2015年10月22日木曜日

「継続する捕囚」

先日もたれた第4回N.T.ライト・セミナーの第Ⅱ部で、伊藤明生(東京基督教大学神学科長・新約聖書学教授)氏が「呪いと契約:ガラテヤ3章10節~14節」と題して発表した。


セミナー案内記事で少し解説した文を先ず以下に再掲する。
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3章10節、新改訳)
N.T.ライトの新約聖書理解は、旧約聖書を単に「背景ストーリー」として参照するのではなく、創造から始まり、イスラエルの民の選びと契約という「大きな物語の成就」としてイエスの十字架と復活を捉えます。
特に「十字架の贖罪」理解において、「契約」が決定的に重要な要素であることを、ライトは自身の論文集、The Climax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theologyで論証しています。
発表ではその議論を紹介し、私たちのガラテヤ書理解にどんな光を投げかけるか見てみたいと思います。

と書いておいたが、標題の「継続する捕囚」とは、
このガラテヤ3章を解釈する枠組みとして「契約」、特に申命記に書かれている契約に伴う「呪い」の結果である「捕囚」が、第二神殿期ユダヤ人の世界観の中で「依然として終わっていない、継続していた」、という歴史的理解の前提をさす用語
である。

「継続する捕囚」については、小嶋がセミナー当日の資料のイントロに「簡単な解説」を付したが、ここで少し引用してみよう。


 「一世紀、イ エスやパウロ時代のユダヤ人は地理的には捕囚から帰還し、約束の地に戻り、神殿も再建していた。にも拘らず、政治的独立を奪われている情況では預言者たちが約束した『捕囚からの帰還』は成就していない。依然として捕囚は続いている」という当時のユダヤ人の歴史認識、世界観の一部を指します。今回伊藤氏が翻訳した部分の直前、パウロの「呪いと契約」枠組みの歴史的「前置き」としてライトがプロポーズしているものです。
 ライトは、パウロはガラテヤ3 章を「契約」(・・・)の枠組みで議論していること踏まえ、メシアがイスラエルを代表して呪いを受けることによって捕囚が終わり、アブラハムの祝福をブロックしていた律法の呪いが終了し、異邦人への祝福(その結果である聖霊 の賜物)がメシア(アブラハムの『末(seed)』)を通して到達した、という見通しを示します。 

『契約のクライマックス』(1991年)は「パウロ研究」の本だが、「継続する捕囚」は「史的イエス」研究でも、そしてライトの《新約聖書神学アプローチ》全体でも、重要なモチーフの一つであり、「第二神殿期ユダヤ教」の世界観を構築する上での大切なビルディング・ブロックとなっている、と言って差し支えないだろう。


『クリスチャンであるとは』の叙述では「継続する捕囚」という表現は出てこないが、「イスラエルの物語」を織りなす「繰り返される」スレッドとして「捕囚と回復」のパターンが指摘されています。(126ページ)

以下、「継続する捕囚」が解説・議論されている代表的なものを挙げておきます。

1. NTPG, 268-272.

2. Continuing Exile: Paul and the Deuteronomy/Daniel Tradition (2010年11月、Trinity Western Universityでの講演)

3. Justification: God's Plan and Paul's Vision, 41-45. (上記講演の簡易版)

4. JVGでは「捕囚からの帰還(Return from exile)」で、沢山の箇所で議論されている。



5. Carey C. Newman編の、Jesus the Restoration of Israel: A Critical Assessment of N. T. Wright's Jesus the Victory of Godでは、特にCraig Evansが扱っている。

6. 新約聖書ブロガーのMike Birdが,自身の Euangelionブログで扱っている。これ、とこれ

最近では、
7. アンドリュー・ウィルソンが今年の英国新約聖書学会(BNTC)で、「捕囚の終わり」のテーマでフィリップ・アレキサンダーとライトの発表ノートを記事にしている。

興味深いところではユダヤ人学者で死海写本研究で名高いローレンス・H・シフマンが、
"Exile and Return in the Dead Sea Scrolls"(「死海写本での捕囚と帰還」)
を自身のブログで記事にしているが、基本的に「継続する捕囚」の見方を支持している。

Perhaps one of the most interesting aspects of our study will be the observation that from the point of view of the Qumran sectarians, and indeed in some other Second Temple sources as well, the return that took place during the Persian period and the creation of a Jewish commonwealth at that time, and even the rebuilding of the Temple, were not considered to be the fulfillment of biblical prophecies of return. Indeed, we will see that our authors write as if the exile continues in their own time, despite the fact that they are living in the land of Israel.

以上関心のある方へ、ご参考までに。

0 件のコメント:

コメントを投稿