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2015年6月9日火曜日

(リアル)読書会報告 2015年6月

今年2回目の読書会でした。

ほぼすべて予定通りと言っていいでしょうね。

しかし、2時間はやはり短い。

課題論文の半分もカバーできませんでした。




ご覧のように(私も含めて)9人の出席者でした。

なお今回の読書会の進行ぶりや、ディスカッションの様子をかなり細かく報告されているこちらの記事をご参考ください。


最初の自己紹介では、それぞれの信仰や教会背景を、「終末」「終末論」に絡めて簡単にご披露していただいたが、殆どの人は「千年王国」に関して「前・後・無」のどれを取るか・・・を一つの参照枠として使われていた。


その後のことは、上掲リンクのMH氏の記事が詳しいので、ご参照いただくとして、残りは個人的な感想を一つ二つ。


(1)聖書を「神の言葉」として受け取る者たちの責任

ライトはアポカリプティックな『言語表現』を理解する時に、『リタラル(文字通り)』と『メタフォリカル(比喩的)』との区別をベース(第一ステップ)にしろ、と提案する。

これは普段余り注意しないで聖書を読む人への提案としては、普段以上に『言語表現』の複雑性・多様性を意識させる意味では一定の効果があるかもしれない。

と言うよりも、既に一定の枠で理解してきた(聖書)箇所を、「あらためて見る」ときの「作業」として役立つだろう。

しかし、実際には『リタラル(文字通り)』と『メタフォリカル(比喩的)』の区別だけではアポカリプティックな出来事として描写されている事柄を理解するには到底間に合わないように思う。

やはり『黙示文学』と言うジャンルのまとまった理解が必要と思われる。

課題論文ではアポカリプティシズムの問題にどう対応するか、と言うのが主眼であったため、アポカリプティック表現解釈に関するもう少し立ち入って論述するまでの余裕はなかったと思われる。

いずれにしても、ライトがたびたび『リタラル』を「フラット(平板)」と形容するように、文学的に平板で、マニュアル的で、簡単に操作可能な文字の羅列とみなすような惰性的態度が「聖書の権威」を高調する者たちにあるとすれば、それは深刻な反省を必要とすることではないか。

むしろ聖書の文学性の豊かさや多様性を(解釈するのはそれなりに大変になるが)積極的に受け止めることが大切ではないだろうか。

(2)言語表現とイメージ

黙示録等にある「アポカリプティックな出来事」が、現代でもっぱらハリウッド映画を通して大衆化している。(List of Apocalyptic Filmsによれば、10年毎の本数では、2000年以降さらに増える傾向がある。)

映像による理解が、どの程度原典である新約聖書の『言語表象』に影響を及ぼすのか分からないが、やはり映像を一つの解釈として批評することは大切だろうと思う。

『リメイニング』という「携挙」を題材にした映画をプロモートする側(と思われる)は、この映画を評して次のように語っていたようだ。

「これは神を信じない者への裁きであり、そして“赦し”に関してもこの作品はきちんと描いてる。細かい描写も、聖書に忠実なんです」と説明。 「実は、聖書が予言していることが、実際に起こり始めているのです。例えば“ヨハネの黙示録”に書かれている軍隊の数は2億人。それは、現在の中国軍隊の 数と偶然にも同じ。巨大地震や日本のマイナンバー制度も、聖書には神の予言として、同じようなことが書かれている」と会場をどよめかせた。

そもそも「携挙」(Ⅰテサロニケ4章)は「残され(てしまった)者」たちについては何も語っていない。

すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。(4章16-17節、新共同訳)
ここで描写している「残された者」は、「非信者」ではなく、「キリストの来臨のとき生き残っている者」、即ち「信者」である。

 (実際に鑑賞したわけではないので控え目に言うが)『レフトビハインド』や『リメイニング』が悲観的な終末像を、新約聖書の様々な箇所から寄せ集めて合成しているとすれば、それらの聖書箇所をもう一度聖書自身の文脈に戻し、その上で解釈の妥当性が評価されるべきだろう。

個々の箇所が「リタラル」に解釈され(映像描写に反映)ているかどうかだけでは、「細かい描写も、聖書に忠実」、 とされる根拠とはならない。

さらに、例えば所謂「携挙」の場面で言うと、描写の中心は「来臨のキリスト」であり、「キリストにあって眠っていた聖徒」と「地上で生き残っていた聖徒」とが、キリストと一同に会する、という晴れやかで栄え輝くシーンが前面に出ているかどうかも、文脈に沿った「忠実な描写」としては欠かせないことは明白である。

(3)「終末」の啓示(アポカリプス)の中心は何か

簡単に言えば「終末」の出来事の中心は既に起こったこと。

神がキリストにおいて世と和解したこと。

キリストにおいて、終末は「既に」の域に突入したのであり、新創造が開始したのである。

この既に起こったキリストの出来事を足がかりにして、「未だ到来していない」終末、究極の完成までのプロセス全体が見渡されなければならないはずだ。

足がかり、とは足がこの地に着いていなければならないことを意味する。

ここに力点を置いていないと、「神の民」は「来臨」までの間をふわふわ浮いたようになり、現在に対して疑いを抱いたり、やきもきしたり、気落ちしたり、所在無さそうにしたり、となってしまう。

新創造の働きに従事することから逸脱してしまうことになる。

地に足の付かない状態は、「再臨時期」を予測することに一生懸命になったり、僕が従事すべき務めをないがしろにしてしまうことになるであろう。



といったようなシナリオに見えるのだがどうであろう・・・。

2015年5月18日月曜日

2015年度(リアル)読書会、その2  ガイド②

6月6日(土)の読書会まであと3週間となりました。

課題論文、Apocalypse Now?の後半部分を簡単にガイドします。


Apocalypse and apocalypticism
ブランチ・ダヴィデアンや終末カルトの歴史的実例を参照しながらアポカリプティシズムの問題を論じます。

一応聖書の「黙示思想」言語を淵源とする「世界観」運動としてのアポカリプティシズムをこのように定義しています。


the worldview in which certain people come to believe that their group is set apart from the rest of humanity, that it is righteous and all others are sinners, and, more particularly, that an event will soon occur which will sort things out once and for all.
かなり一般化した表現ですので、ここだけ一読すると「オウム真理教」を連想するかもしれません。

《聖書言語》がそのオリジナルな文脈を離れて、様々に使われる(特に「世の終わり」関連の連想)例として
William Dalrymple’s spectacular From the Holy Mountain: A Journey in the Shadow of Byzantium (London: HarperCollins, 1997)
が挙げられています。

正教以外のキリスト教信者その他が「地獄の業火」に、正教信者は「携挙」に、・・・と言う場面が引用されています。

また、「世の終わり」のイメージを彷彿とさせるので有名な「第二ペテロ3章10節」の釈義問題も取り上げられています。

ライトは《聖書言語としてのApocalypseと《アポカリプティシズム》を次のように交通整理して、問題解決の方向を探ります。

Apocalyptic language, using cosmic language to invest historical events with their full significance, draws together the heavenly world and the earthly world;
“apocalypticism” forces them apart.
Apocalyptic language exploits the heaven/earth duality in order to draw attention to the heavenly significance of earthly events;
apocalypticism exploits apocalyptic language to express a non-biblical dualism in which the heavenly world is good and the earthly bad.
この中でのキーワードである「heaven/earth duality」を次に解説します。


Heaven and Earth

区別①・・・天と地は、two placesではなく、two different dimensions of the total reality of the world.
区別②・・・天と地は、dualityであって、dualismではない。
※アポカリプティシズムの問題は、dualismに行ってしまうこと。

Christian Future Hope
・キリスト者の「希望」は、進歩への「楽観」ではない。
・聖書的「希望」の根拠の中心は「イエス・キリスト」だが、アポカリプティシズムはこの希望の根拠を再臨時の携挙に縮減してしまっている。
・「人の子が雲に乗って」の釈義的問題について。
 
The Present Challenge to Future Hope  
現代のキリスト者の課題が次のような質問で提示される。

The question must be:
how can we read apocalyptic language without collapsing into apocalypticism?
How can we respond to the heavenly dimension of the world without lapsing into an anti-earth attitude? And, faced with the Millennium, 
how can we co-operate with what God intends to do in our world, producing earthly events with heavenly meanings?
And how can we in our turn describe what God may be doing in our world, in such a way as to invest earthly events with their heavenly significance? 
How, in other words, can we do for our own day what the apocalyptic writers were trying to do for theirs?

一方で「イエスの復活」に基礎を置き、どのように「将来の復活の希望」に繋げるかは、
 ・橋渡しのようであり
 ・サインポストを示すようであり
 ・現代の「黙示思想」言語を探すよう
Only poetry, art and music can begin to do justice to such things; the flat one-dimensional language of ordinary post-Enlightenment analysis into economic or political forces will remain earthbound.
現代の文化は千年紀の切り替えとともに「ポストモダン」に突入するかのようである。
その中で希望を切り拓く(ある意味)《言語と思想》の文化創造の戦いに飛び込むのだ。
ーーー要約は以上ーーー




参加希望者はその旨、6月1日までに、お知らせお願いします。

問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)


 
N.T.ライト読書会主宰
小嶋 崇

2015年5月6日水曜日

2015年度(リアル)読書会、その2  ガイド①



ゴールデンウィークも今日でおしまい。


6月6日(土)、の読書会が、一ヵ月後となりました。

参加者には、Apocalypse Now?
を読んできてもらうことになります。 

それほど長い論文ではありませんが、2時間でカバーするにはある程度「スキップ/省略」する部分も必要かと思います。

また、ディスカッションのためにも、この論文の内容を簡単に整理しておきます。
※今回は前半だけ

《イントロ》
20世紀末」を迎えて、「世の終わり」的な言説や、ハリウッド映画、また奇妙な宗教教団の動きが見られます。

21世紀」を目前にして、何か本当に「世の終わり」的なことが起こりそうな予感に包まれている状態をどう理解したらよいのでしょうか・・・。

・・・風な書き方で、イントロの最後を次のような質問で終えます。


Where does all this apocalyptic speculation come from?
Why is it so powerful?
Is there any good reason to link it to the year 2000?
Are there any solid and lasting lessons to be learnt from it?

The irrelevance of 2000
これらの世紀末ファンタジーは、聖書に(特に『黙示録』・・・英語名がアポカリプス)根拠でもあるのか。
2000年は特別な意味があるのか。
(答え)聖書に由来するが、2000年に特別な意味はない。


Apocalyptic language
しかし、世紀末ファンタジーが由来する聖書の「アポカリプテイック言語」はどのようなものなのか。

※以下ライトの解説が今回の読書会のメインポイントとなる予定です。
 

Apocalyptic language is a literary convention.

1(旧約イザヤ書から)

天のもろもろの星とその星座は光を放たず/太陽は昇っても闇に閉ざされ/月も光を輝かさない。(13章10節、新共同訳)


2(新約コロサイから)

そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。(2章15節、新共同訳)


3(新約黙示録から)

天使は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、/あらゆる汚れた霊の巣窟、/あらゆる汚れた鳥の巣窟、/あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。
すべての国の民は、/怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、/地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、/地上の商人たちは、/彼女の豪勢なぜいたくによって/富を築いたからである。」(18章2-3節、新共同訳)


アポカリプティック言語とは(定義)

It regularly involves vivid metaphors which enable the writer to say, and hopefully the reader to understand, the significance, within God’s dimension of reality, of events that happen within our dimension, within the world of space, time and matter. 


どのように解釈するか(方法/ステップ)

In order to interpret any passage, particularly any passage of apocalyptic, the way of wisdom is to go through it one step at a time, deciding what is literal and what is metaphorical on the way.


Apocalypse and apocalypticism
※ガイド②に続く。



参加希望者はその旨、6月1日までに、お知らせお願いします。

問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)

 
N.T.ライト読書会主宰
小嶋 崇

2014年12月12日金曜日

パウロ研究動向にシフト?

『福音の再発見』の著者で、「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ」の名付け親、ジェームズ・ダン教授(英国ダーラム大学)のもとで博士号を取得したスコット・マクナイト氏が、自身の「ジーザス・クリード」ブログで、
The Conversation Shifts
と題する記事を投稿した。

簡単に紹介すると、
(1)過去「20年以上」にわたってパウロ研究をリードしてきた「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対オールド・パースペクティブ」(略して、NPP vs. OP) 論争がほぼ収束し、それに替わって
(2)「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対アポカリプティック・パウロ」(略して、NPP vs. AP)論争が支配的になってきた。
つまり、パウロ研究での論争が、 NPP vs. OP、から、NPP vs. APにシフトしつつある、と言う観測である。

(1)についてのポイントは、既にこの記事にも少し書いておいたが、英語圏のアカデミックな世界では「収束」したと言っても、その外、特に日本では「まだこれから」観がある。

マクナイトが次のようにNPPの視点の意義を要約しているが、コンサイスでいいかな、と思う。
With the growing conviction that Judaism was a covenant and election based religion (Sanders, Wright) there came a radical change in how Paul’s opponents were understood and therefore what Paul was actually teaching. He was, to use the words of Dunn, opposing “boundary markers” more than self-justification.
「ユダヤ教は契約と選びに基づく宗教である」 と言う認識は、NPPの立場を取るマクナイトにとって、「アポカリプティック・パウロ」に対する疑問点のベースになるものだろう。
Concerns? Plenty. Where’s Israel, where’s the Story of Israel, where’s serious engagement with Jewish apocalypses (where one learns that many today do not think there is even such a thing as an apocalyptic worldview so much at work in the work of these apocalyptic Pauline specialists), where’s election, where’s the church, where’s the very problem that drove Paul — the vexed relation of Jews and Gentiles in the one people of God?
いずれにしても、ある種「論争」的なものが付きまとうのが「学会」であるとすれば、部外者としてはせめてその論争が鋭く対立することによって見えてくるものを期待するのもよしかなと思うが・・・。