2016年8月1日月曜日

FB読書会 2016年7月報告

(梅雨もあけ)8月を迎えました。

いつものように過ぎた7月の報告です。

『クリスチャンであるとは』の15章と16章を読みました。
もしかしたら7月中に読了するのでは・・・とひそかに期待していましたが、それはできませんでした。

あ、それから前回少し報告しましたが、フォーマットを変えたんです。

2ページずつくらいいろんなメンバーを指名して(オーケーの人に)担当して頂きました。

前回で言うと「280ページ」からこの新フォーマットです。

以下の『抜粋』と『感想/コメント』は全部異なる個人によるものです。


第15章「信じることと属すること


292-3ページ 

「信仰への招き」には真の創造者なる神の愛とイエスが人格を持ってこの世に来られ十字架と復活を通して新しい世界の創造を開始されてことを信じるという面 ともう一つ「赦しへの招き」の面がある。この赦しとは過去を帳消しにし、全くの新しいスタートを差し出す神の恵みを受け止めるようにという招きである。私 たちは神の好意を得ることはできない。しかし、神の赦しの恵みを受け止めること=畏敬と感謝の念を持って一息つくことで、そこから神への応答して感謝に満 ちた愛が心の中に溢れることである。「信仰」という言葉は「忠誠心」や「忠実さ」を示す。イエスはただ一人の真の「皇帝」であり、自己犠牲の愛というしる しによって世界を治めるという「よき知らせ」である。
《コメント》
普段から言葉の意味って本当に大切だと思うんですが、このように言葉の意味からかみ砕いて考えることによって、文章の意味合いの側面が見えてくるのと同時 に、理解が深まることを再確認しました。また、好意を得る努力ではなく、主の恵みに押し出されていく、そこで一息つく場所から押し出されていくということ が印象的でした。
294-5ページ 

イエスの言う「王国」という光に照らして見るならば、【罪】とは、生ける神が私たち人間を、この世界に対しての神のイメージを反映させる存在として創造し たのに、そうしてこなかったこと。元来は「ルールを破る」ことではなく「的外れ」という意味。【悔い改め】とは、本来の造られたところから、いかに自分た ちが離れてしまったかに気づくこと。
そして、信仰によって義とされた私たちは、すべての世界を正すという、復活によってすでに始められた福音の勝利のプロジェクトの一員であることを示すバッジを付けている。
《コメント》
エデン王国の王子として生まれたアダムは、的に外れて目が開け、子孫とともに地を従える働きが困難なものとなった。新王国の王子として復活したヨシュアは、永遠のいのちをもつ新生人たちとともに約束の新世界を創りあげている。
強くあれ、雄々しくあれ、目を覚ませ、福音に生きよ!

296-7ページ 

「神が私たちの父ならば、教会は私たちの母である」
スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンの言葉である。幾つかの聖書の箇所も
そのように語っている(とくにイザヤ54・1を反映している ガラテヤ 4・26-27)
そのことばは、次の事実を強調している。すなわち、生まれたばかりの乳飲み子のように、クリスチャンが1人でいるのは不可能であり、そうする必要もなく、望ましくもない。
《コメント》
カルヴァンのこのことばは、初めてである。非常に新鮮に映った。同時に重みを感じる。家族、家族と「神の家族」だと嫌と言うほど聞かされてきたが、実の所、結局は、神の家族とは言っても、「所詮は、他人の集まりではないか」と、長年密かに思って来た。難儀な問題は血の繋がった家族でないと難しい。「神の家族」の限界を感じて育って来た。・・・どちらも同等に大切にしないと行けないと思う。その上で、神の家族にしか出来ない事柄は教会で育みたい。「互いに学びあう事」は神の家族でないと難しい。いや、不可能である。このような読書会もその一翼を担っていると思う。
298-9ページ 

 礼拝、交わり、そしてこの世界に神の王国を反映させていく働きは、人々の間に浸透 し、また、それから外に広がる。礼拝に基づくことなしに、新鮮で真正な神のイメージを反映させることはできない。同じように、礼拝は交わりを支え、養う。 礼拝なしの交わりは、同好会のようなものにすぐ陥る。そして排他的集団になり、イエスの民が目標とすべきものと反対なものになってしまう。
《コメント》
生産性を上げる鍵が、ライトが言うところの礼拝なのだと思う。真の神を一緒に礼拝することで、自分たちのボスがどんな方かを確認し合い、自分の立ち位置を確認することが可能になる。自分の価値観に合わなくても、あなたの価値観に合わなくても、それがボスの価値観に合っているのならそれでいいのだと、認め合う。認め合うというのはとても難しいことが多いのだけれど、ボスの価値観によってそれができれば、天の御国をこの地に広げているという実感と自信を取り戻 して前進することができる。そこが教会と、この世の集団との決定的に違う点であると思う。
300-1ページ 

モーセは幼いころ、ナイル川の葦の繁る河辺から救い出された。(中略)ヨシュアはヨル ダン川を渡ることを通して、ついに神の民を約束の地に導いた。(中略)これらの物語はさらにさかのぼる。『創世記』第一章にあるように、神の偉大な風か、 霊か、息が、鳩のように水の上をおおったとき、水を分けて乾いた地を呼び出したときのことである。創造そのものが脱出(出エジプト)、バプテスマと共に始まったとも言える。”水を通して新しいいのちへ。”
《コメント》
旧約聖書の創造物語、出エジプト記のモーセ誕生物語、さらにはヨシュア記のヨルダン川通過の物語を、イエス自身の行動と共に現代の「洗礼」に結びつけるこ とは大変重要で、キリスト者として常に意識しなければならないことだと思いました(現状として必ずしも心にとめられていない)。ライトを読んでいて感じる のは「新約聖書」だけで神学や日々の信仰生活が送られてしまうことへの危機感です。だからこそ第二部の「神」の直後に「イスラエル」をもってきているのだ とも思いました。
300-3ページ 

 初めに見たように、イエスは過越し、つまりユダヤ人の出エジプトを記念する重要な祭りを、権威にチャレンジする象徴的な行為の時として選んだ。それが次に何を引き起こすか、知っていたからである。
 その働きの初めに受けたバプテスマ、そして働きの最終段階で注意深く計画された最後の晩餐は、両方ともが最初の出エジプト、つまり水を通り抜けること、 またその背景にある最初の創造そのものを抜け出て、新しく規定された現実、すなわち新しい契約、新しい創造としてのイエスの死と復活を指し示している。
 キリスト教の物語の核心である一度限りの目覚しい出来事が、私たちにも起こる。・・・水を通してイエスに属する新しいいのちへ

第16章「新しい創造、新しい出発 

304-8ページ 

現代のクリスチャンの多くがこの点で混乱していることに、私はいつも驚かされる。「死後の いのちの後のいのち」は、初代教会とそれに続く多くの世代のクリスチャンにとって、当たり前のことだった。これこそ彼らが信じ、教えてきたことだった。もし私たちがそれと異なったことを信じ、教えてきたのであれば、目をこすって聖書のテキスト をもう一度読み直すときだ。 この世界を見捨てることは神の計画ではない。それは「非常によかった」と神が言った世界である。むしろ神は、それを作り直そうとしておられる。そして神が それを実行するとき、神の民のすべてを新しいからだでよみがえらせ、そこに住むようにさせる。これこそ、クリスチャンの福音が約束していることである。そこに住む。そして、そこを治める。ここに、今日ほとんどの人が考慮しようともしない奥義がある・・・
《コメント》
この読書会でも、長く在籍しつつも特に発言もできませんでしたが、折に触れて、ご紹介のものなどは、その都度いろいろ読ませていただき、皆様のご意見を拝読しつつ “but should share in the life of God's new age.”
というライトの言葉を、いまあらためて反芻しています。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(口語訳)この後半の元々の意味はライトによると、 “but should share in the life of God's new age.”と言い換え、このように初期キリスト教徒は受け止めたのだといっていると。そしてこれが、天と地が重なり合うことと、神の 未来が私たちの現在と重なり合うこと・・の理解に深く関わってくることなのだと、そしてやっと少しづつでも、ライトについての文章や、翻訳書籍がいろいろと出版されてきていることも、あらためて、しみじみ感慨深く思わされました。
308-9ページ 

……そうなるとクリスチャン倫理とは、はるか彼方にいる神が公布した、どこか恣意的なところのある行動規範に苦労しながら従う、という意味になってしま う。「罪」についても、この発想から、「律法を破る」という理解になってしまい、「救い」も、聖なる存在の定めに従わない人間に下される「罰からの救い」 というものになってしまう。多少キリスト教的な響きはするが、こうした理解もまた、じつはクリスチャンのものではない。
《コメント》
なかなか挑戦的な言葉であると思います。でも、私たちはそう言われてやっと初めて「あぁ、じゃあいったいクリスチャンとはどういうことなのか?」と問い直せるのかもしれません。この部分を考えていて使徒17章のペレヤの人々の姿を思い出しました。彼らはパウロとシラスの語ることを聞いて「果たしてその通りかどうかと毎日聖書を調べた」。私の今まで信じていたことは「はたしてその通りか」、そしてライトさんの言うことは「はたしてその通りか」、虚心に問い直したいなと思いました。
310-1ページ 

クリスチャンの倫理とは、この世界がどうなっているかに目を向け、それに合わせていくことではない。それは、神に喜ばれるために何かをする、というのでもない。また、はるか昔のほこりまみれのルールブックに従うことでもない。それは、神の新しい世界でやがて歌うことになる曲を、いまここで、練習することにほかならない。
《コメント》
わたしはバンドをやっています。本書を通して出てくる音楽のたとえには、身体的に、というか経験的に、というのか感覚的に、なのか、「なんとなく言っていることがわかる気がする」感があります。・・・わたしには「神の新しい世界でやがて歌うことになる曲を(中略)練習する」のにもイメージが必要です。主は楽譜を用意してくださっているわけではありません。わたしがいつか主にお会いするときに、何のためらいもなく歌うべき歌を歌えるように準備しておくということは、その歌の主題についてわたしがなんらかのイメージを掴み、それをお腹の中に蓄えて、何回も繰り返して反芻して歌にしていく過程が「いまここで」行われていなければならないということになりま す。
312-3ページ 

クリスチャンとして生きることは、キリストと共に死に、キリストと共にもう一度よみがえることを意味する。それは……バプテスマが意味する根底にあるものであり……
《コメント》
(幼児洗礼について)ライトは英国国教会ですが、やはりバプテスマが意味するものを考えていくと、キリストとともに死んで生きることを正しく象徴しうるものは、信仰者のバプテスマ以外にあり得ないように思われます。本書の前後を読んでみても、これ以外の考えは思い浮かびませんでした。
314-5ページ 

こうした規則は次のように理解されるべきである。それらは、はるか遠くにいる神が私たちの楽しみをやめさせようと勝手に定めた律法ではない(あるいは試験 をするかのように、私たちに飛び越えさせようと並べた道徳的なハードルでもない)。それは、天と地が重なり合い、神の未来が現在に侵入し、本物の人間らし い生き方とは具体的に何であるかを見いだす指針なのである。
《コメント》
私はある時期、そういう状態で表面だけさらっと聖書を読んで、「規則<ルール>」が目についてばかりいた時期がありました。正直なところ、わからない、納得ができないことだらけで。そのときの私の頭の中と言えば、こんな感じです。「ああ、あれも従えなかった」・・・
ライトは、規則のことを「私たちの楽しみをやめさせようと勝手に定めた律法ではない」と書きました。これはそのときの自分が理解できていなかったことだなと、その頃を振り返って思いました。
316-7ページ 

生ける神は十字架の上で、この世の怒りと暴力をご自分の上に引き受けられた。圧倒的な不義のゆえに苦しまれたが(物語はこのことに注意深く焦点を合わせている)、それでも、おどしたり、呪ったり、暴言を吐いたりすることはなかった。クリスチャンが『贖罪の神学』と呼ぶものの中心は、イエスが悪の重みのもとで死んだとき、ある意味で、その悪の根本的な力を消耗し尽くし、もはや悪の力が他に及んだり働き続けたりしないものにした、という信仰である。
イエスの復活は、新しい型の義が可能になった世界の始まりである。
《コメント》
イエス・キリストの十字架と復活が悪の力を飲み込み、神の義の現し方を示しているというライト師の指摘は、自分がライト師の文章を読むようになってから、 多くを教えられているところです。かつては十字架と言えば、自分の罪を赦すために必要な死、というように、とても自分中心な考え方でしか見ることができませんでした。しかし、ライト師が十字架には、イエスが悪に打ち勝たれたという意味もあること、そしてそれこそ贖罪の神学の中心だと指摘することから、十字架を違った視点から見ることを教えられています。
320-1ページ 

義への渇望は、あまりにもすぐ私の権利、もしくは私たちの権利の要求へと成り下がってしまう。親切にしなさいという命令は、自分の時間を自分自身、自分の必要、自分の義、自分が不当に扱われたのを正すために使うのではなく、他の人たちの必要、楽しみ、痛み、喜びに目を向けることを求める。親切にすることは、人間として成長し、豊かな深い関わりを築き、維持するうえで最も重要なことである。
《コメント》
ライト氏は、人間関係の良き関わり方のキーワードとして、「積極的な親切」をあげています。これも単なる「あの人はクリスチャンだから親切ね」という程度のものではなく、創造者なる父のまなざしを思い起こすとしっくりきます。・・・神に造られた者としてなすべきことは、造られた人々、自然に対し、造られた目的を果たすことができるよう大切に育てること、ケアしあうこと、神の作品として互いの存在を喜ぶことであると認めるとき、「互いに対する積極的な親切」という言葉が心にすっと入ってきます。

 
大体以上となります。


今月は他の投稿はなかったですが、神戸で開催される「第6回日本伝道会議」の9月28日午後の分科会「神学ディベート ―N.T.ライトの義認論―」のことが案内されました。

その後このブログでも紹介されたとおりです。


7月は、入会4名で、トータル202名となりました。
 
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

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