2018年1月31日水曜日

FB読書会 2018年1月報告

今日はまだ1月ですが、いつもより少し早く「1月」の報告をしておきます。

1月は13章と14章の最初の部分をカバーしました。

今回は(ヴォランティア)担当者が少なかったので《感想》は割愛、引用された箇所だけ(全部ではありませんが)紹介しておきます。


第13章 なぜメシアは死なねばならなかったのか(292-330)

(292-303)

《引用①》 イエスの人生には特定の瞬間があり、それらの瞬間は、すでに象徴的な意味付けがされている特定の地理的空間で起こった。ユダヤの偉大な祝祭日、とりわけ過越祭、またはユダヤの偉大なランドマーク、とりわけヨルダン川やエルサレムでのことを考えてみれば分かる。
 私たちの手にある資料を通じ、繰り返し出てくるこれらの瞬間や場所で、三つの流れが一つに終結するのに気づく。それは私たちの扱ってきたパーフェクト・ストームを作る三つの要素というより、別々の谷を下ってきた三つの川の流れが一つに合流し、圧倒的な水流となったイメージに近い。 ・・・イスラエルの王朝の、長く波乱に富んだ歴史におけるメシアの役割という偉大な川の流れと、苦難のしもべという漆黒の流れが激突する。そしてその二つの流れは、イスラエルの神の帰還という、長く、暗く、そしてさらに強力な信仰の流れに飲み込まれていく。(295-6)

《引用②》 しかしイエスは、これらの召命を一つにした。彼はバプテスマのヨハネから洗礼を受けた。バプテスマには、重大な復興に必要とされる悔改めと、かつてイスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入った行為の象徴的再演という意味があった。・・・すなわち僕としての召命と王としての召命とが、イエスの心と頭の中で一つに溶け合ったのである。(299)

《引用③》・・・世界の多くの自称「正統な」または「保守的な」クリスチャンたちは、王国なしの十字架を求めてきた。つまり、この世界と何の関わりもなく、この世から逃れる手段だけを提供してくれる抽象的な「贖罪」である。(303)
新しい出エジプト(303-312)
《引用①》 イエスの生涯のクライマックスをこのように見るのは、標準的でも伝統的でも、「正統的」でも「保守的」でもないが、それは新しい角度から「受肉」と「贖罪」という「伝統的」な教義に光を当てるものだ。私が主張したいのは、このような見方は私たちに、本来の歴史的現実を理解させてくれる、ということである。これらの教理は、これまで非歴史化され、抽象的な要約になってしまっていた。(306)

《引用②》 エルサレムは余りにひどく道を踏み外してしまっていた。ユダヤの指導者たちのローマとの共謀、腐敗、圧政、貪欲によって、ひどく堕落してしまった。ユダヤの民、イエス自身の民は、軍事的な暴力と武装蜂起で神の勝利を世界にもたらそうと決意していた。(308)

《引用③》 だがイエスは、反逆の民に神の裁きを宣告しただけではなかった。イエスは民に先立って進み、破壊的な諸力に自ら対峙し、そのすべての重みを自分の身に引き受けるかのように語り、行動した。そうすることで神の民が刷新され、諸国を照らす光となる召命を彼らが再発見し、長く続く隷属と捕囚から民が解放されるためだった。(310)
十字架(312-321)
《引用①》 この食事の重要なポイントは、弟子たちが新しい形でイエス自身の命を分かち合うことで、その恩恵を分かち合えるようにしたことだ。パンとぶどう酒という贈り物は、すでに重要な象徴的意味を持っていたが、新たな深みを獲得する。すなわち、弟子たちの間でイエスの臨在を体験する方法になるだろう。献げものと臨在。これこそ新しい神殿である、過越しに見立てた食卓での、この不思議な集まりが神殿なのである。(314)

《引用②》 こうしてイエスは、新しい召命への道を拓く。土地、神殿という民族のアイデンティティを守ろうとする熱烈な圧力に代えて、イエスの信従者たちの新たにされた心と生活を通して、全世界のための王なる祭司という初期のヴィジョンを取り戻す。全世界はメシアの嗣業だが、今や彼らのものにもなる。これらすべてものの背後に、献げものがある。イエスはそのようにして「アッバ、父よ」と呼んだ方に従順を献げる。そして、長い間履行されなかったイスラエルの召命である従順が、ついに達成される。(315)
 《引用③》 多くの読者は、ヨハネの福音書でこのようなテーマを無視し、この書を「霊的な」、または「神学的な」論文として、個人的霊性と来世での救済の希望を促す書として読もうとしてきた。しかし、この書はきわめて明快だ。ローマ帝国の権力とイスラエルの指導者の裏切りが、神の愛と出会う。そのとき生まれた大いなる渦巻きで、王としての神の勝利がもたらされる。それは、この世の諸王国を凌駕する神の王国の勝利である。(317)
《引用④》 この対決 [ヨハネ18、19章] の核心にあるのは、神の王国の持つ政治的、神学的意味の両方である。イエスは神の王国を宣言し、行動でそれを具現化した。(318)
(320-331)
《引用1》ではイエスの死をどのように解釈すればよいのだろうか?(略)同様に、イエスの死を神学的に過小評価してしまうことも簡単だ。《引用終》

《引用2》その理解(刑罰代償説)を先のモデル(メシアであるイエスはイスラエルを代表し、したがって世界を代表する)と合わせれば、刑罰による死という理論に向けられてきた主な批判はその力を失う。《引用終》

《引用3》イエスのストーリーを読み、研究し、祈れば祈るほど私が確信に至ったのは、これらのモデルはさらに大きな枠組みの中で理解されるべきだということだ。(略)すなわち、いずれにせよイエスの死は、彼自身にとって、またそのストーリーを語り、最終的にそれを書き下ろした人々にとって、神の王国を樹立する究極の手段と見られていた、ということである。十字架は、神の王国が天にあるように地上に来るようにという祈りへの、ショッキングな答えなのだ。《引用終》

第14章 新たなる支配のもとで(331-356)

新しい世界(331-337)

《引用①》
 イエスがイースターの朝に死者の中からよみがえったそのとき、イエスは新しい世界の始まりとしてよみがえった。そしてその新しい世界は、神がつねに創造しようと意図していた世界なのである。これがイースターの意味について知るべき最初の、そしておそらく最も重要なことである。(332)

《引用②》
 今日の西洋世界の多くの人は、物質的な肉体は「天」にいることができない、と考えている。彼らはプラトン主義者で、もし「天」があるとすれば、それは空間や時間や物質と関わりのない、非物理的なところだと考えている。(334)

《引用③》
 さらにこう考えてみよう。--そこで創造主なる神は、自ら圧政者の武器を打ちこわし、創造本来の目的が満たされる新世界を始めるためにやって来られた。原始キリスト教徒たちは、よみがえったイエスに会ったとき、そのように考えていたようなのだ。よみがえったイエスは、「天」において自由に活動できるが、彼らにはそれが見えない。だが、イエスが「地」にいるとき、彼らは見ることができた。(334)


その他、2月末に出版予定のライトの『パウロ(伝記)』の紹介インタヴューがベン・ウィザリントンのブログで(今日の時点で)7回に渡って取り上げられているのを紹介しました。

この引用部分などちょっと目を引きました。

I had in mind the ‘general reader’, including students, and – I hope! – radio or TV: I want Paul to be seen as what he was, one of the primary public intellectuals of the ancient world (i.e. not just a ‘religious’ figure as people in our world tend to imagine).





「新規入会メンバー」について。
2018年1月は、退会者1名で、トータル232名でした。

以上1月の報告でした。

2018年1月3日水曜日

FB読書会 2017年12月報告

明けましておめでとうございます。
今年もN.T.ライト読書会(リアルとフェイスブックともども)よろしくお願いします。


いつものように先月12月の報告をば。

12月は11章残りの部分と、12章をカバーしました。
今回は担当者が揃ったので《感想》も一部交えてご紹介しておきます。

第11章 空間、時間、そして物質(233-264)


新しい種類の革命(256-264)

《引用箇所》 第一の間違った見方は、人々に「天国に行く方法」を教えにイエスがこの世に来られたと考えることである。(中略)イエスが語ったことは、神はまさにいまここで、「地上」において支配を始められたのであり、人々はこのことの実現のために祈るべきであり、またイエスご自身の働きのうちに、それが実際起きているしるしを認識すべきだ、ということだった。(256)
《感想》 (中略)ライトさんの著書に出会えて良かったと思ったのは、すでに分かり切っていると思っていることについて再考する、ということを教えられたからです。教会で教えられている解釈も、いつからか、誰かが言い始めたことであって、時間とともに作り上げられてきたものに他ならない。それをまるで聖書とセット梱包された、改変してはならないもののように扱ってしまっていたのではないか、ということに気づかされたのです。
第12章 嵐のただ中に(265-291)

イザヤ書の僕(しもべ)(265-279)
《引用箇所》  ローマは背後に控え、いつものやり方で帝国の要求と野望とを押し付けようとしていた。イスラエルもまた、過越の祭りを祝いながら民族の解放と異教徒に対する勝利を待ち望んでいた。そしてイエスが「アッバ、父よ」と呼んだ神は、ある使命のためにイエスをこの世に送ったが、その使命は、ローマのものともイスラエルのものとも異なっていた。その使命は両方からの妨害に遭い、絶望的で悲惨な失敗に終わりそうに見えた。私たちがこうした全体像を持ち続けることができれば 、イエスが何者で、なぜあのように行動したのかを理解する途上にいる。(266-7)

《感想》 パーフェクトストーム(「ローマ帝国からの圧力と、イスラエルの千年越しの希望がぶつかりあうところに、さらに別の角度から激しく吹き込む不可思議かつパワフルな神ご自身の目的が出会うところ」)のメタファーは、実は私はあまりピンときていなかったのですが、ようやく見えてきたような気がします…
ダニエル書、人の子(279-287)
《引用》 「不正なぶどう園の農夫たち」が主人の「息子」を殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまったとき、主人は帰ってきて彼らに復讐する。これは詩篇118篇22節の成就となるだろう。・・・すべてが一致している、すべてが同じ聖書の物語と共鳴している。(285-6)
 《感想》 ダニエル7章(人の子)、ダニエル2章(石)、次に福音書のイエス語録での「捨てられた石」を関連付けたことが大きいと思う。
つまり「神が王となるストーリー」であるダニエル書7章だけでなく、2章の「石」も同様「神が王となるストーリー」であることをくっきりさせたことで、十字架の「苦難」が「王国樹立」ストーリーであることを意識させられた。
ゼカリヤ書の王(287-291)
《引用》 わたしたちのここでの目的にとって注目すべき大切な点は、ゼカリヤがイザヤやダニエルと同じく、三本の線が一つに収斂していくのを思い描いていたことである。すなわち、神とその民に戦いを挑む邪悪な異教の国々、失敗したユダヤ民族の指導者達、そして他の誰も成し得ないことを成し遂げるために来られる神である。この3つは、イエスがそう見ていたように、パーフェクト・ストームを形成する三要素である。(290)
《感想》 マタイ22章の王子の婚礼のたとえ話ともどこかでつながっているような気がしています。この終末に関するマタイ22章の王子の婚礼での出来事の話は、現代人としては、当惑してしまうようなたとえ話なのですが。

以上12月の報告でした。

「新規入会メンバー」について。  2017年12月は、入退会者ともに0名で、トータル233名のままでした。


以上、ご報告まで。