2016年1月26日火曜日

信仰義認メモ: ジョン・ウェスレー

(断り書き)
 これは反射的なメモです。まだちゃんと読んでも、考えてもいません。

最初にこのツイートに反応したのだ。

これを読んで、「えっ」と思い、「でもやっぱりそうか」と頷いたわけ。

アン・アウェイクンドとは「認罪」の段階に至っていない、つまり「福音(信仰義認)」を聞く必要に至っていない段階であることを示唆しているウェスレーの言葉なのだろうと取ったわけです。

つまりライトの信仰義認の理解の枠組みとは異なるわけで、そこにまず反応したわけです。

※しかし、ウェスレーの救済論が基本的に「宗教改革神学」に基づき、「救いの順序(オルド・サリューティス)」に則って展開されているわけですから、ウェスレーの理解自体は不思議でもなんでもないのです。

ただある期間ライトの信仰義認論を聞いてきた後でこのような文章にいきなり接すると、やはり、まず「えっ」となるわけです。


さてそれから次に試してみたことなのですが、この文章全体ググってみたら、グーグル・ブックスで、スティーブン・ウェスターホルムの『Perspectives Old And New On Paul: The "Lutheran" Paul And His Critics』のページがヒットしました。

(以下の画像はその関連部分を切り取ったもの)



この本は2003年のもので、「彼の1988年の著作『Israel's Law and the Church's Faith』をさらに深めたもの」とのブルース・ロングネッカー評があります。

この本では「ルター的パウロ(信仰義認)解釈」をアウグスティヌスから、ルター、カルヴィンとたどり、さらに「第4章 ジョン・ウェスレー」までトレースしています。

そう言う本なのですね。まさに引用された文章(実際の引用は同ページの脚注にあります)は「ルター的ウェスレー」を示すものなわけです。

先ほどの「オルド・サリューティス」でいうと、まず「自然状態(まだ福音を聞くには相応しくない段階)」、それから「律法」による「認罪」、そして福音提示→「回心=救いの開始」という順序が垣間見られます。

さてライトの信仰義認論はというと、(ここではメモの役割なので論じませんが)先ずウェスターホルムのことを名前を挙げてライトが自分のことを間違って解釈している人物として言及している文書を紹介しておきます。


CTR: In what way do you feel your adversaries have misrepresented your teaching on the NP?
WRIGHT: Starting at the top ...the most remarkable misrepresentations—remarkable because they come from an internationally famous scholar—are those of Stephen Westerholm in his recent book. He insists on a complete disjunction: either Paul’s language about justification is all about how sinners get saved by God’s grace, or it’s all about how Gentiles get in to the community without being circumcised. The silly thing is that, though some NP advocates may sometimes have implied something like this, I certainly have not. My commentary on Romans in the New Interpreters Bible should make this clear.


次に、ライトが「伝統的信仰義認論」(つまりオルド・サリューティスの順でいうと、回心と義認を同一時期のものと扱う論) に対して、「召し」(回心に相当するものだが、敢えてパウロの語彙を使う)と「義認」とは異なるフェーズのものであることを端的に説明している文書を紹介しておく。


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