The Conversation Shifts
と題する記事を投稿した。
簡単に紹介すると、
(1)過去「20年以上」にわたってパウロ研究をリードしてきた「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対オールド・パースペクティブ」(略して、NPP vs. OP) 論争がほぼ収束し、それに替わってつまり、パウロ研究での論争が、 NPP vs. OP、から、NPP vs. APにシフトしつつある、と言う観測である。
(2)「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対アポカリプティック・パウロ」(略して、NPP vs. AP)論争が支配的になってきた。
(1)についてのポイントは、既にこの記事にも少し書いておいたが、英語圏のアカデミックな世界では「収束」したと言っても、その外、特に日本では「まだこれから」観がある。
マクナイトが次のようにNPPの視点の意義を要約しているが、コンサイスでいいかな、と思う。
With the growing conviction that Judaism was a covenant and election based religion (Sanders, Wright) there came a radical change in how Paul’s opponents were understood and therefore what Paul was actually teaching. He was, to use the words of Dunn, opposing “boundary markers” more than self-justification.「ユダヤ教は契約と選びに基づく宗教である」 と言う認識は、NPPの立場を取るマクナイトにとって、「アポカリプティック・パウロ」に対する疑問点のベースになるものだろう。
Concerns? Plenty. Where’s Israel, where’s the Story of Israel, where’s serious engagement with Jewish apocalypses (where one learns that many today do not think there is even such a thing as an apocalyptic worldview so much at work in the work of these apocalyptic Pauline specialists), where’s election, where’s the church, where’s the very problem that drove Paul — the vexed relation of Jews and Gentiles in the one people of God?いずれにしても、ある種「論争」的なものが付きまとうのが「学会」であるとすれば、部外者としてはせめてその論争が鋭く対立することによって見えてくるものを期待するのもよしかなと思うが・・・。
大分前の記事についてのコメントになってしまいますが、今、まさにこの問題をNT Theologyのためのpaper でまとめています。 WrightのPaul and His Resent Interpreters もマクナイトと同じ視点で黙示的パウロの主張者たちに疑問を投げかけており、(ブルトマンとケーゼマンの対立を読み込んでいるだけとも加えて)とてもわかりすく参考になるものでした。 契約、救済史といったもののを捨ててしまう見方には、確かに問題がありますが、Apocalyptic Paulを言う人たちの主張する「2つの時代」の概念や「邪悪な力への神への勝利」からパウロを理解するべきだということはその通りだと(Wright,Gorman,Longneckerと同じように)思います。2014年のSBL(のプレ集会)でこのテーマが扱われていたので、マクナイトが書いた時にはまさにホットな話題だったのだと思います。
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