2017年8月31日木曜日

FB読書会 2017年8月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて5ヶ月が過ぎました。

ほぼ「1章/月ペース」で進んでいます。

8月は第7章をカバーしました。5つのパートに分け3人の方が担当してくださいました。上手く捗りました。

ということで今回は《感想》部分も少し多く紹介しました。


第7章 キャンペーンここに始まる(129-161)


イントロ(129-131)

《引用箇所》 紀元一世紀の眼鏡をかけたまま、イエスと、そしてイエスがイスラエルの神について語ったことを振り返ってみよう。使者が公式の布告を宣言するやり方に倣って、イスラエルの神がついに王となられたことをイエスは宣言した。「時は満ちた!」と彼は言う。「神の王国はいまや到来しようとしています。・・・」(マルコ1章15節)
こうした宣言がどんな効果を生むか、少し考えてみよう。民主主義の下で生きる今日の私たちは、新しい大統領や総理大臣と共に新しい政府が誕生することを経験している。それをラジオやテレビのニュースで聞き、それが新しい政治の始まりであることを知り、新体制を受け入れる。(129)
「祝宴、癒し、赦し」(131-140)
《引用箇所》 赦しは実際のところ、癒しの一種なのである。それは、人々を押し潰して身動きできなくする重荷を取り除いてくれる。赦しは掛け値なしに人を真っ直ぐに立ち上がらせるのだ。それは社会全体に広がっていく。(136,137)
赦しと癒し。この二つは個人的にも社会的にも、分かちがたく結びついている。社会全体が、積年の恨みから生み出されれる不和によって身動きが取れなくなり、内乱へと発展する。直視されることも、赦されることもなかった一つの出来事や行動のために、家族も引き裂かれることになる。同じように社会も家族も、そして個人も、赦しを通じて和解がなされ、新しい希望と新しい愛を見いだすことができる。 (138)
《感想》 イエスの宣言は「神があなたの心の王座に着かれた」のではなく「神がこの世界の王座に着かれた」である。私たちは、プロテスタントの流れの中で「神と私」の関係を強調しすぎてしまい、神が世界(あるいは社会)に対して為されることに興味関心を持たなくなってしまってはいないか。それに加えて、私という個人が世界、社会、隣人に対して為すべきことをあまり考えなくなっているのではないだろうか。神との関係を強固に保つことが第一の目的になってはいないだろうか。・・・・・・
神はこの世界を通して私という個人を癒し、そして私という個人を通して世界を癒そうとされているのではないだろうか。また、自分自身は家族や隣人との関係の癒し(回復)にどれほど関心を払い、祈り求めているだろうか、と思わされた。

「最初の宣言」(140-146)

《引用箇所》 イイエスの最も正式な宣言は、ルカの福音書の中で(ルカ4:16~20)、その公生涯の最初になされた。・・・イエスは立ち上がり、イザヤ書の巻物の中からある一節を読んだ。
 その箇所は来たるべき世、奴隷状態からの解放、新しい出エジプト、捕囚後の回復に言及した偉大なる聖書箇所の一つだった。(140)
《感想》 >奴隷状態からの解放
これが、実は救いの理解なのだと、実はライトさんの著作を読み始める7年くらい前までは明確に言語化できなかったのですが、ライトさんの本を読み始めて、これで読むと非常に明確に、スッキリと、旧新約聖書が読めることに気が付き、それ以来、個人的には、あぁ、なるほどこう読むのか、と従来バラバラで、セメダインやガムテープでガチガチに固めていたものを一旦外して、きれいに並べ替えて、非常にスムーズに聖書を理解できるようにはなりました。
「あなたの罪は赦されました」(146-151)

《引用箇所》  これらのストーリーは、それに類した他のストーリーと同様に、待望久しいヨベルの希望と共鳴するものだった。それはイスラエルの罪によってもたらされた捕囚からの解放であった。また一方でこれらのストーリーは、偉大な出エジプトのストーリーによって喚起されるイスラエルの希望とも共鳴するものだった。そのどちらにおいても、罪を赦すとイエスが宣言した際、彼のしたことに対する不満の声が上がった。パリサイ派のシモンの家にいた人々は、「罪さえ赦すこの人はいったい何者なんだ」と尋ね、癒された中風の男を見た律法の専門家は、罪の赦しは神だけができると指摘した(マルコ2:7)。(150)
《感想》 イエスのキャンペーンのテーマである「祝宴、癒し、赦し」がここで再び浮き上がってくるのが分かります。「イエスの癒し、祝宴、それを切実に必要とされている人への赦し、これらすべてが、神が王となられると彼が語った時、いつも聴衆の心に生れただろう大きなヴィジョンの手近な現れなのである。」と結んでおられるのが心に残りました。
「ヨハネとヘロデ」(151-161)
《引用箇所》 しかしヨハネは、彼の従兄弟のイエスこそ、来るべき王であると信じていた!イエスの行動を通して、神はついに王となるーー暴君の圧政を打ち砕き、民を解放する!もしそれが起こるとすれば、まさにうってつけの役割がヨハネにあったのではないか?ヨハネの公生涯のクライマックスは、とどのつまりイエスの宣教を開始させることにあったのだ。イエスを、神の時の人として立ち上がらせることだった。それではなぜ、イエスはヨハネの苦境を知りながら何もしてやらなかったのだろうか?(152-3)
《感想》 この部分の記述は、所謂なぜ、神は悪を放置するのか、議論(所謂神義論?)ともつながる問だと思います。我々は、このような問いをすぐに、それも安易に立てたがる傾向があると思いますが、神のご計画はそれこそは不可知なことでは無いか、と思っております。それが次の部分にもつながっていると思います。そして、今も神は善なのに不善を許すのか、というような問になって、いまも続いているのかなぁ、と思いました。


以上8月中の『シンプリー・ジーザス』第7章ほぼ読了・・・という進捗・経過報告でした。

その他「フリーeBook情報」ということで以下の二つのリンクを紹介しておきました。
 (1) The Gospel According to Acts by N.T. Wright
 (2) Was Jesus a Jew? Discovering the Jewish Jesus


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年8月は、入会2名で、トータル229名となりました。


以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年8月8日火曜日

Salvation By Allegiance Alone 7

さて、『Salvation By Allegiance Alone』という一冊の本についての様々な紹介記事を見てきました。

それだけこの本が、「福音・救い・信仰・キリスト者生活」をトータルで再確認する、特に「王なるキリストを中心に」再構築する必要を訴える本になっているので注目を集めたのではないかと思います。

今回この「7」でシリーズを終了するにあたって、もし一番簡単な紹介文、最も導入として的を射ている「帯文」は・・・(まだ本書そのものを読んでいないで言うのも何ですが)これではないでしょうか。


"Matthew Bates argues that faith or believing is not mere assent, not easy believism, but covenantal loyalty to the God who saves his people through the Lord Jesus Christ. Bates forces us to rethink the meaning of faith, the gospel, and works with a view to demonstrating their significance for true Christian discipleship. This will be a controversial book, but perhaps it is the controversy we need!"
Michael F. Bird, lecturer in theology, Ridley College, Melbourne, Australia
 このバードの表現に即して言えば、
(1)easy believism
(2)Christian discipleship
(3)covenantal loyalty
あたりが特に目に付きます。

マクナイトの紹介でも何度か出てきたと思いますが、ボンヘッファーが強調した「弟子(付き従う)」としての能動的信仰面が、「救いの恵みを受ける(「安価な恵み」の問題)」という受動的信仰ではなかなか伴わない、ということがこの本の主張の背景にあると思います。

また宗教改革来の課題である(信仰に対して)「行い」をどうするか、倫理とか「キリスト者生活」の問題が、(組織)神学的には「聖化」や「キリスト教倫理」という形では取り組まれてきましたが、やはり「(個々人の)救いの完成」というフレームを越えては解決できていないのではないか、ということがあると思います。

一つの《中間考察》として

前回6でも言いましたが、このシリーズは「大和郷にある教会」ブログの『救いについての「教理」』
と並行して進めてきました。

いまこちらのシリーズを終えるにあたり思うことを一つ二つ挙げておきたいと思います。


(1)(救いの)共同体面をどのように回復するか

これだけ注目を集める『Salvation By Allegiance Alone』が様々に指摘している「救い」をめぐる問題群は、(宗教改革後の)プロテスタント諸教派共通の問題となってきたように思います。

簡単に言えば「個人的な視点」がかなり強くなったわけです。

それは「制度的な教会」、つまりカトリック教会への様々な過剰反応として現れてきた面を含むと思います。(たとえばその一つは「サクラメント」と「ヒエラルキー的職制」の問題がダイレクトに繋がって見えるということとか・・・。)

いま宗教改革の伝統に属する教会の「教えと実践」でかなり基本的なところで見直しが起こっていることの背景に考えられるのは・・・やはり一つの大きな要因は「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)」ではないかと思います。

たくさんの書評を紹介してきましたが、ある意味指摘されている問題群は「キリスト教文明」に典型的に起こりそうな問題だと思います。

簡単に言えば「キリスト教が文化」な環境、「信仰」や「救い」に中途半端に接することが多い環境です。

ノミナル(名ばかり)・クリスチャン、(幼児)洗礼は受けたが・・・その後はさっぱり、というクリスチャン文化です。

キリスト教がマイノリティーだったり、キリスト教に対して敵対的だったりする文化圏では、信仰にしても救いにしても中途半端に過ごすことはそれなりに難しい。やはり覚悟がいります。

(しかし「キリスト教がマイノリティー」だからといって「教会文化」がない、育たないと言うことではありません。)

そういう意味でも、バードが(アリージャンスと同意に?)使った「covenantal loyalty」はなかなか示唆的です。

個人主義的視点から見た場合、「救い」の「信仰」に「契約共同体」的側面があることを自覚するのはなかなか難しい。

「洗礼式」の式文では「(教会)入会式」的な側面がありますが、リバイバリズムの背景が強い教会では「回心」の後に 「洗礼を受けて・教会に入る」意識がどうしても強くなりがちです。
(「回心」と「洗礼」とは教会共同体を中心にしてなるべく分離しない、時間的にも重なるような枠組みが必要に思います。)

(2) 「日本」の文脈との連絡の仕方

第1点で指摘した「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」がそれなりに正しいとすると・・・いわゆる日本における「欧米の最新神学思潮・流行導入傾向」 ということで二重に注意が必要になるかもしれません。

日本語文化圏というのは「近代」国家ということでいえば「日本語の代わりにどれか近代諸国家の言語を第一言語として国家制度を整える」という国家政策を取らずにきた結果である、と言えます。(この現象の文化面からの重層的分析として水村美苗の『日本語が亡びるとき』があります。この記事この記事 など。)

明治以来、一生懸命「知識人」たちが最新科学技術及び文化情報を「翻訳」して国民全体の教育レベルを維持してきたわけです。

残念ながら福音派「神学」では最近この志向にブレーキをかける傾向があるみたいですが・・・。

さて、『Salvation By Allegiance Alone』がNPP等のアカデミックな議論の延長上、つまり「聖書学」からの「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への波及、という文脈で捉えた場合、「日本」の文脈との連絡の仕方は二つのフロントで評価・導入するという問題になると思います。

① すなわち「聖書学」での議論の積み上げへの評価が必要と言うこと。

このことは「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への影響とはある程度切り離した形で必要だと思います。
※このシリーズでは紹介しませんでしたが、ニジェイ・グプタが「この本は内容はわざわざ議論される必要がないほど(聖書学的見地からは)すでに前提的なものである・・・」みたいな嘆きをその紹介記事で添えています。
現状は「聖書学」の評価を独立してするほどまだ(欧米の福音主義でも)基盤が強くないような印象です。そのため予防・防衛的に悪影響のありそうな思潮・潮流に限定して 水際作戦を展開するメンタリティが先行気味・・・などと言うことも散見されるのでしょう。

もちろん「トレンド・流行」にだけ敏感になるのも問題ですが、日本が「島国鎖国的メンタリティ」を引きずる伝統があるとすると、世界の(神学的)動向に絶えず注意を向けていることには積極的であっていいと思います。

② もう一つのフロントである「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」のフロントですが、これに関してはむしろ「教派神学」的伝統にしても、「福音主義」という今日(20世紀)的神学運動にしても、日本ではほぼ受動的であったし、今後も同様に推移しそうな感じです。

だとすると、逆に言えば、「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」に対しては(皮肉な言い方になりますが)ある面余裕をもって対応できるのではないか・・・。

「キリスト教がメジャーからマイナーに転落する」経験は日本においては得られそうにありませんが、「キリスト教がマイナー」な環境でどう「教えと実践」を展開するかという問題に対してはそれなりの備えがあると思います。

今回のシリーズで紹介した中では、アンドリュー・ペリマンが最も自覚的にこの問題を捉えているので、この面では一番参考になると思います。

ただしペリマンの「キリスト教の福音の地平線」設定は慣れないとかなりラディカルに響くと思いますが・・・。

それでは7回も連載したシリーズを(めでたく)終了いたします。



2017年8月7日月曜日

Salvation By Allegiance Alone 6

スコット・マクナイト(ジーザス・クリード)の『Salvation By Allegiance Alone』紹介・インタヴュー(全9回)の2回目になります。

マクナイトの書評と著者インタヴュー、 
 Faith as Allegiance
 What Allegiance (Faith) is Not
 The Gospel of Allegiance
 Three Elements of Faith
(以上前半)

以上を前回カバーしました。

今回は以下の5つとなります。
 Is Salvation by Allegiance a Kind of Works?
 Is Faith-as-Allegiance Yet Another Instance of the Law of Moses?
 So How Much Allegiance is Required?
 When the Gospel includes New Creation
 Matthew Bates: When Justification Meets Allegiance


前回もそうですが、5つの記事それぞれにコメントはしません。

正直言ってベイツの主張が引き起こす論争の多くは「恵みのみ」「信仰のみ」の宗教改革原則にもとるのではないか、といったような「神学的要請」と「新約聖書テクスト」の意味・ニュアンスの中心・はばはどの辺にあるか・・・というかなり押し問答的な様相を呈するわけです。

一応著者であるベイツ自身も、紹介するマクナイトもその辺りのことをかなり意識していろいろやっているわけで、どうしてもそれらをいちいち紹介しようとすると「くどくなる」感じなのです。

たとえば「恵みのみ・信仰のみ」に関して、神からの一方的「賜物」として受け取るはずが、「アリージャンス」は「付加する」ニュアンスを伴うのではないか・・・という疑問に対して、マクナイトはジョン・バークレイ『たまもの』やハワード・マーシャルを引き合いに出しながら反論しています。

これを有名な「NPP対OP論争」のフレームで戦わせると「義」を獲得する道が「トーラー遵守」なのか「信仰」なのか・・・という風になるわけですが、ベイツはこのような論争の細かいニュアンスを(マクナイトの引用によれば)以下のように潜り抜けている、としています。
In other words, the real “faith” versus “works” divide in Paul is more accurately framed as a divide between works performed as allegiance to Jesus the king versus works performed apart from new creation in the Christ. And the latter usually but not always takes the form of a system that seeks to establish righteousness through performing prescribed regulations. 
この他にも救いと言うことに関連して、「新創造/天(国)」の様相や、「救いの秩序(ordo salutis)」の問題などでも、「(改革派系)神学的要請」に対して新約聖書(パウロ書簡)テクストの持つニュアンスがどのようなものかベイツの主張・強調点を拾い上げています。

義認においては(復活し義とされた)王なるイエスとの結合(union with Christ)、その(個人的な性格ではなく)集合(教会)的な救いの性格、などが「アリージャンス」ニュアンスの長所として紹介しています。(改革派神学に対しては修正点となります。)


以上たくさんリンクを挙げた割には簡単な紹介になってしまいました。(さすがに飽きてしまいました。)

「大和郷にある教会」ブログで連載しています「義認論ノート(、)」がここで紹介した論点等について、より踏み込んだ議論をしていますのでそちらもお読みいただけると感謝です。

2017年8月4日金曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー 参考資料

今回のライト・セミナーでは《共同研究》としました。

※「第一次応募締め切り」が4週間後となりました。


宗教改革500周年の《聖書のみ》と《万人祭司》にあやかってみたのですが、「『死者の復活』の教理」をめぐって、たった1節(コリント第一15章17節)
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
にしぼって、みんなで意見交換してみようと言うわけです。

たくさんの「現代訳を比較検討」してニュアンスの違いみてみるのもいいかもしれませんね。



今回は少しネット検索した中から二つ紹介します。

(1)説教(ノーザン神学校のチャペル・メッセージ?)

Our Victor – 1 Corinthians 15:17-20
By: Northern Seminary

For many years I never thought of the resurrection as important, as if Easter was about having your sins forgiven through Jesus’ death on the cross, and the resurrection on the third day was little more than a really happy ending.

Eventually Paul’s words in 1 Corinthians 15 helped me to see that Jesus’ resurrection wasn’t nice but necessary, and wasn’t a happy ending but a glorious beginning.


(2) 研究論文

Rollin Ramsaran

 この論文は
「コリント第一の手紙」が、(書かれた手紙だが)パウロが(口頭によって)スピーチした内容を下敷きにし、手紙の読者に対して口頭で読まれるために、特に「15章がクライマックス」となるよう様々工夫されて全体が構成されたもの、
という方法論的前提(オーラル・パフォーマンス)に立って分析されています。

数箇所、関連のありそうなところを引用してみます。


“Christ raised” becomes the basis for Paul’s argument through oral performance in 15:12-58. Going forward, Paul does not attempt to “prove” that Jesus was raised – he assumes it and he expects his audience to continue following him in that common belief. Paul, through his envoy, comes alive once again before the Corinthians as the proclaiming apocalyptic teacher and guide who was, in that very preaching, originally the occasion for their coming to faith.

Paul’s first question in 15:12 ( “How can some of you say that there is no resurrection of the dead?”), from a set of imaginary (?) interlocutors in Corinth, provides an opportunity to assert the necessity of Christ’s resurrection as the representative pattern for believers.

Much work has been done recently on  analyzing the oral performance indicators embedded in written texts (orally-derived texts).
My burden to this point has been to show the likelihood of Paul’s having composed the letter of 1 Corinthians in memory and then dictating it to a scribe. The written text then functioned as an aide-memoire for a sent envoy who would orally perform Paul’s message.


以上、何か参考になればと思い・・・。