いつものように過ぎた月の報告です。
『クリスチャンであるとは』の読書ペースはまだまだゆっくりです。(でも11章に入りました。)
第10章「御霊によって生きる」
194-5ページ
聖霊の働きの特徴的なしるしの一つはまさに、神の親密な臨在感である。195-6ページ
それはいわゆる、「魂の暗夜」といわれるもので、祈りの生活の神秘を深く探求した人によって伝えられている。
イエスに従う者たちは、古い世界のルールよりも、新しい世界のルールで生きるように召されている。 そうなると苦しみは、実際の迫害という形をとることがあるかもしれない。
しかし苦しみは、他にも多くの形をとってやってくる。
197-8ページ
イエスをしっかりと見てほしい。とくに、イエスがみずから死に立ち向かうときのことを見てほしい。 そして神は、真の神とは、ナザレのイエス、イスラエルのメシア、世界のための真の主の内に見られる神である。
[コメント] 最初の引用の言葉から連想した賛美歌が二つあります。
「まぶねのなかに」(由木康、1923)
「Turn Your Eyes Upon Jesus」(Helen H. Lemmel, 1922)
198-200ページ[コメントへのリプ] ちようど、物事をよく見る目が大事だという短いエッセイを今朝読んだばかりで、シンクロしました。よく見る目は、よく聴く耳、よく考える頭につながると思います。いかにボーっとしか見てないことか。中でもイエスに目を注ぐ大事さを想いました。
しかしながら、神についてのクリスチャンの教理が、賢い知的な言語ゲームとか、心理 [mind] ゲームのような印象を与えてしまうのは間違いである。クリスチャンにとってそれは、つねに愛のゲームである。第11章「礼拝」
・・・聖霊を理解する手がかりの一つは、父が御子に対して、また御子が父に対して抱く人格的な愛として、聖霊を理解することである。
203-4ページ
先見者であるヨハネは、自分の見た幻をそこに描いているが、それは壁にとまっているハエのようにして、神の王座をこっそりのぞき見しているかのようである。
時には、その間の境界線は薄い幕のようで、ある人たちには、ときおりその戸が開かれ、カーテンが開かれ、私たちのいるこの世界の人も、神の臨在しておられる場で起こっていることを見ることができる。
204-6ページ
礼拝とは、あるもの、もしくはある存在に価値があることを、文字どおりに認めることを意味する。 動物たちは途絶えることなく神を讃える。そこに人間たちが加わる。人間たちの歌はさらに豊かである。なぜなら、言いたいことがたくさんあるからだ。207-8ページ
人間は、なぜ神を誉め讃えるべきか、また、なぜ神を誉め讃えたいかを知っている。神が万物を造られたので、神を誉め讃えるのだ。
さらに、偉大なオラトリオのように、四方から聖歌隊が加わり、御使いたちが歌う。
ほふられた子羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉と、
栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。
そして最後に、「天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物」が賛美に加わる。
御座にすわる方と、子羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。
これこそ、まさに礼拝である。造られたものがみずからの造り主を認め、子羊の勝利を悟って、創造主なる神と救い主である神に向けられた賛美の雄たけびである。それが天において、神のおられるところで、つねになされている礼拝なのだ。
[コメント] 礼拝というと、教会でやる儀式にばかり意識が行くことが多いのですが、実は、神の存在を認め、造り主を認め、子羊の勝利を悟って、創造主なる神と救い主である神に向けられた賛美ということをもう少し、考えた方がいいかもしれないなぁ、と思いました。
209-212ページ
しかし、真の神、創造者、贖い主を礼拝するためのチャンス、招き、召集が、私たちに差し出されている。真の神を礼拝することは、いっそう真の人間になるためなのである。212-14ページ
私たちは神を、この世界の創造において、イスラエルの歴史を通して、とくにイエスのうちになされたことを通して知る。クリスチャンの礼拝とは、この神を、それらをなさった方を賛えることである。神によるそれらの出来事を記録した場所は、もちろん聖書、バイブルである。214-5ページ
・・・聖書を声をあげて読むことが、つねにクリスチャンの礼拝の中心となるのだ。
私たちは神を、この世界の創造において、イスラエルの歴史を通して、とくにイエスのうちになされたことを通して知る。クリスチャンの礼拝とは、この神を、それらをなさった方を賛えることである。神によるそれらの出来事を記録した場所は、もちろん聖書、バイブルである。
・・・聖書を声をあげて読むことが、つねにクリスチャンの礼拝の中心となるのだ。
215-6ページ[コメント] ミサでは旧約、使徒書、福音書から一か所づつ暦に則って読まれますが、「印刷された聖書の文字を追うな、まず聞け、古代にはみんな礼拝では読んでいなかった」ということを言う司祭がいました。ちなみに、基督教は目よりも「耳」の宗教だと思っています。
『詩篇』は無尽蔵である。それを読み、語り、歌い、詠唱し、口ずさみ、暗記し、大声で叫ぶことすらしてきた。・・・『詩篇』は私たちの感じるすべての感 情を表わしている。時には、そのように感じたくないと思うものさえ表現している。そんな感情でさえ、そのまま公然と神の前に差し出している。
216-7ページ
そこに書かれていることをすべて理解することはできない。もちろん謎や疑問もある。
『詩篇』を有効に用いているだろうか。その周辺をぐるぐる回るだけでなく、深みに入っているだろうか。
4月は、『新約聖書と神の民 上巻』講演会と、雑談会があり結構充実した月でした。
3月の入会者数は4名で、トータル197名となりました。
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。
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