2016年6月3日金曜日

FB読書会 2016年5月近況

5月を迎えました。

いつものように過ぎた月の報告です。

『クリスチャンであるとは』が出版されてから約1年が経ちました。

最初は原書 Simply Christian でスタートしましたが、途中で訳書の方に切り替えました。

読書ペースはいくらか上昇中。(既に13章に入っています。)

第11章「礼拝

218-9ページ

 共にパンを裂き、ぶどう酒を飲むときは、イエスの死の物語を語っているのである。それほどに単純なことである。
 ・・・それは理論ではない。私たちの罪のために死んでくださったのは、私たちを救い出すためであった。理念は重要ではあるが、それを提供するためではない。

219-20ページ  
 パンを裂き、いただくことで、神の新しい創造を味わうのである。すなわち、イエスがその原型であり起源である、新しい創造なのである。
 このことが、イエスが「これはわたしのからだである」「これはわたしの血である」といった理由の一つである。その核心に触れるために、長いラテン語名の ついた形而上学の凝った理論は必要ない。それはイエス、実在するイエスであり、いまも生きているイエスのことである。天に住み、同時に地をも治めているイ エスであり、神の未来を現在にもたらすイエスである。
221-3ページ
 つまり、どのようなことであろうとも、礼拝中に決まってなされることは、それ自体が目的となった儀式行為になり得る。同様に、礼拝中に決まってなされることでも感謝を表わす純粋な行為や、無償の恵みに対する喜びの行為になり得るのだ。
 このような不毛な議論は、天と地、神の未来と現在という組み合わせの二つが、イエスと霊にあって一つとなるという、大きな絵図から礼拝を考えることで乗り越えられると私は信じている。
第12章「祈り

225-8ページ 
 この祈りはすべての点で、イエス自身の行ってきたわざを反映している。・・・その祈りは何といっても、とりわけイエスに関わる [Jesus-specific] ものである。
 この祈りは、祈っている私自身も、イエスの宣べ伝えた神の国運動の一員になりたいという意思表明である。
 いずれにしても [主の祈りを] 用いたいと思うやり方で用いるのがよい。
《コメント》
 ライトが言っているように、主の祈りは弟子たちのものであるより前に、Jesus-specific なものであり、イエスが繰り広げた宣教の文脈に密接に関わっていて、福音書を繰り返し読んで「神の国」宣教の全体像がおぼろげに頭に描けるようになったと き、「主の祈り」のことばがより的確な祈りの言葉として意識できるようになった気がする。
《感想》
私も「主の祈り」は子供のころから暗記している祈りですが、それは現実の中で「生きた祈り」ではなかったように思えます。ライトの本を通して「御国が来ます ように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」が私のうちで未来形でなく、現在完了形になったことは全く新しい体験(新しい創造)で す。

228-30ページ 
私は、天と地が重なり合う地点で生きることに召されている。(p.229)
クリスチャンの祈りは、この2つのときが重なり合うところに自分たちがいて、自分たちも新しい誕生の陣痛で苦しむ創造物の一部であることに気づくときに、その特徴が最も表れ出てくる。(p.229-230)
230-3ページ 
 それ [理神論者の祈り] は、孤島に置き去りにされた船乗りが、メモを書いた紙を瓶に入れ、海に放し、誰かが見つけてくれるまで待つようなものだ。
234-8ページ 
 私たちはいまだに、一方でロマン主義、他方で実存主義の遺産によってがんじがらめにされている。そのために、誰にも指示されることなく、自分の心の深みから生まれる自発的な祈りだけが本物だという発想が出てくる。

238-40ページ 
この祈りについて、それが何を意味し、どのように用いられ、どこに導かれていくものなのか、これまで多くのことが書かれてきた。一見、堅苦しい感じがする が、それほどでもない。憐れみを求めて祈るのは、「悪いことをしたので赦してください」ということは意味しない。それはもっと広意味での嘆願である。自分 は神の憐れみを受けるに値しない、決して値しないものだが、あらゆる状況で、神の憐れみ部会臨在と助けを送ってください、と神に祈ることである。
《上記引用の解説》
ここでは、正教会で用いられる、イエススの祈りが出てきます。
日本ハリストス正教会では、
主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え。
英語
Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner.
Lord have mercy.
が紹介された後、次のような記述が続きます。



240-2ページ 
もうおひとつ用いるこのできるものがある。先に紹介したのと同じように、初代教会で用いられていたと思われるものだ。古代から現在のユダヤ教に至るまで、 それは毎日3回祈られてきた。このように始まる。「聞け、イスラエル、ヤハウェは私たちの神。ヤハウェは唯一である。心を尽くしてあなたの神、ヤハウェを 愛せよ」。『申命記』第6章4節から始まる言葉から採用されたものである。シェマーの祈りとして知られている。ヘブル語の『シェマー(聞け)』から始まる のでそう呼ばれる。これが祈りだとは驚きかもしれない。命令を共なった神学的宣言のように見えるからっである。それは会衆に教えるためではない。礼拝で聖 書朗読がなされるように、神がなしたことを賛え、ヤハウェは真に誰であるか、その契約の神が何を望まれているかの宣言であり、それ自体が祈りであり、礼拝 と献身の行為なのである。
《コメント》

特にここで気になった記述は、
礼拝で聖書朗読がなされるように、神がなしたことを賛え、ヤハウェは真に誰であるか、その契約の神が何を望まれているかの宣言であり、それ自体が祈りであり、礼拝と献身の行為なのである
という部分であり、聖書そのものを祈りに使う、ということです。
242-4ページ 
 私は、同僚との関係で大変困難に陥った時、霊的指導者の勧めで解放されたことを良く覚えている。それは、「主の祈り」を唱えることと、その祈りのそれぞれ の部分を、特にその同僚に当てはめて思いめぐらすことだった。書物、リトリートでのリーダー、友人、牧師は、それぞれ助けになる。
 クリスチャンの祈りには、さらに他の仕方もある。ある人にとって異言で祈ることは、具体的に何を祈ったらよいかわからない時、あるいは、あまりに明白な課 題やそのことで圧倒されて、どう祈ったらわからない時に、その状況や人々の必要を想いながら神の前に出るのに役立つ(もう一度、『ローマ人への手紙』第8 章26~27節に戻ってほしい)。沈黙の祈りはかなりの人にとって実行が難しく、それを継続して行うとなると、ほとんどの人には困難である。しかし、よい 意味での暗闇のように、信仰と希望と愛の種が人知れず芽生える土壌となる。

第13章「聖書

245-6ページ
 

 聖書を手にするとき、自分にこう言い聞かせる必要がある。いま私は、世界で最も有名な書物を手にしているだけではなく、人生を変え、社会を変え、世界を変え得る偉大な力を持つ書を手にしているのだと。
 聖書は、クリスチャンの信仰と生活にとって決定的で不可欠な要素である。

246-7ページ 
 今日、聖書についての論争がある。・・・兄弟争いである。
 だが、聖書の持つ可能性のすべてをあなたを通して、あなたのうちで活用させないとしたら、手を固く閉じてピアノを弾いているようなものだ。
248-9ページ 
 事実から始めよう。
 初期のクリスチャンの記述の多くは、旧約聖書としっかり結びつけられ、それを引用したり、反映させたりすることで、自分たちがその契約刷新を受けとる存在、すなわち「新しい契約(新約)」の担い手であることを明確にしている。
 またその問いとは、ユダヤ人にとっての聖書を、イエスにあって「契約(カベナント)」が刷新されたことを心から信じている者たちが、どのように理解し、どう適用するかである。
《コメント》(コメント欄に紹介したある「聖書入門」動画で久し振りに賑やかなスレッドになった。)

249-50ページ 

 その正式に認められたものを、ギリシャ語で「キャノン(正典)」という。
 旧約聖書の原典に関する知識は、死海写本の発見によって極めて豊かなものになった。

251ページ

 残念なことに、多くの人は外典を実際に読んだことがないばかりか、これらの書に議論があったことをほとんど知らない。
251ページ 
 パウロの手紙は、紀元40年代の終わり50年代に書かれた。ただし、パウロの名前がついた手紙のすべてをパウロが書いたかどうかは議論が続いている。
252-3ページ 
 それらを研究することは比較にならないほど聖書本文の信頼性を高める。すなわち、写本にあるわずかなことばの違いから、原典がどうだったかを見極めることが可能なのだ。 
253-5ページ 
 このように、聖書の構成、集大成、普及の歴史を語ることは必要なことである。・・・その「決定的に大切なこと」について、次に取りかかるとしよう。

大体以上となります。


メンバーによる(主にライト関連の)様々な情報や報告が寄せられるが、(5月中のものから)その一つを紹介。

 (1)ライトのオンライン講座の受講レポ
「・・・ 今回はWorlviewについての学びでした。
アメリカ人の物の見方と英国人の物の見方の対比から(大変な違いに気づきました)、ローマ人とユダヤ人の世界観に入ってゆきました。
 一回、二十分ぐらいの講義に、質問やダイアグラムやレスポンスなどがあります。
 それにしても、ビデオメッセージを見ながらこれほど引き込まれるとは思いませんでした。
 何とも言えない感動です。一挙に四回分聞いてしまいました。まだまだ続きます。後が楽しみです。」


5月は、入会2名、退会1名で、トータル198名となりました。
 
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

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