2016年7月27日水曜日

「N.T.ライトの義認論」発題1



パウロの義認の教えは「救済論」と「教会論」
 (支持の立場からの発題 要旨)
 小嶋 崇


  N.T.ライトは、「大きな構図で物を見る人間(Big Picture person)」と自身を描写します。聖書の細かな釈義点についても詳細な議論のできる人ですが、彼の真骨頂は、「聖書全体を貫くテーマ」を、細部を余り 犠牲にすることなく説得的に示す力量ではないかと思います。


 ライトの「義認論」に関しては、ここ数年で日本の福音派の中でも、「新しい『パウロ研究』の視点」と共に紹介されてきました。しかし、この日本伝道会議 の場では、「新しい視点」からの主張点である、①「第二神殿期ユダヤ教」の特徴として挙げられる「契約遵法主義(covenantal nomism)」、②「律法の行い」は異邦人との民族的区別を表わす「割礼・安息日・食物規定」は横に置いておきます。


 その代わり、「義(ディカイオー)」語群が「法廷言語(lawcourt language)」を用いながら、
 (A)神の前に(罪びとを)義と宣言すると同時に、
 (B)異邦人もユダヤ人と共に「アブラハムの子孫」「神の民の一 員」であることを宣言する、
両面を持っていることに注目します。即ち、パウロ書簡において義認は「救済論」と「教会論」とを一緒に言い表す教えでもある、 とのポイントに集中します。


 「パウロにとって義認は救済論と教会論の両方を合わせたもの」とのライトの議論が正しければ、プロテスタント諸派、特に「福音派」の神学と実践に大きな 問題を投げかけます。
 それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。



(ライトの義認関連論文の一部を抜粋翻訳し資料として使います。別投稿します。)

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