2014年12月18日木曜日

イエスの復活の身体④

ライトにとって「復活」がキリスト教の中核的メッセージであることは、彼のキリスト教の包括的把握が「創造→新創造」であると見做すことで、ある程度明らかではないかと思う。

しかし、
①中世以降のキリスト教がギリシャ思惟的二元論に浸透されて、「死んでからあの世に行く」救済教になり、
さらに、
②啓蒙主義の支配下で「私的、敬虔主義的信仰」に閉じ込められた後、
③もう一度「本来の使徒的な福音」である、「全宇宙を視野に入れた包括的レスキュー・ミッション」に再起動されるために、

ライトがことさら主張したポイントは
④単に「復活」ではなく「身体を持った復活」であり、
⑤罪と死に隷属されているとは言え、依然として全体として贖われるべき被造世界に対する「イエス」のメッセージ

であった。

ここまではライトの主張は説得力があり、特に欧米のキリスト教圏における受容は(理解度において深浅はあろうが)広範なものがあるように思う。

しかし脱キリスト教化した、世俗化した層への到達度・浸透度となるとどうなのだろう、との疑問はあるだろう。

キリスト教内にあっても、同じ新約聖書学のギルドにいるジョン・ドミニク・クロサンやマーカス・ボーグとの討論によって、どれだけ感化できただろうか。

もちろんライト一人に「本来の使徒的な福音」のアポロジストとしての役割を押し付けるのはどうかとは思う。
既にこれまでの旺盛な著作活動、講演活動で、ライトは多くの者たちを啓蒙してきたし、それによって「キリスト教が新しく感受できる」ようになった人はかなりの数に上るだろう。

しかし、敢えて、ここで「身体の復活」の含意を掘り下げるとどんな問題が出てくるだろうか。

幾つかのも問題はぼんやりとは脳裏に上るが、余りしつこく議論されてきていないものが幾つかあると思う。

①「復活の身体」の連続と非連続の問題
所謂、死後の2段階移行において(ある意味分離した)『身体』と『意識(たましい)』はどのような再統一を与えられるのか、と言う問題。
ライトが好んで用いる比喩が、ジョン・ポルキングホーンの、「今のハードウェアが死んでなくなっても、(神のもとに)保存されたソフトウェアーは維持され、(死者の復活で与えられる)新しいハードウェアーに再インストールされる」、というものである。

『意識(たましい)』の問題を『自分』あるいはアイデンティティーの問題として考えるとどうだろう。
身体的には全く更新しながら、どうやって『自分』が回復されるのだろうか。

このような疑問にライトが用いるのが、「人間の身体は細胞レベルで考えれば7年くらいで殆ど全部入れ替わるが、7年前も今も同じ『自分』として保持されているではないか」、と言うものだ。

②「万物が更新」した世界が最早朽ちることなく、永遠に続くとすると、果たして人間は一体何をして過ごせば充実感を得られるのか。「終わりがない」ことは却ってつまらなくないか。


以上のような、より哲学的な問題をライトと、イェール大学のシェリー・ケーガン教授が討論している動画を紹介しよう。


※ケーガン教授は身体的復活を信じないけれども、少なくともその可能性まで否定するつもりはない。ただ彼にとってもし「復活の身体」があったとしても、そのような「生」がとても魅力的であるようには思えない。そのような疑問をライトにぶつけている。



※この動画を見ながら「ライトの後に来るキリスト教アポロジスト」はかなり高レベルの知性やユーモアが必要だろうなー、と思いました。

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