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2018年8月14日火曜日

Paul within Judaism

「大和郷にある教会」ブログに、「パウロと“ユダヤ教”」と題した記事を書いた。

こちらのブログでは「新約聖書学」「パウロ研究」のトピックとしてもう少し踏み込んだことを書こう。

と言ってもあくまでネットで得られる参考記事などを列挙するだけだが。
それでも「Paul within Judaism」に関心のある方には少しは便利な記事になるのではないかと思って。

(1)ポーラ・フレデリクセン


と先日ツイートしたばかりだ。

彼女が「Bible Odyssey」に「パウロとユダヤ教 (Paul and Judaism)」を書いている。
The point is this: a Law-free Gentile mission gives us no reason in itself to assume that Paul himself was also Law-free. His teaching Gentiles that they did not have to live according to the Law tells us nothing about his own level of observance. And, as we have seen, the Gentile mission was not exactly Law-free either....
But in his own generation—which Paul was convinced was history’s last generation—the Jesus movement was yet one more variety of late Second Temple Judaism.
(2)『ガラテヤ書とキリスト教神学』
Galatians and Christian Theology: Justification, the Gospel, and Ethics in Paul's Letter

 ライトがいるセント・アンドリュース大学の研究会議でガラテヤ書が取り上げられたときの論文集である、 その書評でマーク・ノーベンソンの『パウロのユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)』について以下のようにポイントがまとめられている。
Second, Matthew V. Novenson’s essay centers on the appropriate meaning of Paul’s use of Ιουδαϊσμος in Galatians 1:13-14. Seizing upon the work of Steve Mason (who himself proposed a revision of the term) Novenson concludes that the verbal form ιουδαϊζω, means to ‘act like a Jew’, which was only something that non-Jews could do (Mason’s point). ... But Novenson, while agreeing with Mason concerning the verb ιουδαϊζειν, contends that the noun ιουδαϊσμος is actually something that Jews would doThis certainly accounts for Paul’s use of the noun in Gal.1:13, where Gentiles are not in the context. Paul’s usage also agrees with the use of ιουδαϊσμος in 2 Maccabees, where the term refers to ‘the cause championed by Judah Maccabee’ (32). For Novenson then, the verb ιουδαϊζειν refers to non-Jews who adopt Jewish rituals, whereas the noun ιουδαϊσμος refers to Jews who promote the adoption of Jewish customs and rituals. The important point to note is that not all Jews practice ιουδαϊσμος, as this term refers to a certain cause or political movement that arose in the Maccabean era. A better gloss for ιουδαϊσμος is not ‘Judaism’ but ‘the judaization movement’ (36). Novenson’s observations, along with the many other studies on this issue, will challenge any overly simplistic and monolithic reading of ‘Judaism’ as we understand the term.(色による強調は筆者)
要するにガラテヤ1:13のような箇所では「ユダヤ教」と訳すべきではなく、もっと具体的に「ユダヤ主義運動」のようなニュアンスで捉えるべきとのこと。

(3)『ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)』
Mark D. Nanos and Magnus Zetterholm, eds. Paul within Judaism: Restoring the First-Century Context to the Apostle

これも書評ですが、チャド・ソーンヒルが編著者の視点を以下のようにまとめています。
In other words, Paul was an adherent to Judaism and remained so even after he came to believe that Jesus was the Messiah. Thus, Paul’s endeavor in advancing the “cause of Christ” (Phil 1:13) should be thought of “as a new Jewish “sect” or “coalition” or “reform movement” (10), not as a conversion to a new religion.

(4)リオネル・ウィンザー
も、さきほどの(2)のマーク・ノーベンソン『パウロのユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)』とほぼ同じように理解しています。
In my book, I argue that the rare word Ἰουδαϊσμός–which is often translated “Judaism” in our Bibles (Gal 1:13-14)–doesn’t mean “Judaism” in the modern sense of a system of religious thought. Rather, it should be understood in a vocational sense:

                 ☆ ☆ ☆

以上いくつか「“回心後”もユダヤ教徒として生きたパウロ(Paul within Judaism)」と云う視点を紹介してきましたが、そんな風に考えてみるとやはり翻訳と言うのはニュアンスに左右されるものだなと思います。

最後に《イスラエル・バイブル・センター》のリゾーキン-アイゼンバーグ博士(Dr. Lizorkin-Eyzenberg)の『パウロは回心したのかそれとも召命を受けたのか(Was Paul Converted or Called?)』を紹介してみたいと思います。
博士の見方は、パウロはユダヤ教からキリスト教に回心したのではなく、ダマスコ途上のイェシュアとの出会いの後、パリサイ派ユダヤ人として「アポカリプティックな体験をしたキリストの弟子」となった、というものです。
As you can surely anticipate, I will seek to convince you that Paul (Paulos) was not converted from Judaism to Christianity. Instead, Paulos as he called himself in his own surviving writings, was called to the service of Israel’s God as were many other Israelite prophets. Before he personally encountered Yeshua/Jesus on road to Damascus, he was a pharisaic Jew. After that earth-shaking encounter, however, something dramatic had happened. He became an apocalyptic and Christ-following pharisaic Jew.

「一世紀の文脈では『ユダヤ教』と『キリスト教』というような宗教的区分はまだなかった」、という視点からですが問題となっている「ユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)」については以下のように訳すのがいいとしています。
For you have heard of my former manner of life in Judaism, how I used to persecute the ekklesia[6] of God beyond measure and tried to destroy it; and I was advancing in Judaism beyond many of my contemporaries among my countrymen, being more extremely zealous for my ancestral traditions. (Gal. 1:13-14 NASB 強調はリゾーキン-アイゼンバーグ博士)
この訳では今一つはっきりしませんが、要するにパウロが“以前”のこととして振り返っているのは(キリスト教徒になる前)「ユダヤ教徒であった(within Judaism)とき」というようなニュアンスではなく、当時「ユダヤ教徒であることを前面に出すような(過激な)行動を取っていたとき」というニュアンスだ、というもののようです。
要するに以前も以後も「ユダヤ教徒」であることに変わりはなく、変わったのはその生き方なのだ、ということです。
In the above quoted text, the choices are not between Judaism and Christianity, i.e. the former way of Judaism vs. the newer way of Christianity, but it is rather a comparison between Paul’s former ways and his newfound ways, i.e. Christ-centered and apocalyptic Judaism.[7]

こうしてみるとなかなか「宗教」のカテゴリーでパウロ自身のアイデンティティー理解がどうであったかを論ずるのはなかなか難しい感じがします。
やはりポイントはパウロにとって「キリストはどういうお方であったか」とキリストのアイデンティティーを中心に持ってくる必要があるのではないかと思いました。


なおこの辺の複雑な事情を考究した本として、デーヴィッド・ルドルフ『ユダヤ人に対してはユダヤ人として(A Jew to the Jews)』を「良さそうな本だなー」として言及しておきます。

[2018/8/15 追記]

このブログでは既にお馴染みのアンドリュー・ペリマンが、(3)『ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)』
Mark D. Nanos and Magnus Zetterholm, eds. Paul within Judaism: Restoring the First-Century Context to the Apostle
の出版を受けて、自らの「(新約聖書の)歴史的ナラティブ解釈枠」の視点からは「ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)」はどのように受け止められるか、と云うレスポンスを記事にしています。

2017年5月28日日曜日

2017.5 (リアル)読書会報告



[2017/6/2 追記あり]

先日の今年第2回目の読書会について簡単にレポートします。

参加者は今回が初めてという方1名、及びオブザーバーの形の2名を含め全部で8名でした。

用意した「縮小版」の
 ★ Introduction
 ★ A Fresh Perspective?
 ★ Conclusion
の特に「A Fresh Perspective?」を中心に読みました。

残念ながら細かい部分には入れませんでしたが、パウロのユダヤ教の基本的な信念(唯一神・選び/契約・終末)がロマ書のナラティブの土台にもなっていることを確認しながら学びを進めました。

この Paul and Caesar: A New Reading of Romans 論文は、「宗教と政治」テーマのうち具体的には「皇帝崇拝」に焦点を当てています。

「福音を宣言する」ことが暗に「皇帝崇拝」に対する挑戦となってロマ書に反響していることを英文を読みながら理解するのは難しいと言うことで、予め用意しておいた『聖書と物語(The Book and the Story)』から以下の引用を紹介しました。

多神教の権力構造に対する挑戦
 聖書の物語が始めからすべての多神教の政治権力構造に対して批判的であったことは「福音」という言葉に内在するものであり、これは新約と旧約、両聖書に見られるものである。イザヤは、ヤハウェの神がバビロンの偶像を打ち倒したことにより、バビロンのイスラエル支配はもはやなくなったという良い知らせを告げた。イザヤの語るユダヤ世界に深く根ざした新約聖書では、ギリシャローマ世界に対して、ナザレのイエスこそ新しい真の世の統治者であることを語っている。イエスの昇天こそ、全被造物が待ち望んでいた、解放と癒しをもたらす良い知らせである。この声明は「公の真実」か、さもなければ「公の嘘」か、いずれかであり、発言者が自身の内的宗教観を「私的な真実」として語ったものではあり得ない。
 イエスが「神の国」の到来について語ったとき、そのメッセージは時の権力者たちに対し明確な挑戦として語ったといえよう。だからこそ、イエスが十字架に処刑されるに至った理由が、歴史的にも神学的にも理解される。「イエスは主である」とパウロが語った時、それは明らかにカイザルの支配を喚起させる言葉を使っていた。世の支配者は二人並存し得ないのである。(『聖書と物語(The Book and the Story)』※)

キリスト教会の長い伝統では、ロマ書は「義認」や「聖化」の救済論的テーマを中心に読まれることが多く、政治的トピックとしては「13章の国家に対する服従」が限定的に扱われるのが常でした。

しかしロマ書全体は(始まりと終わりの部分を注意して読むと)「異教文化との対抗的」文脈を意識した宣教的な文書であることを意識しながら「皇帝崇拝」のエコー(反響)を文面から読む必要があるのではないか、ということを学びました。

ディスカッションでは(皇帝崇拝と)日本の天皇制との類似点なども話し合われました。

戦中のホーリネス系牧師たちへの迫害のことも話題に出ましたが、治安維持法側からキリスト教信仰が国体を脅かす「政治的含意」を指摘されて(信仰者側が)初めてそのことに気づくとはどういうことか、なども話し合われました。


閉会後は記念写真を撮って散会しました。


(二次会の巣鴨駅前大戸屋でのランチには5名参加しました。こちらでも色々な話題で盛り上がりました。)

[2017/6/2 追記]

上に『聖書と物語(The Book and the Story)』から引用しましたが、ちょうど読み始めた『使徒パウロは何を語ったのか』に適切な文章が見つかりましたので、追加しておきます。
 パウロの福音の歴史的背景をとらえれば、伝統的な宗教史研究における観念的な分類は、あまり役に立たないことがわかります。パウロの「福音」をよりユダヤ教的に理解しようとするなら、その福音は、皇帝礼拝や、「宗教的」であれ「俗的」であれ、あらゆる異教文化と対決するのです。それは、「王ではなく神」というユダヤ人の唯一神信仰のためです。・・・カエサル(またバビロン、ペルシアやエジプト、シリアなど)が王であるという主張に対して、イスラエルの神の主張は戦いを挑むのです。ヤハウェが王であると告げ知らせることは、カエサルは王ではないと主張することなのです。(77-78ページ、強調は原著)

2017年5月9日火曜日

2017 第2回目のライト読書会

既に「2017年度」全体の案内はしました。

《第2回目ライト読書会》については

日時: 2017年5月27日(土)午前10-12時
場所: 活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)
テキスト: Paul and Caesar: A New Reading of Romans 
とご案内しました。


2017年は「政治と宗教」というテーマで「(リアルの)ライト読書会」を計画したわけですが、4月1日の第1回目は「政治」と「宗教」が分離してきた(特に啓蒙主義近代以降の)歴史的背景をライトの個人史に沿って考えました。

日本においては自由主義と保守主義が対立することで、前者が社会正義や政治に関心を集中する一方、後者はその反動で「救霊」に専念するようになりました。それがどんな影響を及ぼしてきたのか、当日の出席者に語って頂きました。

第2回目は「政治や社会正義」に取り組む時、特に福音派が大事にしている「聖書の権威」をどのように実践に活かすのか、というテーマになります。

福音派のいわば土台となる「聖書釈義」を十全に用いた「神学」がどのように構築されるべきか、と云う課題、そしてそのテストケースとして「ライトのロマ書釈義」を読んでみたいと思います。

この「Paul and Caesar: A New Reading of Romans」と云う論文は、所収された論集

A Royal Priesthood?:
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に付けられた「A Royal Priesthood」と云うモチーフの含蓄もさることながら、「世界観レベルでの政治的対抗」を導き出すため、「伝統的なロマ書の読み」だけでなく、「NPPの読み」もまだ不十分だ、と云う批判的テーゼを含んだプロポーザルになっています。

そのように「ロマ書全体の展望」をどう見るかということが「肝心な問題」なので、皆さんと読む部分はかなり限定的になりますが、意識は論文全体の趣旨、即ち「A Fresh Perspective」に向けたいと思います。

そのため僭越ながらこの「Paul and Caesar: A New Reading of Romans」論文を「当日、実際に目を通し読み合わせる部分」と「アウトラインだけ見て本文は通り過ぎる部分」とに分離・圧縮したもの(※)を出席者に配布したいと思います。

※当日用に出席予定者に配布する縮小版は「Paul and Caesar、ライト読書会用(PDF)」で、後日お送りします。

当日まで3週間を切りましたが、この「案内」を読んで関心を持たれた方は是非お問合せください。(※英語が苦手な方は傍聴だけで大丈夫です。)

※問合せ・出席希望者は「小嶋」までご連絡お願いします。
「問合せ連絡先」は左コラム(←)を参照ください。 


2016年10月5日水曜日

「N.T.ライトの義認論」 (第6回 日本伝道会議・分科会) を終えて

ちょうど3ヶ月前にこの討論会について広告しました。
討論の内容を幾らかでも理解して臨んでいただくために、この「ライト読書会ブログ」のウェブサイトを用いて 期間限定で「情報提供」の場 を設けることにしました。
と書きましたが、最初にお伝えすることは討論会の報告ではなく、「掲載記事の撤収」についてです。

10月19日をもって「討論会関連記事」がこのウェブサイトからなくなります。(一部残します。)

 1. 「N.T.ライトの義認論」(第6回日本伝道会議・分科会) (残留)
 2. 「N.T.ライトの義認論」発題1 (残留)
 3. 「N.T.ライトの義認論」発題2 
 4. 「N.T.ライトの義認論」発題1資料 (残留)
 5. 「N.T.ライトの義認論」発題2資料 
 6. ライトの義認論:対話に向けて(1) 
 7. ライトの義認論:対話に向けて(2) 
 8. ライトの義認論:対話に向けて(3) 
 9. ライトの義認論:対話に向けて(4) 
 10. ライトの義認論:対話に向けて(5) 
 11. ライトの義認論:対話に向けて(6) 
 12. ライトの義認論:対話に向けて(7) 
 13. ライトの義認論:対話に向けて(8) 
 14. ライトの義認論:対話に向けて(9) 

以上11本の記事が撤収されます。

なお討論会についてはまた別の機会にご報告したいと思います。

以上よろしくお願いします。

2016年7月27日水曜日

「N.T.ライトの義認論」発題1 資料

ライトの義認論:
小嶋発題 パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」資料

(「『パウロ研究』に関する新しい視点」から抜粋)

ここまで見てきたように、「(誰かの無罪を)弁明・擁護する(vindication)」のに用いられる用語、「義とする(ディカイオー)」の関連表現は 法廷用語である。だから正義の神を法廷イメージを用いて言い表すことは適っている。神は最後には世界を正しく回復するはずのお方であり、神はそのように約 束され、その約束は守られる。しかしどのようにその約束を実現するかは、創世記12章以降で見ると、アブラハムと結ばれた契約を通してであることが分か る。とすれば、神の契約への忠実と、神の義とは、別な二つのことではなく、密接に繋がったものである。見てきたように、「デカイオスネー・セウー」フレー ズはその両面性を示している。


神が誰かのことを弁明・擁護する(vindication)と言うとき、神にとってそれは宣告を下すことである。私たちには二重に見えようとも、恐らくパ ウロにとっては単一に見えたのではなかったか。宣告とは、(A)ある者が「正しい」とされる(イエスの死によって罪の赦しが既になされているので)、こと とそして、(B)そのある者が真に契約の家族の一員とされていること、を指す。この家族とは、神がもともとアブラハムに約束していたものであり、今やキリ ストと聖霊を通して創造され、ユダヤ人も異邦人もともに等しく信仰をベースにして形成される単一の家族のことである。


私がこのような解釈を提出する理由は、同じ場所にありながらばらばらに置かれているように見える多様な分類・区別も、手繰り寄せて整頓することで(繋が り、まとまりが)見えてくるのではないか、ということである。ルターの「法的(forensic)」とカルヴィンの「子とする」の対立、シュヴァイツァー とサンダースの「法廷」と「キリストとの一体(incorporative)」の対立、などがそれらの分類・区別のことである。パウロの言わんすることが 契約神学を下敷きにしていることを一度でも押さえておけば、これらの二項対立は乗り越えられる。


このサブセクションの主要論点の第一は、これら二つのこと(罪の赦しを与えられた罪びとを正しいと宣告し、そして、多民族による一つの家族の一員であるこ とを宣告する)はパウロの脳裏では緊密に連携している、ということである。さらに言えば、後者の論点(家族への所属)がロマ書3章やガラテヤ3章ではとて も重要であると主張することが、前者の論点(神の法廷で義と宣言された者の一人とされる)の重要性を軽減するものではない、ということである。


このポイント(契約神学が下敷きになっている)は多少見えにくいが決定的に重要である。すなわち、神がアブラハムと契約を結んだのは、[旧約]聖書の大枠 から言っても、パウロにおいても、アダム来の「罪」とその影響を除去し、良き創造のわざそのものとして完成に導くためである。かくして、神が罪の赦しを宣 言し、また契約の民の一員と宣言することは、詰まる所、二つ別々の事柄ではないのである。
___________________________________
New Perspectives on Paul (http://ntwrightpage.com/Wright_New_Perspectives.htm)
引用部分は↓(最初と最後の文章)
"The language of vindication, the dikaioo language, is as we’ve seen lawcourt language....Thus God’s declaration of forgiveness and his declaration of covenant membership are not ultimately two different things."

「N.T.ライトの義認論」発題1



パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」
 (支持の立場からの発題 要旨)
 小嶋 崇


  N.T.ライトは、「大きな構図で物を見る人間(Big Picture person)」と自身を描写します。聖書の細かな釈義点についても詳細な議論のできる人ですが、彼の真骨頂は、「聖書全体を貫くテーマ」を、細部を余り 犠牲にすることなく説得的に示す力量ではないかと思います。


 ライトの「義認論」に関しては、ここ数年で日本の福音派の中でも、「新しい『パウロ研究』の視点」と共に紹介されてきました。しかし、この日本伝道会議 の場では、「新しい視点」からの主張点である、①「第二神殿期ユダヤ教」の特徴として挙げられる「契約遵法主義(covenantal nomism)」、②「律法の行い」は異邦人との民族的区別を表わす「割礼・安息日・食物規定」は横に置いておきます。


 その代わり、「義(ディカイオー)」語群が「法廷言語(lawcourt language)」を用いながら、
 (A)神の前に(罪びとを)義と宣言すると同時に、
 (B)異邦人もユダヤ人と共に「アブラハムの子孫」「神の民の一 員」であることを宣言する、
両面を持っていることに注目します。即ち、パウロ書簡において義認は「救済論」と「教会論」とを一緒に言い表す教えでもある、 とのポイントに集中します。


 「パウロにとって義認は救済論と教会論の両方を合わせたもの」とのライトの議論が正しければ、プロテスタント諸派、特に「福音派」の神学と実践に大きな 問題を投げかけます。
 それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。



(ライトの義認関連論文の一部を抜粋翻訳し資料として使います。別投稿します。)

「N.T.ライトの義認論」 (第6回 日本伝道会議・分科会)



 N.T.ライト読書会を主宰する小嶋からのご案内させていただきます。


 この度「第6回日本伝道会議」の分科会で「N.T.ライトの義認論」(コード ①−11)が「神学ディベート」と云う形で取り上げられることになりました。

 2016年9月28日(水)、14:00~15:30
 神戸コンベンションセンター

 丁度2ヵ月後となりました。
 
 図らずも小嶋が「支持派」側の発題を担当することになりました。
 また「慎重派」からは神戸ルーテル神学校の校長も勤められたことのある橋本氏が発題します。


 当日の分科会は全体でも90分という短い時間です。とても十分な討論をすることは無理です。ライトを余りよく知らない参加者も多いと想定されます。討論の内容を幾らかでも理解して臨んでいただくために、この「ライト読書会ブログ」のウェブサイトを用いて 期間限定で「情報提供」の場 を設けることにしました。

JCE6分科会「神学ディベート ――N.T.ライトの義認論――」
主催:JEA神学委員会 代表:関野祐二(鶴見聖契キリスト教会、聖契神学校)
発題者:小嶋 崇(巣鴨聖泉キリスト教会、N.T.ライト読書会)
     橋本 昭夫(宝塚ルーテル教会、神戸ルーテル神学校)
司会: 関野祐二(神学委員長、聖契神学校校長)
        佐々木望(神学委員会担当理事、バプ連合守谷教会牧師)

ディベートの時間枠
 a. イントロ(10分)
 b. 討論(50分)
  発題 1、小嶋「パウロの義認の教えは『救済論』と『教会論』」(15分)
  応答、橋本(7.5分)
  発題 2、橋本「N. T. Wrightの義認論を吟味する ―ルター神学の立場から―」(15分)
  応答、小嶋(7.5分)

 c. フロアとの質疑応答(30分)
 
 今後(少しずつですが)「発題要旨」「参考資料(12)」「解説」等を掲載して行く予定です。

 なおこの分科会の主催はJEA神学委員会ですが、このウェブサイトでの管理責任は小嶋にあります。

2016年7月15日金曜日

今日のツイート 2016/7/15

「今日のツイート」とは、「大和郷にある教会」ブログで常設しているエントリー項目ですが、この話題はやはりこちらが適当ではないかと思い、越境してきました。(笑)


一見して「宗教史学派」の「ヘブライスト対ヘレニスト」を踏襲した「大雑把」な物言いで、およそ(キリスト教青年部の人がイスラーム法学者から指摘されて)「なるほど」というほどのことはないと思うが・・・。

せめて、

(1)「パウロの『律法蔑視』」とはいかなるもので、どのようなロジックのもとにそのような「パウロ観」、そして「キリスト教(発達史)観」になって行ったのか、ということを検証するきっかけにしてはいかがだろう。

(2)「イエスが教祖」のキリスト教は「実質パウロ教、特にプロテスタントには」・・・のような「大まかな見取り図」をあたかも事実のように鵜呑みすることは、多大な新約聖書学・初期キリスト教学の研究成果を一切無視するようなもので、前途有為な「キリスト教青年」においてはそのような「知的逃避行動」は慎んで欲しいものだ。

※手始めに、ライトのWho Founded Christianity: Jesus or Paul?
あたりから読まれてはいかがでしょう。


2016年6月25日土曜日

ライト近刊紹介インタヴュー

最近は「ポッドキャスト」(ネット音声配信)をやるところが増えてきました。

今回紹介するのは、ブリガムヤング大学(米ユタ州)の「ニール・A・マックスウェル(宗教学)研究所」のものです。

今年2月の配信ですが、ライトの『最近のパウロ研究史』(2015年10月)などの著作を紹介しています。
 (こちらは一章「舞台設定」の抜粋です。)


この本の他に、The Paul Debate: Critical Questions for Understanding the Apostle(2015年10月)


さらに、今年10月に出版して予定の、The Meaning of the Cross: The Day a Revolution Began.(仮題) のことも話題にしています。(26分過ぎくらい)

その他の話題としては、ヨーロッパの左派系哲学者たちが「パウロ」にインスピレーションを探る動きを紹介しました。
このインタヴューでもライトはそのことを取り上げています。(54分過ぎくらいから)


1時間を越えるインタヴューで、質問者もしっかり聖書学動向を押さえていて、充実した内容になっています。

それにしても、Paul and His Recent Interpreters はどうやら購入した方が良さそうかな・・・と考え始めています。

既に書評としては、ニジェイ・グプタ(これ、他2本)が書いています。

[2016/8/5 追記]


上で紹介した本の正式な案内が出ました。
 The Day the Revolution Began: Reconsidering the Meaning of Jesus's Crucifixionこちらがリンク

2016年4月4日月曜日

『新約聖書と神の民・上』 出版記念講演会 レジュメ

案内しています 講演会のレジュメが届いています。



イベントタイトル: 

  N.T.ライト『新約聖書と神の民』出版記念講演

講演題: パウロの「ストーリー神学」のクライマックス
    ―N.T.ライトによるローマ9-11章の講解―

講演者: 山口 希生


レジュメ:


1.N. T. ライト先生の紹介

2.「ストーリー神学」について

 ・ストーリー神学は、「文芸批評」や「物語神学」とは同じではない
 ・ストーリー神学とは、神学の営みにおいて、「歴史」をストーリーとして語ることを指す。同じ歴史を語るのでも、どのような観点からその歴史を語るかで、全く異なる神学的見解が表明される。


3.ユダヤ人たちのストーリー語り

 ・第一マカベア記…当時のユダヤ人たちが抱いていた「律法主義」とはどのようなものか?「律法への熱心(ゼーロス)」の意味を考える。
 ・4QMMT「律法のもろもろの行い」…当時のユダヤ人たちが抱いていた「申命記史観」について。そして特に、申命記30章の重要性について。


4.ローマ人への手紙9章―11章

 ①ローマ9章6節-29節

…パウロによるイスラエルの歴史語り。族長時代、出エジプト、バビロン捕囚とその後の回復。これらの歴史語りを通じて、アブラハムの子孫(スペルマ)、「約束の子」とは誰なのかが明らかにされる。


 ➁ローマ9章30節-10章4節

…「律法に達しませんでした」とはどういう意味か?ここで引用される申命記30章から、パウロの真意を明らかにする。

 ③ローマ10章5節-13節

…このセクション全体の心臓部。

 ④ローマ11章1節-24節

…イスラエルが捨てられたことの救済的意味。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば…」

 ⑤ローマ11章25節-32節

…「全イスラエル」とは誰を指すのか?また、彼らはどのように救われるのか?



※当日講演へのレスポンスが、聖書学から、神学から、それぞれございます。

ご来場をお待ちしています。

2016年2月8日月曜日

『新約聖書と神の民・上』 出版記念講演会

“ライト元年”の2015年には、5月に『クリスチャンであるとは』(原題 SIMPLY CHRISTIAN)、そして12月に・・・

新教出版社、

N・T・ライトの主著

『新約聖書と神の民』上巻を発売

クリスチャントゥデイ記事

となりました。

このThe New Testament and the People of God の上巻翻訳出版を記念して、

出版記念 特別講演会 

を開くこととなりました。(ちょうど2ヵ月後となります。)


日時: 2016年4月9日(土)、午後1-3時 

会場: 日本聖書神学校、202号室(山手線目白駅下車徒歩10分)

講演者: 山口希生(翻訳者)

講演題: 「パウロの<ストーリー神学>のクライマックス
―N. T. ライトによるローマ9-11章の講解―」 

応答: 1-2名予定 

参加費: なし

主催: 新教出版社、N.T.ライト読書会


問合せ: 新教出版社出版部 editorial@shinkyo-pb.com


※講演者の山口希生氏は、ライトのもとで博士論文指導を受け、昨年博士号を授与されました。今日本で最もライト師のことを知る方です。
 この機会に是非ライト神学の真髄についての講演をお聞きください。


2015年10月22日木曜日

「継続する捕囚」

先日もたれた第4回N.T.ライト・セミナーの第Ⅱ部で、伊藤明生(東京基督教大学神学科長・新約聖書学教授)氏が「呪いと契約:ガラテヤ3章10節~14節」と題して発表した。


セミナー案内記事で少し解説した文を先ず以下に再掲する。
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3章10節、新改訳)
N.T.ライトの新約聖書理解は、旧約聖書を単に「背景ストーリー」として参照するのではなく、創造から始まり、イスラエルの民の選びと契約という「大きな物語の成就」としてイエスの十字架と復活を捉えます。
特に「十字架の贖罪」理解において、「契約」が決定的に重要な要素であることを、ライトは自身の論文集、The Climax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theologyで論証しています。
発表ではその議論を紹介し、私たちのガラテヤ書理解にどんな光を投げかけるか見てみたいと思います。

と書いておいたが、標題の「継続する捕囚」とは、
このガラテヤ3章を解釈する枠組みとして「契約」、特に申命記に書かれている契約に伴う「呪い」の結果である「捕囚」が、第二神殿期ユダヤ人の世界観の中で「依然として終わっていない、継続していた」、という歴史的理解の前提をさす用語
である。

「継続する捕囚」については、小嶋がセミナー当日の資料のイントロに「簡単な解説」を付したが、ここで少し引用してみよう。


 「一世紀、イ エスやパウロ時代のユダヤ人は地理的には捕囚から帰還し、約束の地に戻り、神殿も再建していた。にも拘らず、政治的独立を奪われている情況では預言者たちが約束した『捕囚からの帰還』は成就していない。依然として捕囚は続いている」という当時のユダヤ人の歴史認識、世界観の一部を指します。今回伊藤氏が翻訳した部分の直前、パウロの「呪いと契約」枠組みの歴史的「前置き」としてライトがプロポーズしているものです。
 ライトは、パウロはガラテヤ3 章を「契約」(・・・)の枠組みで議論していること踏まえ、メシアがイスラエルを代表して呪いを受けることによって捕囚が終わり、アブラハムの祝福をブロックしていた律法の呪いが終了し、異邦人への祝福(その結果である聖霊 の賜物)がメシア(アブラハムの『末(seed)』)を通して到達した、という見通しを示します。 

『契約のクライマックス』(1991年)は「パウロ研究」の本だが、「継続する捕囚」は「史的イエス」研究でも、そしてライトの《新約聖書神学アプローチ》全体でも、重要なモチーフの一つであり、「第二神殿期ユダヤ教」の世界観を構築する上での大切なビルディング・ブロックとなっている、と言って差し支えないだろう。


『クリスチャンであるとは』の叙述では「継続する捕囚」という表現は出てこないが、「イスラエルの物語」を織りなす「繰り返される」スレッドとして「捕囚と回復」のパターンが指摘されています。(126ページ)

以下、「継続する捕囚」が解説・議論されている代表的なものを挙げておきます。

1. NTPG, 268-272.

2. Continuing Exile: Paul and the Deuteronomy/Daniel Tradition (2010年11月、Trinity Western Universityでの講演)

3. Justification: God's Plan and Paul's Vision, 41-45. (上記講演の簡易版)

4. JVGでは「捕囚からの帰還(Return from exile)」で、沢山の箇所で議論されている。



5. Carey C. Newman編の、Jesus the Restoration of Israel: A Critical Assessment of N. T. Wright's Jesus the Victory of Godでは、特にCraig Evansが扱っている。

6. 新約聖書ブロガーのMike Birdが,自身の Euangelionブログで扱っている。これ、とこれ

最近では、
7. アンドリュー・ウィルソンが今年の英国新約聖書学会(BNTC)で、「捕囚の終わり」のテーマでフィリップ・アレキサンダーとライトの発表ノートを記事にしている。

興味深いところではユダヤ人学者で死海写本研究で名高いローレンス・H・シフマンが、
"Exile and Return in the Dead Sea Scrolls"(「死海写本での捕囚と帰還」)
を自身のブログで記事にしているが、基本的に「継続する捕囚」の見方を支持している。

Perhaps one of the most interesting aspects of our study will be the observation that from the point of view of the Qumran sectarians, and indeed in some other Second Temple sources as well, the return that took place during the Persian period and the creation of a Jewish commonwealth at that time, and even the rebuilding of the Temple, were not considered to be the fulfillment of biblical prophecies of return. Indeed, we will see that our authors write as if the exile continues in their own time, despite the fact that they are living in the land of Israel.

以上関心のある方へ、ご参考までに。

2015年10月12日月曜日

ライトのパウロ研究をめぐる論集

N.T.ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズは、現在、
Paul and the Faithfulness of God(以下PFG)
で予定6巻中の第4巻を刊行した。

そのつど論集が組まれプロもコンも含めた学者たちが、ライトの野心的な新約聖書神学研究を分析評価している。

このブログでもPFGへの書評はそのつど目に付いたものは紹介してきた。

1. ダグ・ムー (ホィートン大)
2. ベン・ウィザリントン (アズベリー神学校)
3. ラリー・フルタドフルタド2フルタド3 (エディバラ大)
4. アレクサンドラ・ブラウン (ワシントン・リー大)

ここでやめてしまったが、実はPFGに対する最も厳しい書評がセントアンドリュース大の同僚ダーラム大のジョン・バークレーから出された。 (ついでといっては悪いが、クリス・ティリングの書評も好評。)
5. ジョン・バークレー
6. クリス・ティリングティリング2

さてここまでは前段。

ライトのPFGに対する本格的な論文集が、マイク・バードら若手の学者たちによって企画されている。論文を寄せるのは英語圏のみならず、ドイツ語圏の学者たちも含まれる、より国際的な視野によるものだ。

(※中に一本韓国の学者によるものも含む。)

God and the Faithfulness of Paul

※PFGではなく、GFPですから、お間違いなく。
紹介文に
N. T. Wright’s Paul and the Faithfulness of God is the culmination of his long, influential, and often controversial career – a landmark study of the history and thought of the Apostle Paul, which attempts to make fresh suggestions in a variety of sub-fields of New Testament studies
とあるが、「引き締まった議論」という点で1700ページのPFGは大分批判を受けているが、多様な背景を一箇所に集めて「厚い描写(thick description)」を施すという人類学的手法に近い観点から言うと、新約聖書学の諸分野への波及が評価される点になるのかもしれない。

マイク・バードとともに編者のひとりとなっている、クリストフ・ハイリッヒはセント・アンドリュース大でも少し学んでいるが、今回の論集にドイツ語圏の学者たちも引き入れいれる役割を果たしているのかもしれない。

とにかく、このようなかたちで取り上げられるライトはいろいろな批判があっても、それだけ学問の分野の幅を広げたり、新しい視点を提供したり、貢献しているのだろう。

それがライトの影響力ということではないだろうか。

2015年9月3日木曜日

第4回 N.T.ライト・セミナー

9月を迎えました。

第4回 N.T.ライト・セミナーまで1ヶ月となりました。

日時: 2015年10月5日(月) 13時30分~16時30分
場所: お茶の水クリスチャンセンター・416号室(50名収容)


簡単にご紹介します。

Ⅰ. 開会講演

スピーカー:上沼昌雄(『クリスチャンであるとは』訳者)

テーマ:「『クリスチャンであるとは』にみるN.T.ライトの歴史観」

趣旨:
「聖書を読む時、私たちはこれまで『16世紀が設定した問題に、19世紀が回答する』枠組みを用いてきた。しかし今や『1世紀が設定した問題に、21世紀が回答する』枠組みに取り替えるべきときである」
We need to find 21st Century answers to 1st century questions, not 19th century answers to 16th century questions - See more at: http://www.biblesociety.org.au/news/n-t-wrights-australian-visit-sparks-respectful-arguments-on-pauls-writings#sthash.KcJogkuU.dpuf
We need to find 21st Century answers to 1st century questions, not 19th century answers to 16th century questions - See more at: http://www.biblesociety.org.au/news/n-t-wrights-australian-visit-sparks-respectful-arguments-on-pauls-writings#sthash.KcJogkuU.dpuf
We need to find 21st Century answers to 1st century questions, not 19th century answers to 16th century questions - See more at: http://www.biblesociety.org.au/news/n-t-wrights-australian-visit-sparks-respectful-arguments-on-pauls-writings#sthash.KcJogkuU.dpuf

という決まり文句を使って、ライトは「現在の混迷する(西洋)キリスト教の所在と、そこからの脱出のヒント」を示唆する。

ライトの著作に流れるこのような(歴史認識のずれた神学論争に対する)問題意識を無視してライトを読むと大変な読み違いをすることになるだろう。

いかに「1世紀の視点で、そして21世紀の問題意識をもって聖書を読む」か。その作業の重大さと難しさを覚える。

その困難さを『クリスチャンであるとは』から紹介しながら、ライトという人の歴史観とはいかなるものか考えてみたいと願っている。 


Ⅱ. 研究発表

スピーカー:伊藤明生(東京基督教大学神学科長・新約聖書学教授)

テーマ:「呪いと契約:ガラテヤ3章10節~14節」

趣旨:
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3章10節、新改訳)
N.T.ライトの新約聖書理解は、旧約聖書を単に「背景ストーリー」として参照するのではなく、創造から始まり、イスラエルの民の選びと契約という「大きな物語の成就」としてイエスの十字架と復活を捉えます。

特に「十字架の贖罪」理解において、「契約」が決定的に重要な要素であることを、ライトは自身の論文集、The Climax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theologyで論証しています。
発表ではその議論を紹介し、私たちのガラテヤ書理解にどんな光を投げかけるか見てみたいと思います。

参加費千円を当日受付にて係りの者にお支払いください。

チラシも間もなくできることと思いますが、しばらくお待ちください。



問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)


セミナー実行委員一同

2015年3月6日金曜日

チャールズ・E・B・クランフィールド(1915-2015)

新約聖書学、特にロマ書注解で貢献した英国の学者、チャールズ・E・B・クランフィールドが先日天に召された。

ビブリオブログスフィアーではもう幾つか「追悼記事(オビチュアリー)」が出ているが(※記事の最後に幾つかリンクを貼っておいた)、ライト読書会ブログとしてはライト自身の記事を紹介することにしよう。

読める人はリンクを辿って読んで頂きたいが、英語が大変な人のために3箇所だけ選んで引用してみた。

(1)新約聖書(釈義)学の偉大な「模範」としてクランフィールドを称えている箇所(周到に釈義されたものに対抗するような説を立てるには、「早朝からネジリ鉢巻」で格闘する覚悟が必要・・・とユーモアを効かせている)
The remarkable thing about this commentary is that, even though I now disagree with Cranfield on several of the major interpretative issues, his steady and persistent laying out and weighing up of all the exegetical options remains a model of ‘how to do it’. You always know, with Cranfield, that if you are going to take a different line you will need to get up very early in the morning and hold your nerve through some highly complex discussions of texts and theological issues.
(2)「パウロにおける律法」の扱いでライトが苦悩している時、大勢に反してクランフィールドが出した見方がライトが正しいと思っていたものだったことに感動して、「思わず跪づいて神に感謝の祈りをささげた」と言うエピソードを紹介している箇所。
Though I do not think Paul’s discussion of the Jewish Law was primarily about moral restraint, this easy-going rejection of the law, and a facile opposition between ‘law’ and ‘gospel’, was the order of the day, and I was having difficulty combatting it. At that point I came across Cranfield’s essay on ‘Paul and the Law’, published earlier, and then subsequently incorporated into the long essay on Pauline theology at the end of the second volume of the Romans commentary. I think that was the first time I ever spontaneously knelt down and thanked God for an academic article. It said what needed to be said at a time when nobody else was saying it.
(3)ある日クランフィールド家でお茶をいただいた時、クランフィールドとC・K・バレット(2011年没)にちょうど挟まれた席に座った時のことを、「象と犀の間」と面白く表現している箇所。
On one memorable afternoon, during a conference in Durham, I went to a meeting in the Cranfield home, and found myself sipping tea between the great man and C. K. Barrett. I felt like a small puppy sitting between an elephant and a rhinoceros. These were men who, for all their differences, showed the next generation what it looked like to hold together massive scholarship and deep personal faith and commitment. 

その他の記事のリンク
(1)ニジェイ・グプタ
(2)マイケル・バード
(3)ベン・ブラックウェル


2014年12月12日金曜日

パウロ研究動向にシフト?

『福音の再発見』の著者で、「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ」の名付け親、ジェームズ・ダン教授(英国ダーラム大学)のもとで博士号を取得したスコット・マクナイト氏が、自身の「ジーザス・クリード」ブログで、
The Conversation Shifts
と題する記事を投稿した。

簡単に紹介すると、
(1)過去「20年以上」にわたってパウロ研究をリードしてきた「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対オールド・パースペクティブ」(略して、NPP vs. OP) 論争がほぼ収束し、それに替わって
(2)「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対アポカリプティック・パウロ」(略して、NPP vs. AP)論争が支配的になってきた。
つまり、パウロ研究での論争が、 NPP vs. OP、から、NPP vs. APにシフトしつつある、と言う観測である。

(1)についてのポイントは、既にこの記事にも少し書いておいたが、英語圏のアカデミックな世界では「収束」したと言っても、その外、特に日本では「まだこれから」観がある。

マクナイトが次のようにNPPの視点の意義を要約しているが、コンサイスでいいかな、と思う。
With the growing conviction that Judaism was a covenant and election based religion (Sanders, Wright) there came a radical change in how Paul’s opponents were understood and therefore what Paul was actually teaching. He was, to use the words of Dunn, opposing “boundary markers” more than self-justification.
「ユダヤ教は契約と選びに基づく宗教である」 と言う認識は、NPPの立場を取るマクナイトにとって、「アポカリプティック・パウロ」に対する疑問点のベースになるものだろう。
Concerns? Plenty. Where’s Israel, where’s the Story of Israel, where’s serious engagement with Jewish apocalypses (where one learns that many today do not think there is even such a thing as an apocalyptic worldview so much at work in the work of these apocalyptic Pauline specialists), where’s election, where’s the church, where’s the very problem that drove Paul — the vexed relation of Jews and Gentiles in the one people of God?
いずれにしても、ある種「論争」的なものが付きまとうのが「学会」であるとすれば、部外者としてはせめてその論争が鋭く対立することによって見えてくるものを期待するのもよしかなと思うが・・・。

2014年10月17日金曜日

PFGに対する批判的な書評、アレクサンドラ・ブラウン

まだ本当に出たばっかりの書評だ。

ワシントン&リー大学宗教学部教授、アレクサンドラ・ブラウン

Paul and the Faithfulness of God (クリスチャン・センチュリー誌、2014年10月16日)

2014年7月13日日曜日

N. T. Wright on Jimmy Dunn

You can read NTW's Foreword to

Jesus and Paul: Global Perspectives
in Honour of James D. G. Dunn.
A festschrift for his 70th Birthday
(Library of New Testament Studies)

just by "Click to Look Inside" button.

(Warning: There are some differences as to how much you can read from the book's Amazon site. If you go by "Click to Look Inside" button, you can't read NTW's Foreword in full. But if you click the link at the top, you can read all. Or at least I could.)

Since the festschrift itself is priced at $133.00, those who are only interested in reading what NTW has to say about his senior NT scholar will find this time and money-saving.

In fact, it's quite amusing!
For example, NTW has this to say about differing interpretations of the identity of  the "wretched man" in Romans 7:
Ironically, I had already changed my mind by then on one of the things about which, when I first heard Jimmy lecture, I was most excitedly in agreement with him. I had been arguing for some time, against the majority, that the 'wretched man' in Romans 7 was Paul the Christian; here was a scholar senior to me, and a very lively thinker and lecturer, who set out the case as energetically as I had ever heard it, in his own Tyndale lecture of that year. Alas, by the time I completed my thesis I had come to see things very differently: not that I ever agreed with the normal 'majority' reading then prevalent particularly in Germany, but that I had tried to develop a different way again, taking into acount what seemed to me then, and still seem, fatal objections to the 'Christian' reading. Jimmy and I have not revisited that subject for many years now, but I still recall the amused frustration I felt on realizing that one of the things I thought I actually agreed with him on had now become yet another disagreement.
At any rate, even in these several pages of Foreword, you can get a good biographical data about and between the two of the most distinguished British NT scholars of our period.

2014年7月10日木曜日

アラン・バデューのインパクト

大和郷にある教会
ブログで紹介したこともある、
ベン・マイヤースのFaith and Theologyで、
Alain BadiouSaint Paul
が紹介されていたのが2007年8月。 
実に7年も前だ。

当時の彼はアラン・バデューの「発見」を興奮しながら何回かその後のブログで投稿している。
ベンは「聖パウロ」から以下を引用している。
“With Paul, we notice a complete absence of the theme of mediation. Christ is not a mediation; he is not that through which we know God. Jesus Christ is the pure event, and as such is not a function, even were it to be a function of knowledge, or revelation…. Christ is a coming; he is what interrupts the previous regime of discourses. Christ is, in himself and for himself, what happens to us. And what is it that happens to us thus? We are relieved of the law. But the idea of mediation remains legal…. [This idea is] a muted negation of evental radicality” (pp. 48-49).
Theology with Alain Badiouから。