お二人にも事前に「福音」について自らの視点を簡単に示して頂くため「三つの質問」のうち二つ選んで回答してもらった。
(1)谷口氏の問題意識・問題提起

 2008年に「福音とは何か」連載シリーズを谷口氏は始められた。

 毎回記事の冒頭には「福音とは何か」シリーズの「狙い・視点」が掲げられているが、それはこうなっている。

福音を語るためには、福音を理解していなければならない。しかし果たして、私たちはその『福音』を正しく総合的に理解しているのだろうか。
谷口氏の問題意識と問題設定は、福音を伝える側がどれだけ「福音」とその内容を「正確に、総合的に」理解しているだろうか・・・ということを掘り下げるものであっただろう。

 自分たちが「受け」そして「伝えた」福音が、その指し示す事柄の把握の確かさの点でも、内容の豊かさの点でも、何か欠けているところ、十分整っていないところが(まだまだ)あるのではなかろうか・・・というような問題意識があったのではなかろうか。

 昨今の教勢衰退、伝道不振、牧師不祥事頻発の状況が、教会(界)人をひたひたとその中心であり根拠である「福音」への理解に対する自省へ促しているのではなかろうか・・・。


(2)福音を取り巻く二つの「パラダイム・シフト」状況

 個人的に注目したことがある、という意味での「二つ」であってまだ他にもあるとは思う。

 「大和郷にある教会」ブログで、『福音派のパラダイム・シフト』というシリーズを全7回掲載した。(2013年6~8月)

 紹介したゴードン・T・スミスの論文が分析したのは、18-19世紀(大西洋を挟んだ)欧米福音派を席巻したリバイバリズム(信仰復興運動)に端を発し20世紀以降ほぼ全世界に普及した
「回心体験」、そしてそれを中心に組み上げられた教会の伝道・礼拝・教育(霊的形成)の構造的性格 
であった。

 問題の出発点となる「回心体験」についてスミスは以下のように(かなり大鉈で斬る様に)定義している。
回心体験の中心は「死後の(永遠の)いのち」であり、「死んだら天国に行く」のが救いと考えられた。この世は伝道のため以外には殆んど意味がなく、もっぱら未信者を天国に入らせるのが教会の使命であり、そのような伝道が重んじられた。
 福音を取り巻くと断ったが、スミスの論考は「福音とはそもそも何を指すのか」とか「福音が語る内容はどこからどこまでか」というようなことだけについての反省ではなく、「福音」ということで教会が実践している事業(礼拝・伝道・教育)の中心となってきた「回心体験」とは何であったか・・・という問い直しであったといえる。

 このリバイバリズムという運動の中で定義された「福音の見方」、そしてそれに連動した教会の実践(礼拝・伝道・教育)を「一つのパラダイム」として分析した、というのが大事な点ではないかと思う。

 一つはこの「200年くらいの間支配的であったパラダイム」、と云う歴史的視点。

 もう一つは「回心体験」を中心にして教会事業が展開された、と云う(教会)社会学的視点。
  

 [スコット・マクナイト『福音の再発見』についての補足]

 マクナイトの本はある意味で「福音再考」だが、議論自体はかなりタイトでスミスのようなブロード(大風呂敷とも言えるが)ではない。

 「福音」それ自体が厳密に何を指すかについての考察は新約聖書に遡って「聖書神学的に」論及されているが、議論の比重はスミスが対象とした「回心体験」を生み出した「メッセージ」とその「提示の仕方」に絞っている。

 「天国に行くための罪の赦しによる救い」は宗教改革時点での「救済論的集中」から端を発し、その後の西洋キリスト教史における「個人的・主観的」キリスト教の発展・強化の文脈にあるもので、(一世紀)使徒的福音を尺度とした見た時、それは「個人的(罪からの)救いに特化した」福音であり、結果的に矮小化・(二元論的な面では歪曲)と分析される。(故に現在の福音派は「福音」派ではなく、実質「救い」派とみなされる。)


二つ目の「パラダイム・シフト」 状況とは、言わずと知れた「『パウロ研究』の新しい視点(NPP)」のことである。

 ここでは詳しいことは書けないが、伝道会議の発題で最初に指摘したように、「義認」理解を巡るパラダイム・シフトは「新約聖書学」(その中の「パウロ研究」)というアカデミックな世界で先ず起こったことが、N.T.ライトと云う類まれなコミュニケーターを通して一般信徒等に浸透した現象である。

 指摘したように「アカデミックな世界」での常識や知見が、そのまま「キリスト教会」に受け入れられるわけではない。かなりの隔たりがあり、説教のために聖書研究や聖書解釈をしている牧師たちでさえ聖書学の最新研究には殆ど不案内なことが普通だ。

 そのような大きな隔たりを一人で何冊も本を著したり、各地で講演して埋めて行くライトの働きは先ずは賞賛されてしかるべきだろう。

 「福音再考」にポイントを絞ると・・・

 やはり問題となるのは「どれだけ歴史的に検証しようとするのか」ということではないだろうか。

 歴史的資料を広く積極的に用いようとするか、それとも「新約聖書」文書を特別視して同時代の歴史的資料と一線を画し限定的に用いようとするか、「検証の入口」でもかなりな違いを生む可能性があるのではないか。



 以上「福音を取り巻く二つのパラダイム・シフト」として「回心体験」と新約聖書学における歴史研究の深まりを挙げた。

 後者に関しては論ずることはしなかったが、いずれにしても「福音とは何か」を問う時、どういう文脈で問いを発しているかを自覚できると、「問題の再設定」や「方法論」が次第に視野に入ってくるようになるのではなかろうか。

2016年7月27日水曜日

「N.T.ライトの義認論」発題1 資料

ライトの義認論:
小嶋発題 パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」資料

(「『パウロ研究』に関する新しい視点」から抜粋)

ここまで見てきたように、「(誰かの無罪を)弁明・擁護する(vindication)」のに用いられる用語、「義とする(ディカイオー)」の関連表現は 法廷用語である。だから正義の神を法廷イメージを用いて言い表すことは適っている。神は最後には世界を正しく回復するはずのお方であり、神はそのように約 束され、その約束は守られる。しかしどのようにその約束を実現するかは、創世記12章以降で見ると、アブラハムと結ばれた契約を通してであることが分か る。とすれば、神の契約への忠実と、神の義とは、別な二つのことではなく、密接に繋がったものである。見てきたように、「デカイオスネー・セウー」フレー ズはその両面性を示している。


神が誰かのことを弁明・擁護する(vindication)と言うとき、神にとってそれは宣告を下すことである。私たちには二重に見えようとも、恐らくパ ウロにとっては単一に見えたのではなかったか。宣告とは、(A)ある者が「正しい」とされる(イエスの死によって罪の赦しが既になされているので)、こと とそして、(B)そのある者が真に契約の家族の一員とされていること、を指す。この家族とは、神がもともとアブラハムに約束していたものであり、今やキリ ストと聖霊を通して創造され、ユダヤ人も異邦人もともに等しく信仰をベースにして形成される単一の家族のことである。


私がこのような解釈を提出する理由は、同じ場所にありながらばらばらに置かれているように見える多様な分類・区別も、手繰り寄せて整頓することで(繋が り、まとまりが)見えてくるのではないか、ということである。ルターの「法的(forensic)」とカルヴィンの「子とする」の対立、シュヴァイツァー とサンダースの「法廷」と「キリストとの一体(incorporative)」の対立、などがそれらの分類・区別のことである。パウロの言わんすることが 契約神学を下敷きにしていることを一度でも押さえておけば、これらの二項対立は乗り越えられる。


このサブセクションの主要論点の第一は、これら二つのこと(罪の赦しを与えられた罪びとを正しいと宣告し、そして、多民族による一つの家族の一員であるこ とを宣告する)はパウロの脳裏では緊密に連携している、ということである。さらに言えば、後者の論点(家族への所属)がロマ書3章やガラテヤ3章ではとて も重要であると主張することが、前者の論点(神の法廷で義と宣言された者の一人とされる)の重要性を軽減するものではない、ということである。


このポイント(契約神学が下敷きになっている)は多少見えにくいが決定的に重要である。すなわち、神がアブラハムと契約を結んだのは、[旧約]聖書の大枠 から言っても、パウロにおいても、アダム来の「罪」とその影響を除去し、良き創造のわざそのものとして完成に導くためである。かくして、神が罪の赦しを宣 言し、また契約の民の一員と宣言することは、詰まる所、二つ別々の事柄ではないのである。
___________________________________
New Perspectives on Paul (http://ntwrightpage.com/Wright_New_Perspectives.htm)
引用部分は↓(最初と最後の文章)
"The language of vindication, the dikaioo language, is as we’ve seen lawcourt language....Thus God’s declaration of forgiveness and his declaration of covenant membership are not ultimately two different things."

「N.T.ライトの義認論」発題1



パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」
 (支持の立場からの発題 要旨)
 小嶋 崇


  N.T.ライトは、「大きな構図で物を見る人間(Big Picture person)」と自身を描写します。聖書の細かな釈義点についても詳細な議論のできる人ですが、彼の真骨頂は、「聖書全体を貫くテーマ」を、細部を余り 犠牲にすることなく説得的に示す力量ではないかと思います。


 ライトの「義認論」に関しては、ここ数年で日本の福音派の中でも、「新しい『パウロ研究』の視点」と共に紹介されてきました。しかし、この日本伝道会議 の場では、「新しい視点」からの主張点である、①「第二神殿期ユダヤ教」の特徴として挙げられる「契約遵法主義(covenantal nomism)」、②「律法の行い」は異邦人との民族的区別を表わす「割礼・安息日・食物規定」は横に置いておきます。


 その代わり、「義(ディカイオー)」語群が「法廷言語(lawcourt language)」を用いながら、
 (A)神の前に(罪びとを)義と宣言すると同時に、
 (B)異邦人もユダヤ人と共に「アブラハムの子孫」「神の民の一 員」であることを宣言する、
両面を持っていることに注目します。即ち、パウロ書簡において義認は「救済論」と「教会論」とを一緒に言い表す教えでもある、 とのポイントに集中します。


 「パウロにとって義認は救済論と教会論の両方を合わせたもの」とのライトの議論が正しければ、プロテスタント諸派、特に「福音派」の神学と実践に大きな 問題を投げかけます。
 それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。



(ライトの義認関連論文の一部を抜粋翻訳し資料として使います。別投稿します。)

「N.T.ライトの義認論」 (第6回 日本伝道会議・分科会)



 N.T.ライト読書会を主宰する小嶋からのご案内させていただきます。


 この度「第6回日本伝道会議」の分科会で「N.T.ライトの義認論」(コード ①−11)が「神学ディベート」と云う形で取り上げられることになりました。

 2016年9月28日(水)、14:00~15:30
 神戸コンベンションセンター

 丁度2ヵ月後となりました。
 
 図らずも小嶋が「支持派」側の発題を担当することになりました。
 また「慎重派」からは神戸ルーテル神学校の校長も勤められたことのある橋本氏が発題します。


 当日の分科会は全体でも90分という短い時間です。とても十分な討論をすることは無理です。ライトを余りよく知らない参加者も多いと想定されます。討論の内容を幾らかでも理解して臨んでいただくために、この「ライト読書会ブログ」のウェブサイトを用いて 期間限定で「情報提供」の場 を設けることにしました。

JCE6分科会「神学ディベート ――N.T.ライトの義認論――」
主催:JEA神学委員会 代表:関野祐二(鶴見聖契キリスト教会、聖契神学校)
発題者:小嶋 崇(巣鴨聖泉キリスト教会、N.T.ライト読書会)
     橋本 昭夫(宝塚ルーテル教会、神戸ルーテル神学校)
司会: 関野祐二(神学委員長、聖契神学校校長)
        佐々木望(神学委員会担当理事、バプ連合守谷教会牧師)

ディベートの時間枠
 a. イントロ(10分)
 b. 討論(50分)
  発題 1、小嶋「パウロの義認の教えは『救済論』と『教会論』」(15分)
  応答、橋本(7.5分)
  発題 2、橋本「N. T. Wrightの義認論を吟味する ―ルター神学の立場から―」(15分)
  応答、小嶋(7.5分)

 c. フロアとの質疑応答(30分)
 
 今後(少しずつですが)「発題要旨」「参考資料(12)」「解説」等を掲載して行く予定です。

 なおこの分科会の主催はJEA神学委員会ですが、このウェブサイトでの管理責任は小嶋にあります。

2016年1月26日火曜日

信仰義認メモ: ジョン・ウェスレー

(断り書き)
 これは反射的なメモです。まだちゃんと読んでも、考えてもいません。

最初にこのツイートに反応したのだ。

これを読んで、「えっ」と思い、「でもやっぱりそうか」と頷いたわけ。

アン・アウェイクンドとは「認罪」の段階に至っていない、つまり「福音(信仰義認)」を聞く必要に至っていない段階であることを示唆しているウェスレーの言葉なのだろうと取ったわけです。

つまりライトの信仰義認の理解の枠組みとは異なるわけで、そこにまず反応したわけです。

※しかし、ウェスレーの救済論が基本的に「宗教改革神学」に基づき、「救いの順序(オルド・サリューティス)」に則って展開されているわけですから、ウェスレーの理解自体は不思議でもなんでもないのです。

ただある期間ライトの信仰義認論を聞いてきた後でこのような文章にいきなり接すると、やはり、まず「えっ」となるわけです。


さてそれから次に試してみたことなのですが、この文章全体ググってみたら、グーグル・ブックスで、スティーブン・ウェスターホルムの『Perspectives Old And New On Paul: The "Lutheran" Paul And His Critics』のページがヒットしました。

(以下の画像はその関連部分を切り取ったもの)



この本は2003年のもので、「彼の1988年の著作『Israel's Law and the Church's Faith』をさらに深めたもの」とのブルース・ロングネッカー評があります。

この本では「ルター的パウロ(信仰義認)解釈」をアウグスティヌスから、ルター、カルヴィンとたどり、さらに「第4章 ジョン・ウェスレー」までトレースしています。

そう言う本なのですね。まさに引用された文章(実際の引用は同ページの脚注にあります)は「ルター的ウェスレー」を示すものなわけです。

先ほどの「オルド・サリューティス」でいうと、まず「自然状態(まだ福音を聞くには相応しくない段階)」、それから「律法」による「認罪」、そして福音提示→「回心=救いの開始」という順序が垣間見られます。

さてライトの信仰義認論はというと、(ここではメモの役割なので論じませんが)先ずウェスターホルムのことを名前を挙げてライトが自分のことを間違って解釈している人物として言及している文書を紹介しておきます。


CTR: In what way do you feel your adversaries have misrepresented your teaching on the NP?
WRIGHT: Starting at the top ...the most remarkable misrepresentations—remarkable because they come from an internationally famous scholar—are those of Stephen Westerholm in his recent book. He insists on a complete disjunction: either Paul’s language about justification is all about how sinners get saved by God’s grace, or it’s all about how Gentiles get in to the community without being circumcised. The silly thing is that, though some NP advocates may sometimes have implied something like this, I certainly have not. My commentary on Romans in the New Interpreters Bible should make this clear.


次に、ライトが「伝統的信仰義認論」(つまりオルド・サリューティスの順でいうと、回心と義認を同一時期のものと扱う論) に対して、「召し」(回心に相当するものだが、敢えてパウロの語彙を使う)と「義認」とは異なるフェーズのものであることを端的に説明している文書を紹介しておく。


2015年8月30日日曜日

FB読書会 2015年8月近況

恒例の月例報告です。

先ずは本書の方から。


進展具合から言うと、第5章が(担当者発表分までは)終わりました。

 
今回が2回目の担当となるのか、Yさんが担当したのは、
第五章『神』、81-85ページ。

Yさんは特に「・・・神を片隅に追い込み、押さえ込んで・・・」(84)のところに注目しました。「押さえ込み」が原文ではpinned downとなっていることに関して、
あたかも生きている蝶を捕まえて殺して標本にして「ピンでとめて」コレクションに加えて鑑賞する、そんなイメージが湧きました。人間の知的営みの犠牲となる「神」のイメージです。
 クリスチャンもそれぞれ神についてのイメージを持っていて、「神なんてもうわかってるよ」と思いがちだと思います。しかしその態度それ自体がまさに神を「ピンでとめる」ことであり、神の自己開示を拒絶する、これがイエスの受難そのもの。
と感想を述べておられました。

その後この「ピン・ダウン」についてのディスカッションがかなり続きました。



次に、レギュラーのMHさんが、続く86-92ページを担当されました。 



ここはこの本にも多用されている「天と地がどのように関わる(関わらない)か」についての「神論」的に見た場合の3類型(汎神論、理神論、ユダヤ・キリスト教神観)が導入されている箇所です。

その前置きの部分、「天」と「地」がどのように交差するか(しないか)について以下のようにコメントくださっています。

 聖書では、私たちの世界を地と呼ぶ。天は空を示す事もあるが、通常は私たちの現実に対する神の現実の次元を示すことが多い。
 この「次元」(原著 Dimension)というのは案外大事だと思います。つまり、3次元が2次元や1次元を包括するように、神の次元、天の次元は、 人間の現実次元を包括するということを言いたいのかなぁ、と思います。単に別世界という意味での次元間の交差がほとんどない異次元ではなく、きっちり地の 世界を内包するものとして、天の次元をとらえている様な気がします。
ここは概念的にもなかなか理解が込み入りやすいところだと思いますが、先ずは「なるべくやさしく解説している」部分だと思います。


第5章の残り(92-101ページ)は、小嶋が担当しました。

(ですので半分だけここにも掲載します。)

その①
「天と地は重なり合い(overlapping)、かみ合っている(interlocking)」

『天と地が重なり合い、そうすることで神は天を離れることなく地にいるという意味づけは、ユダヤ教と初期キリスト教神学の中心にあった。多くの混乱はまさ にここにある。もしクリスチャンの主要なこの主張を、他の思考の枠(・・・選択肢1と2・・・)で考えるなら、不可解で変なものになり、おそらく矛盾して さえ見えるだろう。しかし、正しい枠に戻して見るなら、まさに意味が通じるようになる。』(95)
一つ具体例からこの議論にアプローチしてみます。

カウンセリング対象の方でこう言う方がいました。まるっきり宗教音痴なのです。親が宗教に関心がなく、およそ信仰とか宗教とか無縁で育ちました。精神的な悩みで世俗のカウンセリングを受けていたのですが、宗教的な信仰を勧めらきした。

「祈り」をしたい、どうしたらいいか・・・と言うことでアドバイスしたのですが、先ず「神に向かって祈る」といってもその感覚が分かりません。その存在も 意識できないものに向かって祈るということが不可解なためです。まるで壁に向かってごにょごにょやるようなことが何の役に立つのか・・・。

しかしそれでもトライしようということで「何を祈るか」となった時、思いつくのは「祈ればすぐ目に見えてその効果が分かるような祈り」なのです。まるでマジックでもするみたいな・・・。

この人にとって「壁に向かって祈るような・・・」は、《選択肢2、理神論》のようなものです。余りにも自分の場である地と神の場である天とが全く接触点がないので祈りという行為にリアリティーを見出せないのです。

次に、もしトライするとするとその祈りはまるで「マジックのようなもの」になるとは、《選択肢1、汎神論》に近くなります。殆どスイッチポンの自動機械の ような感覚です。祈る、というよりただ「開けゴマ」を口にするようなもので、(人格的な)神というより日常的リアリティーにある様々な因果関係の仕組みを また一つ覚えるようなものです。

二つの選択肢(汎神論と理神論)をこのような具体例で考えてみても何となく分かると思いますが、結局一種の合理主義的なリダクショニズム(単純化)になっ てしまうのです。それに対して旧約聖書が示す「神と世界の関わり」は(天と地の重なり合い)はかなり複雑で多様であり、簡単な形式ができません。

それが「もしクリスチャンの主要なこの主張を、他の思考の枠で考えるなら、不可解で変なものになり、おそらく矛盾してさえ見えるだろう。」ということになるのだと思います。

四つの声の響きが「真正なもの」であるとは、キリスト教的世界観からいえば、神が造られた世界と人間は、複雑で多様な「神と人とのあり方」を抱合する関係 なのだ、ということでしょう。それはやはり神と人との「人格的な交わり」を暗示する複雑さであり、多様性であり、旧約聖書の「セオファニー(神が世界に、 人に顕れる)」はその様々な例証である、ということに繋がるのだと思います。


前回の報告でも『クリスチャンであるとは』の書評を一つ紹介しましたが、今回も一つ。
木原活信ブログ
おすすめです。
 

この他目立ったものでは、「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」 関連の記事(と言うより警戒注意を含んだ感想のような・・・この読書会の方ではありません)が紹介されました。

それで少し「パウロ研究」、特にNPP(ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ)についての現況を討論しました。


また、8月の入会者数は6名で、トータル167名となりました。
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2015年3月6日金曜日

チャールズ・E・B・クランフィールド(1915-2015)

新約聖書学、特にロマ書注解で貢献した英国の学者、チャールズ・E・B・クランフィールドが先日天に召された。

ビブリオブログスフィアーではもう幾つか「追悼記事(オビチュアリー)」が出ているが(※記事の最後に幾つかリンクを貼っておいた)、ライト読書会ブログとしてはライト自身の記事を紹介することにしよう。

読める人はリンクを辿って読んで頂きたいが、英語が大変な人のために3箇所だけ選んで引用してみた。

(1)新約聖書(釈義)学の偉大な「模範」としてクランフィールドを称えている箇所(周到に釈義されたものに対抗するような説を立てるには、「早朝からネジリ鉢巻」で格闘する覚悟が必要・・・とユーモアを効かせている)
The remarkable thing about this commentary is that, even though I now disagree with Cranfield on several of the major interpretative issues, his steady and persistent laying out and weighing up of all the exegetical options remains a model of ‘how to do it’. You always know, with Cranfield, that if you are going to take a different line you will need to get up very early in the morning and hold your nerve through some highly complex discussions of texts and theological issues.
(2)「パウロにおける律法」の扱いでライトが苦悩している時、大勢に反してクランフィールドが出した見方がライトが正しいと思っていたものだったことに感動して、「思わず跪づいて神に感謝の祈りをささげた」と言うエピソードを紹介している箇所。
Though I do not think Paul’s discussion of the Jewish Law was primarily about moral restraint, this easy-going rejection of the law, and a facile opposition between ‘law’ and ‘gospel’, was the order of the day, and I was having difficulty combatting it. At that point I came across Cranfield’s essay on ‘Paul and the Law’, published earlier, and then subsequently incorporated into the long essay on Pauline theology at the end of the second volume of the Romans commentary. I think that was the first time I ever spontaneously knelt down and thanked God for an academic article. It said what needed to be said at a time when nobody else was saying it.
(3)ある日クランフィールド家でお茶をいただいた時、クランフィールドとC・K・バレット(2011年没)にちょうど挟まれた席に座った時のことを、「象と犀の間」と面白く表現している箇所。
On one memorable afternoon, during a conference in Durham, I went to a meeting in the Cranfield home, and found myself sipping tea between the great man and C. K. Barrett. I felt like a small puppy sitting between an elephant and a rhinoceros. These were men who, for all their differences, showed the next generation what it looked like to hold together massive scholarship and deep personal faith and commitment. 

その他の記事のリンク
(1)ニジェイ・グプタ
(2)マイケル・バード
(3)ベン・ブラックウェル


2014年12月12日金曜日

パウロ研究動向にシフト?

『福音の再発見』の著者で、「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ」の名付け親、ジェームズ・ダン教授(英国ダーラム大学)のもとで博士号を取得したスコット・マクナイト氏が、自身の「ジーザス・クリード」ブログで、
The Conversation Shifts
と題する記事を投稿した。

簡単に紹介すると、
(1)過去「20年以上」にわたってパウロ研究をリードしてきた「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対オールド・パースペクティブ」(略して、NPP vs. OP) 論争がほぼ収束し、それに替わって
(2)「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対アポカリプティック・パウロ」(略して、NPP vs. AP)論争が支配的になってきた。
つまり、パウロ研究での論争が、 NPP vs. OP、から、NPP vs. APにシフトしつつある、と言う観測である。

(1)についてのポイントは、既にこの記事にも少し書いておいたが、英語圏のアカデミックな世界では「収束」したと言っても、その外、特に日本では「まだこれから」観がある。

マクナイトが次のようにNPPの視点の意義を要約しているが、コンサイスでいいかな、と思う。
With the growing conviction that Judaism was a covenant and election based religion (Sanders, Wright) there came a radical change in how Paul’s opponents were understood and therefore what Paul was actually teaching. He was, to use the words of Dunn, opposing “boundary markers” more than self-justification.
「ユダヤ教は契約と選びに基づく宗教である」 と言う認識は、NPPの立場を取るマクナイトにとって、「アポカリプティック・パウロ」に対する疑問点のベースになるものだろう。
Concerns? Plenty. Where’s Israel, where’s the Story of Israel, where’s serious engagement with Jewish apocalypses (where one learns that many today do not think there is even such a thing as an apocalyptic worldview so much at work in the work of these apocalyptic Pauline specialists), where’s election, where’s the church, where’s the very problem that drove Paul — the vexed relation of Jews and Gentiles in the one people of God?
いずれにしても、ある種「論争」的なものが付きまとうのが「学会」であるとすれば、部外者としてはせめてその論争が鋭く対立することによって見えてくるものを期待するのもよしかなと思うが・・・。

2014年7月13日日曜日

N. T. Wright on Jimmy Dunn

You can read NTW's Foreword to

Jesus and Paul: Global Perspectives
in Honour of James D. G. Dunn.
A festschrift for his 70th Birthday
(Library of New Testament Studies)

just by "Click to Look Inside" button.

(Warning: There are some differences as to how much you can read from the book's Amazon site. If you go by "Click to Look Inside" button, you can't read NTW's Foreword in full. But if you click the link at the top, you can read all. Or at least I could.)

Since the festschrift itself is priced at $133.00, those who are only interested in reading what NTW has to say about his senior NT scholar will find this time and money-saving.

In fact, it's quite amusing!
For example, NTW has this to say about differing interpretations of the identity of  the "wretched man" in Romans 7:
Ironically, I had already changed my mind by then on one of the things about which, when I first heard Jimmy lecture, I was most excitedly in agreement with him. I had been arguing for some time, against the majority, that the 'wretched man' in Romans 7 was Paul the Christian; here was a scholar senior to me, and a very lively thinker and lecturer, who set out the case as energetically as I had ever heard it, in his own Tyndale lecture of that year. Alas, by the time I completed my thesis I had come to see things very differently: not that I ever agreed with the normal 'majority' reading then prevalent particularly in Germany, but that I had tried to develop a different way again, taking into acount what seemed to me then, and still seem, fatal objections to the 'Christian' reading. Jimmy and I have not revisited that subject for many years now, but I still recall the amused frustration I felt on realizing that one of the things I thought I actually agreed with him on had now become yet another disagreement.
At any rate, even in these several pages of Foreword, you can get a good biographical data about and between the two of the most distinguished British NT scholars of our period.

2014年6月2日月曜日

Tim Gombis's Reflection on the "Plight and Solution" Framing in the NP.

Since I put the post's title in English, I follow.
(If I have more time left, I'll wrap up in Japanese.)

First, the NP or NPP.

By now there are so many things to read about the issue(s) of the New Perspective, or rather Perspectives, on Paul.

Here in Japan, among the evangelical scholars or pastors, the NPP issues have not been given much attention until, say, a few years ago.

The tide, it seems, has finally turned.
The topic for the Spring Meeting of Japan Evangelical Theological Society Eastern Block, which will be held in Tokyo on June 16, 2014, is on NPP.

Alas, one of the presenters of the Meeting has warned the expected attendees from our N.T. Wright Reading Group that NPP has already become an old topic among top-notch Pauline scholars (in the West, mostly I think).

The dinner has been served and the feast is over; the early arriving guests are already full so they don't have much appetite for it anymore.

The late-comers like us in Japan, however, are not quite sure what the fuss is all about.
They want to know what they have missed in the Pauline scholarship in the last 20 to 30 years or so.

But, the scene has changed a bit by the arrival of NT Wright's magnum opus, Paul and the Faithfulness of God in 2013.

Fellow NT/Pauline scholars have been digging through the 1600 pages to see whether any new light will yet to be noticed.

The searching and finding something new is not so simple but some scholars like Tim Gombis are getting a fresh insight from reading Tom who has read Paul for about 50 plus years.

In N. T. Wright on Paul's "Plight" and More on "The Plight" from Wright, Tim's take (contra NPP critics) is how the soteriological framework is reframed--from the Older Perspective's (individualistic?) sin-salvation framework to the Newer Perspective's "plight-solution" framework in a cosmic scale.

(I might add that the aforementioned presenter cautions us that NTW doesn't much care about how his Pauline interpretation is labeled as New or not.)
(I might also add that I found somewhere NTW saying "there are, to count, 17 or so new perspectives on Paul.)

NPP may be an old topic but you can take it afresh by reading NTW's PFG as Tim Gombis suggests, I think.

と言うところで時間が来てしまいました。

「旧」か「新」かの議論はともかく、ライトの大著から得る視点はまだ色々ありそうです。
斯く言う筆者はその後PFG読書の方は進展していません。あしからず。

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2014年3月30日日曜日

どれを読んだらいい?

先日ある相談を受けた。

仮にその方をAさんとしておこう。

Aさんとはかれこれ1年以上の知り合いである。
Aさんは現在キリスト教主義学校の学生である。

今から1年以上前、Aさんからの最初の相談は、「まるっきりライトのものを読んだことがないのだが、(また英語でさくさく読めるわけでもないが)、何かライトの書いたもので手頃なものはないだろうか」、というものだった。

それ以来何度か読書ガイダンスみたいな相談を受けた。

先日受けた相談をここに紹介して、小さなライト読書会が、あるキリスト教主義学校で始まっていることと、「ライト読書ガイド」の一例を書いてみたい。

以下にAさんからのメール文章を要約し(しかし大胆に編集・改変して)、更に『インタヴュー形式』に翻訳した上で、簡単な「ライトの『救済論』読書ガイド」としてみたい。

Aさん:
またご相談させてください。
今度学校の方で組織神学の「救済論」の授業が始まるんです。
多分カルヴァン主義の立場からの救済論だろうと思います。
でも自分は、カルヴァン主義の救済論と言っても、今までちゃんとその系列の本を読んだことがないのでどうしたもんかなー、と思っています。

小嶋:
Aさんは確かご出身の教会はウェスレヤン系だったよね。

Aさん:
えー、確かに母教会の牧師はウェスレヤン系の神学校を出ていますが、自分としては穏健なカルヴァン神学の影響を受けているのではないかと思っています。

小嶋:
えーそうなんだ。しかしある程度まで(プロテスタントの中の)どの神学的立場から影響を受けているかは分かるが、それがどう言う神学的内容なのか説明しろ、となるともう一つはっきりとしない、そんな感じですかね。

Aさん:
ところで、ジョン・マーレーの「キリスト教救済の論理」をご存知ですか。
やはり自分が影響を受けた母教会の牧師の立場である穏健なカルヴァン神学の救済論を理解することから始めるのがいいかなと思っているのですが。

小嶋:
うーん、たしかジョン・マーレーの本は何か1冊持っていたと思うけれど、それがその本だったかどうかはよく思い出せないなー。どっちにしても英語の本、原書だけれどね。
ところで「オルド・サリューティス(ordo salutis)」知っている? 日本語だと「救いの順序」って訳されていると思うんだけど。

Aさん:
えーとどうかなー。多分聞いたことないと思いますけど。
ところで小嶋先生、先日の「ライト読書会案内」で、
    既にご承知の方も多いと思いますが、まだライトのような解釈を熟知していない方には、いわゆる「贖罪論」のような論理形式的(抽象的、非歴史的)理解を再検討する機会になるかと思います。
と書いているのですが、やはりライトの「救い」の理解はカルヴァン神学とは違うのでしょうね。その違いも知りたいと思っているのです。

小嶋:
今までライトを読んだ中で、「救い」に関してはどんな事柄をカバーしましたか。

Aさん:
そうですねー、これまで「天国」や「義認」については多少はかじってきたとは思いますが・・・。
やはり断片的でしたね。ですから、ライトがキリスト教の救いをどのようなものとして捉えているか、その本丸を知りたいわけです。


と、ここまではある程度「インタヴュー形式」にするためかなり編集した箇所もありますが、以下が小嶋の回答そのままです。
そんなことも考えて「オルド・サリューティス」をベースに選定しました。
救済論を組織神学的に展開する時、大抵この「救いの順序」を使って叙述されます。
これはカルヴィン系もウェスレヤン系も共通です。
ですから先ず「オルド・サリューティス」に慣れることが前提かな。

で、ライトですが、彼のスタンスは「聖書」が先で、神学的伝統(カルヴィン系、ウェスレヤン系、その他)はその後です。

で結論から言うと、この論文です。
http://ntwrightpage.com/Wright_New_Perspectives.htm

そしてニュー・パースペクティブとかニュー・パースペクティブ・オン・パウロ(略してNPP)が目下の論争ポイントで、(途中略)

ライトのJustificationはパイパーの批判に対する反駁として書かれた本ですが、依然としてニュー・カルヴィニスト系の人たちからの批判は絶えません。
 
その一例としてライトの上記論文を批判分析したブログ記事を紹介しておきます。余裕があれば読んでみてください。

http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2007/07/analysis-4-bishop-nt-wrights-ordo_02.html 
 
http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2009/08/wright-and-righteousness.html 
 
http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2009/07/wright-in-general.html 
 
三つ挙げましたがそのまま優先順位と取ってもらって結構です。オルド・サリューティスをメインにしました。

ついでにこのライト→ヘルム→バードの流れで以下を紹介しておきます。

http://euangelizomai.blogspot.jp/2007/07/nt-wright-paul-helm-and-ordo-salutis.html
と言うわけで、Aさんは今頃これらの論文を読んでいることと思います。

それにしても小嶋が主宰する(リアル)ライト読書会の他に、このような学生たちのライト読書会が出来ているなんて、嬉しいですね。

2014年2月1日土曜日

ライトとヘイズ

マイク・ゴーマンが司会するこのヴィデオで、ライトとヘイズがガラテヤ2章と、ローマ8章の釈義について討論している。



見ていると、ヘイズは少しナーバスに見える。

このブログでも紹介したが、二人の間には新約聖書、特に「史的イエス」アプローチに関して見解の相違があり、ヘイズの方がそれをまだ引きずっているように見える。

一点紹介すると、「義認」に関して、ゴーマンが「義認とパーティシペーション」についてヘイズに質問したのに対し、ヘイズはガラテヤの文脈では二つは同義(synonymous)、と発言したのを捉えて、ライトが二つは同義ではない、勿論二つは緊密に関係しているけれども、義認は区別されなければならない、と指摘していた点だ。

どちらにしてもこのように二人が同じテーブルについて討論している姿を見るのは興味深い。

2014年1月23日木曜日

2014年度(リアル)読書会、その1

今年度の第1回ライト読書会のご案内です。

ライト読書会常連の皆様、
N.T.ライト・セミナーに参加したことのある皆様、
ライトに関心ある皆様、
日時:2014年3月22日(土)、午前10時~12時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会(人数によって工房ティー・ルームか会堂)
課題テキスト: Who Founded Christianity: Jesus or Paul?
http://www.beliefnet.com/Faiths/Christianity/2004/04/Who-Founded-Christianity-Jesus-Or-Paul.aspx
昨今「キリスト教」に対する日本における一般大衆の関心はかなり粗っぽい二択の問題のような取り上げ方が依然として主流のように感じます。

今回の課題テキストは、ライトのパウロ研究史の上では最初期の小著と言える、
What Saint Paul Really Said: Was Paul of Tarsus the Real Founder of Christianity? (1996)
からの抜粋です。

内容的にテーマがはっきりしていて、しかも分量が少なくて済む。
そんな目安で課題テキストを選んでみました。

既にご承知の方も多いと思いますので、内容理解に時間を割くよりも、このテーマに沿った相互の理解の整理や議論ができれば、と言う狙いです。

どうぞご関心がある方、都合のつく方、ご参加ください。

※なお会場整備のため出席なさる方は事前にお知らせください
問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)

2013年11月26日火曜日

「第2回N.T.ライト・セミナー」収録DVD

2013年10月9日に行なわれたセミナーの模様を収録したDVDが10部限定販売されています。(お早くどうぞ)



簡易な製作でお値段も下げてあります。

販売代行は、「本を枕に--スピリチュアルな日々」ブログ主、クレオパさん(あめんどう)です。


なお購入希望の方は「本を枕に--スピリチュアルな日々」サイトの『第二回N.T.ライト・セミナーを収録したDVDを発売中です』へどうぞ。

2013年6月22日土曜日

先日の読書会で読んだ論文について

先日、6月8日の読書会で読んだ、Paul In Different Perspectives、ではかなりな重装備での「信仰義認論争」に関する弁明、と言う印象を受けたことを皆で分かち合いました。

そしてその背景を少し皆で推理してみました。

小嶋はリゴン・ダンカン(ファーストネームの発音はちょっと違うかもしれない)かな、と想像しました。

もちろんジョン・パイパーとの有名な論争があったのですがそれは2007-2009年です。
この講演録は2005年ですから、まだ「騒ぎ出した」頃なのかもしれません。

隣にいたI先生からは文中にあるGuy Watersって誰と言う質問がありました。
But I have also been expounding my own version of the so-called New Perspective on Paul, in which I have been equally critical, without naming them, of Ed Sanders and many of his followers on the one hand and my critics such as Guy Waters and many of his readers on the other.

小嶋がどちらにしてもリゴン・ダンカンの一味(リンク)だろうと推測しました。

たまたま今朝フェイスブックで「のらのら者の日記」さんとのやりとりで、その背景となった文書が多分これではないかと思わせるTABLETALKと言う雑誌について知りました。(既に読んではいたのですが、この繋がりで再確認した次第。)

のらくら者さんの記事とは、これです。
大勢で一人を叩くのは・・・

と言うわけで、既に終わった読書会のフォローアップでした。

追加:今その繋がりで、ジョン・パイパーがどのように「信仰義認」の理解を持つようになったかを収録したインタヴューをここで聞いています。

2013年6月16日日曜日

パウロとポリティックス

既にご存知の方も多いと思うが、英語のサイトでパウロ研究サイトの老舗と言えば、
The Paul Page
だろう。

しかしこのページについてはここで書いているので重複を避けるために言及するにとどめる。

ライトに関連するような資料はないか「Paul and Politics」でググってみた。

上記の「大和郷にある教会」ブログの記事で、栗林輝夫が何度も「N.T.ライトの帝国論」と言及している書(論文集)、Paul and Politics: Ekklesia, Israel, Imperium, Interpretation が先ずヒットする。


本の内容解説の文章は以下のようになっている。
Interpretation of Paul has long been dominated by Lutheran/Protestant theological concerns. Paul has been treated as primarily concerned with narrowly personal religious issues, and critics have often contended that Paul was a conservative regarding social issues.The contributors to this volume deal in original and provocative fashion with several interrelated issues running through Paul's letters and their subsequent interpretation in Christian history. The essays cover several interrelated topics concerning Paul and politics: Paul and the politics of interpretation; Paul and the politics of the Roman Empire; Paul and the politics of Israel (relations of Jews and Gentiles); Paul and the politics of the churches (relations of women and men, slaves and free).
栗林が引用しているのライトの論文はNTWrightPageから入手できる。Paul's Gospel and Caesar's Empire(Center of Theological Inquiryでの講義)

次はN.T.ライトのこれ、Paul and Caesar: A New Reading of Romans

ライトの洞察も用いられているが、かなり最近(2010年くらい)までの研究をまとめているのがMike Todd(どう言う人物かググって見たが不明)の、Reading Paul in the Context of Empire: Roman Imperialism, Pauline Resistance, and Contemporary Implications 

しかしこれは学術的研究と言うよりもカウンター・インペリアルなパウロ書簡の現在への適用、と言う感じだ。

と言うわけでちょこっと最近のパウロ研究の動向である「パウロと帝国」を紹介した。

2013年6月8日読書会報告

あれから1週間経ったわけですが、加齢による記憶消失に抗いつつ貧弱にまとめてみます。

何はともあれ画像を先ず1枚。
これで記憶を呼び覚まそう。





不鮮明な画像で申し訳ありませんねー。

自慢じゃないが中古で買った200万画素のデジカメです。
ズームにしないとピンボケになるのです。
でも参会者の顔が良く分からないところが味噌。

当日は会場のことやら何やら一人でしなければならなかったので早めについた。
開始時間午後1時にはちらほら。

「まだ予定している人たちが集まらないから少し待ちますかー。」
なんて話しているうちに小嶋がとんでもない勘違いをしていたことが発覚。
何と開始時間を2通り皆さんに伝えていたのだ。

で最初に案内した午後1時30分まで待って、無事ほぼ予定した顔ぶれが揃って開始。

今回は11名。
ちょっと少ないと思われるかもしれないが、最初は2人で始まり、それから3人、4人、とやっていたのがつい2-3年前だから、やはり少々感慨。

本当はもう1人来る予定だったのだが、用事が出来てこられなくなった。
彼が来てたら十二人。
意味深だったのだがなー。

ここでまた画像を追加。




70代の方が二人おられたから、参加者の平均年齢は50ちょいというところか・・・。

そうそう、この画像の右隅でパソコンに打ち込んでいるのがミーちゃんはーちゃんさん。
ディスカッションの内容をご自分のブログで紹介されているので、マニアックなやり取りをお知りになりたい方はこちらをクリック。

さて後は大雑把な感想をば・・・。

ディスカッションはかなりハイレベルだったなー。
何しろ原典釈義できる人や留学経験者もかなりいて、「ちょっとついていくの大変」と思った話題もちらほら。

課題テキスト、Paul In Different Perspectivesのポレミカル(論争的)な性格の背景をしばし推理した。
この一般公開講演がなされた2005年と言えばライトの義認論解釈についてカルヴィニストたちがけんけんがくがくやっていた最中。
勢い自己の正統主義(オーソドキシー)的立場を旗幟鮮明にするのに少し前がかりになっていたかもしれない。

でもそこはさすがライト。
宗教改革の先駆者で初めて聖書を英語に翻訳しようとしたティンデルと友人のフリスの間で交わされた書簡から引用して講演を始めている。

In his first letter to Frith, dated probably in January 1533, he writes this memorable sentence, which was etched upon my mind and heart long before I became a Bible translator myself. ‘I call God to record,’ he writes, ‘against the day we shall appear before our Lord Jesus, that I never altered one syllable of God’s word against my conscience, nor would do this day, if all that is in earth, whether it be honour, pleasure or riches, might be given me.’


やはり宗教改革原則の根本には神のことばである聖書本文への忠実さが、その上に構築される神学に優先する、と言うことをカルヴィニストたちにアッピールしようということなのだろう。

そんな講演なわけだから、なかなか信仰義認関連聖書箇所の釈義部分は力が入っている。

ライトのニュー・パースペクティブ・オン・パウロの立場については色々と言えるだろうが、基本的には「如何に当該箇所のテキストの流れ(sweep)に沿って釈義がなされるべきか」と言う事が肝心なのだと思う。

ただ宗教改革者の聖書解釈のルールとされた、聖書テキストを他の(正典内の)テキストと照合して意味を確定して行くのに対し、ライトは(余りにも常識だが)第二神殿期のユダヤ教関連文書からの光を大いに活用して、不鮮明なテキストの意味を明らかにしていくわけだ。

もっと言えばテキストの流れを釈義するのに、第二神殿期ユダヤ教の世界観(解釈準拠枠になっている観もあるが)を再構成して、「神がキリストにおいて成就なされた救い」を、聖書全体を貫くナレーティブ構造(メタ・ナレーティブとも言われるが)を下敷きにして読み解いていく。

ある人はこれがライトの危うい部分だ、と指摘する声もある。
聖書テキストそのものの優先性を言っておきながら、その解釈枠となる複雑なシステムを構築してしまっているのではないか、と。
(このポイントは当日の読書会の発言ではなく、ライトについて時々軽い議論をするHさんのものだが・・・。)

まっ大した報告にならなかったが、雰囲気は少しは伝わったかな。

そうそう休憩の間のIさんとの会話で、今から10数年も前になるのだろうか、ライトの著作を少し翻訳して紹介し始めた時は、全く反応なかった・・・と言うお話を聞き、先駆者のご苦労いかばかりであったか、と思いをはせた。
 

2013年6月3日月曜日

6月8日の読書会に備えて②

いよいよ今週となりました。

多分10名くらいの方々が出席なさると思います。
(もちろん当日蓋を開けてみないと何とも言えませんが・・・。)

さて前回に続いて小嶋がテキストにアンダーラインやハイライトしたところを紹介しておきます。

 
このポイントは「義認」をオルド・サリューティス(救いの順序)で概観する時に改革派や他の神学に対してライトが取る極めてユニークな立場だと思います。(以下は4. Solo Spiritu第3パラグラフから引用)
Paul’s view seems to be that when the evangelist announces the ‘word’, God the Spirit works through that proclamation to bring people to faith. Paul has a very precise technical term which he uses to denote this moment, and it is not of course ‘justification’, but ‘call’. ‘Those he called, them he also justified.’
これは福音を宣証する時の説教者の心得として大事なポイントかと思います。(以下は4. Solo Spiritu第4パラグラフ最後の部分から引用)
Those of us who have believed the gospel from our earliest memories should not forget what an extraordinary privilege that is. And those who preach the gospel should never forget that for it to have any effect it must be driven by and accompanied with the powerful work of the Holy Spirit.
これはカルヴィン派の人たちと北米福音主義神学会時のかなりスペシフィックな論争点でした。ライトは「将来の終末」時における義認も含まれると言う立場ですね。(以下は4. Solo Spiritu第5パラグラフから引用)
Paul’s exposition of this in various passages leads directly to the statement of something he says again and again but which is routinely ignored when the eschatological framework of his doctrine of justification is forgotten: that on the last day the final judgment will be made on the evidence of the complete life that someone has led.
ライトの解釈は「終わりの日の義認の宣言」が前倒しで「信仰を持って聞いた時」に宣告されると言う解釈だと思います。それを基礎付けるのがキリストの死による贖いのわざであり、それを「終わりの日の義認の宣言」まで完成させる聖霊のわざだ、と言うことだと思います。(以下は5. Sola Fideの第2パラグラフから引用)
It takes all of the rest of Romans 8 to explain that, of course, but we should be in no doubt that Paul connects in the most intimate way possible the final verdict ‘not condemned’ with the continuing work of the Spirit, and roots that work in the death of Jesus through which sin was condemned and the verdict ‘righteous’ which was already issued as soon as the gospel had produced faith.
これはご覧のように挿入的なコメントですが、義認に関し信仰の対象が何かを厳密に規定しようとしているものではないかと思います。(以下は5. Sola Fideの3パラグラフから引用)
(We are not justified by faith by believing in justification by faith, but by believing in Jesus; that being so, when we believe in justification by faith what we get is not justification itself, but assurance; and it also follows that those who believe in Jesus but do not believe in justification by faith are nevertheless justified by faith without knowing it.)  
(以下は5. Sola Fideの第4パラグラフ終わりの方から引用)
But now the Messiah has been faithful, as the representative Israelite, so that God’s own covenant faithfulness would be unveiled in action in his ‘obedience unto death, even the death of the cross’. And since the covenant purpose, to deal with sin and to launch new creation, has thus been spectacularly accomplished in his work, justification in the present must be by faith alone, not by works of the Jewish Law, partly because all human beings have fallen short of God’s glory, and partly because if it were by the Law only Jews would qualify. 
最後になりましたが、二つほどご案内があります。
①当日のディスカッションの流れ
13時開始
13:10 - 14:30 イントロから、3. The Glory of Godの終わりまで
14:30 - 14:40 休憩(本の展示販売)
14:40 - 15:50 4. Solo Spiritu、から終わりまで
 テキストに沿ってお互いがアンダーラインしたり、ハイライトしたりした文章を紹介し合いながら自分の読みと他の人の読みを比較して理解を深める、・・・を先ず最後まで通して見たいと思います。
その後に総合的な感想や、講演内容の意義についてディスカッションしたいと思います。


②本の展示販売
今回は二つあります。
(A)スコット・マクナイト「福音の再発見」・・・川向さんが税抜き値段の2,000円でお分けしてくださいます。
(B)河野克也・東方敬信、共訳、リチャード・B・ヘイズ「新約聖書のモラル・ヴィジョン」  1,890円のところ1,600円でお分けしてくださいます。
※ヘイズの本に関しては拙ブログ記事を参考になさってみてください。リンク 

2013年5月29日水曜日

6月8日の読書会に備えて①

さて読書会も近づいてまいりました。

課題テキストとなっている、Paul in Different Perspectivesを参加予定者はどの程度読んでおられるでしょうか。

当日は参加者各自がアンダーラインしたり、ハイライトしたところを比較しながら、感想やら疑問やらを交換したいと思います。

準備の一旦として小嶋がアンダーラインしたり、ハイライトしたところを紹介します。

先ずはライトが自分の読みを「オーソドキシー」の範囲にあること。それもかなりいい線行っているとおもっていること。しかしそのようなライトの読みである教派では軋轢を引き起こしている、などと聞くのを残念に思っていることなど。(以下はイントロ部分から引用)
...since I think my own reading of Paul represents a historically grounded and theologically accurate and sensitive understanding I naturally hope that other Christians of whatever tradition will find what I say fruitful, and I grieve that anyone should get into trouble in their own denomination, whatever that may be, for embracing a viewpoint which ought at the very least to be within anybody’s limits of orthodoxy.

宗教改革のバックボーンは聖書のテキストをあくまで忠実に読み解釈することと捉えるライトは、ソラ・スクリプトラの原則を単音節や短音節のギリシャ語までおろそかにするべきでないことを主張し。(以下は1. No Syllable Alteredから引用)
Not one syllable must be changed. That is what it means to speak of ‘sola scriptura’ and to mean it.

その実例としてガラテヤ2:16のde
The question which dominates the whole letter [the Galatians] from this point on [2:16] is: who are the true children of Abraham, the single family whom God promised to him? And the answer is: all those who believe in Jesus the Messiah, whose faith is the only badge of membership that counts. All of this flows from taking seriously that little syllable de in 2:16.

原文に忠実な読みが「信仰義認」と「世界大のアブラハムを祖とする神の民」を繋ぐ。(以下は1. No Syllable Alteredの結論部分から引用)
I thus discover that my call, my Reformation call, to be a faithful reader and interpreter of scripture impels me to take seriously the fact, to which many writers in the last two hundred years have called attention, that whenever Paul is talking about justification by faith he is also talking about the coming together of Jews and Gentiles into the single people of God. I did not make this up; it is there in the God-given texts.

パウロにとって『ゴスペル』とは何であり、何でないのか。(以下は2. No Other Lordの第1ポイント部分冒頭から引用)
First, when Paul uses the word 'gospel', that is the very center of what he is referring to: the announcement that Jesus, the crucified Jew from Nazareth, has been raised from the dead by the creator God, and has been exalted as Lord of the world, claiming allegiance from all alike, Jew and Gentile, great and small, from Caesar on his throne to the poorest child of the humblest slave in the farthest corners of the world.

「相対主義」「寛容」の問題について。(以下は2. No Other Lordの第3ポイント部分から引用)
And it was of the very essence of his [Paul] work that he established communities of people who were loyal to Jesus as Messiah and Lord and therefore ceased to take part in the other local cults, state religion, mystery cults and so on that their neighbours continued to patronize. The unity of this new community was therefore central and vital, since division would reflect, again and again, ethnic and cultural differences within the Body of Christ.

Thus, whenever I am asked what I think about the so-called 'other faiths', which I often am, including on radio shows and the like, one of the things I normally say is that Krishna didn't die for me, that Buddha didn't rise again, that Mohammad ruled out as an impossibility what to me is the very centre of my life, that in Jesus Christ the one true God became human and lived, died and rose again for the world's salvation, and for mine. That is what Solus Christus must say when faced with relativism.

パウロ解釈における間違った対立軸としての「法廷的枠組み」と「キリストにある」、それを解決する方法と改革派神学で用いられる「転化される義」の問題。(以下は3. The Glory of Godの第4パラグラフから引用)
Here we arrive at one of the great truths of the gospel, which is that the announcement of Jesus Christ is reckoned to all those who are 'in him'. This is the truth which has been expressed within the Reformed tradition in terms of 'imputed righteousness', often stated in terms of Jesus Christ having fulfilled the moral law and thus having accumulated a 'righteous' status which can be shared with all his people. As with some other theological problems, I regard this as saying a substantially right thing in a substantially wrong way.