2016年7月5日火曜日

FB読書会 2016年6月報告

7月を迎えました。

いつものように過ぎた6月の報告です。
『クリスチャンであるとは』の13章から15章を読みました。

6月中に「フォーマット」を変え、「指名制(強制ではありません)」でより多くのメンバーに担当してもらえるようにしました。15章から導入しています(結果はご覧のように上々です。)

第13章「聖書

255-7ページ
 そのように [聖書がインスパイアリングな書物であるように] 見ようとする人は、おそらく意図的にそのことを選択肢<1>の世界観に押し込めようとしているのだ。
 一方、「聖書の霊感」という考え方を擁護してきたかなり多くの人が、聖書を選択肢<2>の枠組みで見てきたのも事実である。それは、純粋な「超自然的」介入によって起きたと考え、著者の意図などまったく認めない。
257-8ページ  
 神がご自分の世界で働こうとするとき、神のかたちを担う被造物である人を通して働こうと願っているということである。しかも、できる限り人との知的 [intelligent] な協力体制を望んでおられるので、・・・、ことばを、またことばを通したコミュニケーションを中心にしたいと望まれている。
 すなわち聖書は、単なる啓示を証言しているのでも、それを反映しているだけのものでもなく、むしろ啓示そのものであり、神の啓示の本質的な部分として広く教会で扱われてきたのである。
258-9ページ


 ・・・神の召し出した民が、その務めを果たすためのエネルギーの提供である。聖書の霊感について語るとは、そのエネルギーが神の霊の働きからくることを表現する言い方の一つなのである。
 言い方を換えれば、聖書は、物事を調べ上げたり、正しく理解したかを確認する単なる参照資料ではない。それは神の民を整え、神の新しい創造と新しい契約 の目的を果たさせるのである。また義のわざに就かせ、霊的なあり方を保たせ、すべての面での関わりを築き、推進させ、神ご自身の美しさをもたらす新しい創 造を生み出すためである。

259-60ページ
 そのため私は、聖書に関して「無謬」、また「無誤」という用語を用いることについては不満はないが、個人的にはそれを使わないようにしている。私の経験では、これらの用語についての議論は多くの場合、・・・あらゆる種類の理論の世界に引き込んでしまう。

第14章「物語と努め

262-4ページ 
聖書は一言で言えば、少し異なりはするが愛の物語(ラブ・ストーリ)である。聖書の権威とは、そこに加わるように招かれている愛の物語という権威である。(p.252)
ということは、「聖書の権威」に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中には、共同体としても、個人としても、自分たちを浸 すことである。それはまさに、クリスチャンの指導者たちと教師たち自身が、そのプロセスの一部になることであり、聖書を読む共同体の<中だけ>ではなく、 その共同体を<通して>、より広い世界の中で、世界のために神が働かれているプロセスの一部にならない、ということでもある。(p.264)
《コメント》
>「聖書の権威」に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する
ってところにつながってくるように思いました。・・・演じる舞台は、教会の中だけではなくて、キリスト者が生きている現実世界だ、ということになるのでしょう。
一部では、この神の役割を果たす場所が、教会、とりわけ日曜日の教会でなければならない説をとる方々もおられるようなのですが、そうでないぞ、とライトさんは私たちに迫っているようかのように思いました。
265-6ページ 
神は確かに、聖書を通して語られる。聖書を通して教会に語り、さらに神の助けにより、教会を通して世界に語られる。この両面が大切である。ここでもその考 え方を、天と地の重なりという見方から見てみるなら、よりいっそう理解できる。また神の未来の計画が、イエスにおいてすでに私たちに届き、神がすべてを新 しくする日のために、今もそれを遂行しておられることを考えるなら、よりいっそう理解できる。
聖書を読むということは、祈ったり、典礼を分かち合ったりするのと同様、天のいのちと地のいのちが結ばれる手段の一つである。(p.265
267ページ 
聖書のことばから神の声を聴くとは、誤りのない見解を聞くことではない。
268-9ページ 

イエスについてクリスチャンが信じていることは、こう生きなさいという招きのナラティブを生み出し、さらにその物語に生きることで、この世界での具体的使 命への招きを生み出すということなのである。そして、知的な、思慮深い、神の似姿を担う人間としてその使命に従おうと追及する人を、神は聖書を通して支 え、方向を示す。

270-1ページ 
決定的に重要なのは、聖書は神とイエスと世界についての正しい情報の単なる収納庫ではなく、むしろ、生ける神がご自分の民として私たちと世界を救いだし、 新しい創造の旅へと送り出し、その旅の途上にあっても、聖霊の力によって、私たちを新しい創造の担い手とするための手段の一部だということである。 (pp.270-271)

272-3ページ 
真理は(神に感謝すべきことに)、それよりさらに複雑である。というのは、神の世界はそれよりももっと複雑で、事実、更に興味深いものだからなのである。(p.273)
《コメント》
真理は複雑、というのは大事かなぁ、と思います。・・・無理やり平板化された真理が大手を振って歩くふしがあり、それが問題を複雑にするような気がします。 そして、「文字どおり」と「比喩的」が2種類を指して使っており、それはキリスト者にも影響しているのが、更に問題を複雑化させているのではないか、という指摘です。
274-5ページ 
「文字どおり」という言葉が「具体的・具象的」という意味になり、「比喩的」とは「抽象的」、あるいは具体的・具象的とうい意味と反対の意味を負うようになる(例えば「霊的」のように。そうなるとますます混乱が起きる。)
聖書の物語全体のポイントの一つは、神がこの世界を愛し、救いだそうとしていることであり、現実の歴史の具体的事柄を通して、その計画を実現し、それを神の民の具体的生活やわざを通してなそうとしていることなのである。(p.275)
276-7ページ 
二番目に強調しておきたいことは、聖書を読む人、注解者、説教者の誰もが、ある特定の文章について、どの部分が「文字どおりの意味」の具体的現実であるか を問う前に、どの部分が「文字どおりの意味」で、どの部分が「比喩的意味」で、どの部分が両方の意味を持っているかを調べる自由がある、ということであ る。当ことは、前もって、「聖書のすべてを文字どおりにとらえるべきだ」と決めたり、前もって「そのほとんどを比喩的にとらえるべきだ」とするような単純 な決めつけはできない、ということである。(p.276)
278-9ページ 
即ち、聖書はまぎれもなく神から教会への贈り物であること、それは教会を整えてこの世界のために貢献するようにさせるためである。そのため、聖書を真剣に 学ぶことは、天と地がかみ合い、神の未来の目的が現在に到来する一つの手立てなのであり、またそうすべきだということである。(p.279) 

第15章「信じることと属すること

280-7ページ
 

個人的な霊的成長や究極的な救いは、むしろ副産物なのであり、神はより包括的で中心的な目的のために私たちを召しているのだ。その目的は明確である。それ は新約聖書のいたるところに記されている。すなわち神は、まさに知恵と愛に富んだ義なる創造者であり、世界を腐敗させ、隷属させている力を、イエスを通し て滅ぼしたこと、そして聖霊によって世界を癒し、刷新するために今も働いていることを、教会を通して世界に広く知らせようとしていることである。
《コメント》
クリスチャン信仰とは個人的なものだが本来「教会」という全体のためにある。また教会は家族のように(互いを兄弟姉妹と呼ぶように)親しい交わりがあるが、同時に外からの異なる人たちをも受け入れていかなければならない。
287-9ページ 
初期のクリスチャンは実際、復活こそが人類のすべてに必要なことだと信じていた。それは、いずれ終わりの時がきて、神が世界を新しくする日のためだけにで はなく、現在の生活において必要なことなのである。神は終わりの時に新しいいのちを与えてくださる。それに比べれば、現在の生活は単にその影にすぎない。 神は、究極の新しい創造においてこそ、新しいいのちを与えようとしている。しかし、新しい創造はすでにイエスの復活によって始まっており、神はいま、現在 のこのとき、私たちがその新しい現実に目覚めることを願っておられる。(289) 
《コメント》
もし、新しい創造が始まっていて、新しい現実が拡大しているのであれば、様々な分野において働いている、目覚めたキリスト者が各々召されている場所で、その現実に気づき、発見していく生活を送れるのではないだろうか。仕事場や、導かれた場所で、福音を語ることのほかに、その仕事や、場所が、天と重なり合 い、かみ合うことを、もたらすのもキリスト者であり、そして新しい現実に気づき、体験し、分かち合うことが福音を生きることではないだろうか。そうであるならば、すべてのキリスト者がパイオニアであり、宣教師であることに納得できる。
290-1ページ 
私たちは現在、キリストの光を受けながら闇の中で生きている。それゆえ、ついに太陽が昇るときには、その準備ができている。描写を変えると、やがてその日 がきて神が私たちを呼び出し、最高傑作の絵を完成させる時に至るまで、いま私たちは盛んにその素描を描いている最中だと言えるだろう。まさにそれが、福音の呼びかけにクリスチャンが答えるということである。(290)
《コメント》
ライトは、将来完成される最高傑作の下絵(素描)を私たちがすでに描き始めているのだと語っています。私たちクリスチャンが描いているなんとも拙い下絵 (現実の姿、教会の有様)だけを見ていると、これが将来どのようにして、神の最高傑作(神の王国)として完成されるのだろうかと戸惑いを覚えますが、ライ トの視点は優しいですね。

様々な欠けや痛みを抱えて生きている私たちですが、神はそのような私たちであっても、これから完成される最高傑作の共同制作者としてご覧になっておられる、そう語っているように聞こえます。
大体以上となります。


6月は、入会3名で、トータル201名となりました。
  

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

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