2013年5月29日水曜日

6月8日の読書会に備えて①

さて読書会も近づいてまいりました。

課題テキストとなっている、Paul in Different Perspectivesを参加予定者はどの程度読んでおられるでしょうか。

当日は参加者各自がアンダーラインしたり、ハイライトしたところを比較しながら、感想やら疑問やらを交換したいと思います。

準備の一旦として小嶋がアンダーラインしたり、ハイライトしたところを紹介します。

先ずはライトが自分の読みを「オーソドキシー」の範囲にあること。それもかなりいい線行っているとおもっていること。しかしそのようなライトの読みである教派では軋轢を引き起こしている、などと聞くのを残念に思っていることなど。(以下はイントロ部分から引用)
...since I think my own reading of Paul represents a historically grounded and theologically accurate and sensitive understanding I naturally hope that other Christians of whatever tradition will find what I say fruitful, and I grieve that anyone should get into trouble in their own denomination, whatever that may be, for embracing a viewpoint which ought at the very least to be within anybody’s limits of orthodoxy.

宗教改革のバックボーンは聖書のテキストをあくまで忠実に読み解釈することと捉えるライトは、ソラ・スクリプトラの原則を単音節や短音節のギリシャ語までおろそかにするべきでないことを主張し。(以下は1. No Syllable Alteredから引用)
Not one syllable must be changed. That is what it means to speak of ‘sola scriptura’ and to mean it.

その実例としてガラテヤ2:16のde
The question which dominates the whole letter [the Galatians] from this point on [2:16] is: who are the true children of Abraham, the single family whom God promised to him? And the answer is: all those who believe in Jesus the Messiah, whose faith is the only badge of membership that counts. All of this flows from taking seriously that little syllable de in 2:16.

原文に忠実な読みが「信仰義認」と「世界大のアブラハムを祖とする神の民」を繋ぐ。(以下は1. No Syllable Alteredの結論部分から引用)
I thus discover that my call, my Reformation call, to be a faithful reader and interpreter of scripture impels me to take seriously the fact, to which many writers in the last two hundred years have called attention, that whenever Paul is talking about justification by faith he is also talking about the coming together of Jews and Gentiles into the single people of God. I did not make this up; it is there in the God-given texts.

パウロにとって『ゴスペル』とは何であり、何でないのか。(以下は2. No Other Lordの第1ポイント部分冒頭から引用)
First, when Paul uses the word 'gospel', that is the very center of what he is referring to: the announcement that Jesus, the crucified Jew from Nazareth, has been raised from the dead by the creator God, and has been exalted as Lord of the world, claiming allegiance from all alike, Jew and Gentile, great and small, from Caesar on his throne to the poorest child of the humblest slave in the farthest corners of the world.

「相対主義」「寛容」の問題について。(以下は2. No Other Lordの第3ポイント部分から引用)
And it was of the very essence of his [Paul] work that he established communities of people who were loyal to Jesus as Messiah and Lord and therefore ceased to take part in the other local cults, state religion, mystery cults and so on that their neighbours continued to patronize. The unity of this new community was therefore central and vital, since division would reflect, again and again, ethnic and cultural differences within the Body of Christ.

Thus, whenever I am asked what I think about the so-called 'other faiths', which I often am, including on radio shows and the like, one of the things I normally say is that Krishna didn't die for me, that Buddha didn't rise again, that Mohammad ruled out as an impossibility what to me is the very centre of my life, that in Jesus Christ the one true God became human and lived, died and rose again for the world's salvation, and for mine. That is what Solus Christus must say when faced with relativism.

パウロ解釈における間違った対立軸としての「法廷的枠組み」と「キリストにある」、それを解決する方法と改革派神学で用いられる「転化される義」の問題。(以下は3. The Glory of Godの第4パラグラフから引用)
Here we arrive at one of the great truths of the gospel, which is that the announcement of Jesus Christ is reckoned to all those who are 'in him'. This is the truth which has been expressed within the Reformed tradition in terms of 'imputed righteousness', often stated in terms of Jesus Christ having fulfilled the moral law and thus having accumulated a 'righteous' status which can be shared with all his people. As with some other theological problems, I regard this as saying a substantially right thing in a substantially wrong way.





2013年5月24日金曜日

リチャード・ボウカム講演会のご案内

この読書会はN.T.ライト教授専門ですが、同じ英国にあって新約聖書学の碩学としてリードしてきたリチャード・ボウカム先生の来日講演をこの場を借りてご案内したいと思います。 

ボウカム先生はセント・アンドリュース大学新約学教授ということではライトの前任者です(2年あいだが空きますが)。ライトとボウカムは、今でも頻繁に連絡を取り合う、良きライバルであり盟友でもあります。 

リチャード・ボウカム講演会 

テーマ: 「Gospel Traditions: Anonymous Community Traditions or Eyewitness Testimony?(福音書伝承:無名の共同体によるのか、それとも目撃者によるのか)」 

日時: 2013年6月17日(月)午後5時より 
場所: 日本聖書神学校
161-0033 東京都新宿区下落合3丁目1416 
(目白駅より徒歩10分) 
主催: 聖書学研究所 
入場料: 無料 

通訳はありません。 
研究所に関係ない人でも大歓迎だそうです。 
当日のレジュメが出来上がっています。参加希望の方にメールで配布しますので以下の連絡先までお知らせください。
連絡先:(小嶋崇、コジマタカシ) t.t.koji(アットマーク)gmail.com 

 さて、「N.T.ライトFB読書会」のメンバー間で活発な意見交換があり、この講演会に合わせてちょうど良いディスカッションがありましたので、その時の議論のエッセンスをまとめ、読書会からの投書と言う形で紹介させていただきます。
 
 このたび三度目の来日をされるリチャード・ボウカム博士の『イエスとその目撃証言者たち』は、この数十年で最も重要な聖書学の本だったと、後世評価される可能性を秘めた本です。これが深く理解されるならば、日本にも革命的なインパクトをもたらすでしょう。

 ここ数百年の新約聖書学の一つの方向性は、『福音』の再定義にあったとさえ言えます。つまり『福音』とはイエスが宣べ伝えた「この世界への神の王国(支配) の到来」ではなく、パウロ神学を実存的に理解した福音(「今ここで、信仰の決断をすることで、あの世の天国への道が拓かれる」)という、神の国がこの世界 に突入してくるという福音の理解の仕方とは正反対の、ベクトルが逆方向に向かっている『福音』へと再定義がされていったように見えます。

 こうしてパウロ書簡の神学的重要性が増す代わりに、イエスの言動を伝える四福音書は軽視される傾向にありました。これは「様式史批評」を突き詰めていった 必然的な結果なのかもしれません。なぜなら、この批評学の導き出した結果とは、「イエスが本当は何を語ったのか、わたしたちには分からない」というもの だったからです。福音書に描かれるイエスは、もはやイエスの言動を正しく伝えたものとは見なされず、「原始キリスト教徒の信仰の投影」であり、福音書は単 なる彼らの信仰告白に過ぎないと言う結論が導かれてしまいました。

 こうして福音書の中心テーマである、イエスの「神の王国のおとずれ」という使信はぼやけ、「神の王国」とは何なのか?という定義も曖昧にされ、実存的信仰 告白、「今ここで、からっぽの手を神に差し出す」というようなエモーショナルな告白をすること(を促す)ことばかりに福音伝道の力点が置かれていった面が ないとはいえないかもしれません。

 ブルトマンは「パウロは歴史のイエスに何の関心もなかった」と言い残しました。私たちもイエスの福音を「私(だけ)のために死んでくださったキリスト」と してのみ理解し(これはもちろん福音の本質的な部分ですが)、イエスが復活後も教え続けた「神の国」(使徒言行録1:3)への関心を持たないなら、それは 結果的にブルトマンの発言を追認していることにならないでしょうか。

 ボウカムの「イエスとその目撃証言者たち」は様式史批評そのものに厳しく批判を加え、その信憑性に大いに疑問を投げかけます。同時に「福音書のイエスの言葉をもっと真剣に受け止める」よう私たちに要請します。この著者の肉声を聞くことが出来る幸いを感謝したいと思います。
 ****************

リチャード・ボウカムのHP

2013年5月20日月曜日

パウロ研究の新視点

現在N.T.ライトFB読書会では、
Surprised By Hope

パウロ
の二つの領域でディスカッションが進行しています。

①はもちろん現在FB読書会で読んでいる本ですが、②の方はグループが次にどの本を選択するか投票した時、選に漏れたPaul: In Fresh Perspectiveに関心があった人たちのために、「パウロ研究」と言うことで自由にトピックを討論できるように設けたものです。


さてライト関連で「パウロ」と言うことになると、避けて通れないのが「 ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ(略してNPP)」と言うパウロ研究の新視点です。

(簡単なイントロとしては小嶋がレポートした、これこれ、そしてこれをご覧ください。
もっと詳しい紹介を欲しい方はFB読書会に入会して頂くと福音主義西部神学会で発表された資料がアップされているのでお読みいただけます。※スキャンしたPDF文書はこちらで入手できます。)

と言うわけで、こちらN.T.ライト読書会ブログでも、ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ/NPPを独立したカテゴリーとして今後情報提供を行なって行きたいと思います。

先ずは動画、といっても静止画像だけの音声ファイルですが、ダラス神学校のダレル・ボク教授のニュー・パースペクティブ・オン・パウロ/NPP入門編。

パート1 
パート2 

(※埋め込みができませんでしたのでリンクをクリックしてください。)

2013年5月17日金曜日

パウロと神の真実

「大和郷にある教会」ブログで既に紹介した記事ですが、少しアップデート・補足してこちらに掲載します。

N. T. ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズの第四巻目
Paul and the Faithfulness of God

がいよいよ出版向けて態勢が整いつつあるようだ。

N.T. Wright アップデートでも、「2013年の夏から秋くらい」と紹介しておいたが、さらに確定的な時期が出版社から案内された。
2013年11月1日(詳細はここ

しかし、またまた「えっ」である。

「第4巻目」が、3冊の構成でリリースされることはその後LOGOSのPre-orderで周知のことである。

今回の「えっ」は、中心volumeであるPaul and the Faithfulness of God自体が何と2分冊になる、と言うことである。2冊合わせての総ページ数は何と1,700ページ!

ここで整理しておこう。
N. T. ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズの第四巻目は、以下のように4つの本で構成される。
① Paul and the Faithfulness of God
 Book 1: Part 1 & 2
  Book 2: Part 3 & 4

 Paul and His Recent Interpreters

Pauline Perspectives: Essays on Paul 1978–2012


②のPaul and His Recent Interpretersは、「イエスと神の勝利」(「キリスト教起源と『神』問題」シリーズの第巻目)と同じように「研究史」部分として入れるつもりでいたが、2009年の段階で無理だと判断し、出版者と相談して別なボリュームになったそうです。

Pauline Perspectives: Essays on Paul 1978–2012、はそれではこの際パウロ研究に関する論文集成を一緒に、と言う出版社からの提案で、「契約のクライマックス」所収の論文を除く、30-40論文を収める予定だそうです

発売時期は、上記のようにフォートレス社は11/1としていますが、とにかく現在奮闘中だそうで、最悪でも11/23-26の期間、ボルティモアで持たれる「Society of Biblical Literature」学会までには間に合わせたいと切に願っているそうです。



2013年5月16日木曜日

復活のリアリティー

さて、小嶋も関わっている、スコット・マクナイト「福音の発見」がいよいよ発売となりました。

手元には早速「企画」CRISPのKさんによって5冊届けられました。

その流れで、スコット・マクナイトのジーザス・クリード・ブログで科学関連記事をレギュラーで書いているRJSさんのThe Reality of the Resurrectionを紹介します。

NTライトの、The Resurrection of the Son of Godと、ティモシー・ケラー、The Reason for Godから復活の事実性(リアリティー)の論点を紹介しています。

1. The resurrection is attested to early in Christian literature 
2. The gospel variation and presence of women as earliest witness attest to true testimony provided in these accounts.
3. The bodily resurrection was a foreign concept in Greek, Roman, and Jewish thought
4. The explosion of Christianity on the scene and the rapid, unstoppable growth despite persecution over the first several centuries.
5. The resurrection is the victory in the Christian story; it is the linchpin.
 動画のリンクもあります。

2013年5月13日月曜日

FB読書会 2013年5月近況

フェイスブックの読書会の方は
昨日からSurprised By Hopeの第2章、Exploring the Optionsに入りました。

ディスカッションをリードするのは、関西在住のブレザレンのKさん。
度々彼のブログの文章量に圧倒されるのですが、この部分の丁寧な要約と感想をつけてくださいました。

人々の間でどんな天国観があるのか。
ライトはこの節ではマリア・シュライバー(ケネディ家に連なる方)のWhat's Heaven


を取りあげています。

ライトが17ページで引用した部分をKさんが簡単に訳してくれていますのでここに紹介させていただきます。(承諾なしですけど、Kさんよろしく。あっ今承諾得ました。 
 天国は、ふわふわの雲の上にのって話したりすることができる場所で、夜には、宇宙で一番キラキラに光るお星の隣に座ったり、生きている間、いい子ちゃんにしていれば神様が連れて行ってくれるところで、死んだときには、神様が天国から天使を遣わせて、引き上げてくれるとこで、自分に自信をもつことを教えてくれたおばあちゃんは星や神様や、天使たちと一緒にいて、私たちを高いところから見ていてくれるの。 
 そして、おばあちゃんが地上にいなくても、おばあちゃんの霊は、私の中にいるの。
ライトはこう引用した後次のように書いています。
This is more or less what millions of people in the Western world have come to believe, to accept as truth, and to teach to their children. The book was sent me by a friend who works with grieving children and who described this as "one of the worst books for children" and said, "I hope you find this awful book helpful in what not to say"! It is indeed a prime example of that genre. The truth of what the Bible teaches is very, very different at several levels. (P.17-18.)
実際に死の悲しみに遭遇している子どもたちのケアーをする方が、マリア・シュライバーの本をこれほど批判している、ということは、子供だからといってこのような「子供だまし」のような話で終わらせるなどと言うことは失礼だ、とのことですね。

さてこのブログ管理人も関係しているスコット・マクナイト「福音の発見」が5/15発売予定なので、その宣伝も兼ねてマクナイト教授のブログ、ジーザス・クリードで連投されたSurprised By Hopeシリーズのリンクを貼っておきます。

シリーズ1(※コメント・セクションの一番下、jonの感想も読んでみて。) 
シリーズ2(※リンクは今はここでストップ。読書会の読んでいる場所より先に行ってしまうので。)
 

2013年5月10日金曜日

今年第1回の読書会のリマインダー

(リアルの)ライト読書会が約一ヵ月後となりました。
読書会参加予定者の方々、ご関心のある方々へ、リマインダーです。

2013年6月8日(土)午後1時30分~4時
千代田区神田駿河台2-1OCCビル
4Fの国際ナビゲーター室で。

今回の課題テキスト、Paul In Different PespectivesAuburn Avenue Presbyterian Church, Monroe, Louisianaでなされた講演シリーズの最初のものですが、いわゆるニュー・パースペクティブ・オン・パウロの旗手としてN.T.ライトが宗教改革の基本教理である「信仰義認」を根底から覆す人物であるとの批判を北米のカルヴィニストたちから盛んに受けている状況でのものであったようです。
講演の場所が長老派教会と言うのも、ライトの弁明を気迫に漲ったものとさせている要因かもしれません。

講演の冒頭ライトはこう断っています。
My church grew directly out of the sixteenth-century Reformation, and even where I have disagreed with some of the Reformers’ particular proposals I believe I have remained true to their [Reformers] foundational principles.
そう言う訳で講演の柱は宗教改革原則を表現するのに使われるsola/soloで構成されています。
1. Sola Scriptura
2. Solus Christus
3. Soli Deo Gloria
4. Solo Spiritu
5. Sola Fide 

ライトに対する北米のカルヴィニストの批判は特にこの5番目の「信仰義認」(贖罪論)理解に向けられるのですが、宗教改革の原則を以上1-5と広く視野に入れながら、ライトは批判者たちの「宗教改革者の伝統に立つのは自分たちだ」と言う自負が「信仰義認論」中心になっていることをやんわり批判し、バランスを取ろうとしているように見えます。

なおPaul In Different Pespectives以外の講演と牧師講習会プログラム全体のレポートがここで提供されています。
このテキストを読むに際して講演の「雰囲気」を掴むためにも有益ですので、時間に余裕があれば是非このサイトを訪れください。

また間近になりましたら、最後のリマインダーを掲載する予定です。

2013年5月4日土曜日

クーリエ・ジャポンが注目したN.T.ライト(追記)

 前回の投稿では、クーリエ・ジャポンの「キリスト教の『天国』は〝死後の場所〞ではなくなった」 と言う記事を紹介し、この記事がTIME誌の特集Rethinking Heavenで、ジョン・ミーチャムが書いた記事の翻訳(要約)である・・・と書いた。

 しかし、改めて二つの記事を比較して見るとクーリエ・ジャポンの記事はかなり省略・編集されたものであることが判明した。

例えばTIME誌記事の以下の二つのパラグラフ引用を見ていただこう。(下線は筆者)
Yet we don't necessarily agree on what heaven is. There is, of course, the familiar image recounted by Colton Burpo. But there is also the competing view of scholars such as N.T. Wright, the former Anglican bishop of Durham, England, and a leading authority on the New Testament. What if Christianity is not about enduring this sinful, fallen world in search of a reward of eternal rest? What if the authors of the New Testament were actually talking about a bodily resurrection in which God brings together the heavens and the earth in a wholly new, wholly redeemed creation? 

Jesus was to return, probably imminently, to set the world to rights. "When 1st century Jews spoke about eternal life, they weren't thinking of going to heaven in the way we normally imagine it," explains Wright, the New Testament expert, who is now at the University of St. Andrews. "Eternal life meant the age to come, the time when God would bring heaven and earth together, the time when God's kingdom would come and his will would be done on earth as in heaven."
 そして該当するクーリエ・ジャポン記事からの引用
 このように現代では、バーポのような幼い者からグラハムのような年長者にいたるまで、天国は現世と隔絶した、平和と希望と愛が得られる世界だと考えられている。
 だが、そんな天国観を真っ向から否定する勢力がある。
 その代表とも言える人物が、英国の元ダラム大主教で、新約聖書研究の第一人者でもあるN・T・ライトだ。
「紀元1世紀のユダヤ人が永遠の命について語っていたとき、現代の人々が考えるような天国を思い浮かべることはありませんでした」
 現在はセント・アンドリューズ大学に勤めるライトは、そのように語る。
「永遠の命とはやがて来る時代のことです。神が天と地を一つにするときのこと、神の国が現れて、その御心が天と同じく地上においてもなされるときのことを指していたのです」
この「バーポ」で始まる1つ目のパラグラフから、ほぼ逐語的に訳出された2つ目のパラグラフの間に、ミーチャムはかなりの分量を用いて天国観の変遷史や、天国観が「この世」の生活にもたらす影響などを、自身のキリスト者としての述懐を交えながら語っている。
 さらに、一世紀ユダヤ教からキリスト教が胚胎した思想的過程についてもかなり専門的研究をよく読みこんだとみられる詳しい解説を施している。

 日本の読者の宗教・キリスト教に関するリタラシーに配慮したものかもしれないが、「からだのよみがえり」「新創造」「被造物全体の贖い」など重用ポイントが省かれていることは大変気になるところだ。

 敢えて言えば、これは「翻訳権を取得」して書かれた記事とは言え、内容的にはほぼ「天国観」にだけ焦点を当てて大々的に編集された「つまみ食い翻訳」といわざるを得ないのではないか・・・。

2013年5月3日金曜日

クーリエ・ジャポンが注目したN.T.ライト

日本でも最近一種の「キリスト教ブーム」がある。

それは主に教会の外、メディア現象としてのそれである。

橋爪大三郎と大澤真幸の「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)は、2012年の新書大賞に選ばれ、30万部を越す売り上げだそうである。

雑誌でも「キリスト教」を特集したものが幾つもある。 (朝日デジタル、2011年

この他にも、濱野智史「前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48」 (ちくま新書)が挙げられるか・・・。

(こんなことに時間を取っていると本題に入れないのでストップ。)

クーリエ・ジャポン2012年8月号の特集
9つの“新常識”で読み解くこんなに不思議な「世界の宗教」
その2番目キリスト教の『天国』は〝死後の場所〞ではなくなった

に「新しい天国観」の旗手の様な存在として、N.T.ライトが紹介されている。

と言っても要するにTIME誌の特集Rethinking Heavenで、ジョン・ミーチャムが書いた記事の翻訳(要約)であるが・・・。


いずれにしてもある種キリスト教の中の論争的な議論の急先鋒としてN.T.ライトが紹介されたことにはいささか不本意な観があるが、ミーチャムがまとめた記事自体は、「この世」への働きかけを動機付ける天国観としてその意義を認めていることには納得する点もあるだろう。(その辺がクーリエ・ジャポン編集部も関心持っている部分らしい。)
 


2013年5月2日木曜日

天国が本当の「キリスト者の希望」なのか?

現在フェイスブック上のライト読書会(右コラムの『関連サイト』)では
SURPRISED BY HOPE
を読んでいます。

キリスト教会で現在一般に持たれている「天国観」は伝統的・正統的キリスト教の教えとは大分隔たりがあることを様々例証しながらライト教授はSURPRISED BY HOPEを書き進めています。

そのもっとも身近な一例として千の風になって(「大和郷にある教会」ブログ記事)が挙げられています。

と言うことでしばらく「天国」をキーワードにライト教授が書いた論文、インタヴュー記事、ビデオクリップなどを紹介して行きたいと思います。

今日はHeaven Is No Our Homeを紹介します。

"The traditional picture of people going to either heaven or hell as a one-stage, postmortem journey represents a serious distortion and diminution of the Christian hope."
このクリスチャニティー・トゥデー誌に寄稿された論文では、新約聖書の記者たちが一貫して「この世界」が神の救済・贖いの対象であり、キリスト者の希望である「からだのよみがえり」はその中心をなすものであることを代表的聖書箇所から説明していきます。

その中でも恐らく二つの聖書箇所に関する誤解(?)が影響が大きいのではないかと思います。

①ピリピ3章20節
わたしたちの国籍は天にある。
②ヨハネ福音書14章2節
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
①については、むしろその後に「・・・そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」とあるように、"Jesus will come from heaven in order to transform the present humble body into a glorious body like his own."と言っています。

②の聖書箇所はしばしばキリスト教葬儀で引用される箇所ですが、その場所はキリスト者にとって「終の棲家」ではなく、「からだのよみがえり」までの「(途中の)休息所」であることが言われています。

ご興味をもたれたらどうぞ記事の方をクリックしてお読みください。
前半2ページは関連聖書箇所の解説、後半2ページは聖書的な「死後のいのち」観による、宣教・キリスト者生活の建て直し、が述べられています。



2013年5月1日水曜日

N.T.ライト フェイスブック

関連サイト情報です。

ライト教授の著作出版社の一つハーパー・コリンズ社が運営する、N.T.ライト公式フェイスブック・アカウントです。
N.T.Wright

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