さて、前回「復活後のイエスの身体性」が如何なるものであったか、そのような疑問の一つの入り口として「第2回N.T.ライト・セミナー」での「『イエス昇天後の遍在』における身体性の如何」の疑問について紹介した。
今回は前回紹介したように、ライトが「復活後のイエスの身体性」を提示する概念として造語した
transphysicality
について少し書く。
「神の子の復活」(キリスト教起源シリーズ第3巻目、2003年)において初めてtransphysicality
と言う造語が紹介された。
その最初の箇所(477-8+ページ)の文脈をかいつまんで言うと、
①「新約聖書の復活観」の結論を5つのポイントにまとめている部分である。
②(幾つかの復活観のオプションの中でも)パリサイ派の復活観が修正されたものであるとしている。
その要素として、
(A)(死者からの)復活が起こるとされた『終末』が(時系列的に)2段階に分けられた。
(B)将来与えられる復活の身体の性質は、「死ぬことも朽ちることも出来ない身体」であり、このような身体は、既に死んだ者たちも、イエスの来臨の時生きているキリスト者たちも、両方が「着せられる」ことになるのだが、それはトランスフォメーションを必要とする。
この(B)の部分を論述している過程で、ライトは(権威ある)オックスフォード英語辞典には見つからないtransphysicality(transphosphorylationと言う語と、transpicuousと言う後の間に入ることになるわけだが)と言う語を提案するわけである。
そしてライトはこの語の「使用範囲」と言うか、「目的」について制限を加える。
transphysicality、とは新約聖書記者が復活後のイエスの体が実際にどのような身体性を持ったものであるか、また将来キリスト者たちが持つようになるであろう復活の身体の詳細を描写した概念でも、またどのようにそのような身体性を獲得するかについて描写した概念でもない。
transphysicality、とは初代キリスト者たちがそのような復活の体が(変な言い方に聞こえるかもしれないが・・・筆者注)「十分身体的(robustly physical)」であり、現在持っている身体とは質的に異なるものである、と認識していたことは動かし難い事実であることを主張するために考案した「ラベル」のようなものである。
「神の子の復活」で、ライトがtransphysicalityを使って論述している箇所は他に数箇所あるだけなので、この造語によって「復活の体の身体性」について何か理論的な考察をしているわけではないことは明らかである。
ただこの語を用いて「復活の体の身体性」が持つ特異な面について読者の注意を喚起しようとしていることは確かではないかと思う。
このことは、①パウロ書簡(特に第一コリント15章)を釈義する時もそうであるが、さらに②福音書において復活後のイエスについて(特にその身体性の特異性について)記述している箇所を釈義する時に必要な「枠組み」であることを示唆しているものと思われる。
(次回に続く)
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