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2018年1月31日水曜日

FB読書会 2018年1月報告

今日はまだ1月ですが、いつもより少し早く「1月」の報告をしておきます。

1月は13章と14章の最初の部分をカバーしました。

今回は(ヴォランティア)担当者が少なかったので《感想》は割愛、引用された箇所だけ(全部ではありませんが)紹介しておきます。


第13章 なぜメシアは死なねばならなかったのか(292-330)

(292-303)

《引用①》 イエスの人生には特定の瞬間があり、それらの瞬間は、すでに象徴的な意味付けがされている特定の地理的空間で起こった。ユダヤの偉大な祝祭日、とりわけ過越祭、またはユダヤの偉大なランドマーク、とりわけヨルダン川やエルサレムでのことを考えてみれば分かる。
 私たちの手にある資料を通じ、繰り返し出てくるこれらの瞬間や場所で、三つの流れが一つに終結するのに気づく。それは私たちの扱ってきたパーフェクト・ストームを作る三つの要素というより、別々の谷を下ってきた三つの川の流れが一つに合流し、圧倒的な水流となったイメージに近い。 ・・・イスラエルの王朝の、長く波乱に富んだ歴史におけるメシアの役割という偉大な川の流れと、苦難のしもべという漆黒の流れが激突する。そしてその二つの流れは、イスラエルの神の帰還という、長く、暗く、そしてさらに強力な信仰の流れに飲み込まれていく。(295-6)

《引用②》 しかしイエスは、これらの召命を一つにした。彼はバプテスマのヨハネから洗礼を受けた。バプテスマには、重大な復興に必要とされる悔改めと、かつてイスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入った行為の象徴的再演という意味があった。・・・すなわち僕としての召命と王としての召命とが、イエスの心と頭の中で一つに溶け合ったのである。(299)

《引用③》・・・世界の多くの自称「正統な」または「保守的な」クリスチャンたちは、王国なしの十字架を求めてきた。つまり、この世界と何の関わりもなく、この世から逃れる手段だけを提供してくれる抽象的な「贖罪」である。(303)
新しい出エジプト(303-312)
《引用①》 イエスの生涯のクライマックスをこのように見るのは、標準的でも伝統的でも、「正統的」でも「保守的」でもないが、それは新しい角度から「受肉」と「贖罪」という「伝統的」な教義に光を当てるものだ。私が主張したいのは、このような見方は私たちに、本来の歴史的現実を理解させてくれる、ということである。これらの教理は、これまで非歴史化され、抽象的な要約になってしまっていた。(306)

《引用②》 エルサレムは余りにひどく道を踏み外してしまっていた。ユダヤの指導者たちのローマとの共謀、腐敗、圧政、貪欲によって、ひどく堕落してしまった。ユダヤの民、イエス自身の民は、軍事的な暴力と武装蜂起で神の勝利を世界にもたらそうと決意していた。(308)

《引用③》 だがイエスは、反逆の民に神の裁きを宣告しただけではなかった。イエスは民に先立って進み、破壊的な諸力に自ら対峙し、そのすべての重みを自分の身に引き受けるかのように語り、行動した。そうすることで神の民が刷新され、諸国を照らす光となる召命を彼らが再発見し、長く続く隷属と捕囚から民が解放されるためだった。(310)
十字架(312-321)
《引用①》 この食事の重要なポイントは、弟子たちが新しい形でイエス自身の命を分かち合うことで、その恩恵を分かち合えるようにしたことだ。パンとぶどう酒という贈り物は、すでに重要な象徴的意味を持っていたが、新たな深みを獲得する。すなわち、弟子たちの間でイエスの臨在を体験する方法になるだろう。献げものと臨在。これこそ新しい神殿である、過越しに見立てた食卓での、この不思議な集まりが神殿なのである。(314)

《引用②》 こうしてイエスは、新しい召命への道を拓く。土地、神殿という民族のアイデンティティを守ろうとする熱烈な圧力に代えて、イエスの信従者たちの新たにされた心と生活を通して、全世界のための王なる祭司という初期のヴィジョンを取り戻す。全世界はメシアの嗣業だが、今や彼らのものにもなる。これらすべてものの背後に、献げものがある。イエスはそのようにして「アッバ、父よ」と呼んだ方に従順を献げる。そして、長い間履行されなかったイスラエルの召命である従順が、ついに達成される。(315)
 《引用③》 多くの読者は、ヨハネの福音書でこのようなテーマを無視し、この書を「霊的な」、または「神学的な」論文として、個人的霊性と来世での救済の希望を促す書として読もうとしてきた。しかし、この書はきわめて明快だ。ローマ帝国の権力とイスラエルの指導者の裏切りが、神の愛と出会う。そのとき生まれた大いなる渦巻きで、王としての神の勝利がもたらされる。それは、この世の諸王国を凌駕する神の王国の勝利である。(317)
《引用④》 この対決 [ヨハネ18、19章] の核心にあるのは、神の王国の持つ政治的、神学的意味の両方である。イエスは神の王国を宣言し、行動でそれを具現化した。(318)
(320-331)
《引用1》ではイエスの死をどのように解釈すればよいのだろうか?(略)同様に、イエスの死を神学的に過小評価してしまうことも簡単だ。《引用終》

《引用2》その理解(刑罰代償説)を先のモデル(メシアであるイエスはイスラエルを代表し、したがって世界を代表する)と合わせれば、刑罰による死という理論に向けられてきた主な批判はその力を失う。《引用終》

《引用3》イエスのストーリーを読み、研究し、祈れば祈るほど私が確信に至ったのは、これらのモデルはさらに大きな枠組みの中で理解されるべきだということだ。(略)すなわち、いずれにせよイエスの死は、彼自身にとって、またそのストーリーを語り、最終的にそれを書き下ろした人々にとって、神の王国を樹立する究極の手段と見られていた、ということである。十字架は、神の王国が天にあるように地上に来るようにという祈りへの、ショッキングな答えなのだ。《引用終》

第14章 新たなる支配のもとで(331-356)

新しい世界(331-337)

《引用①》
 イエスがイースターの朝に死者の中からよみがえったそのとき、イエスは新しい世界の始まりとしてよみがえった。そしてその新しい世界は、神がつねに創造しようと意図していた世界なのである。これがイースターの意味について知るべき最初の、そしておそらく最も重要なことである。(332)

《引用②》
 今日の西洋世界の多くの人は、物質的な肉体は「天」にいることができない、と考えている。彼らはプラトン主義者で、もし「天」があるとすれば、それは空間や時間や物質と関わりのない、非物理的なところだと考えている。(334)

《引用③》
 さらにこう考えてみよう。--そこで創造主なる神は、自ら圧政者の武器を打ちこわし、創造本来の目的が満たされる新世界を始めるためにやって来られた。原始キリスト教徒たちは、よみがえったイエスに会ったとき、そのように考えていたようなのだ。よみがえったイエスは、「天」において自由に活動できるが、彼らにはそれが見えない。だが、イエスが「地」にいるとき、彼らは見ることができた。(334)


その他、2月末に出版予定のライトの『パウロ(伝記)』の紹介インタヴューがベン・ウィザリントンのブログで(今日の時点で)7回に渡って取り上げられているのを紹介しました。

この引用部分などちょっと目を引きました。

I had in mind the ‘general reader’, including students, and – I hope! – radio or TV: I want Paul to be seen as what he was, one of the primary public intellectuals of the ancient world (i.e. not just a ‘religious’ figure as people in our world tend to imagine).





「新規入会メンバー」について。
2018年1月は、退会者1名で、トータル232名でした。

以上1月の報告でした。

2018年1月3日水曜日

FB読書会 2017年12月報告

明けましておめでとうございます。
今年もN.T.ライト読書会(リアルとフェイスブックともども)よろしくお願いします。


いつものように先月12月の報告をば。

12月は11章残りの部分と、12章をカバーしました。
今回は担当者が揃ったので《感想》も一部交えてご紹介しておきます。

第11章 空間、時間、そして物質(233-264)


新しい種類の革命(256-264)

《引用箇所》 第一の間違った見方は、人々に「天国に行く方法」を教えにイエスがこの世に来られたと考えることである。(中略)イエスが語ったことは、神はまさにいまここで、「地上」において支配を始められたのであり、人々はこのことの実現のために祈るべきであり、またイエスご自身の働きのうちに、それが実際起きているしるしを認識すべきだ、ということだった。(256)
《感想》 (中略)ライトさんの著書に出会えて良かったと思ったのは、すでに分かり切っていると思っていることについて再考する、ということを教えられたからです。教会で教えられている解釈も、いつからか、誰かが言い始めたことであって、時間とともに作り上げられてきたものに他ならない。それをまるで聖書とセット梱包された、改変してはならないもののように扱ってしまっていたのではないか、ということに気づかされたのです。
第12章 嵐のただ中に(265-291)

イザヤ書の僕(しもべ)(265-279)
《引用箇所》  ローマは背後に控え、いつものやり方で帝国の要求と野望とを押し付けようとしていた。イスラエルもまた、過越の祭りを祝いながら民族の解放と異教徒に対する勝利を待ち望んでいた。そしてイエスが「アッバ、父よ」と呼んだ神は、ある使命のためにイエスをこの世に送ったが、その使命は、ローマのものともイスラエルのものとも異なっていた。その使命は両方からの妨害に遭い、絶望的で悲惨な失敗に終わりそうに見えた。私たちがこうした全体像を持ち続けることができれば 、イエスが何者で、なぜあのように行動したのかを理解する途上にいる。(266-7)

《感想》 パーフェクトストーム(「ローマ帝国からの圧力と、イスラエルの千年越しの希望がぶつかりあうところに、さらに別の角度から激しく吹き込む不可思議かつパワフルな神ご自身の目的が出会うところ」)のメタファーは、実は私はあまりピンときていなかったのですが、ようやく見えてきたような気がします…
ダニエル書、人の子(279-287)
《引用》 「不正なぶどう園の農夫たち」が主人の「息子」を殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまったとき、主人は帰ってきて彼らに復讐する。これは詩篇118篇22節の成就となるだろう。・・・すべてが一致している、すべてが同じ聖書の物語と共鳴している。(285-6)
 《感想》 ダニエル7章(人の子)、ダニエル2章(石)、次に福音書のイエス語録での「捨てられた石」を関連付けたことが大きいと思う。
つまり「神が王となるストーリー」であるダニエル書7章だけでなく、2章の「石」も同様「神が王となるストーリー」であることをくっきりさせたことで、十字架の「苦難」が「王国樹立」ストーリーであることを意識させられた。
ゼカリヤ書の王(287-291)
《引用》 わたしたちのここでの目的にとって注目すべき大切な点は、ゼカリヤがイザヤやダニエルと同じく、三本の線が一つに収斂していくのを思い描いていたことである。すなわち、神とその民に戦いを挑む邪悪な異教の国々、失敗したユダヤ民族の指導者達、そして他の誰も成し得ないことを成し遂げるために来られる神である。この3つは、イエスがそう見ていたように、パーフェクト・ストームを形成する三要素である。(290)
《感想》 マタイ22章の王子の婚礼のたとえ話ともどこかでつながっているような気がしています。この終末に関するマタイ22章の王子の婚礼での出来事の話は、現代人としては、当惑してしまうようなたとえ話なのですが。

以上12月の報告でした。

「新規入会メンバー」について。  2017年12月は、入退会者ともに0名で、トータル233名のままでした。


以上、ご報告まで。

2017年12月1日金曜日

FB読書会 2017年11月報告

12月です。
いつものように先月11月の報告をば。

11月は10章をカバーし、さらに11章に入りました。
今回は担当ボランティアがお一人でした。
感想は割愛して引用された部分だけご紹介しておきます。

第10章 戦いと神殿(213-232)

サタンとの戦い(220-226)

《引用箇所》 イエスは王としての任務を、真の問題が存在するところから再定義した。そうすることで、イエスは自分自身の召命を再定義した。・・・その召命とは、神の民を自由にし、神の主権と救済的な支配を打ち立てるための重要な戦いに勝利を収めることである。しかも、彼自身の苦難と死を通じて。(226)
イエスが見据えていた最後の戦いとは何だろうか?それはもはやローマ帝国への軍事的戦いではなく、神殿やエルサレムを奪い返すためのヘロデや祭司長たちに対する反乱でもない。・・・それはもっと根源的なものだ。それはサタンへの戦いである。(225)
善と悪との境界線は、神のレベルと、そしてサタンのレベルでは、はっきりしている。しかしそれが人間のレベルになると、個人であれ集団であれ、その区分がますますぼやけてくる。(219-220)
《感想》 この時代はシリアがエルサレムを支配していたのを、ユダ・ハンマーが3年間にわたるゲリラ戦に勝利し、神殿から異教の影響を一掃したそうです。ユダヤ教のハヌカがそれを祝うお祭りだったとは知りませんでした!
出来事のストーリー(性)とその意味解釈(226-232)
《引用箇所》  同じように、私たちがイエスのさまざまなストーリー、特に最後の数日間に起きた出来事のストーリーを読むときは、そこにあるさまざまなテーマを組み合わせ、一貫性のある一つの全体像を作り上げるのに相当の努力を要する。しかし、過越祭で賑わう当時のエルサレムで、イエスがろばに乗って入城する姿を見た人々は、ちょうどこの経験豊富な艦長のような立場にいた。
 イエスの行動、その行動が喚起する預言、過越しの何重ものテーマ(暴君への勝利、奴隷の解放、献げもの、神の臨在)、これらによって一つの一貫性ある、しかし非常に挑戦的な全体像を、人々は難なく作り上げただろう。当時の彼らの世界観や、その根幹となるストーリーをよく学んでいない私たちは、(少なくとも初めは)それらをばらばらの要素として見てしまうが、当時のエルサレムにいた人たちは、一つの濃密な出来事として見ただろう。彼らは一目見ただけで、すべてを理解しただろう。その意味するすべてを。
 ではその「意味」とは何だったのか? 何よりも、それは紛れもなく王の行動、イスラエルの真の王であると言う主張だった。・・・にもかかわらずこの平和な王の到来は、全世界的な彼の支配の確立を意味するのである。(228-9)
第11章 空間、時間、そして物質(233-264)
神殿という「空間」認識をめぐって(233-241)
《引用》 そこで私たちがイエスを理解しようとするなら、彼の住んでいた世界と私たちの世界との違いについて把握することがぜひとも必要になる。(233)
 だが、このような時間、空間、そして物質について現在の西洋的な考えを抱いたままイエスのストーリーを読んでも、イエスとは誰かを理解することは決してないだろう。(234)
・・・言い換えれば、その結合点とは、イエスのいた場所であり、イエスの活動そのものだった。イエスはいわば歩く神殿だった。生きて呼吸する人間が、神の住まわれるところだった。
 多くの人がすぐさま気づくように、これは後の神学者たちが受肉の教理と呼んだ、まさにそのものだった。だがそれは、多くの人が考えている受肉の教義と大きく異なっているように見える。(237)
・・・だが、この嘲笑的な批判は大事なことを忘れている。そう、確かにイエスは神について語った。しかしイエスは、まさに自分の行っていることを説明するために、神について語ったのだ。(237-8)
時は満ちた(241-247)
《要約》 時間!イエスの時代のユダヤ人も今日のユダヤ人も、時間について極めて特殊な感覚を持っている。ユダヤ人にとって時間は直線的に前へと進み、そこには始めがあり、中間があり、終わりがあると考えられている。それは、すべてのものが循環的にぐるぐる回り、必ず同じ時点に戻ってくるという別の人々の時間感覚と違う。(241頁) しかし、聖書の冒頭にはもう一つの特徴がある(241頁)
古代の異教徒たちがユダヤ民族について知っている数少ないことの一つは、異教徒の視点からすれば、彼らが一週間のうち一日は怠け者になることだった。しかしユダヤ人からすれば、それは怠けているのではない。(242頁)
安息日は、歴史の初めの礎の時から究極の回復へと進む時の流れを感じる瞬間でもあった。神殿が、神の領域と人の領域とが出会う空・間・であるならば、安息日は、神の時と人の時が一致する時間だった。(242頁)
新しい創造(247-255)

《引用①》 神の栄光はエルサレム神殿に降臨したのでもなく、またシナイ山の頂上に降り立ったのでもなく、イエスの上に、そして彼の中で輝き出た。彼はその成就の瞬間に、律法と預言者、つまりモーセとエリヤと語り合った。「キリストの変貌」と私たちが呼ぶものは、核心的な瞬間である。それは、イエスの生涯において、神殿の空間と安息日の時間の指し示すものが明らかになったように、イエスにおいて、より正確にはイエスの肉体において、物質世界そのものの指し示すものが明らかにされた瞬間であった。(252-3)
《引用②》 聞く耳と見る目を持っている人にとって、山上でのキリストの変貌のストーリーが証しているのは、イエスはいわば神の「物質」ーー新しい創造ーーと私たちの時間が交差する場だ、ということである。イエスが神の世界と私たちの世界、神の時間と私たちの時間が交差する場であったように。・・・新しい創造のすべては、大地に蒔かれた種、新しい世界の初穂としてよみがえられたイエスから始まる。(255)

以上11月の報告でした。

その他11月6~8日開催された「日本福音主義神学会・全国研究会議」関連の投稿が幾つもあり、ディスカッションが続きました。
 ※このサイトで講演のまとめ・レスポンスが読めます。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年11月は、入会3名で、トータル233名になりました。


以上、ご報告まで。

2017年11月3日金曜日

FB読書会 2017年10月報告

11月です。
いつものように先月10月の報告をば。


10月は9章(10章への準備的な内容みたいですが)をカバーし、さらに10章に入りました。
今回は担当ボランティアがお二人加わりましたので助かりました。


第9章 王国、現在と将来(192-212)

ユダ・ハンマー(192-197)
《引用箇所》 最も有名なのはパリサイ派である。彼らは自分たちなりの理解に従って、古代の伝承に忠実であろうと徹した大衆運動であり、神が再び行動を起こしてくださるのを熱烈に待ち望んでいた。そこで大切なことは、かの偉大なストーリーが、彼らの心と聖書の読み方の習慣に深く刻み込まれていたことである。(196-7)
《感想》 この時代はシリアがエルサレムを支配していたのを、ユダ・ハンマーが3年間にわたるゲリラ戦に勝利し、神殿から異教の影響を一掃したそうです。ユダヤ教のハヌカがそれを祝うお祭りだったとは知りませんでした!
星の子(バル・コクバ)シモン(197-204)
《引用箇所》 そして多くのユダヤ人は、メシアを待ち望むのはまったくの誤りだという結論に達した。ともかく、ユダヤ人の反乱はその後、途絶えてしまった。彼らはひっそりと神と律法に従って生きることに満足し、他民族が世界を支配したければ、それはそれでよしとした。……
星の子シモンのストーリーはユダ・ハンマーから300年後のことであるが、結末はまったく違うものの、そこに驚くほど共通のパターンがある。……
シモンと彼の支持者たちの信じたストーリーは、ユダ・ハンマーと同じストーリーだった。それこそが聖書の語るストーリーだと彼らは信じ、聖書の約束は、そのストーリーどおり成就すると信じていた。それは、神がついに王となられると語ったイエスの言葉を聞いた人々の脳裏に浮かんだストーリーだった。それはイエスがエルサレムに入城した際、人々が歌に込めたストーリーだった。(203-4)
《感想》 こういう歴史的背景を知るのはとても興味深いです。ユダ・ハンマーのように、イエスが登場する前にメシアとおぼしき人物が現れるのはわかるのですが、イエスが登場して、十字架の死と復活を遂げたあとでもなお、メシアを待ち続けていたユダヤ人… 彼らは、自分たちが待ち望んていた王が異教徒によって殺されるとか、終わりの日の前に1人だけ復活するとか、どうしても受け入れられなかったのでしょうか…
王国樹立のアジェンダ、ヘロデ大王、シモン・ベン・ギオラ(204-212)
《引用》 人々が「ユダヤ人の王」に期待した一連のことは広く知られていた。・・・それらの期待の最上位に来るものは、異教徒に対する勝利と神殿の清め、また再建であった。(176-7)
《感想》 9章はイエスの王国樹立のアジェンダを見通すための、いわば「座標軸」作りだったということでしょう。それを「回り道」をして・・・と言っています。  そして取り出した要素は「敵に対する勝利」と「神殿清め/再建」でした。この二つが10章のテーマになります。
第10章 戦いと神殿(213-232)

戦い(213-220)
《要約》 9章において示された、「ユダヤ人の王に対する期待」の最上位は、異教徒に対する勝利と神殿のきよめまたは再建でした。これを10章では「戦いと神殿」と題して提示します。分担されたところは、「戦い」の前半です。イエスは戦いに関与します。しかしその戦いは、人々が期待した異教徒に対する勝利を目的とするような戦いでは無く、「サタンとの戦い」でした。・・・・・・
《感想》 クリスチャンは自身を善の側にいると捉えがちなのではないかな。??

以上10月中の報告でした。

その他「第6回N.T.ライト・セミナー」が終わったところで様々な感想やら何やらが続けざまに投稿されしばらく賑やかでした。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年10月は、入会1名で、トータル230名です。


以上、ご報告まで。

2017年8月31日木曜日

FB読書会 2017年8月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて5ヶ月が過ぎました。

ほぼ「1章/月ペース」で進んでいます。

8月は第7章をカバーしました。5つのパートに分け3人の方が担当してくださいました。上手く捗りました。

ということで今回は《感想》部分も少し多く紹介しました。


第7章 キャンペーンここに始まる(129-161)


イントロ(129-131)

《引用箇所》 紀元一世紀の眼鏡をかけたまま、イエスと、そしてイエスがイスラエルの神について語ったことを振り返ってみよう。使者が公式の布告を宣言するやり方に倣って、イスラエルの神がついに王となられたことをイエスは宣言した。「時は満ちた!」と彼は言う。「神の王国はいまや到来しようとしています。・・・」(マルコ1章15節)
こうした宣言がどんな効果を生むか、少し考えてみよう。民主主義の下で生きる今日の私たちは、新しい大統領や総理大臣と共に新しい政府が誕生することを経験している。それをラジオやテレビのニュースで聞き、それが新しい政治の始まりであることを知り、新体制を受け入れる。(129)
「祝宴、癒し、赦し」(131-140)
《引用箇所》 赦しは実際のところ、癒しの一種なのである。それは、人々を押し潰して身動きできなくする重荷を取り除いてくれる。赦しは掛け値なしに人を真っ直ぐに立ち上がらせるのだ。それは社会全体に広がっていく。(136,137)
赦しと癒し。この二つは個人的にも社会的にも、分かちがたく結びついている。社会全体が、積年の恨みから生み出されれる不和によって身動きが取れなくなり、内乱へと発展する。直視されることも、赦されることもなかった一つの出来事や行動のために、家族も引き裂かれることになる。同じように社会も家族も、そして個人も、赦しを通じて和解がなされ、新しい希望と新しい愛を見いだすことができる。 (138)
《感想》 イエスの宣言は「神があなたの心の王座に着かれた」のではなく「神がこの世界の王座に着かれた」である。私たちは、プロテスタントの流れの中で「神と私」の関係を強調しすぎてしまい、神が世界(あるいは社会)に対して為されることに興味関心を持たなくなってしまってはいないか。それに加えて、私という個人が世界、社会、隣人に対して為すべきことをあまり考えなくなっているのではないだろうか。神との関係を強固に保つことが第一の目的になってはいないだろうか。・・・・・・
神はこの世界を通して私という個人を癒し、そして私という個人を通して世界を癒そうとされているのではないだろうか。また、自分自身は家族や隣人との関係の癒し(回復)にどれほど関心を払い、祈り求めているだろうか、と思わされた。

「最初の宣言」(140-146)

《引用箇所》 イイエスの最も正式な宣言は、ルカの福音書の中で(ルカ4:16~20)、その公生涯の最初になされた。・・・イエスは立ち上がり、イザヤ書の巻物の中からある一節を読んだ。
 その箇所は来たるべき世、奴隷状態からの解放、新しい出エジプト、捕囚後の回復に言及した偉大なる聖書箇所の一つだった。(140)
《感想》 >奴隷状態からの解放
これが、実は救いの理解なのだと、実はライトさんの著作を読み始める7年くらい前までは明確に言語化できなかったのですが、ライトさんの本を読み始めて、これで読むと非常に明確に、スッキリと、旧新約聖書が読めることに気が付き、それ以来、個人的には、あぁ、なるほどこう読むのか、と従来バラバラで、セメダインやガムテープでガチガチに固めていたものを一旦外して、きれいに並べ替えて、非常にスムーズに聖書を理解できるようにはなりました。
「あなたの罪は赦されました」(146-151)

《引用箇所》  これらのストーリーは、それに類した他のストーリーと同様に、待望久しいヨベルの希望と共鳴するものだった。それはイスラエルの罪によってもたらされた捕囚からの解放であった。また一方でこれらのストーリーは、偉大な出エジプトのストーリーによって喚起されるイスラエルの希望とも共鳴するものだった。そのどちらにおいても、罪を赦すとイエスが宣言した際、彼のしたことに対する不満の声が上がった。パリサイ派のシモンの家にいた人々は、「罪さえ赦すこの人はいったい何者なんだ」と尋ね、癒された中風の男を見た律法の専門家は、罪の赦しは神だけができると指摘した(マルコ2:7)。(150)
《感想》 イエスのキャンペーンのテーマである「祝宴、癒し、赦し」がここで再び浮き上がってくるのが分かります。「イエスの癒し、祝宴、それを切実に必要とされている人への赦し、これらすべてが、神が王となられると彼が語った時、いつも聴衆の心に生れただろう大きなヴィジョンの手近な現れなのである。」と結んでおられるのが心に残りました。
「ヨハネとヘロデ」(151-161)
《引用箇所》 しかしヨハネは、彼の従兄弟のイエスこそ、来るべき王であると信じていた!イエスの行動を通して、神はついに王となるーー暴君の圧政を打ち砕き、民を解放する!もしそれが起こるとすれば、まさにうってつけの役割がヨハネにあったのではないか?ヨハネの公生涯のクライマックスは、とどのつまりイエスの宣教を開始させることにあったのだ。イエスを、神の時の人として立ち上がらせることだった。それではなぜ、イエスはヨハネの苦境を知りながら何もしてやらなかったのだろうか?(152-3)
《感想》 この部分の記述は、所謂なぜ、神は悪を放置するのか、議論(所謂神義論?)ともつながる問だと思います。我々は、このような問いをすぐに、それも安易に立てたがる傾向があると思いますが、神のご計画はそれこそは不可知なことでは無いか、と思っております。それが次の部分にもつながっていると思います。そして、今も神は善なのに不善を許すのか、というような問になって、いまも続いているのかなぁ、と思いました。


以上8月中の『シンプリー・ジーザス』第7章ほぼ読了・・・という進捗・経過報告でした。

その他「フリーeBook情報」ということで以下の二つのリンクを紹介しておきました。
 (1) The Gospel According to Acts by N.T. Wright
 (2) Was Jesus a Jew? Discovering the Jewish Jesus


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年8月は、入会2名で、トータル229名となりました。


以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年5月28日日曜日

2017.5 (リアル)読書会報告



[2017/6/2 追記あり]

先日の今年第2回目の読書会について簡単にレポートします。

参加者は今回が初めてという方1名、及びオブザーバーの形の2名を含め全部で8名でした。

用意した「縮小版」の
 ★ Introduction
 ★ A Fresh Perspective?
 ★ Conclusion
の特に「A Fresh Perspective?」を中心に読みました。

残念ながら細かい部分には入れませんでしたが、パウロのユダヤ教の基本的な信念(唯一神・選び/契約・終末)がロマ書のナラティブの土台にもなっていることを確認しながら学びを進めました。

この Paul and Caesar: A New Reading of Romans 論文は、「宗教と政治」テーマのうち具体的には「皇帝崇拝」に焦点を当てています。

「福音を宣言する」ことが暗に「皇帝崇拝」に対する挑戦となってロマ書に反響していることを英文を読みながら理解するのは難しいと言うことで、予め用意しておいた『聖書と物語(The Book and the Story)』から以下の引用を紹介しました。

多神教の権力構造に対する挑戦
 聖書の物語が始めからすべての多神教の政治権力構造に対して批判的であったことは「福音」という言葉に内在するものであり、これは新約と旧約、両聖書に見られるものである。イザヤは、ヤハウェの神がバビロンの偶像を打ち倒したことにより、バビロンのイスラエル支配はもはやなくなったという良い知らせを告げた。イザヤの語るユダヤ世界に深く根ざした新約聖書では、ギリシャローマ世界に対して、ナザレのイエスこそ新しい真の世の統治者であることを語っている。イエスの昇天こそ、全被造物が待ち望んでいた、解放と癒しをもたらす良い知らせである。この声明は「公の真実」か、さもなければ「公の嘘」か、いずれかであり、発言者が自身の内的宗教観を「私的な真実」として語ったものではあり得ない。
 イエスが「神の国」の到来について語ったとき、そのメッセージは時の権力者たちに対し明確な挑戦として語ったといえよう。だからこそ、イエスが十字架に処刑されるに至った理由が、歴史的にも神学的にも理解される。「イエスは主である」とパウロが語った時、それは明らかにカイザルの支配を喚起させる言葉を使っていた。世の支配者は二人並存し得ないのである。(『聖書と物語(The Book and the Story)』※)

キリスト教会の長い伝統では、ロマ書は「義認」や「聖化」の救済論的テーマを中心に読まれることが多く、政治的トピックとしては「13章の国家に対する服従」が限定的に扱われるのが常でした。

しかしロマ書全体は(始まりと終わりの部分を注意して読むと)「異教文化との対抗的」文脈を意識した宣教的な文書であることを意識しながら「皇帝崇拝」のエコー(反響)を文面から読む必要があるのではないか、ということを学びました。

ディスカッションでは(皇帝崇拝と)日本の天皇制との類似点なども話し合われました。

戦中のホーリネス系牧師たちへの迫害のことも話題に出ましたが、治安維持法側からキリスト教信仰が国体を脅かす「政治的含意」を指摘されて(信仰者側が)初めてそのことに気づくとはどういうことか、なども話し合われました。


閉会後は記念写真を撮って散会しました。


(二次会の巣鴨駅前大戸屋でのランチには5名参加しました。こちらでも色々な話題で盛り上がりました。)

[2017/6/2 追記]

上に『聖書と物語(The Book and the Story)』から引用しましたが、ちょうど読み始めた『使徒パウロは何を語ったのか』に適切な文章が見つかりましたので、追加しておきます。
 パウロの福音の歴史的背景をとらえれば、伝統的な宗教史研究における観念的な分類は、あまり役に立たないことがわかります。パウロの「福音」をよりユダヤ教的に理解しようとするなら、その福音は、皇帝礼拝や、「宗教的」であれ「俗的」であれ、あらゆる異教文化と対決するのです。それは、「王ではなく神」というユダヤ人の唯一神信仰のためです。・・・カエサル(またバビロン、ペルシアやエジプト、シリアなど)が王であるという主張に対して、イスラエルの神の主張は戦いを挑むのです。ヤハウェが王であると告げ知らせることは、カエサルは王ではないと主張することなのです。(77-78ページ、強調は原著)

2017年4月5日水曜日

2017.4(リアル)読書会報告

先日の今年第1回目の読書会について簡単にレポートします。

参加者は今回が初めてという方4名を含め8名でした。



(ご覧のように少し人数が多かったので、ティールームではなく工房の方でやりました。しかし思いがけず寒い日となり、エアコンの効きが弱かったため寒い思いをさせてしまいました。)
 
今回のテキスト、Stephen Kuhrt, Tom Wright for Everyone (2011, SPCK)へ、ライトが書いた「序文(Foreword)」(2ページ)のほぼ半分を段落毎に声に出して読み、それからちょっとしたコメントやら意見交換しながら進みました。

今年のテーマは「政治と宗教」ですので、簡単ながら参加者に任意でそれぞれの教会での「政治」問題に対する態度や取り組みはどうであったか話していただきました。

では今回の学びの中心と思える一箇所(一段落)だけ抜粋して少しコメントしてみます。

     But here comes the next wrinkle. 'Going to heaven' isn't really good enough as a description of the Christian hope. Here Stephen Kuhrt has rightly grasped the vision I outline in my big book The Resurrection of the Son of God and the more popular Surprised by Hope. 'New heavens and new earth' is what we are promised - and God has already launched that project with Jesus. God's kingdom isn't 'from' this world, but it is certainly for this world. Our ultimate hope is to be raised from the dead to share in the running of God's new creation. And all that we do by way of Christian, Spirit-led work in the present is a genuine foretaste of that. When we work for the poor, or for victims of a disaster, or whatever, we are not oiling the wheels of a machine that will then drive over a cliff. We are not 'building the kingdom' by our own efforts. Only God does that. But we are building for the kingdom. And that has to be done, as Stephen and his colleagues are attempting to do, in very practical ways at the local level.

(ポイントを大きくした部分は「ライト神学」要約みたいなものかと思います。) 

「キリスト者の働き」とは・・・
(水色と赤でハイライトした部分)「神がイエスにおいてなされたこと=新創造プロジェクト」に連なるものであり、それが御霊によって導かれる働きである限り、「現在の働き」であっても将来の「神の像」として働きを先取りするものとなる。
といった感じでしょうか。

 
蛇足になりますが、個人的に興味を惹いた部分(フレーズ)を2点紹介してみます。

(1) theological scholarship as a kind of scaffolding

 神学的営為を、風雪に晒され傷んだ建物を補修する為の「足場」にたとえています。建物とは教会であり、神学は教会という建物の営繕補修のためにある、つまり「仕える立場」を強調する印象です。

(2) (ライトの) historical as well as theological conscience

What was driving me in this was my historical as well as my theological conscience. I couldn't deny the faith I have always held about who Jesus was and is - God's own son, come to rescue the world and launch God's kingdom - without becoming a different person altogether.... But nor could I deny, as an ancient historian, that it was important to be able to say with conviction that Jesus really did and said what the Gospels say he did and said.
「歴史家」として、同時に「信仰者(神学者)」として、イエスに対するアプローチが二つに分裂してしまうことが耐え難い・・・そういう「良心の重荷」みたいなことを吐露している部分です。

読んでいて、ついルターの「傷んだ良心」 を連想し、さらに北米において「(新)福音主義運動」の指導者であったカールF・H・ヘンリーの、
The Uneasy Conscience of Modern Fundamentalism(1947年)

 を思い出しました。

ところで大事なことを書くのを忘れていました。

スティーブン・カートのこの本、「ライトの神学」を一地方教会のミニストリーに模範的に受肉させるような取り組みとの評価ですが、確かにChrist Church New Malden のウェブサイトをご覧になるといろいろ面白い(大胆な)取り組みが見られますね。 

 

2016年9月5日月曜日

FB読書会 2016年8月報告

9月を迎えました。

『クリスチャンであるとは』をついに読了しました。

以下「訳者あとがき」(337-342)までの抜粋引用とコメント/感想などです。

第16章「新しい創造、新しい出発」

321-3ページ
    それゆえクリスチャンは、怒りにどう対処したらよいかを学ぶよう求められる。どういう理由であれ、誰でも怒ることはある。傷ついたこの世界では避けられない。何かにつけて怒らないためには、いくらかの図太さを身につける必要があるだろう。しかし、問題は怒りを覚えたとき、どのようにしたらよいかである。
    イエスの死は、私たちの赦しを完成した。素晴らしいことである。ならば私たちは、このことを互いに生かしていく必要がある。いつまでも恨んだり、不機嫌になったりする人にならず「お詫びします」と言える人にならなければならない。(一部省略)
  《コメント》
   教会でメッセージにつまずいた、人間関係につまずいた。など自分が傷ついて怒っていることを聞くことがあります。なんでそんなことに怒るのかなと思います が、大抵はその「小さな怒り」を溜め込んだresentmentが多いように感じます。(日本人はわりと溜め込みやすいタイプなのかもしれませんね。浅野内匠頭のように。)
324-7ページ
    「しかし、クリスチャンはユダヤ教徒と共に、性的行為は男女の営む結婚生活のみに限られると主張した。世界の人々は、昔もいまも、それをまったくばかげていると思っている。・・・・別の言い方をすれば、私たちにとっての究極の目標はまさに、からだを抜きにした天でもなく、この地における単純なる生活の立て直しでもなく、全創造の贖いであり、私たちの召しは、自分のからだをもって、後にあずかるいのちを期待する仕方でいまをどう生きるかである。結婚生活における誠実さは、全創造に対する神の誠実さを踏襲することであり、そのあり方を先取りするものである。それ以外の種類の性的行為は、現代社会の逸脱と崩壊を象徴し、体現するものである。
《コメント》
   性に対する問い、本来神が私たちに願っておられる創造の業から性の意味を見出すことが必要であることを改めて理解することが出来た。「全創造に対する神の誠実さを踏襲する」このことを実践することは、聖霊様の助けなくしてはできない。この短文の中にクリスチャンであることを端的に語っている。自分の召しに対し、主イエス・キリストが私たちの罪の贖いの為に救いの道を与えて下さっていることを喜び感謝したい。
329-334ページ
  「クリスチャンであるとは(中略)
   つまり、私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を、イエス・キリストに従って歩んでいく人たちのことである」
 《コメント》
   クリスチャンであるとは「イエス・キリストに従って歩んでいく人たちのことである」というのはよく聞いてきたことです。
   このオーソドックスな答えに沿いながらも、ライトの「クリスチャンであること」の定義の急所は「私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を」だと思いました。
   この「新しい世界」「神の新しい世界」は「創造、堕落、イスラエル、イエス、新時代、新創造」という神の物語においてこそとらえられるものです。そのことが第二部で取り扱われていました。
   この現在進行形の新創造に向かいつつある神の物語という文脈の中でこそ「クリスチャンである」とはなんであるのか、はじめて定義できるというのがライトの主張だったのではないでしょうか。そして、本書を読み終えた後では、私自身がこの物語(世界観)を無視してクリスチャンについて問うこが、そもそも可能だろうか?と考えるようになりました。
「結びとして」 335-6ページ

ここでは読書会の皆さんにアンケートをしました。

 (1)どんな現代訳聖書をよく用いているか
 (2)どんな聖書辞典を重宝しているか
 (3)聖書註解・研究書の中で「これには目を開かれた」というもの

(1)どんな現代訳聖書をよく用いているか

 かなりたくさんの回答があったのですが、上位5つを紹介しておきます。
 新改訳、新共同訳、口語訳、フランシスコ会訳、ESV

(2)どんな聖書辞典を重宝しているか
(3)聖書註解・研究書の中で「これには目を開かれた」というもの

  こちら二つの質問への回答はぐっと減りました、とだけ報告しておきます。

「訳者あとがき」 337-342ページ
   全体像というのは、まさに創世記から黙示録までに見られる神のわざ全体のことです。・・・創造は新天新地へ、アブラハムへの契約は全人類への祝福へ、 モーセの律法はキリストによる律法の完成へ、ダビデの王国はイエスの説く神の王国へ、幕屋はキリストの受肉へ、神の民の脱出はイエスの死と復活へ、エデン の園は神の都へと、壮大でダイナミックな聖書の物語の全体像、尽きることのない豊かな恵みの世界を説き起こしています。(338-9)
《コメント》
   ライトを16年読んできて、上沼先生が↑に要約してくださったものをTKなりに「肝要点」としてまとめると以下のようなものがあると思います。
  (1)「旧・新約聖書」を「通して」読むということ。
  (2)理論と実践
  (3)「救い派(ソテリアン)」からの視点転換
  (4)パースペクティブの変化といっても・・・
大体以上となります。

 さて「次の本は・・・」といきたいところですが、

 9月はまるごとお休みにしたいと思います。

 10月に入ったら「次の本」に何を選ぶか提案したり話し合ったり・・・を開始したいと思います。(その頃には新たなライト翻訳書情報も揃って来ると期待しています。)

 ということで、この約1年半の間、『クリスチャンであるとは』にお付き合いくださりありがとうございました。


8月は、入会1名・退会1名で、トータル202名は変わりません。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年8月1日月曜日

FB読書会 2016年7月報告

(梅雨もあけ)8月を迎えました。

いつものように過ぎた7月の報告です。

『クリスチャンであるとは』の15章と16章を読みました。
もしかしたら7月中に読了するのでは・・・とひそかに期待していましたが、それはできませんでした。

あ、それから前回少し報告しましたが、フォーマットを変えたんです。

2ページずつくらいいろんなメンバーを指名して(オーケーの人に)担当して頂きました。

前回で言うと「280ページ」からこの新フォーマットです。

以下の『抜粋』と『感想/コメント』は全部異なる個人によるものです。


第15章「信じることと属すること


292-3ページ 

「信仰への招き」には真の創造者なる神の愛とイエスが人格を持ってこの世に来られ十字架と復活を通して新しい世界の創造を開始されてことを信じるという面 ともう一つ「赦しへの招き」の面がある。この赦しとは過去を帳消しにし、全くの新しいスタートを差し出す神の恵みを受け止めるようにという招きである。私 たちは神の好意を得ることはできない。しかし、神の赦しの恵みを受け止めること=畏敬と感謝の念を持って一息つくことで、そこから神への応答して感謝に満 ちた愛が心の中に溢れることである。「信仰」という言葉は「忠誠心」や「忠実さ」を示す。イエスはただ一人の真の「皇帝」であり、自己犠牲の愛というしる しによって世界を治めるという「よき知らせ」である。
《コメント》
普段から言葉の意味って本当に大切だと思うんですが、このように言葉の意味からかみ砕いて考えることによって、文章の意味合いの側面が見えてくるのと同時 に、理解が深まることを再確認しました。また、好意を得る努力ではなく、主の恵みに押し出されていく、そこで一息つく場所から押し出されていくということ が印象的でした。
294-5ページ 

イエスの言う「王国」という光に照らして見るならば、【罪】とは、生ける神が私たち人間を、この世界に対しての神のイメージを反映させる存在として創造し たのに、そうしてこなかったこと。元来は「ルールを破る」ことではなく「的外れ」という意味。【悔い改め】とは、本来の造られたところから、いかに自分た ちが離れてしまったかに気づくこと。
そして、信仰によって義とされた私たちは、すべての世界を正すという、復活によってすでに始められた福音の勝利のプロジェクトの一員であることを示すバッジを付けている。
《コメント》
エデン王国の王子として生まれたアダムは、的に外れて目が開け、子孫とともに地を従える働きが困難なものとなった。新王国の王子として復活したヨシュアは、永遠のいのちをもつ新生人たちとともに約束の新世界を創りあげている。
強くあれ、雄々しくあれ、目を覚ませ、福音に生きよ!

296-7ページ 

「神が私たちの父ならば、教会は私たちの母である」
スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンの言葉である。幾つかの聖書の箇所も
そのように語っている(とくにイザヤ54・1を反映している ガラテヤ 4・26-27)
そのことばは、次の事実を強調している。すなわち、生まれたばかりの乳飲み子のように、クリスチャンが1人でいるのは不可能であり、そうする必要もなく、望ましくもない。
《コメント》
カルヴァンのこのことばは、初めてである。非常に新鮮に映った。同時に重みを感じる。家族、家族と「神の家族」だと嫌と言うほど聞かされてきたが、実の所、結局は、神の家族とは言っても、「所詮は、他人の集まりではないか」と、長年密かに思って来た。難儀な問題は血の繋がった家族でないと難しい。「神の家族」の限界を感じて育って来た。・・・どちらも同等に大切にしないと行けないと思う。その上で、神の家族にしか出来ない事柄は教会で育みたい。「互いに学びあう事」は神の家族でないと難しい。いや、不可能である。このような読書会もその一翼を担っていると思う。
298-9ページ 

 礼拝、交わり、そしてこの世界に神の王国を反映させていく働きは、人々の間に浸透 し、また、それから外に広がる。礼拝に基づくことなしに、新鮮で真正な神のイメージを反映させることはできない。同じように、礼拝は交わりを支え、養う。 礼拝なしの交わりは、同好会のようなものにすぐ陥る。そして排他的集団になり、イエスの民が目標とすべきものと反対なものになってしまう。
《コメント》
生産性を上げる鍵が、ライトが言うところの礼拝なのだと思う。真の神を一緒に礼拝することで、自分たちのボスがどんな方かを確認し合い、自分の立ち位置を確認することが可能になる。自分の価値観に合わなくても、あなたの価値観に合わなくても、それがボスの価値観に合っているのならそれでいいのだと、認め合う。認め合うというのはとても難しいことが多いのだけれど、ボスの価値観によってそれができれば、天の御国をこの地に広げているという実感と自信を取り戻 して前進することができる。そこが教会と、この世の集団との決定的に違う点であると思う。
300-1ページ 

モーセは幼いころ、ナイル川の葦の繁る河辺から救い出された。(中略)ヨシュアはヨル ダン川を渡ることを通して、ついに神の民を約束の地に導いた。(中略)これらの物語はさらにさかのぼる。『創世記』第一章にあるように、神の偉大な風か、 霊か、息が、鳩のように水の上をおおったとき、水を分けて乾いた地を呼び出したときのことである。創造そのものが脱出(出エジプト)、バプテスマと共に始まったとも言える。”水を通して新しいいのちへ。”
《コメント》
旧約聖書の創造物語、出エジプト記のモーセ誕生物語、さらにはヨシュア記のヨルダン川通過の物語を、イエス自身の行動と共に現代の「洗礼」に結びつけるこ とは大変重要で、キリスト者として常に意識しなければならないことだと思いました(現状として必ずしも心にとめられていない)。ライトを読んでいて感じる のは「新約聖書」だけで神学や日々の信仰生活が送られてしまうことへの危機感です。だからこそ第二部の「神」の直後に「イスラエル」をもってきているのだ とも思いました。
300-3ページ 

 初めに見たように、イエスは過越し、つまりユダヤ人の出エジプトを記念する重要な祭りを、権威にチャレンジする象徴的な行為の時として選んだ。それが次に何を引き起こすか、知っていたからである。
 その働きの初めに受けたバプテスマ、そして働きの最終段階で注意深く計画された最後の晩餐は、両方ともが最初の出エジプト、つまり水を通り抜けること、 またその背景にある最初の創造そのものを抜け出て、新しく規定された現実、すなわち新しい契約、新しい創造としてのイエスの死と復活を指し示している。
 キリスト教の物語の核心である一度限りの目覚しい出来事が、私たちにも起こる。・・・水を通してイエスに属する新しいいのちへ

第16章「新しい創造、新しい出発 

304-8ページ 

現代のクリスチャンの多くがこの点で混乱していることに、私はいつも驚かされる。「死後の いのちの後のいのち」は、初代教会とそれに続く多くの世代のクリスチャンにとって、当たり前のことだった。これこそ彼らが信じ、教えてきたことだった。もし私たちがそれと異なったことを信じ、教えてきたのであれば、目をこすって聖書のテキスト をもう一度読み直すときだ。 この世界を見捨てることは神の計画ではない。それは「非常によかった」と神が言った世界である。むしろ神は、それを作り直そうとしておられる。そして神が それを実行するとき、神の民のすべてを新しいからだでよみがえらせ、そこに住むようにさせる。これこそ、クリスチャンの福音が約束していることである。そこに住む。そして、そこを治める。ここに、今日ほとんどの人が考慮しようともしない奥義がある・・・
《コメント》
この読書会でも、長く在籍しつつも特に発言もできませんでしたが、折に触れて、ご紹介のものなどは、その都度いろいろ読ませていただき、皆様のご意見を拝読しつつ “but should share in the life of God's new age.”
というライトの言葉を、いまあらためて反芻しています。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(口語訳)この後半の元々の意味はライトによると、 “but should share in the life of God's new age.”と言い換え、このように初期キリスト教徒は受け止めたのだといっていると。そしてこれが、天と地が重なり合うことと、神の 未来が私たちの現在と重なり合うこと・・の理解に深く関わってくることなのだと、そしてやっと少しづつでも、ライトについての文章や、翻訳書籍がいろいろと出版されてきていることも、あらためて、しみじみ感慨深く思わされました。
308-9ページ 

……そうなるとクリスチャン倫理とは、はるか彼方にいる神が公布した、どこか恣意的なところのある行動規範に苦労しながら従う、という意味になってしま う。「罪」についても、この発想から、「律法を破る」という理解になってしまい、「救い」も、聖なる存在の定めに従わない人間に下される「罰からの救い」 というものになってしまう。多少キリスト教的な響きはするが、こうした理解もまた、じつはクリスチャンのものではない。
《コメント》
なかなか挑戦的な言葉であると思います。でも、私たちはそう言われてやっと初めて「あぁ、じゃあいったいクリスチャンとはどういうことなのか?」と問い直せるのかもしれません。この部分を考えていて使徒17章のペレヤの人々の姿を思い出しました。彼らはパウロとシラスの語ることを聞いて「果たしてその通りかどうかと毎日聖書を調べた」。私の今まで信じていたことは「はたしてその通りか」、そしてライトさんの言うことは「はたしてその通りか」、虚心に問い直したいなと思いました。
310-1ページ 

クリスチャンの倫理とは、この世界がどうなっているかに目を向け、それに合わせていくことではない。それは、神に喜ばれるために何かをする、というのでもない。また、はるか昔のほこりまみれのルールブックに従うことでもない。それは、神の新しい世界でやがて歌うことになる曲を、いまここで、練習することにほかならない。
《コメント》
わたしはバンドをやっています。本書を通して出てくる音楽のたとえには、身体的に、というか経験的に、というのか感覚的に、なのか、「なんとなく言っていることがわかる気がする」感があります。・・・わたしには「神の新しい世界でやがて歌うことになる曲を(中略)練習する」のにもイメージが必要です。主は楽譜を用意してくださっているわけではありません。わたしがいつか主にお会いするときに、何のためらいもなく歌うべき歌を歌えるように準備しておくということは、その歌の主題についてわたしがなんらかのイメージを掴み、それをお腹の中に蓄えて、何回も繰り返して反芻して歌にしていく過程が「いまここで」行われていなければならないということになりま す。
312-3ページ 

クリスチャンとして生きることは、キリストと共に死に、キリストと共にもう一度よみがえることを意味する。それは……バプテスマが意味する根底にあるものであり……
《コメント》
(幼児洗礼について)ライトは英国国教会ですが、やはりバプテスマが意味するものを考えていくと、キリストとともに死んで生きることを正しく象徴しうるものは、信仰者のバプテスマ以外にあり得ないように思われます。本書の前後を読んでみても、これ以外の考えは思い浮かびませんでした。
314-5ページ 

こうした規則は次のように理解されるべきである。それらは、はるか遠くにいる神が私たちの楽しみをやめさせようと勝手に定めた律法ではない(あるいは試験 をするかのように、私たちに飛び越えさせようと並べた道徳的なハードルでもない)。それは、天と地が重なり合い、神の未来が現在に侵入し、本物の人間らし い生き方とは具体的に何であるかを見いだす指針なのである。
《コメント》
私はある時期、そういう状態で表面だけさらっと聖書を読んで、「規則<ルール>」が目についてばかりいた時期がありました。正直なところ、わからない、納得ができないことだらけで。そのときの私の頭の中と言えば、こんな感じです。「ああ、あれも従えなかった」・・・
ライトは、規則のことを「私たちの楽しみをやめさせようと勝手に定めた律法ではない」と書きました。これはそのときの自分が理解できていなかったことだなと、その頃を振り返って思いました。
316-7ページ 

生ける神は十字架の上で、この世の怒りと暴力をご自分の上に引き受けられた。圧倒的な不義のゆえに苦しまれたが(物語はこのことに注意深く焦点を合わせている)、それでも、おどしたり、呪ったり、暴言を吐いたりすることはなかった。クリスチャンが『贖罪の神学』と呼ぶものの中心は、イエスが悪の重みのもとで死んだとき、ある意味で、その悪の根本的な力を消耗し尽くし、もはや悪の力が他に及んだり働き続けたりしないものにした、という信仰である。
イエスの復活は、新しい型の義が可能になった世界の始まりである。
《コメント》
イエス・キリストの十字架と復活が悪の力を飲み込み、神の義の現し方を示しているというライト師の指摘は、自分がライト師の文章を読むようになってから、 多くを教えられているところです。かつては十字架と言えば、自分の罪を赦すために必要な死、というように、とても自分中心な考え方でしか見ることができませんでした。しかし、ライト師が十字架には、イエスが悪に打ち勝たれたという意味もあること、そしてそれこそ贖罪の神学の中心だと指摘することから、十字架を違った視点から見ることを教えられています。
320-1ページ 

義への渇望は、あまりにもすぐ私の権利、もしくは私たちの権利の要求へと成り下がってしまう。親切にしなさいという命令は、自分の時間を自分自身、自分の必要、自分の義、自分が不当に扱われたのを正すために使うのではなく、他の人たちの必要、楽しみ、痛み、喜びに目を向けることを求める。親切にすることは、人間として成長し、豊かな深い関わりを築き、維持するうえで最も重要なことである。
《コメント》
ライト氏は、人間関係の良き関わり方のキーワードとして、「積極的な親切」をあげています。これも単なる「あの人はクリスチャンだから親切ね」という程度のものではなく、創造者なる父のまなざしを思い起こすとしっくりきます。・・・神に造られた者としてなすべきことは、造られた人々、自然に対し、造られた目的を果たすことができるよう大切に育てること、ケアしあうこと、神の作品として互いの存在を喜ぶことであると認めるとき、「互いに対する積極的な親切」という言葉が心にすっと入ってきます。

 
大体以上となります。


今月は他の投稿はなかったですが、神戸で開催される「第6回日本伝道会議」の9月28日午後の分科会「神学ディベート ―N.T.ライトの義認論―」のことが案内されました。

その後このブログでも紹介されたとおりです。


7月は、入会4名で、トータル202名となりました。
 
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年7月5日火曜日

FB読書会 2016年6月報告

7月を迎えました。

いつものように過ぎた6月の報告です。
『クリスチャンであるとは』の13章から15章を読みました。

6月中に「フォーマット」を変え、「指名制(強制ではありません)」でより多くのメンバーに担当してもらえるようにしました。15章から導入しています(結果はご覧のように上々です。)

第13章「聖書

255-7ページ
 そのように [聖書がインスパイアリングな書物であるように] 見ようとする人は、おそらく意図的にそのことを選択肢<1>の世界観に押し込めようとしているのだ。
 一方、「聖書の霊感」という考え方を擁護してきたかなり多くの人が、聖書を選択肢<2>の枠組みで見てきたのも事実である。それは、純粋な「超自然的」介入によって起きたと考え、著者の意図などまったく認めない。
257-8ページ  
 神がご自分の世界で働こうとするとき、神のかたちを担う被造物である人を通して働こうと願っているということである。しかも、できる限り人との知的 [intelligent] な協力体制を望んでおられるので、・・・、ことばを、またことばを通したコミュニケーションを中心にしたいと望まれている。
 すなわち聖書は、単なる啓示を証言しているのでも、それを反映しているだけのものでもなく、むしろ啓示そのものであり、神の啓示の本質的な部分として広く教会で扱われてきたのである。
258-9ページ


 ・・・神の召し出した民が、その務めを果たすためのエネルギーの提供である。聖書の霊感について語るとは、そのエネルギーが神の霊の働きからくることを表現する言い方の一つなのである。
 言い方を換えれば、聖書は、物事を調べ上げたり、正しく理解したかを確認する単なる参照資料ではない。それは神の民を整え、神の新しい創造と新しい契約 の目的を果たさせるのである。また義のわざに就かせ、霊的なあり方を保たせ、すべての面での関わりを築き、推進させ、神ご自身の美しさをもたらす新しい創 造を生み出すためである。

259-60ページ
 そのため私は、聖書に関して「無謬」、また「無誤」という用語を用いることについては不満はないが、個人的にはそれを使わないようにしている。私の経験では、これらの用語についての議論は多くの場合、・・・あらゆる種類の理論の世界に引き込んでしまう。

第14章「物語と努め

262-4ページ 
聖書は一言で言えば、少し異なりはするが愛の物語(ラブ・ストーリ)である。聖書の権威とは、そこに加わるように招かれている愛の物語という権威である。(p.252)
ということは、「聖書の権威」に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中には、共同体としても、個人としても、自分たちを浸 すことである。それはまさに、クリスチャンの指導者たちと教師たち自身が、そのプロセスの一部になることであり、聖書を読む共同体の<中だけ>ではなく、 その共同体を<通して>、より広い世界の中で、世界のために神が働かれているプロセスの一部にならない、ということでもある。(p.264)
《コメント》
>「聖書の権威」に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する
ってところにつながってくるように思いました。・・・演じる舞台は、教会の中だけではなくて、キリスト者が生きている現実世界だ、ということになるのでしょう。
一部では、この神の役割を果たす場所が、教会、とりわけ日曜日の教会でなければならない説をとる方々もおられるようなのですが、そうでないぞ、とライトさんは私たちに迫っているようかのように思いました。
265-6ページ 
神は確かに、聖書を通して語られる。聖書を通して教会に語り、さらに神の助けにより、教会を通して世界に語られる。この両面が大切である。ここでもその考 え方を、天と地の重なりという見方から見てみるなら、よりいっそう理解できる。また神の未来の計画が、イエスにおいてすでに私たちに届き、神がすべてを新 しくする日のために、今もそれを遂行しておられることを考えるなら、よりいっそう理解できる。
聖書を読むということは、祈ったり、典礼を分かち合ったりするのと同様、天のいのちと地のいのちが結ばれる手段の一つである。(p.265
267ページ 
聖書のことばから神の声を聴くとは、誤りのない見解を聞くことではない。
268-9ページ 

イエスについてクリスチャンが信じていることは、こう生きなさいという招きのナラティブを生み出し、さらにその物語に生きることで、この世界での具体的使 命への招きを生み出すということなのである。そして、知的な、思慮深い、神の似姿を担う人間としてその使命に従おうと追及する人を、神は聖書を通して支 え、方向を示す。

270-1ページ 
決定的に重要なのは、聖書は神とイエスと世界についての正しい情報の単なる収納庫ではなく、むしろ、生ける神がご自分の民として私たちと世界を救いだし、 新しい創造の旅へと送り出し、その旅の途上にあっても、聖霊の力によって、私たちを新しい創造の担い手とするための手段の一部だということである。 (pp.270-271)

272-3ページ 
真理は(神に感謝すべきことに)、それよりさらに複雑である。というのは、神の世界はそれよりももっと複雑で、事実、更に興味深いものだからなのである。(p.273)
《コメント》
真理は複雑、というのは大事かなぁ、と思います。・・・無理やり平板化された真理が大手を振って歩くふしがあり、それが問題を複雑にするような気がします。 そして、「文字どおり」と「比喩的」が2種類を指して使っており、それはキリスト者にも影響しているのが、更に問題を複雑化させているのではないか、という指摘です。
274-5ページ 
「文字どおり」という言葉が「具体的・具象的」という意味になり、「比喩的」とは「抽象的」、あるいは具体的・具象的とうい意味と反対の意味を負うようになる(例えば「霊的」のように。そうなるとますます混乱が起きる。)
聖書の物語全体のポイントの一つは、神がこの世界を愛し、救いだそうとしていることであり、現実の歴史の具体的事柄を通して、その計画を実現し、それを神の民の具体的生活やわざを通してなそうとしていることなのである。(p.275)
276-7ページ 
二番目に強調しておきたいことは、聖書を読む人、注解者、説教者の誰もが、ある特定の文章について、どの部分が「文字どおりの意味」の具体的現実であるか を問う前に、どの部分が「文字どおりの意味」で、どの部分が「比喩的意味」で、どの部分が両方の意味を持っているかを調べる自由がある、ということであ る。当ことは、前もって、「聖書のすべてを文字どおりにとらえるべきだ」と決めたり、前もって「そのほとんどを比喩的にとらえるべきだ」とするような単純 な決めつけはできない、ということである。(p.276)
278-9ページ 
即ち、聖書はまぎれもなく神から教会への贈り物であること、それは教会を整えてこの世界のために貢献するようにさせるためである。そのため、聖書を真剣に 学ぶことは、天と地がかみ合い、神の未来の目的が現在に到来する一つの手立てなのであり、またそうすべきだということである。(p.279) 

第15章「信じることと属すること

280-7ページ
 

個人的な霊的成長や究極的な救いは、むしろ副産物なのであり、神はより包括的で中心的な目的のために私たちを召しているのだ。その目的は明確である。それ は新約聖書のいたるところに記されている。すなわち神は、まさに知恵と愛に富んだ義なる創造者であり、世界を腐敗させ、隷属させている力を、イエスを通し て滅ぼしたこと、そして聖霊によって世界を癒し、刷新するために今も働いていることを、教会を通して世界に広く知らせようとしていることである。
《コメント》
クリスチャン信仰とは個人的なものだが本来「教会」という全体のためにある。また教会は家族のように(互いを兄弟姉妹と呼ぶように)親しい交わりがあるが、同時に外からの異なる人たちをも受け入れていかなければならない。
287-9ページ 
初期のクリスチャンは実際、復活こそが人類のすべてに必要なことだと信じていた。それは、いずれ終わりの時がきて、神が世界を新しくする日のためだけにで はなく、現在の生活において必要なことなのである。神は終わりの時に新しいいのちを与えてくださる。それに比べれば、現在の生活は単にその影にすぎない。 神は、究極の新しい創造においてこそ、新しいいのちを与えようとしている。しかし、新しい創造はすでにイエスの復活によって始まっており、神はいま、現在 のこのとき、私たちがその新しい現実に目覚めることを願っておられる。(289) 
《コメント》
もし、新しい創造が始まっていて、新しい現実が拡大しているのであれば、様々な分野において働いている、目覚めたキリスト者が各々召されている場所で、その現実に気づき、発見していく生活を送れるのではないだろうか。仕事場や、導かれた場所で、福音を語ることのほかに、その仕事や、場所が、天と重なり合 い、かみ合うことを、もたらすのもキリスト者であり、そして新しい現実に気づき、体験し、分かち合うことが福音を生きることではないだろうか。そうであるならば、すべてのキリスト者がパイオニアであり、宣教師であることに納得できる。
290-1ページ 
私たちは現在、キリストの光を受けながら闇の中で生きている。それゆえ、ついに太陽が昇るときには、その準備ができている。描写を変えると、やがてその日 がきて神が私たちを呼び出し、最高傑作の絵を完成させる時に至るまで、いま私たちは盛んにその素描を描いている最中だと言えるだろう。まさにそれが、福音の呼びかけにクリスチャンが答えるということである。(290)
《コメント》
ライトは、将来完成される最高傑作の下絵(素描)を私たちがすでに描き始めているのだと語っています。私たちクリスチャンが描いているなんとも拙い下絵 (現実の姿、教会の有様)だけを見ていると、これが将来どのようにして、神の最高傑作(神の王国)として完成されるのだろうかと戸惑いを覚えますが、ライ トの視点は優しいですね。

様々な欠けや痛みを抱えて生きている私たちですが、神はそのような私たちであっても、これから完成される最高傑作の共同制作者としてご覧になっておられる、そう語っているように聞こえます。
大体以上となります。


6月は、入会3名で、トータル201名となりました。
  

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年6月3日金曜日

FB読書会 2016年5月近況

5月を迎えました。

いつものように過ぎた月の報告です。

『クリスチャンであるとは』が出版されてから約1年が経ちました。

最初は原書 Simply Christian でスタートしましたが、途中で訳書の方に切り替えました。

読書ペースはいくらか上昇中。(既に13章に入っています。)

第11章「礼拝

218-9ページ

 共にパンを裂き、ぶどう酒を飲むときは、イエスの死の物語を語っているのである。それほどに単純なことである。
 ・・・それは理論ではない。私たちの罪のために死んでくださったのは、私たちを救い出すためであった。理念は重要ではあるが、それを提供するためではない。

219-20ページ  
 パンを裂き、いただくことで、神の新しい創造を味わうのである。すなわち、イエスがその原型であり起源である、新しい創造なのである。
 このことが、イエスが「これはわたしのからだである」「これはわたしの血である」といった理由の一つである。その核心に触れるために、長いラテン語名の ついた形而上学の凝った理論は必要ない。それはイエス、実在するイエスであり、いまも生きているイエスのことである。天に住み、同時に地をも治めているイ エスであり、神の未来を現在にもたらすイエスである。
221-3ページ
 つまり、どのようなことであろうとも、礼拝中に決まってなされることは、それ自体が目的となった儀式行為になり得る。同様に、礼拝中に決まってなされることでも感謝を表わす純粋な行為や、無償の恵みに対する喜びの行為になり得るのだ。
 このような不毛な議論は、天と地、神の未来と現在という組み合わせの二つが、イエスと霊にあって一つとなるという、大きな絵図から礼拝を考えることで乗り越えられると私は信じている。
第12章「祈り

225-8ページ 
 この祈りはすべての点で、イエス自身の行ってきたわざを反映している。・・・その祈りは何といっても、とりわけイエスに関わる [Jesus-specific] ものである。
 この祈りは、祈っている私自身も、イエスの宣べ伝えた神の国運動の一員になりたいという意思表明である。
 いずれにしても [主の祈りを] 用いたいと思うやり方で用いるのがよい。
《コメント》
 ライトが言っているように、主の祈りは弟子たちのものであるより前に、Jesus-specific なものであり、イエスが繰り広げた宣教の文脈に密接に関わっていて、福音書を繰り返し読んで「神の国」宣教の全体像がおぼろげに頭に描けるようになったと き、「主の祈り」のことばがより的確な祈りの言葉として意識できるようになった気がする。
《感想》
私も「主の祈り」は子供のころから暗記している祈りですが、それは現実の中で「生きた祈り」ではなかったように思えます。ライトの本を通して「御国が来ます ように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」が私のうちで未来形でなく、現在完了形になったことは全く新しい体験(新しい創造)で す。

228-30ページ 
私は、天と地が重なり合う地点で生きることに召されている。(p.229)
クリスチャンの祈りは、この2つのときが重なり合うところに自分たちがいて、自分たちも新しい誕生の陣痛で苦しむ創造物の一部であることに気づくときに、その特徴が最も表れ出てくる。(p.229-230)
230-3ページ 
 それ [理神論者の祈り] は、孤島に置き去りにされた船乗りが、メモを書いた紙を瓶に入れ、海に放し、誰かが見つけてくれるまで待つようなものだ。
234-8ページ 
 私たちはいまだに、一方でロマン主義、他方で実存主義の遺産によってがんじがらめにされている。そのために、誰にも指示されることなく、自分の心の深みから生まれる自発的な祈りだけが本物だという発想が出てくる。

238-40ページ 
この祈りについて、それが何を意味し、どのように用いられ、どこに導かれていくものなのか、これまで多くのことが書かれてきた。一見、堅苦しい感じがする が、それほどでもない。憐れみを求めて祈るのは、「悪いことをしたので赦してください」ということは意味しない。それはもっと広意味での嘆願である。自分 は神の憐れみを受けるに値しない、決して値しないものだが、あらゆる状況で、神の憐れみ部会臨在と助けを送ってください、と神に祈ることである。
《上記引用の解説》
ここでは、正教会で用いられる、イエススの祈りが出てきます。
日本ハリストス正教会では、
主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え。
英語
Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner.
Lord have mercy.
が紹介された後、次のような記述が続きます。



240-2ページ 
もうおひとつ用いるこのできるものがある。先に紹介したのと同じように、初代教会で用いられていたと思われるものだ。古代から現在のユダヤ教に至るまで、 それは毎日3回祈られてきた。このように始まる。「聞け、イスラエル、ヤハウェは私たちの神。ヤハウェは唯一である。心を尽くしてあなたの神、ヤハウェを 愛せよ」。『申命記』第6章4節から始まる言葉から採用されたものである。シェマーの祈りとして知られている。ヘブル語の『シェマー(聞け)』から始まる のでそう呼ばれる。これが祈りだとは驚きかもしれない。命令を共なった神学的宣言のように見えるからっである。それは会衆に教えるためではない。礼拝で聖 書朗読がなされるように、神がなしたことを賛え、ヤハウェは真に誰であるか、その契約の神が何を望まれているかの宣言であり、それ自体が祈りであり、礼拝 と献身の行為なのである。
《コメント》

特にここで気になった記述は、
礼拝で聖書朗読がなされるように、神がなしたことを賛え、ヤハウェは真に誰であるか、その契約の神が何を望まれているかの宣言であり、それ自体が祈りであり、礼拝と献身の行為なのである
という部分であり、聖書そのものを祈りに使う、ということです。
242-4ページ 
 私は、同僚との関係で大変困難に陥った時、霊的指導者の勧めで解放されたことを良く覚えている。それは、「主の祈り」を唱えることと、その祈りのそれぞれ の部分を、特にその同僚に当てはめて思いめぐらすことだった。書物、リトリートでのリーダー、友人、牧師は、それぞれ助けになる。
 クリスチャンの祈りには、さらに他の仕方もある。ある人にとって異言で祈ることは、具体的に何を祈ったらよいかわからない時、あるいは、あまりに明白な課 題やそのことで圧倒されて、どう祈ったらわからない時に、その状況や人々の必要を想いながら神の前に出るのに役立つ(もう一度、『ローマ人への手紙』第8 章26~27節に戻ってほしい)。沈黙の祈りはかなりの人にとって実行が難しく、それを継続して行うとなると、ほとんどの人には困難である。しかし、よい 意味での暗闇のように、信仰と希望と愛の種が人知れず芽生える土壌となる。

第13章「聖書

245-6ページ
 

 聖書を手にするとき、自分にこう言い聞かせる必要がある。いま私は、世界で最も有名な書物を手にしているだけではなく、人生を変え、社会を変え、世界を変え得る偉大な力を持つ書を手にしているのだと。
 聖書は、クリスチャンの信仰と生活にとって決定的で不可欠な要素である。

246-7ページ 
 今日、聖書についての論争がある。・・・兄弟争いである。
 だが、聖書の持つ可能性のすべてをあなたを通して、あなたのうちで活用させないとしたら、手を固く閉じてピアノを弾いているようなものだ。
248-9ページ 
 事実から始めよう。
 初期のクリスチャンの記述の多くは、旧約聖書としっかり結びつけられ、それを引用したり、反映させたりすることで、自分たちがその契約刷新を受けとる存在、すなわち「新しい契約(新約)」の担い手であることを明確にしている。
 またその問いとは、ユダヤ人にとっての聖書を、イエスにあって「契約(カベナント)」が刷新されたことを心から信じている者たちが、どのように理解し、どう適用するかである。
《コメント》(コメント欄に紹介したある「聖書入門」動画で久し振りに賑やかなスレッドになった。)

249-50ページ 

 その正式に認められたものを、ギリシャ語で「キャノン(正典)」という。
 旧約聖書の原典に関する知識は、死海写本の発見によって極めて豊かなものになった。

251ページ

 残念なことに、多くの人は外典を実際に読んだことがないばかりか、これらの書に議論があったことをほとんど知らない。
251ページ 
 パウロの手紙は、紀元40年代の終わり50年代に書かれた。ただし、パウロの名前がついた手紙のすべてをパウロが書いたかどうかは議論が続いている。
252-3ページ 
 それらを研究することは比較にならないほど聖書本文の信頼性を高める。すなわち、写本にあるわずかなことばの違いから、原典がどうだったかを見極めることが可能なのだ。 
253-5ページ 
 このように、聖書の構成、集大成、普及の歴史を語ることは必要なことである。・・・その「決定的に大切なこと」について、次に取りかかるとしよう。

大体以上となります。


メンバーによる(主にライト関連の)様々な情報や報告が寄せられるが、(5月中のものから)その一つを紹介。

 (1)ライトのオンライン講座の受講レポ
「・・・ 今回はWorlviewについての学びでした。
アメリカ人の物の見方と英国人の物の見方の対比から(大変な違いに気づきました)、ローマ人とユダヤ人の世界観に入ってゆきました。
 一回、二十分ぐらいの講義に、質問やダイアグラムやレスポンスなどがあります。
 それにしても、ビデオメッセージを見ながらこれほど引き込まれるとは思いませんでした。
 何とも言えない感動です。一挙に四回分聞いてしまいました。まだまだ続きます。後が楽しみです。」


5月は、入会2名、退会1名で、トータル198名となりました。
 
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年5月1日日曜日

FB読書会 2016年4月近況

5月を迎えました。

いつものように過ぎた月の報告です。

『クリスチャンであるとは』の読書ペースはまだまだゆっくりです。(でも11章に入りました。)

第10章「御霊によって生きる

194-5ページ

 聖霊の働きの特徴的なしるしの一つはまさに、神の親密な臨在感である。
 それはいわゆる、「魂の暗夜」といわれるもので、祈りの生活の神秘を深く探求した人によって伝えられている。
195-6ページ  
 イエスに従う者たちは、古い世界のルールよりも、新しい世界のルールで生きるように召されている。  そうなると苦しみは、実際の迫害という形をとることがあるかもしれない。
 しかし苦しみは、他にも多くの形をとってやってくる。
197-8ページ
 イエスをしっかりと見てほしい。とくに、イエスがみずから死に立ち向かうときのことを見てほしい。  そして神は、真の神とは、ナザレのイエス、イスラエルのメシア、世界のための真の主の内に見られる神である。
 [コメント] 最初の引用の言葉から連想した賛美歌が二つあります。
 「まぶねのなかに」(由木康、1923)
 「Turn Your Eyes Upon Jesus」(Helen H. Lemmel, 1922)
 [コメントへのリプ] ちようど、物事をよく見る目が大事だという短いエッセイを今朝読んだばかりで、シンクロしました。よく見る目は、よく聴く耳、よく考える頭につながると思います。いかにボーっとしか見てないことか。中でもイエスに目を注ぐ大事さを想いました。
198-200ページ
 しかしながら、神についてのクリスチャンの教理が、賢い知的な言語ゲームとか、心理 [mind] ゲームのような印象を与えてしまうのは間違いである。クリスチャンにとってそれは、つねに愛のゲームである。
 ・・・聖霊を理解する手がかりの一つは、父が御子に対して、また御子が父に対して抱く人格的な愛として、聖霊を理解することである。
第11章「礼拝

203-4ページ 
 先見者であるヨハネは、自分の見た幻をそこに描いているが、それは壁にとまっているハエのようにして、神の王座をこっそりのぞき見しているかのようである。
 時には、その間の境界線は薄い幕のようで、ある人たちには、ときおりその戸が開かれ、カーテンが開かれ、私たちのいるこの世界の人も、神の臨在しておられる場で起こっていることを見ることができる。
204-6ページ 
礼拝とは、あるもの、もしくはある存在に価値があることを、文字どおりに認めることを意味する。  動物たちは途絶えることなく神を讃える。そこに人間たちが加わる。人間たちの歌はさらに豊かである。なぜなら、言いたいことがたくさんあるからだ。
 人間は、なぜ神を誉め讃えるべきか、また、なぜ神を誉め讃えたいかを知っている。神が万物を造られたので、神を誉め讃えるのだ。
207-8ページ 
さらに、偉大なオラトリオのように、四方から聖歌隊が加わり、御使いたちが歌う。
 ほふられた子羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉と、
 栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。

そして最後に、「天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物」が賛美に加わる。
 御座にすわる方と、子羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。
 これこそ、まさに礼拝である。造られたものがみずからの造り主を認め、子羊の勝利を悟って、創造主なる神と救い主である神に向けられた賛美の雄たけびである。それが天において、神のおられるところで、つねになされている礼拝なのだ。
 [コメント] 礼拝というと、教会でやる儀式にばかり意識が行くことが多いのですが、実は、神の存在を認め、造り主を認め、子羊の勝利を悟って、創造主なる神と救い主である神に向けられた賛美ということをもう少し、考えた方がいいかもしれないなぁ、と思いました。
209-212ページ 
 しかし、真の神、創造者、贖い主を礼拝するためのチャンス、招き、召集が、私たちに差し出されている。真の神を礼拝することは、いっそう真の人間になるためなのである。
212-14ページ 
 私たちは神を、この世界の創造において、イスラエルの歴史を通して、とくにイエスのうちになされたことを通して知る。クリスチャンの礼拝とは、この神を、それらをなさった方を賛えることである。神によるそれらの出来事を記録した場所は、もちろん聖書、バイブルである。
 ・・・聖書を声をあげて読むことが、つねにクリスチャンの礼拝の中心となるのだ。 
214-5ページ 
 私たちは神を、この世界の創造において、イスラエルの歴史を通して、とくにイエスのうちになされたことを通して知る。クリスチャンの礼拝とは、この神を、それらをなさった方を賛えることである。神によるそれらの出来事を記録した場所は、もちろん聖書、バイブルである。
 ・・・聖書を声をあげて読むことが、つねにクリスチャンの礼拝の中心となるのだ。
 [コメント] ミサでは旧約、使徒書、福音書から一か所づつ暦に則って読まれますが、「印刷された聖書の文字を追うな、まず聞け、古代にはみんな礼拝では読んでいなかった」ということを言う司祭がいました。ちなみに、基督教は目よりも「耳」の宗教だと思っています。
215-6ページ 

 『詩篇』は無尽蔵である。それを読み、語り、歌い、詠唱し、口ずさみ、暗記し、大声で叫ぶことすらしてきた。・・・『詩篇』は私たちの感じるすべての感 情を表わしている。時には、そのように感じたくないと思うものさえ表現している。そんな感情でさえ、そのまま公然と神の前に差し出している。

216-7ページ

 そこに書かれていることをすべて理解することはできない。もちろん謎や疑問もある。
 『詩篇』を有効に用いているだろうか。その周辺をぐるぐる回るだけでなく、深みに入っているだろうか。

4月は、『新約聖書と神の民 上巻』講演会と、雑談会があり結構充実した月でした。
 

3月の入会者数は4名で、トータル197名となりました。
 
 

 以上、簡単ではありますが、ご報告まで。