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2016年7月21日木曜日

「悔改め」と「信仰」再考

新約聖書において「信仰」の意味はどういうものか。

プロテスタントの伝統にいると、「信仰」は強調されるが、その意味はいかにと立ち止まって考えることは余りなかったように思う。

もちろん宗教改革原則の「信仰義認」での意味と、福音派における「回心主義」の意味とを合わせて「伝統」としてきたので、その文脈における意味で由としてきた経緯があると思う。

しかしここ30-40年の「『パウロ研究』における新しい視点(New perspective on Paul)」とも連動して「ピスティス・クリストゥー」がかなり議論に上るようになり、狭義の「信仰義認」だけでなく、そもそも「福音を信じる」とは何か、が問われるようになってきた。

しかし、その前に「悔改め」にも言及しなければならない。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
(マルコ1:14-15、新共同訳)
新約聖書、一世紀の文脈では「悔改め」と「信仰」は「神の国の到来という終末的事態」に呼応するものとして現れた。

問題は、この「一世紀的ユダヤ・キリスト教」の文脈で「悔改め」と「信仰」議論されるときに緊密に参照される「終末(エスカトン)」「黙示(アポカリプティック)」の及ぼす意味合いが、それから時と文化・言語を隔てた今日のキリスト者が「イエス・キリスト」や「福音」や「義認」や「信仰」について語るときにどうなっているか、ということである。

あるいは、それらはどこへ行ってしまったのか、と問い直すことも出来るだろう。

おそらくこの問題を要約するフレーズとして最も流通しているのが、「『既に(already)』と『未だ(not yet)』であり、これら二つの緊張関係として議論されるやり方であろう。

この「時の間にある」問題を、キリスト教信仰の歴史的課題として自覚し、問題にしている場合、二千年の教会史の中で「幾つかの対応パターン」があった。(各千年期説のバリエーションのことではない。)

 ※しかし以上はイントロなので、ここではそのことを論じず指摘するだけに留める。


(1)「悔改め」


新約聖書での重要なテーマである『悔改め』が、なぜ神学的に議論されることが少ないのか、とブロガーで新約聖書学博士のクリス・ティリングが問題提起している。

そして、共感を込めてドイツの学者らしい、トマス・ゼーディングを引用(訳)している。
The coming of the kingdom doesn't depend on repentance. It's the other way around: The necessity and possibility of the repentance and faith depends on the nearness of the kingdom.
「神の国」の到来は悔改めが招き寄せるのではない。実際はその逆だ。悔改めと信仰が必要になりそして可能になるのはその神の国が近づいていることによるのだ。

この「一世紀的ユダヤ・キリスト教」の文脈で重要だと思われる「悔改め」のポイントは、「アブラハム契約」の祝福を受け継ぐべき「割礼を受けた契約の民」が「悔改めのバプテスマ」の必要をヨハネから訴えられていることである。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。(マルコ3:7-10、新共同訳)
ここには「神の国の到来」を間近にした時点での「契約の更新」の暗示があり、その時に通る「神の怒りのさばき」と(恐らく)契約律法による義の問題とが絡んでいるのを見ることが出来るのではないか。


(2)(福音に対する)信仰

個人的には、「福音とは何か」ということでスコット・マクナイトの『福音の再発見』をかなり手広く紹介してきたが、改めて新約聖書の歴史的文脈により近く接近した「信仰」のニュアンスに分け入る時が来ているのかな、と思っている。(それに関してはまた書くつもり。)

福音のコンテントは何か、「救いの方法」か、それとも「主イエス・キリスト」か。

当然普通のキリスト者はこれら二つのことを別のこととは思わず、単にそのときの強調の違いであり、どちらにしても実質上は両方を含む、と考えて「問題化」しないで済ますのではないか。

しかし「強調の違い」は「パースペクティブの違い」であり、信仰者生活に「実質上の差異を生じさせる」としてマクナイトは問題化したわけであった。

さて「信仰」のニュアンスの違いとして考える際に、ギリシャ語ピスティスを「信仰(faith)」「忠実(faithfulness)」「忠誠(loyalty)」として区別しながら問題に迫ろうとしているらしい著書二つを、先輩ブロガーでもあり、新約聖書学者でもあるマイケル・バードが Pistis as Faith or Faithfulness or even Loyalty?  で紹介している。


以上、(1)も(2)も基本的用語である「信仰」「福音」の整理に有益のようであるのでお勧めしておこうと思う。

2016年7月15日金曜日

今日のツイート 2016/7/15

「今日のツイート」とは、「大和郷にある教会」ブログで常設しているエントリー項目ですが、この話題はやはりこちらが適当ではないかと思い、越境してきました。(笑)


一見して「宗教史学派」の「ヘブライスト対ヘレニスト」を踏襲した「大雑把」な物言いで、およそ(キリスト教青年部の人がイスラーム法学者から指摘されて)「なるほど」というほどのことはないと思うが・・・。

せめて、

(1)「パウロの『律法蔑視』」とはいかなるもので、どのようなロジックのもとにそのような「パウロ観」、そして「キリスト教(発達史)観」になって行ったのか、ということを検証するきっかけにしてはいかがだろう。

(2)「イエスが教祖」のキリスト教は「実質パウロ教、特にプロテスタントには」・・・のような「大まかな見取り図」をあたかも事実のように鵜呑みすることは、多大な新約聖書学・初期キリスト教学の研究成果を一切無視するようなもので、前途有為な「キリスト教青年」においてはそのような「知的逃避行動」は慎んで欲しいものだ。

※手始めに、ライトのWho Founded Christianity: Jesus or Paul?
あたりから読まれてはいかがでしょう。


2016年6月25日土曜日

ライト近刊紹介インタヴュー

最近は「ポッドキャスト」(ネット音声配信)をやるところが増えてきました。

今回紹介するのは、ブリガムヤング大学(米ユタ州)の「ニール・A・マックスウェル(宗教学)研究所」のものです。

今年2月の配信ですが、ライトの『最近のパウロ研究史』(2015年10月)などの著作を紹介しています。
 (こちらは一章「舞台設定」の抜粋です。)


この本の他に、The Paul Debate: Critical Questions for Understanding the Apostle(2015年10月)


さらに、今年10月に出版して予定の、The Meaning of the Cross: The Day a Revolution Began.(仮題) のことも話題にしています。(26分過ぎくらい)

その他の話題としては、ヨーロッパの左派系哲学者たちが「パウロ」にインスピレーションを探る動きを紹介しました。
このインタヴューでもライトはそのことを取り上げています。(54分過ぎくらいから)


1時間を越えるインタヴューで、質問者もしっかり聖書学動向を押さえていて、充実した内容になっています。

それにしても、Paul and His Recent Interpreters はどうやら購入した方が良さそうかな・・・と考え始めています。

既に書評としては、ニジェイ・グプタ(これ、他2本)が書いています。

[2016/8/5 追記]


上で紹介した本の正式な案内が出ました。
 The Day the Revolution Began: Reconsidering the Meaning of Jesus's Crucifixionこちらがリンク

2015年10月26日月曜日

「継続する捕囚」補記

先日の「ライト・セミナー」のDVDが発売となりました。

(近日中にウェブでも紹介しますが、お急ぎの方はあめんどう社へ直行ください。)

その伊藤講演の背景となる重要モチーフ「継続する捕囚」についてまだまだ「理解が難しい」ことが何人かの方からの感想で聞き及んでいます。

しっかりとした解説をするのは無理ですが、小出しで申し訳ありませんが、また一つ「理解のための材料」を紹介します。

英語の動画ですが。



デンバー神学校の新約学教授のクレイグ・ブロンバーグの講演です。

ヴェリタス・フォーラムという、大学キャンパスでの「キリスト教の弁明」活動的なことをやるプログラムでのものです。

聴衆はノン・クリスチャンを念頭にしてますから、「史的イエス」入門としても聞きやすい、ざっくりとしたものです。

特に「現代の史的イエス研究」のリーダーの一人としてN.T.ライトの研究を紹介しているのですが、まさに「継続する捕囚」を終わらせるイエスの神の国宣教、として解説しています。(動画では大体37分過ぎ頃)

The problem is the problem of exile, of not living in freedom. Many Jews were literally in exile even though they were living in their homeland, they were not living in freedom.
Jesus came announcing that the exile was over, without one Roman soldier having been removed from his post.
The exile is over、捕囚は終わった。

神の国は到来した。(慰めの時、回復の時)



と言ったあたりを、短くですが解説しています。


ところで「10月月例報告」の方に書きますが、continuing exileを他のメンバーの方が「長引く捕囚」と訳していましたね。まさにそんな感じです。

2014年11月7日金曜日

Richard Hays's New Book

NTW endorses Richard B. Hays's new book,

Reading Backwards: Figural Christology and the Fourfold Gospel Witness 

The book site at Baylor University Press.

 


and this is NTW's comments:
"Twenty-five years ago Richard Hays launched a quiet but highly effective revolution on how Paul read Israel's scripture. Now he turns his attention to the four gospels, and we may confidently predict similar results. With his characteristic blend of biblical and literary scholarship, Hays opens new and striking vistas on texts we thought we knew--and, particularly, on the early church's remarkable belief in Jesus as the embodiment of Israel's God."
--N.T. Wright, Professor of New Testament and Early Christianity, University of St Andrews
日本のアマゾンでは4,288円。まだ予約受付中の段階。