で
『天と地が出会う場所:神殿、イエス、そしてN・T・ライトの空間理解』
と言う基調講演をなされた鎌野氏は、その中で「神殿」の理解を、どのようにライトが「イエス」理解に繋げているかを
『天と地が出会う場所としてのイエス、そしてキリスト者共同体』
と言う部分で5つのポイントにまとめている。
その第5ポイントは以下のようになっている。(ネットではまだ公表されていない論文なのであしからず。)
第五に、イエスの昇天を通して、地におけるイエスの遍在が可能となった。天と地は全く同じ種類の空間ではない。地にいる限り、イエスはある特定の場所にしか 存在することははできなかっただろう。しかし、天は地に十分に浸透している。天にいるからこそ、イエスは地のあらゆる場所にいることが可能となった。イエ スは王として天の王座につき、そこから全地を導いているのだ(脚注31)。
※脚注31とは、ライトの2011年刊、Simply Jesus: A New Vision of Who He was, What He did, and Why He Matters、の191-2ページ(ペーパーバック版、ハードカバー版は、195-6ページ)。この「イエスの遍在」ということについて、当日のセミナーで、フロアーから質問があった。
イエスの昇天によってイエスの肉体は現在遍在するのか。このような書き方だとイエスは肉体を持ったまま天に着座した、と読めるのですが・・・。これに対して鎌野氏は(質問者は聖餐におけるイエスの臨在のことにも言及されたので)聖餐におけるイエスの臨在に関する理解が「象徴説」から、よりルター的 な、あるいはよりカトリック的な理解に近づきつつある、としながら「イエスの遍在」に関しては「遍在」が可能になったのだけれども、それは「汎神論」的な意味での「遍在」のあり方とは違う。
とおよそそのような回答をなされた。
筆者は基調講演へのレスポンデントとして同席していたのだが、この質問には人一倍関心があったので、ついでに意見を言わせて頂いた。
筆者は、ライトが「キリスト教起源」シリーズ第3巻の「神の子の復活」で、復活したイエスの身体が、パウロ(第一コリント15章)によれば「朽ちない身体に 変わった(トランスフォーム)」としているのをどう表現したら良いか探しあぐねて用いた言葉がtransphysicalityだ、と紹介した。
そしてその理解はSimply Jesusでも継続されている、と発言した。
しかしそもそも transphysicalityと言う言葉自体ライトの造語であるし、また果たして昇天の時のイエスの身体性は、復活後40日間弟子たちに顕現された時の身体性と同一であるかどうか、筆者は改めてその点を確認する必要があるのではないか、と思っている。
これはかなり推論的な思索にならざるを得ないので、ライトと言えどもそれほど「確実性」を主張していないものだと思う。
と言う訳でどこまでライトが言う transphysicalityに肉薄できるか分からないが、あくまで試論として、あるいは断想的なものとして書いてみようと思う。
(次回へ)
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