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2017年5月7日日曜日

Salvation By Allegiance Alone 1

こちらが、大和郷にある教会ブログにアップした「救いについての『教理』」を引き継ぐ記事となります。

こちらはこちらで幾らか前置きがあります。

ただ今フェイスブックのライト読書会では『シンプリー・ジーザス』を読んでいるのですが、その1章に『還元主義(リダクショニズム)』の問題を扱った箇所(24-6ページ)があります。
 私たち教会のほうこそ、本当は還元主義者なのだ。私たちは神の王国を個人的な信仰に、十字架での勝利を良心の慰めへと矮小化してしまっている。そしてイースターの出来事そのものを、悲しく痛ましいお話の現実逃避的なハッピー・エンディングにしてしまっている。信仰も、良心も、究極の幸せもみな大切だが、それらはイエスその人ほど大切なものではない。
還元主義/矮小化の問題は、
私たちは、イエスのいちばん大切な主張や彼の成し遂げた偉業から生まれる、巨大で世界を揺るがすほどのチャレンジを、他の問いの背後に隠し、体よくかわしてしまっている。
という指摘に続くものです。

ライトが問題にしているのは、私たちがいつのまにか「イエスのチャレンジ」を回避し、自分たちに収まりのいい「信仰生活・教会生活」に「イエス像」を調整(スケールダウン)してしまっていないか、ということです。

「イエスのチャレンジ」とは福音派になじみのある問題の形式に置き換えれば「福音」とその福音に対する応答である「信仰」のことになると思います。

「イエスのチャレンジ」を真正面から受けるような福音提示になっているか、という問題です。

Salvation By Allegiance Alone』はこの問題のうち「信仰(ピスティス)」に焦点を当てています。

新約聖書における「ピスティス」は英語で言う「faith(信仰)」より「allegiance(忠誠)」のような意味が強いのではないか。単に頭や心で「知的な事柄」を信ずるというよりも、イエスに信じ従って行く、その忠誠的態度を指すのではないか・・・。

そんな問題提起をするのが『Salvation By Allegiance Alone』です。

読書会の方ではその辺のことを以下のようにまとめました。
以前書いたのではないかと思いますが、ピスティスの質(クォリティー・性格)と連動しているのではないだろうか。
イエスに対するピスティスが「十字架贖罪(という教理)」の『信仰』にとどまってしまうのか、(自分を捨て自分の十字架を負って)イエスに従う『忠誠(allegiance)』として生涯発揮され続けるのか、そういう問題と関連があるのではないか。

そうしたら、ある方が、「この本に通じるのでしょうか」と言及したのが『Salvation By Allegiance Alone』でした。




早速グーグル・ブックスでスコット・マクナイトの書いた序文を読んでみたら、まさにピスティスのニュアンスに関するほぼドンピシャリのような本であることが分かりました。

しかし、この本は2017年3月の出版です。

筆者は、この「ピスティス」解釈に関し、従来とは違うラインで捉えていたのがライトであったことを思い出していたのですが、それがどこであったか探すのにしばらくかかりました。

ライトは「福音=イエスを王メシアと宣言すること」と捉え、その福音理解に呼応する形でピスティスを「忠誠」で考えていました。

結局記憶は呼び起こせませんでしたが、それらしき論文は探し当てました。

まずその論文を紹介してみます。

肝心のピスティスを「忠誠(allegiance)」と捉えている部分(10ページの第3と第4段落)以下に引用します。


This family, uniquely among families ......, bore only one distinguishing mark, and that was πίστις, faith. ‘Justification by faith’ was not, for Paul, a doctrine about how people could ‘find a gracious god’ without moralism. Nor does it speak merely, as the Romantic movement has encouraged some Protestants to speak, of the difference between outward and inward religion (a difference well enough known to first century Jews in any case). Nor is ‘justification by faith’ to be equated with ‘the gospel’ itself; it is, rather, its direct corollary. ‘The gospel’ is the announcement of the kingship of Jesus; ‘justification by faith’ reminds those who, abandoning their varied idolatries, have given their allegiance to Jesus that this very allegiance is the only distinguishing mark by which the renewed and united family of Abraham is to be known. All other possible distinguishing marks undermine the gospel itself, implying that the crucified and risen Jesus is not after all the one true king. Allegiance and loyalty to Jesus, ‘faith’ in this full and rich sense, is not the gospel itself; it is what the gospel is designed to produce and by the power of the spirit, does produce.
    For this is where Galatians has its equivalent of the statement in Romans that the gospel is ‘the power of God for salvation to all who believe’ (Rom. 1.16). When the message of King Jesus was announced it brought forth faith, and the only explanation of this is that the spirit works as and when the message is proclaimed. That, at least, is how I believe Gal. 3.2-5 should be read, not least in light of 1 Thess. 1.4-10 and 2.13. The royal proclamation is not simply the conveying of true information about the kingship of Jesus; it is the putting into effect of that kingship, the decisive and authoritative summoning to allegiance. That is why it challenges the powers. That is why to retain, or to embrace, symbols and praxis which speak of other loyalties and other allegiances is to imply that other powers are still being invoked. And that is to deny, ‘the truth of the gospel’. 

というわけで、『Salvation By Allegiance Alone』の著者マシュー・ベイツもライト(そしてスコット・マクナイト)の影響を大いに受けていることを話していますが、このライン(福音=「イエスを王と宣言すること」、信仰=「この王に従うこと」)をさらに洗練し、先鋭化していることがうかがわれます。

以上がイントロです。

今後は以下にリストアップした「書評」や「インタヴュー」を紹介しながら『Salvation By Allegiance Alone』に迫ってみたいと思います。

チャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、

2016年7月27日水曜日

「N.T.ライトの義認論」 (第6回 日本伝道会議・分科会)



 N.T.ライト読書会を主宰する小嶋からのご案内させていただきます。


 この度「第6回日本伝道会議」の分科会で「N.T.ライトの義認論」(コード ①−11)が「神学ディベート」と云う形で取り上げられることになりました。

 2016年9月28日(水)、14:00~15:30
 神戸コンベンションセンター

 丁度2ヵ月後となりました。
 
 図らずも小嶋が「支持派」側の発題を担当することになりました。
 また「慎重派」からは神戸ルーテル神学校の校長も勤められたことのある橋本氏が発題します。


 当日の分科会は全体でも90分という短い時間です。とても十分な討論をすることは無理です。ライトを余りよく知らない参加者も多いと想定されます。討論の内容を幾らかでも理解して臨んでいただくために、この「ライト読書会ブログ」のウェブサイトを用いて 期間限定で「情報提供」の場 を設けることにしました。

JCE6分科会「神学ディベート ――N.T.ライトの義認論――」
主催:JEA神学委員会 代表:関野祐二(鶴見聖契キリスト教会、聖契神学校)
発題者:小嶋 崇(巣鴨聖泉キリスト教会、N.T.ライト読書会)
     橋本 昭夫(宝塚ルーテル教会、神戸ルーテル神学校)
司会: 関野祐二(神学委員長、聖契神学校校長)
        佐々木望(神学委員会担当理事、バプ連合守谷教会牧師)

ディベートの時間枠
 a. イントロ(10分)
 b. 討論(50分)
  発題 1、小嶋「パウロの義認の教えは『救済論』と『教会論』」(15分)
  応答、橋本(7.5分)
  発題 2、橋本「N. T. Wrightの義認論を吟味する ―ルター神学の立場から―」(15分)
  応答、小嶋(7.5分)

 c. フロアとの質疑応答(30分)
 
 今後(少しずつですが)「発題要旨」「参考資料(12)」「解説」等を掲載して行く予定です。

 なおこの分科会の主催はJEA神学委員会ですが、このウェブサイトでの管理責任は小嶋にあります。

2016年1月26日火曜日

信仰義認メモ: ジョン・ウェスレー

(断り書き)
 これは反射的なメモです。まだちゃんと読んでも、考えてもいません。

最初にこのツイートに反応したのだ。

これを読んで、「えっ」と思い、「でもやっぱりそうか」と頷いたわけ。

アン・アウェイクンドとは「認罪」の段階に至っていない、つまり「福音(信仰義認)」を聞く必要に至っていない段階であることを示唆しているウェスレーの言葉なのだろうと取ったわけです。

つまりライトの信仰義認の理解の枠組みとは異なるわけで、そこにまず反応したわけです。

※しかし、ウェスレーの救済論が基本的に「宗教改革神学」に基づき、「救いの順序(オルド・サリューティス)」に則って展開されているわけですから、ウェスレーの理解自体は不思議でもなんでもないのです。

ただある期間ライトの信仰義認論を聞いてきた後でこのような文章にいきなり接すると、やはり、まず「えっ」となるわけです。


さてそれから次に試してみたことなのですが、この文章全体ググってみたら、グーグル・ブックスで、スティーブン・ウェスターホルムの『Perspectives Old And New On Paul: The "Lutheran" Paul And His Critics』のページがヒットしました。

(以下の画像はその関連部分を切り取ったもの)



この本は2003年のもので、「彼の1988年の著作『Israel's Law and the Church's Faith』をさらに深めたもの」とのブルース・ロングネッカー評があります。

この本では「ルター的パウロ(信仰義認)解釈」をアウグスティヌスから、ルター、カルヴィンとたどり、さらに「第4章 ジョン・ウェスレー」までトレースしています。

そう言う本なのですね。まさに引用された文章(実際の引用は同ページの脚注にあります)は「ルター的ウェスレー」を示すものなわけです。

先ほどの「オルド・サリューティス」でいうと、まず「自然状態(まだ福音を聞くには相応しくない段階)」、それから「律法」による「認罪」、そして福音提示→「回心=救いの開始」という順序が垣間見られます。

さてライトの信仰義認論はというと、(ここではメモの役割なので論じませんが)先ずウェスターホルムのことを名前を挙げてライトが自分のことを間違って解釈している人物として言及している文書を紹介しておきます。


CTR: In what way do you feel your adversaries have misrepresented your teaching on the NP?
WRIGHT: Starting at the top ...the most remarkable misrepresentations—remarkable because they come from an internationally famous scholar—are those of Stephen Westerholm in his recent book. He insists on a complete disjunction: either Paul’s language about justification is all about how sinners get saved by God’s grace, or it’s all about how Gentiles get in to the community without being circumcised. The silly thing is that, though some NP advocates may sometimes have implied something like this, I certainly have not. My commentary on Romans in the New Interpreters Bible should make this clear.


次に、ライトが「伝統的信仰義認論」(つまりオルド・サリューティスの順でいうと、回心と義認を同一時期のものと扱う論) に対して、「召し」(回心に相当するものだが、敢えてパウロの語彙を使う)と「義認」とは異なるフェーズのものであることを端的に説明している文書を紹介しておく。


2014年12月12日金曜日

パウロ研究動向にシフト?

『福音の再発見』の著者で、「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ」の名付け親、ジェームズ・ダン教授(英国ダーラム大学)のもとで博士号を取得したスコット・マクナイト氏が、自身の「ジーザス・クリード」ブログで、
The Conversation Shifts
と題する記事を投稿した。

簡単に紹介すると、
(1)過去「20年以上」にわたってパウロ研究をリードしてきた「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対オールド・パースペクティブ」(略して、NPP vs. OP) 論争がほぼ収束し、それに替わって
(2)「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対アポカリプティック・パウロ」(略して、NPP vs. AP)論争が支配的になってきた。
つまり、パウロ研究での論争が、 NPP vs. OP、から、NPP vs. APにシフトしつつある、と言う観測である。

(1)についてのポイントは、既にこの記事にも少し書いておいたが、英語圏のアカデミックな世界では「収束」したと言っても、その外、特に日本では「まだこれから」観がある。

マクナイトが次のようにNPPの視点の意義を要約しているが、コンサイスでいいかな、と思う。
With the growing conviction that Judaism was a covenant and election based religion (Sanders, Wright) there came a radical change in how Paul’s opponents were understood and therefore what Paul was actually teaching. He was, to use the words of Dunn, opposing “boundary markers” more than self-justification.
「ユダヤ教は契約と選びに基づく宗教である」 と言う認識は、NPPの立場を取るマクナイトにとって、「アポカリプティック・パウロ」に対する疑問点のベースになるものだろう。
Concerns? Plenty. Where’s Israel, where’s the Story of Israel, where’s serious engagement with Jewish apocalypses (where one learns that many today do not think there is even such a thing as an apocalyptic worldview so much at work in the work of these apocalyptic Pauline specialists), where’s election, where’s the church, where’s the very problem that drove Paul — the vexed relation of Jews and Gentiles in the one people of God?
いずれにしても、ある種「論争」的なものが付きまとうのが「学会」であるとすれば、部外者としてはせめてその論争が鋭く対立することによって見えてくるものを期待するのもよしかなと思うが・・・。

2014年6月2日月曜日

Tim Gombis's Reflection on the "Plight and Solution" Framing in the NP.

Since I put the post's title in English, I follow.
(If I have more time left, I'll wrap up in Japanese.)

First, the NP or NPP.

By now there are so many things to read about the issue(s) of the New Perspective, or rather Perspectives, on Paul.

Here in Japan, among the evangelical scholars or pastors, the NPP issues have not been given much attention until, say, a few years ago.

The tide, it seems, has finally turned.
The topic for the Spring Meeting of Japan Evangelical Theological Society Eastern Block, which will be held in Tokyo on June 16, 2014, is on NPP.

Alas, one of the presenters of the Meeting has warned the expected attendees from our N.T. Wright Reading Group that NPP has already become an old topic among top-notch Pauline scholars (in the West, mostly I think).

The dinner has been served and the feast is over; the early arriving guests are already full so they don't have much appetite for it anymore.

The late-comers like us in Japan, however, are not quite sure what the fuss is all about.
They want to know what they have missed in the Pauline scholarship in the last 20 to 30 years or so.

But, the scene has changed a bit by the arrival of NT Wright's magnum opus, Paul and the Faithfulness of God in 2013.

Fellow NT/Pauline scholars have been digging through the 1600 pages to see whether any new light will yet to be noticed.

The searching and finding something new is not so simple but some scholars like Tim Gombis are getting a fresh insight from reading Tom who has read Paul for about 50 plus years.

In N. T. Wright on Paul's "Plight" and More on "The Plight" from Wright, Tim's take (contra NPP critics) is how the soteriological framework is reframed--from the Older Perspective's (individualistic?) sin-salvation framework to the Newer Perspective's "plight-solution" framework in a cosmic scale.

(I might add that the aforementioned presenter cautions us that NTW doesn't much care about how his Pauline interpretation is labeled as New or not.)
(I might also add that I found somewhere NTW saying "there are, to count, 17 or so new perspectives on Paul.)

NPP may be an old topic but you can take it afresh by reading NTW's PFG as Tim Gombis suggests, I think.

と言うところで時間が来てしまいました。

「旧」か「新」かの議論はともかく、ライトの大著から得る視点はまだ色々ありそうです。
斯く言う筆者はその後PFG読書の方は進展していません。あしからず。

.

2014年3月30日日曜日

どれを読んだらいい?

先日ある相談を受けた。

仮にその方をAさんとしておこう。

Aさんとはかれこれ1年以上の知り合いである。
Aさんは現在キリスト教主義学校の学生である。

今から1年以上前、Aさんからの最初の相談は、「まるっきりライトのものを読んだことがないのだが、(また英語でさくさく読めるわけでもないが)、何かライトの書いたもので手頃なものはないだろうか」、というものだった。

それ以来何度か読書ガイダンスみたいな相談を受けた。

先日受けた相談をここに紹介して、小さなライト読書会が、あるキリスト教主義学校で始まっていることと、「ライト読書ガイド」の一例を書いてみたい。

以下にAさんからのメール文章を要約し(しかし大胆に編集・改変して)、更に『インタヴュー形式』に翻訳した上で、簡単な「ライトの『救済論』読書ガイド」としてみたい。

Aさん:
またご相談させてください。
今度学校の方で組織神学の「救済論」の授業が始まるんです。
多分カルヴァン主義の立場からの救済論だろうと思います。
でも自分は、カルヴァン主義の救済論と言っても、今までちゃんとその系列の本を読んだことがないのでどうしたもんかなー、と思っています。

小嶋:
Aさんは確かご出身の教会はウェスレヤン系だったよね。

Aさん:
えー、確かに母教会の牧師はウェスレヤン系の神学校を出ていますが、自分としては穏健なカルヴァン神学の影響を受けているのではないかと思っています。

小嶋:
えーそうなんだ。しかしある程度まで(プロテスタントの中の)どの神学的立場から影響を受けているかは分かるが、それがどう言う神学的内容なのか説明しろ、となるともう一つはっきりとしない、そんな感じですかね。

Aさん:
ところで、ジョン・マーレーの「キリスト教救済の論理」をご存知ですか。
やはり自分が影響を受けた母教会の牧師の立場である穏健なカルヴァン神学の救済論を理解することから始めるのがいいかなと思っているのですが。

小嶋:
うーん、たしかジョン・マーレーの本は何か1冊持っていたと思うけれど、それがその本だったかどうかはよく思い出せないなー。どっちにしても英語の本、原書だけれどね。
ところで「オルド・サリューティス(ordo salutis)」知っている? 日本語だと「救いの順序」って訳されていると思うんだけど。

Aさん:
えーとどうかなー。多分聞いたことないと思いますけど。
ところで小嶋先生、先日の「ライト読書会案内」で、
    既にご承知の方も多いと思いますが、まだライトのような解釈を熟知していない方には、いわゆる「贖罪論」のような論理形式的(抽象的、非歴史的)理解を再検討する機会になるかと思います。
と書いているのですが、やはりライトの「救い」の理解はカルヴァン神学とは違うのでしょうね。その違いも知りたいと思っているのです。

小嶋:
今までライトを読んだ中で、「救い」に関してはどんな事柄をカバーしましたか。

Aさん:
そうですねー、これまで「天国」や「義認」については多少はかじってきたとは思いますが・・・。
やはり断片的でしたね。ですから、ライトがキリスト教の救いをどのようなものとして捉えているか、その本丸を知りたいわけです。


と、ここまではある程度「インタヴュー形式」にするためかなり編集した箇所もありますが、以下が小嶋の回答そのままです。
そんなことも考えて「オルド・サリューティス」をベースに選定しました。
救済論を組織神学的に展開する時、大抵この「救いの順序」を使って叙述されます。
これはカルヴィン系もウェスレヤン系も共通です。
ですから先ず「オルド・サリューティス」に慣れることが前提かな。

で、ライトですが、彼のスタンスは「聖書」が先で、神学的伝統(カルヴィン系、ウェスレヤン系、その他)はその後です。

で結論から言うと、この論文です。
http://ntwrightpage.com/Wright_New_Perspectives.htm

そしてニュー・パースペクティブとかニュー・パースペクティブ・オン・パウロ(略してNPP)が目下の論争ポイントで、(途中略)

ライトのJustificationはパイパーの批判に対する反駁として書かれた本ですが、依然としてニュー・カルヴィニスト系の人たちからの批判は絶えません。
 
その一例としてライトの上記論文を批判分析したブログ記事を紹介しておきます。余裕があれば読んでみてください。

http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2007/07/analysis-4-bishop-nt-wrights-ordo_02.html 
 
http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2009/08/wright-and-righteousness.html 
 
http://paulhelmsdeep.blogspot.jp/2009/07/wright-in-general.html 
 
三つ挙げましたがそのまま優先順位と取ってもらって結構です。オルド・サリューティスをメインにしました。

ついでにこのライト→ヘルム→バードの流れで以下を紹介しておきます。

http://euangelizomai.blogspot.jp/2007/07/nt-wright-paul-helm-and-ordo-salutis.html
と言うわけで、Aさんは今頃これらの論文を読んでいることと思います。

それにしても小嶋が主宰する(リアル)ライト読書会の他に、このような学生たちのライト読書会が出来ているなんて、嬉しいですね。

2014年3月18日火曜日

フルタドのPFG書評開始

ライトのパウロ研究に関するマグナム・オパス(主著、大著)となるPaul and the Faithfulness of Godについての書評は、このブログでも紹介した通り何人もの学者仲間たちが行なった(ウィザリントンはまだ継続中。現在シリーズ24回目がアップされている。)

今度はラリー・フルタドの番だ。リンク

ライトはそのアカデミック・スタンスが内容的にはかなり保守なのに、学友であったマーカス・ボーグやジョン・ドミニク・クロッサンなどとの対話を厭わない、オープンな学者だ。

しかし盟友と言う間柄もある。
最近は少々ぎごちなくなった感があるリチャード・ヘイズなど。

ラリー・フルタドとの距離はこの記事にもあるように「信頼関係」がベースにあるようだ。
しかし昨年Theologyと言う専門誌から書評を頼まれ、1600ページを超える大著に対し与えられた語数(字数ではない)1800と言う極めて限られた制約の中で賞賛の言葉だけでなく、幾つか疑問点や見解相違点も盛り込む、と言う仕事を果たしたようだ。(雑誌の出版はまだ。)

当然盛りきれなかった事柄はかなりあるようで、それが今回の自分のブログでの投稿となったようだ。

最初にフルタドが取上げたポイントは「義認」だ。

As an example, I found stimulating his emphasis that in Paul the “justification” of believers is essentially God’s eschatological judgment, extended now to those who put faith in Jesus’ vindication expressed in God raising him from death and exalting him to heavenly glory.
この下線部分は、既にジョン・パイパーとの論争で著わされた


Justification-Gods Plan and Pauls Visionでも示されたように「現在の義認と終末の義認との関係」にかかわってくることだ。

さてどんな書評になるか楽しみに読ませてもらおう。

2014年2月1日土曜日

ライトとヘイズ

マイク・ゴーマンが司会するこのヴィデオで、ライトとヘイズがガラテヤ2章と、ローマ8章の釈義について討論している。



見ていると、ヘイズは少しナーバスに見える。

このブログでも紹介したが、二人の間には新約聖書、特に「史的イエス」アプローチに関して見解の相違があり、ヘイズの方がそれをまだ引きずっているように見える。

一点紹介すると、「義認」に関して、ゴーマンが「義認とパーティシペーション」についてヘイズに質問したのに対し、ヘイズはガラテヤの文脈では二つは同義(synonymous)、と発言したのを捉えて、ライトが二つは同義ではない、勿論二つは緊密に関係しているけれども、義認は区別されなければならない、と指摘していた点だ。

どちらにしてもこのように二人が同じテーブルについて討論している姿を見るのは興味深い。

2013年7月19日金曜日

オーストラリアでのライト教授

N. T. Wrights Australian Visit sparks respectful arguments on Paul's writings

オーストラリアはメルボルンにあるリドリー大学での、7月16日と17日の会議で、N.T.ライト教授が講演しました。

7月16日・・・Jesus, Paul and the Mission of God’s People
7月17日・・・Paul and the Faithfulness of God

一番上のリンク付きタイトル記事がその講演を要約したもののようです。
The first thing which stood out during his visit was his great intellect. This is a man who will quote Shakespeare alongside the Bible, in German, Greek and English, in a single breath.
と言っていますが、小嶋には最近ライト教授大分シャープさが落ちてきた(なーんて言うと語弊があるから)、角が取れてきた感じですが、依然としてその知性で人々を圧倒する部分はあるようです。
-Justification is not Paul’s primary concern in Romans and Galatians, says Wright. He argues Romans is primarily concerned with the gospel as expressed in Chapter 1:2-4 ( ‘…the gospel he promised beforehand through his prophets in the Holy Scriptures regarding his Son, who as to his earthly life was a descendant of David, and who through the Spirit of holiness was appointed the Son of God in power by his resurrection from the dead: Jesus Christ our Lord.’). Justification is a necessary implication of the gospel, but not the gospel itself. The gospel according to Paul (according to Wright) is Jesus as the crucified and risen Lord. Justification is the outworking of the gospel which gives those who believe assurance.(下線は小嶋)
今年のN.T.ライト読書会ではやはり「信仰義認」に関する論文を読みましたが(報告はここ)、論文が書かれた当時(2005年)はライト教授は長老派(カルヴィン系)からの猛攻撃(?)を受けていたのか、余裕も感じさせましたが、かなり重装備で臨んだ講演でした。

それと比較すると今回の集まりでは、激しいやり取りは無く、普通に応酬はあったものの、極めて落ち着いた穏やかな性格のものであったとのことです。

そう言えば、最近このブログ更新が減ってきたためか、ページヴューが激減。
読者の皆様、どうぞご愛顧のほどよろしくお願いします。

(要するにもっと更新しろ、と言うことでしょうが、なかなかブログを幾つも抱えていると忘れてしまうのです。あー情けない。とついボヤキ。)

2013年6月22日土曜日

先日の読書会で読んだ論文について

先日、6月8日の読書会で読んだ、Paul In Different Perspectives、ではかなりな重装備での「信仰義認論争」に関する弁明、と言う印象を受けたことを皆で分かち合いました。

そしてその背景を少し皆で推理してみました。

小嶋はリゴン・ダンカン(ファーストネームの発音はちょっと違うかもしれない)かな、と想像しました。

もちろんジョン・パイパーとの有名な論争があったのですがそれは2007-2009年です。
この講演録は2005年ですから、まだ「騒ぎ出した」頃なのかもしれません。

隣にいたI先生からは文中にあるGuy Watersって誰と言う質問がありました。
But I have also been expounding my own version of the so-called New Perspective on Paul, in which I have been equally critical, without naming them, of Ed Sanders and many of his followers on the one hand and my critics such as Guy Waters and many of his readers on the other.

小嶋がどちらにしてもリゴン・ダンカンの一味(リンク)だろうと推測しました。

たまたま今朝フェイスブックで「のらのら者の日記」さんとのやりとりで、その背景となった文書が多分これではないかと思わせるTABLETALKと言う雑誌について知りました。(既に読んではいたのですが、この繋がりで再確認した次第。)

のらくら者さんの記事とは、これです。
大勢で一人を叩くのは・・・

と言うわけで、既に終わった読書会のフォローアップでした。

追加:今その繋がりで、ジョン・パイパーがどのように「信仰義認」の理解を持つようになったかを収録したインタヴューをここで聞いています。

2013年6月16日日曜日

2013年6月8日読書会報告

あれから1週間経ったわけですが、加齢による記憶消失に抗いつつ貧弱にまとめてみます。

何はともあれ画像を先ず1枚。
これで記憶を呼び覚まそう。





不鮮明な画像で申し訳ありませんねー。

自慢じゃないが中古で買った200万画素のデジカメです。
ズームにしないとピンボケになるのです。
でも参会者の顔が良く分からないところが味噌。

当日は会場のことやら何やら一人でしなければならなかったので早めについた。
開始時間午後1時にはちらほら。

「まだ予定している人たちが集まらないから少し待ちますかー。」
なんて話しているうちに小嶋がとんでもない勘違いをしていたことが発覚。
何と開始時間を2通り皆さんに伝えていたのだ。

で最初に案内した午後1時30分まで待って、無事ほぼ予定した顔ぶれが揃って開始。

今回は11名。
ちょっと少ないと思われるかもしれないが、最初は2人で始まり、それから3人、4人、とやっていたのがつい2-3年前だから、やはり少々感慨。

本当はもう1人来る予定だったのだが、用事が出来てこられなくなった。
彼が来てたら十二人。
意味深だったのだがなー。

ここでまた画像を追加。




70代の方が二人おられたから、参加者の平均年齢は50ちょいというところか・・・。

そうそう、この画像の右隅でパソコンに打ち込んでいるのがミーちゃんはーちゃんさん。
ディスカッションの内容をご自分のブログで紹介されているので、マニアックなやり取りをお知りになりたい方はこちらをクリック。

さて後は大雑把な感想をば・・・。

ディスカッションはかなりハイレベルだったなー。
何しろ原典釈義できる人や留学経験者もかなりいて、「ちょっとついていくの大変」と思った話題もちらほら。

課題テキスト、Paul In Different Perspectivesのポレミカル(論争的)な性格の背景をしばし推理した。
この一般公開講演がなされた2005年と言えばライトの義認論解釈についてカルヴィニストたちがけんけんがくがくやっていた最中。
勢い自己の正統主義(オーソドキシー)的立場を旗幟鮮明にするのに少し前がかりになっていたかもしれない。

でもそこはさすがライト。
宗教改革の先駆者で初めて聖書を英語に翻訳しようとしたティンデルと友人のフリスの間で交わされた書簡から引用して講演を始めている。

In his first letter to Frith, dated probably in January 1533, he writes this memorable sentence, which was etched upon my mind and heart long before I became a Bible translator myself. ‘I call God to record,’ he writes, ‘against the day we shall appear before our Lord Jesus, that I never altered one syllable of God’s word against my conscience, nor would do this day, if all that is in earth, whether it be honour, pleasure or riches, might be given me.’


やはり宗教改革原則の根本には神のことばである聖書本文への忠実さが、その上に構築される神学に優先する、と言うことをカルヴィニストたちにアッピールしようということなのだろう。

そんな講演なわけだから、なかなか信仰義認関連聖書箇所の釈義部分は力が入っている。

ライトのニュー・パースペクティブ・オン・パウロの立場については色々と言えるだろうが、基本的には「如何に当該箇所のテキストの流れ(sweep)に沿って釈義がなされるべきか」と言う事が肝心なのだと思う。

ただ宗教改革者の聖書解釈のルールとされた、聖書テキストを他の(正典内の)テキストと照合して意味を確定して行くのに対し、ライトは(余りにも常識だが)第二神殿期のユダヤ教関連文書からの光を大いに活用して、不鮮明なテキストの意味を明らかにしていくわけだ。

もっと言えばテキストの流れを釈義するのに、第二神殿期ユダヤ教の世界観(解釈準拠枠になっている観もあるが)を再構成して、「神がキリストにおいて成就なされた救い」を、聖書全体を貫くナレーティブ構造(メタ・ナレーティブとも言われるが)を下敷きにして読み解いていく。

ある人はこれがライトの危うい部分だ、と指摘する声もある。
聖書テキストそのものの優先性を言っておきながら、その解釈枠となる複雑なシステムを構築してしまっているのではないか、と。
(このポイントは当日の読書会の発言ではなく、ライトについて時々軽い議論をするHさんのものだが・・・。)

まっ大した報告にならなかったが、雰囲気は少しは伝わったかな。

そうそう休憩の間のIさんとの会話で、今から10数年も前になるのだろうか、ライトの著作を少し翻訳して紹介し始めた時は、全く反応なかった・・・と言うお話を聞き、先駆者のご苦労いかばかりであったか、と思いをはせた。