先ずは本書の方から。
進展具合から言うと、第5章が(担当者発表分までは)終わりました。
今回が2回目の担当となるのか、Yさんが担当したのは、第五章『神』、81-85ページ。
Yさんは特に「・・・神を片隅に追い込み、押さえ込んで・・・」(84)のところに注目しました。「押さえ込み」が原文ではpinned downとなっていることに関して、
あたかも生きている蝶を捕まえて殺して標本にして「ピンでとめて」コレクションに加えて鑑賞する、そんなイメージが湧きました。人間の知的営みの犠牲となる「神」のイメージです。
クリスチャンもそれぞれ神についてのイメージを持っていて、「神なんてもうわかってるよ」と思いがちだと思います。しかしその態度それ自体がまさに神を「ピンでとめる」ことであり、神の自己開示を拒絶する、これがイエスの受難そのもの。と感想を述べておられました。
その後この「ピン・ダウン」についてのディスカッションがかなり続きました。
次に、レギュラーのMHさんが、続く86-92ページを担当されました。
ここはこの本にも多用されている「天と地がどのように関わる(関わらない)か」についての「神論」的に見た場合の3類型(汎神論、理神論、ユダヤ・キリスト教神観)が導入されている箇所です。
その前置きの部分、「天」と「地」がどのように交差するか(しないか)について以下のようにコメントくださっています。
聖書では、私たちの世界を地と呼ぶ。天は空を示す事もあるが、通常は私たちの現実に対する神の現実の次元を示すことが多い。ここは概念的にもなかなか理解が込み入りやすいところだと思いますが、先ずは「なるべくやさしく解説している」部分だと思います。
この「次元」(原著 Dimension)というのは案外大事だと思います。つまり、3次元が2次元や1次元を包括するように、神の次元、天の次元は、 人間の現実次元を包括するということを言いたいのかなぁ、と思います。単に別世界という意味での次元間の交差がほとんどない異次元ではなく、きっちり地の 世界を内包するものとして、天の次元をとらえている様な気がします。
第5章の残り(92-101ページ)は、小嶋が担当しました。
(ですので半分だけここにも掲載します。)
その①
「天と地は重なり合い(overlapping)、かみ合っている(interlocking)」
『天と地が重なり合い、そうすることで神は天を離れることなく地にいるという意味づけは、ユダヤ教と初期キリスト教神学の中心にあった。多くの混乱はまさ にここにある。もしクリスチャンの主要なこの主張を、他の思考の枠(・・・選択肢1と2・・・)で考えるなら、不可解で変なものになり、おそらく矛盾して さえ見えるだろう。しかし、正しい枠に戻して見るなら、まさに意味が通じるようになる。』(95)一つ具体例からこの議論にアプローチしてみます。
カウンセリング対象の方でこう言う方がいました。まるっきり宗教音痴なのです。親が宗教に関心がなく、およそ信仰とか宗教とか無縁で育ちました。精神的な悩みで世俗のカウンセリングを受けていたのですが、宗教的な信仰を勧めらきした。
「祈り」をしたい、どうしたらいいか・・・と言うことでアドバイスしたのですが、先ず「神に向かって祈る」といってもその感覚が分かりません。その存在も 意識できないものに向かって祈るということが不可解なためです。まるで壁に向かってごにょごにょやるようなことが何の役に立つのか・・・。
しかしそれでもトライしようということで「何を祈るか」となった時、思いつくのは「祈ればすぐ目に見えてその効果が分かるような祈り」なのです。まるでマジックでもするみたいな・・・。
この人にとって「壁に向かって祈るような・・・」は、《選択肢2、理神論》のようなものです。余りにも自分の場である地と神の場である天とが全く接触点がないので祈りという行為にリアリティーを見出せないのです。
次に、もしトライするとするとその祈りはまるで「マジックのようなもの」になるとは、《選択肢1、汎神論》に近くなります。殆どスイッチポンの自動機械の ような感覚です。祈る、というよりただ「開けゴマ」を口にするようなもので、(人格的な)神というより日常的リアリティーにある様々な因果関係の仕組みを また一つ覚えるようなものです。
二つの選択肢(汎神論と理神論)をこのような具体例で考えてみても何となく分かると思いますが、結局一種の合理主義的なリダクショニズム(単純化)になっ てしまうのです。それに対して旧約聖書が示す「神と世界の関わり」は(天と地の重なり合い)はかなり複雑で多様であり、簡単な形式ができません。
それが「もしクリスチャンの主要なこの主張を、他の思考の枠で考えるなら、不可解で変なものになり、おそらく矛盾してさえ見えるだろう。」ということになるのだと思います。
四つの声の響きが「真正なもの」であるとは、キリスト教的世界観からいえば、神が造られた世界と人間は、複雑で多様な「神と人とのあり方」を抱合する関係 なのだ、ということでしょう。それはやはり神と人との「人格的な交わり」を暗示する複雑さであり、多様性であり、旧約聖書の「セオファニー(神が世界に、 人に顕れる)」はその様々な例証である、ということに繋がるのだと思います。
前回の報告でも『クリスチャンであるとは』の書評を一つ紹介しましたが、今回も一つ。
木原活信ブログ
おすすめです。
この他目立ったものでは、「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」 関連の記事(と言うより警戒注意を含んだ感想のような・・・この読書会の方ではありません)が紹介されました。
それで少し「パウロ研究」、特にNPP(ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ)についての現況を討論しました。
また、8月の入会者数は6名で、トータル167名となりました。
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。
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