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2016年9月5日月曜日

FB読書会 2016年8月報告

9月を迎えました。

『クリスチャンであるとは』をついに読了しました。

以下「訳者あとがき」(337-342)までの抜粋引用とコメント/感想などです。

第16章「新しい創造、新しい出発」

321-3ページ
    それゆえクリスチャンは、怒りにどう対処したらよいかを学ぶよう求められる。どういう理由であれ、誰でも怒ることはある。傷ついたこの世界では避けられない。何かにつけて怒らないためには、いくらかの図太さを身につける必要があるだろう。しかし、問題は怒りを覚えたとき、どのようにしたらよいかである。
    イエスの死は、私たちの赦しを完成した。素晴らしいことである。ならば私たちは、このことを互いに生かしていく必要がある。いつまでも恨んだり、不機嫌になったりする人にならず「お詫びします」と言える人にならなければならない。(一部省略)
  《コメント》
   教会でメッセージにつまずいた、人間関係につまずいた。など自分が傷ついて怒っていることを聞くことがあります。なんでそんなことに怒るのかなと思います が、大抵はその「小さな怒り」を溜め込んだresentmentが多いように感じます。(日本人はわりと溜め込みやすいタイプなのかもしれませんね。浅野内匠頭のように。)
324-7ページ
    「しかし、クリスチャンはユダヤ教徒と共に、性的行為は男女の営む結婚生活のみに限られると主張した。世界の人々は、昔もいまも、それをまったくばかげていると思っている。・・・・別の言い方をすれば、私たちにとっての究極の目標はまさに、からだを抜きにした天でもなく、この地における単純なる生活の立て直しでもなく、全創造の贖いであり、私たちの召しは、自分のからだをもって、後にあずかるいのちを期待する仕方でいまをどう生きるかである。結婚生活における誠実さは、全創造に対する神の誠実さを踏襲することであり、そのあり方を先取りするものである。それ以外の種類の性的行為は、現代社会の逸脱と崩壊を象徴し、体現するものである。
《コメント》
   性に対する問い、本来神が私たちに願っておられる創造の業から性の意味を見出すことが必要であることを改めて理解することが出来た。「全創造に対する神の誠実さを踏襲する」このことを実践することは、聖霊様の助けなくしてはできない。この短文の中にクリスチャンであることを端的に語っている。自分の召しに対し、主イエス・キリストが私たちの罪の贖いの為に救いの道を与えて下さっていることを喜び感謝したい。
329-334ページ
  「クリスチャンであるとは(中略)
   つまり、私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を、イエス・キリストに従って歩んでいく人たちのことである」
 《コメント》
   クリスチャンであるとは「イエス・キリストに従って歩んでいく人たちのことである」というのはよく聞いてきたことです。
   このオーソドックスな答えに沿いながらも、ライトの「クリスチャンであること」の定義の急所は「私たちの前に開かれた新しい世界、神の新しい世界のただ中を」だと思いました。
   この「新しい世界」「神の新しい世界」は「創造、堕落、イスラエル、イエス、新時代、新創造」という神の物語においてこそとらえられるものです。そのことが第二部で取り扱われていました。
   この現在進行形の新創造に向かいつつある神の物語という文脈の中でこそ「クリスチャンである」とはなんであるのか、はじめて定義できるというのがライトの主張だったのではないでしょうか。そして、本書を読み終えた後では、私自身がこの物語(世界観)を無視してクリスチャンについて問うこが、そもそも可能だろうか?と考えるようになりました。
「結びとして」 335-6ページ

ここでは読書会の皆さんにアンケートをしました。

 (1)どんな現代訳聖書をよく用いているか
 (2)どんな聖書辞典を重宝しているか
 (3)聖書註解・研究書の中で「これには目を開かれた」というもの

(1)どんな現代訳聖書をよく用いているか

 かなりたくさんの回答があったのですが、上位5つを紹介しておきます。
 新改訳、新共同訳、口語訳、フランシスコ会訳、ESV

(2)どんな聖書辞典を重宝しているか
(3)聖書註解・研究書の中で「これには目を開かれた」というもの

  こちら二つの質問への回答はぐっと減りました、とだけ報告しておきます。

「訳者あとがき」 337-342ページ
   全体像というのは、まさに創世記から黙示録までに見られる神のわざ全体のことです。・・・創造は新天新地へ、アブラハムへの契約は全人類への祝福へ、 モーセの律法はキリストによる律法の完成へ、ダビデの王国はイエスの説く神の王国へ、幕屋はキリストの受肉へ、神の民の脱出はイエスの死と復活へ、エデン の園は神の都へと、壮大でダイナミックな聖書の物語の全体像、尽きることのない豊かな恵みの世界を説き起こしています。(338-9)
《コメント》
   ライトを16年読んできて、上沼先生が↑に要約してくださったものをTKなりに「肝要点」としてまとめると以下のようなものがあると思います。
  (1)「旧・新約聖書」を「通して」読むということ。
  (2)理論と実践
  (3)「救い派(ソテリアン)」からの視点転換
  (4)パースペクティブの変化といっても・・・
大体以上となります。

 さて「次の本は・・・」といきたいところですが、

 9月はまるごとお休みにしたいと思います。

 10月に入ったら「次の本」に何を選ぶか提案したり話し合ったり・・・を開始したいと思います。(その頃には新たなライト翻訳書情報も揃って来ると期待しています。)

 ということで、この約1年半の間、『クリスチャンであるとは』にお付き合いくださりありがとうございました。


8月は、入会1名・退会1名で、トータル202名は変わりません。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年8月1日月曜日

FB読書会 2016年7月報告

(梅雨もあけ)8月を迎えました。

いつものように過ぎた7月の報告です。

『クリスチャンであるとは』の15章と16章を読みました。
もしかしたら7月中に読了するのでは・・・とひそかに期待していましたが、それはできませんでした。

あ、それから前回少し報告しましたが、フォーマットを変えたんです。

2ページずつくらいいろんなメンバーを指名して(オーケーの人に)担当して頂きました。

前回で言うと「280ページ」からこの新フォーマットです。

以下の『抜粋』と『感想/コメント』は全部異なる個人によるものです。


第15章「信じることと属すること


292-3ページ 

「信仰への招き」には真の創造者なる神の愛とイエスが人格を持ってこの世に来られ十字架と復活を通して新しい世界の創造を開始されてことを信じるという面 ともう一つ「赦しへの招き」の面がある。この赦しとは過去を帳消しにし、全くの新しいスタートを差し出す神の恵みを受け止めるようにという招きである。私 たちは神の好意を得ることはできない。しかし、神の赦しの恵みを受け止めること=畏敬と感謝の念を持って一息つくことで、そこから神への応答して感謝に満 ちた愛が心の中に溢れることである。「信仰」という言葉は「忠誠心」や「忠実さ」を示す。イエスはただ一人の真の「皇帝」であり、自己犠牲の愛というしる しによって世界を治めるという「よき知らせ」である。
《コメント》
普段から言葉の意味って本当に大切だと思うんですが、このように言葉の意味からかみ砕いて考えることによって、文章の意味合いの側面が見えてくるのと同時 に、理解が深まることを再確認しました。また、好意を得る努力ではなく、主の恵みに押し出されていく、そこで一息つく場所から押し出されていくということ が印象的でした。
294-5ページ 

イエスの言う「王国」という光に照らして見るならば、【罪】とは、生ける神が私たち人間を、この世界に対しての神のイメージを反映させる存在として創造し たのに、そうしてこなかったこと。元来は「ルールを破る」ことではなく「的外れ」という意味。【悔い改め】とは、本来の造られたところから、いかに自分た ちが離れてしまったかに気づくこと。
そして、信仰によって義とされた私たちは、すべての世界を正すという、復活によってすでに始められた福音の勝利のプロジェクトの一員であることを示すバッジを付けている。
《コメント》
エデン王国の王子として生まれたアダムは、的に外れて目が開け、子孫とともに地を従える働きが困難なものとなった。新王国の王子として復活したヨシュアは、永遠のいのちをもつ新生人たちとともに約束の新世界を創りあげている。
強くあれ、雄々しくあれ、目を覚ませ、福音に生きよ!

296-7ページ 

「神が私たちの父ならば、教会は私たちの母である」
スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンの言葉である。幾つかの聖書の箇所も
そのように語っている(とくにイザヤ54・1を反映している ガラテヤ 4・26-27)
そのことばは、次の事実を強調している。すなわち、生まれたばかりの乳飲み子のように、クリスチャンが1人でいるのは不可能であり、そうする必要もなく、望ましくもない。
《コメント》
カルヴァンのこのことばは、初めてである。非常に新鮮に映った。同時に重みを感じる。家族、家族と「神の家族」だと嫌と言うほど聞かされてきたが、実の所、結局は、神の家族とは言っても、「所詮は、他人の集まりではないか」と、長年密かに思って来た。難儀な問題は血の繋がった家族でないと難しい。「神の家族」の限界を感じて育って来た。・・・どちらも同等に大切にしないと行けないと思う。その上で、神の家族にしか出来ない事柄は教会で育みたい。「互いに学びあう事」は神の家族でないと難しい。いや、不可能である。このような読書会もその一翼を担っていると思う。
298-9ページ 

 礼拝、交わり、そしてこの世界に神の王国を反映させていく働きは、人々の間に浸透 し、また、それから外に広がる。礼拝に基づくことなしに、新鮮で真正な神のイメージを反映させることはできない。同じように、礼拝は交わりを支え、養う。 礼拝なしの交わりは、同好会のようなものにすぐ陥る。そして排他的集団になり、イエスの民が目標とすべきものと反対なものになってしまう。
《コメント》
生産性を上げる鍵が、ライトが言うところの礼拝なのだと思う。真の神を一緒に礼拝することで、自分たちのボスがどんな方かを確認し合い、自分の立ち位置を確認することが可能になる。自分の価値観に合わなくても、あなたの価値観に合わなくても、それがボスの価値観に合っているのならそれでいいのだと、認め合う。認め合うというのはとても難しいことが多いのだけれど、ボスの価値観によってそれができれば、天の御国をこの地に広げているという実感と自信を取り戻 して前進することができる。そこが教会と、この世の集団との決定的に違う点であると思う。
300-1ページ 

モーセは幼いころ、ナイル川の葦の繁る河辺から救い出された。(中略)ヨシュアはヨル ダン川を渡ることを通して、ついに神の民を約束の地に導いた。(中略)これらの物語はさらにさかのぼる。『創世記』第一章にあるように、神の偉大な風か、 霊か、息が、鳩のように水の上をおおったとき、水を分けて乾いた地を呼び出したときのことである。創造そのものが脱出(出エジプト)、バプテスマと共に始まったとも言える。”水を通して新しいいのちへ。”
《コメント》
旧約聖書の創造物語、出エジプト記のモーセ誕生物語、さらにはヨシュア記のヨルダン川通過の物語を、イエス自身の行動と共に現代の「洗礼」に結びつけるこ とは大変重要で、キリスト者として常に意識しなければならないことだと思いました(現状として必ずしも心にとめられていない)。ライトを読んでいて感じる のは「新約聖書」だけで神学や日々の信仰生活が送られてしまうことへの危機感です。だからこそ第二部の「神」の直後に「イスラエル」をもってきているのだ とも思いました。
300-3ページ 

 初めに見たように、イエスは過越し、つまりユダヤ人の出エジプトを記念する重要な祭りを、権威にチャレンジする象徴的な行為の時として選んだ。それが次に何を引き起こすか、知っていたからである。
 その働きの初めに受けたバプテスマ、そして働きの最終段階で注意深く計画された最後の晩餐は、両方ともが最初の出エジプト、つまり水を通り抜けること、 またその背景にある最初の創造そのものを抜け出て、新しく規定された現実、すなわち新しい契約、新しい創造としてのイエスの死と復活を指し示している。
 キリスト教の物語の核心である一度限りの目覚しい出来事が、私たちにも起こる。・・・水を通してイエスに属する新しいいのちへ

第16章「新しい創造、新しい出発 

304-8ページ 

現代のクリスチャンの多くがこの点で混乱していることに、私はいつも驚かされる。「死後の いのちの後のいのち」は、初代教会とそれに続く多くの世代のクリスチャンにとって、当たり前のことだった。これこそ彼らが信じ、教えてきたことだった。もし私たちがそれと異なったことを信じ、教えてきたのであれば、目をこすって聖書のテキスト をもう一度読み直すときだ。 この世界を見捨てることは神の計画ではない。それは「非常によかった」と神が言った世界である。むしろ神は、それを作り直そうとしておられる。そして神が それを実行するとき、神の民のすべてを新しいからだでよみがえらせ、そこに住むようにさせる。これこそ、クリスチャンの福音が約束していることである。そこに住む。そして、そこを治める。ここに、今日ほとんどの人が考慮しようともしない奥義がある・・・
《コメント》
この読書会でも、長く在籍しつつも特に発言もできませんでしたが、折に触れて、ご紹介のものなどは、その都度いろいろ読ませていただき、皆様のご意見を拝読しつつ “but should share in the life of God's new age.”
というライトの言葉を、いまあらためて反芻しています。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(口語訳)この後半の元々の意味はライトによると、 “but should share in the life of God's new age.”と言い換え、このように初期キリスト教徒は受け止めたのだといっていると。そしてこれが、天と地が重なり合うことと、神の 未来が私たちの現在と重なり合うこと・・の理解に深く関わってくることなのだと、そしてやっと少しづつでも、ライトについての文章や、翻訳書籍がいろいろと出版されてきていることも、あらためて、しみじみ感慨深く思わされました。
308-9ページ 

……そうなるとクリスチャン倫理とは、はるか彼方にいる神が公布した、どこか恣意的なところのある行動規範に苦労しながら従う、という意味になってしま う。「罪」についても、この発想から、「律法を破る」という理解になってしまい、「救い」も、聖なる存在の定めに従わない人間に下される「罰からの救い」 というものになってしまう。多少キリスト教的な響きはするが、こうした理解もまた、じつはクリスチャンのものではない。
《コメント》
なかなか挑戦的な言葉であると思います。でも、私たちはそう言われてやっと初めて「あぁ、じゃあいったいクリスチャンとはどういうことなのか?」と問い直せるのかもしれません。この部分を考えていて使徒17章のペレヤの人々の姿を思い出しました。彼らはパウロとシラスの語ることを聞いて「果たしてその通りかどうかと毎日聖書を調べた」。私の今まで信じていたことは「はたしてその通りか」、そしてライトさんの言うことは「はたしてその通りか」、虚心に問い直したいなと思いました。
310-1ページ 

クリスチャンの倫理とは、この世界がどうなっているかに目を向け、それに合わせていくことではない。それは、神に喜ばれるために何かをする、というのでもない。また、はるか昔のほこりまみれのルールブックに従うことでもない。それは、神の新しい世界でやがて歌うことになる曲を、いまここで、練習することにほかならない。
《コメント》
わたしはバンドをやっています。本書を通して出てくる音楽のたとえには、身体的に、というか経験的に、というのか感覚的に、なのか、「なんとなく言っていることがわかる気がする」感があります。・・・わたしには「神の新しい世界でやがて歌うことになる曲を(中略)練習する」のにもイメージが必要です。主は楽譜を用意してくださっているわけではありません。わたしがいつか主にお会いするときに、何のためらいもなく歌うべき歌を歌えるように準備しておくということは、その歌の主題についてわたしがなんらかのイメージを掴み、それをお腹の中に蓄えて、何回も繰り返して反芻して歌にしていく過程が「いまここで」行われていなければならないということになりま す。
312-3ページ 

クリスチャンとして生きることは、キリストと共に死に、キリストと共にもう一度よみがえることを意味する。それは……バプテスマが意味する根底にあるものであり……
《コメント》
(幼児洗礼について)ライトは英国国教会ですが、やはりバプテスマが意味するものを考えていくと、キリストとともに死んで生きることを正しく象徴しうるものは、信仰者のバプテスマ以外にあり得ないように思われます。本書の前後を読んでみても、これ以外の考えは思い浮かびませんでした。
314-5ページ 

こうした規則は次のように理解されるべきである。それらは、はるか遠くにいる神が私たちの楽しみをやめさせようと勝手に定めた律法ではない(あるいは試験 をするかのように、私たちに飛び越えさせようと並べた道徳的なハードルでもない)。それは、天と地が重なり合い、神の未来が現在に侵入し、本物の人間らし い生き方とは具体的に何であるかを見いだす指針なのである。
《コメント》
私はある時期、そういう状態で表面だけさらっと聖書を読んで、「規則<ルール>」が目についてばかりいた時期がありました。正直なところ、わからない、納得ができないことだらけで。そのときの私の頭の中と言えば、こんな感じです。「ああ、あれも従えなかった」・・・
ライトは、規則のことを「私たちの楽しみをやめさせようと勝手に定めた律法ではない」と書きました。これはそのときの自分が理解できていなかったことだなと、その頃を振り返って思いました。
316-7ページ 

生ける神は十字架の上で、この世の怒りと暴力をご自分の上に引き受けられた。圧倒的な不義のゆえに苦しまれたが(物語はこのことに注意深く焦点を合わせている)、それでも、おどしたり、呪ったり、暴言を吐いたりすることはなかった。クリスチャンが『贖罪の神学』と呼ぶものの中心は、イエスが悪の重みのもとで死んだとき、ある意味で、その悪の根本的な力を消耗し尽くし、もはや悪の力が他に及んだり働き続けたりしないものにした、という信仰である。
イエスの復活は、新しい型の義が可能になった世界の始まりである。
《コメント》
イエス・キリストの十字架と復活が悪の力を飲み込み、神の義の現し方を示しているというライト師の指摘は、自分がライト師の文章を読むようになってから、 多くを教えられているところです。かつては十字架と言えば、自分の罪を赦すために必要な死、というように、とても自分中心な考え方でしか見ることができませんでした。しかし、ライト師が十字架には、イエスが悪に打ち勝たれたという意味もあること、そしてそれこそ贖罪の神学の中心だと指摘することから、十字架を違った視点から見ることを教えられています。
320-1ページ 

義への渇望は、あまりにもすぐ私の権利、もしくは私たちの権利の要求へと成り下がってしまう。親切にしなさいという命令は、自分の時間を自分自身、自分の必要、自分の義、自分が不当に扱われたのを正すために使うのではなく、他の人たちの必要、楽しみ、痛み、喜びに目を向けることを求める。親切にすることは、人間として成長し、豊かな深い関わりを築き、維持するうえで最も重要なことである。
《コメント》
ライト氏は、人間関係の良き関わり方のキーワードとして、「積極的な親切」をあげています。これも単なる「あの人はクリスチャンだから親切ね」という程度のものではなく、創造者なる父のまなざしを思い起こすとしっくりきます。・・・神に造られた者としてなすべきことは、造られた人々、自然に対し、造られた目的を果たすことができるよう大切に育てること、ケアしあうこと、神の作品として互いの存在を喜ぶことであると認めるとき、「互いに対する積極的な親切」という言葉が心にすっと入ってきます。

 
大体以上となります。


今月は他の投稿はなかったですが、神戸で開催される「第6回日本伝道会議」の9月28日午後の分科会「神学ディベート ―N.T.ライトの義認論―」のことが案内されました。

その後このブログでも紹介されたとおりです。


7月は、入会4名で、トータル202名となりました。
 
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年7月5日火曜日

FB読書会 2016年6月報告

7月を迎えました。

いつものように過ぎた6月の報告です。
『クリスチャンであるとは』の13章から15章を読みました。

6月中に「フォーマット」を変え、「指名制(強制ではありません)」でより多くのメンバーに担当してもらえるようにしました。15章から導入しています(結果はご覧のように上々です。)

第13章「聖書

255-7ページ
 そのように [聖書がインスパイアリングな書物であるように] 見ようとする人は、おそらく意図的にそのことを選択肢<1>の世界観に押し込めようとしているのだ。
 一方、「聖書の霊感」という考え方を擁護してきたかなり多くの人が、聖書を選択肢<2>の枠組みで見てきたのも事実である。それは、純粋な「超自然的」介入によって起きたと考え、著者の意図などまったく認めない。
257-8ページ  
 神がご自分の世界で働こうとするとき、神のかたちを担う被造物である人を通して働こうと願っているということである。しかも、できる限り人との知的 [intelligent] な協力体制を望んでおられるので、・・・、ことばを、またことばを通したコミュニケーションを中心にしたいと望まれている。
 すなわち聖書は、単なる啓示を証言しているのでも、それを反映しているだけのものでもなく、むしろ啓示そのものであり、神の啓示の本質的な部分として広く教会で扱われてきたのである。
258-9ページ


 ・・・神の召し出した民が、その務めを果たすためのエネルギーの提供である。聖書の霊感について語るとは、そのエネルギーが神の霊の働きからくることを表現する言い方の一つなのである。
 言い方を換えれば、聖書は、物事を調べ上げたり、正しく理解したかを確認する単なる参照資料ではない。それは神の民を整え、神の新しい創造と新しい契約 の目的を果たさせるのである。また義のわざに就かせ、霊的なあり方を保たせ、すべての面での関わりを築き、推進させ、神ご自身の美しさをもたらす新しい創 造を生み出すためである。

259-60ページ
 そのため私は、聖書に関して「無謬」、また「無誤」という用語を用いることについては不満はないが、個人的にはそれを使わないようにしている。私の経験では、これらの用語についての議論は多くの場合、・・・あらゆる種類の理論の世界に引き込んでしまう。

第14章「物語と努め

262-4ページ 
聖書は一言で言えば、少し異なりはするが愛の物語(ラブ・ストーリ)である。聖書の権威とは、そこに加わるように招かれている愛の物語という権威である。(p.252)
ということは、「聖書の権威」に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中には、共同体としても、個人としても、自分たちを浸 すことである。それはまさに、クリスチャンの指導者たちと教師たち自身が、そのプロセスの一部になることであり、聖書を読む共同体の<中だけ>ではなく、 その共同体を<通して>、より広い世界の中で、世界のために神が働かれているプロセスの一部にならない、ということでもある。(p.264)
《コメント》
>「聖書の権威」に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する
ってところにつながってくるように思いました。・・・演じる舞台は、教会の中だけではなくて、キリスト者が生きている現実世界だ、ということになるのでしょう。
一部では、この神の役割を果たす場所が、教会、とりわけ日曜日の教会でなければならない説をとる方々もおられるようなのですが、そうでないぞ、とライトさんは私たちに迫っているようかのように思いました。
265-6ページ 
神は確かに、聖書を通して語られる。聖書を通して教会に語り、さらに神の助けにより、教会を通して世界に語られる。この両面が大切である。ここでもその考 え方を、天と地の重なりという見方から見てみるなら、よりいっそう理解できる。また神の未来の計画が、イエスにおいてすでに私たちに届き、神がすべてを新 しくする日のために、今もそれを遂行しておられることを考えるなら、よりいっそう理解できる。
聖書を読むということは、祈ったり、典礼を分かち合ったりするのと同様、天のいのちと地のいのちが結ばれる手段の一つである。(p.265
267ページ 
聖書のことばから神の声を聴くとは、誤りのない見解を聞くことではない。
268-9ページ 

イエスについてクリスチャンが信じていることは、こう生きなさいという招きのナラティブを生み出し、さらにその物語に生きることで、この世界での具体的使 命への招きを生み出すということなのである。そして、知的な、思慮深い、神の似姿を担う人間としてその使命に従おうと追及する人を、神は聖書を通して支 え、方向を示す。

270-1ページ 
決定的に重要なのは、聖書は神とイエスと世界についての正しい情報の単なる収納庫ではなく、むしろ、生ける神がご自分の民として私たちと世界を救いだし、 新しい創造の旅へと送り出し、その旅の途上にあっても、聖霊の力によって、私たちを新しい創造の担い手とするための手段の一部だということである。 (pp.270-271)

272-3ページ 
真理は(神に感謝すべきことに)、それよりさらに複雑である。というのは、神の世界はそれよりももっと複雑で、事実、更に興味深いものだからなのである。(p.273)
《コメント》
真理は複雑、というのは大事かなぁ、と思います。・・・無理やり平板化された真理が大手を振って歩くふしがあり、それが問題を複雑にするような気がします。 そして、「文字どおり」と「比喩的」が2種類を指して使っており、それはキリスト者にも影響しているのが、更に問題を複雑化させているのではないか、という指摘です。
274-5ページ 
「文字どおり」という言葉が「具体的・具象的」という意味になり、「比喩的」とは「抽象的」、あるいは具体的・具象的とうい意味と反対の意味を負うようになる(例えば「霊的」のように。そうなるとますます混乱が起きる。)
聖書の物語全体のポイントの一つは、神がこの世界を愛し、救いだそうとしていることであり、現実の歴史の具体的事柄を通して、その計画を実現し、それを神の民の具体的生活やわざを通してなそうとしていることなのである。(p.275)
276-7ページ 
二番目に強調しておきたいことは、聖書を読む人、注解者、説教者の誰もが、ある特定の文章について、どの部分が「文字どおりの意味」の具体的現実であるか を問う前に、どの部分が「文字どおりの意味」で、どの部分が「比喩的意味」で、どの部分が両方の意味を持っているかを調べる自由がある、ということであ る。当ことは、前もって、「聖書のすべてを文字どおりにとらえるべきだ」と決めたり、前もって「そのほとんどを比喩的にとらえるべきだ」とするような単純 な決めつけはできない、ということである。(p.276)
278-9ページ 
即ち、聖書はまぎれもなく神から教会への贈り物であること、それは教会を整えてこの世界のために貢献するようにさせるためである。そのため、聖書を真剣に 学ぶことは、天と地がかみ合い、神の未来の目的が現在に到来する一つの手立てなのであり、またそうすべきだということである。(p.279) 

第15章「信じることと属すること

280-7ページ
 

個人的な霊的成長や究極的な救いは、むしろ副産物なのであり、神はより包括的で中心的な目的のために私たちを召しているのだ。その目的は明確である。それ は新約聖書のいたるところに記されている。すなわち神は、まさに知恵と愛に富んだ義なる創造者であり、世界を腐敗させ、隷属させている力を、イエスを通し て滅ぼしたこと、そして聖霊によって世界を癒し、刷新するために今も働いていることを、教会を通して世界に広く知らせようとしていることである。
《コメント》
クリスチャン信仰とは個人的なものだが本来「教会」という全体のためにある。また教会は家族のように(互いを兄弟姉妹と呼ぶように)親しい交わりがあるが、同時に外からの異なる人たちをも受け入れていかなければならない。
287-9ページ 
初期のクリスチャンは実際、復活こそが人類のすべてに必要なことだと信じていた。それは、いずれ終わりの時がきて、神が世界を新しくする日のためだけにで はなく、現在の生活において必要なことなのである。神は終わりの時に新しいいのちを与えてくださる。それに比べれば、現在の生活は単にその影にすぎない。 神は、究極の新しい創造においてこそ、新しいいのちを与えようとしている。しかし、新しい創造はすでにイエスの復活によって始まっており、神はいま、現在 のこのとき、私たちがその新しい現実に目覚めることを願っておられる。(289) 
《コメント》
もし、新しい創造が始まっていて、新しい現実が拡大しているのであれば、様々な分野において働いている、目覚めたキリスト者が各々召されている場所で、その現実に気づき、発見していく生活を送れるのではないだろうか。仕事場や、導かれた場所で、福音を語ることのほかに、その仕事や、場所が、天と重なり合 い、かみ合うことを、もたらすのもキリスト者であり、そして新しい現実に気づき、体験し、分かち合うことが福音を生きることではないだろうか。そうであるならば、すべてのキリスト者がパイオニアであり、宣教師であることに納得できる。
290-1ページ 
私たちは現在、キリストの光を受けながら闇の中で生きている。それゆえ、ついに太陽が昇るときには、その準備ができている。描写を変えると、やがてその日 がきて神が私たちを呼び出し、最高傑作の絵を完成させる時に至るまで、いま私たちは盛んにその素描を描いている最中だと言えるだろう。まさにそれが、福音の呼びかけにクリスチャンが答えるということである。(290)
《コメント》
ライトは、将来完成される最高傑作の下絵(素描)を私たちがすでに描き始めているのだと語っています。私たちクリスチャンが描いているなんとも拙い下絵 (現実の姿、教会の有様)だけを見ていると、これが将来どのようにして、神の最高傑作(神の王国)として完成されるのだろうかと戸惑いを覚えますが、ライ トの視点は優しいですね。

様々な欠けや痛みを抱えて生きている私たちですが、神はそのような私たちであっても、これから完成される最高傑作の共同制作者としてご覧になっておられる、そう語っているように聞こえます。
大体以上となります。


6月は、入会3名で、トータル201名となりました。
  

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年6月3日金曜日

FB読書会 2016年5月近況

5月を迎えました。

いつものように過ぎた月の報告です。

『クリスチャンであるとは』が出版されてから約1年が経ちました。

最初は原書 Simply Christian でスタートしましたが、途中で訳書の方に切り替えました。

読書ペースはいくらか上昇中。(既に13章に入っています。)

第11章「礼拝

218-9ページ

 共にパンを裂き、ぶどう酒を飲むときは、イエスの死の物語を語っているのである。それほどに単純なことである。
 ・・・それは理論ではない。私たちの罪のために死んでくださったのは、私たちを救い出すためであった。理念は重要ではあるが、それを提供するためではない。

219-20ページ  
 パンを裂き、いただくことで、神の新しい創造を味わうのである。すなわち、イエスがその原型であり起源である、新しい創造なのである。
 このことが、イエスが「これはわたしのからだである」「これはわたしの血である」といった理由の一つである。その核心に触れるために、長いラテン語名の ついた形而上学の凝った理論は必要ない。それはイエス、実在するイエスであり、いまも生きているイエスのことである。天に住み、同時に地をも治めているイ エスであり、神の未来を現在にもたらすイエスである。
221-3ページ
 つまり、どのようなことであろうとも、礼拝中に決まってなされることは、それ自体が目的となった儀式行為になり得る。同様に、礼拝中に決まってなされることでも感謝を表わす純粋な行為や、無償の恵みに対する喜びの行為になり得るのだ。
 このような不毛な議論は、天と地、神の未来と現在という組み合わせの二つが、イエスと霊にあって一つとなるという、大きな絵図から礼拝を考えることで乗り越えられると私は信じている。
第12章「祈り

225-8ページ 
 この祈りはすべての点で、イエス自身の行ってきたわざを反映している。・・・その祈りは何といっても、とりわけイエスに関わる [Jesus-specific] ものである。
 この祈りは、祈っている私自身も、イエスの宣べ伝えた神の国運動の一員になりたいという意思表明である。
 いずれにしても [主の祈りを] 用いたいと思うやり方で用いるのがよい。
《コメント》
 ライトが言っているように、主の祈りは弟子たちのものであるより前に、Jesus-specific なものであり、イエスが繰り広げた宣教の文脈に密接に関わっていて、福音書を繰り返し読んで「神の国」宣教の全体像がおぼろげに頭に描けるようになったと き、「主の祈り」のことばがより的確な祈りの言葉として意識できるようになった気がする。
《感想》
私も「主の祈り」は子供のころから暗記している祈りですが、それは現実の中で「生きた祈り」ではなかったように思えます。ライトの本を通して「御国が来ます ように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」が私のうちで未来形でなく、現在完了形になったことは全く新しい体験(新しい創造)で す。

228-30ページ 
私は、天と地が重なり合う地点で生きることに召されている。(p.229)
クリスチャンの祈りは、この2つのときが重なり合うところに自分たちがいて、自分たちも新しい誕生の陣痛で苦しむ創造物の一部であることに気づくときに、その特徴が最も表れ出てくる。(p.229-230)
230-3ページ 
 それ [理神論者の祈り] は、孤島に置き去りにされた船乗りが、メモを書いた紙を瓶に入れ、海に放し、誰かが見つけてくれるまで待つようなものだ。
234-8ページ 
 私たちはいまだに、一方でロマン主義、他方で実存主義の遺産によってがんじがらめにされている。そのために、誰にも指示されることなく、自分の心の深みから生まれる自発的な祈りだけが本物だという発想が出てくる。

238-40ページ 
この祈りについて、それが何を意味し、どのように用いられ、どこに導かれていくものなのか、これまで多くのことが書かれてきた。一見、堅苦しい感じがする が、それほどでもない。憐れみを求めて祈るのは、「悪いことをしたので赦してください」ということは意味しない。それはもっと広意味での嘆願である。自分 は神の憐れみを受けるに値しない、決して値しないものだが、あらゆる状況で、神の憐れみ部会臨在と助けを送ってください、と神に祈ることである。
《上記引用の解説》
ここでは、正教会で用いられる、イエススの祈りが出てきます。
日本ハリストス正教会では、
主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え。
英語
Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner.
Lord have mercy.
が紹介された後、次のような記述が続きます。



240-2ページ 
もうおひとつ用いるこのできるものがある。先に紹介したのと同じように、初代教会で用いられていたと思われるものだ。古代から現在のユダヤ教に至るまで、 それは毎日3回祈られてきた。このように始まる。「聞け、イスラエル、ヤハウェは私たちの神。ヤハウェは唯一である。心を尽くしてあなたの神、ヤハウェを 愛せよ」。『申命記』第6章4節から始まる言葉から採用されたものである。シェマーの祈りとして知られている。ヘブル語の『シェマー(聞け)』から始まる のでそう呼ばれる。これが祈りだとは驚きかもしれない。命令を共なった神学的宣言のように見えるからっである。それは会衆に教えるためではない。礼拝で聖 書朗読がなされるように、神がなしたことを賛え、ヤハウェは真に誰であるか、その契約の神が何を望まれているかの宣言であり、それ自体が祈りであり、礼拝 と献身の行為なのである。
《コメント》

特にここで気になった記述は、
礼拝で聖書朗読がなされるように、神がなしたことを賛え、ヤハウェは真に誰であるか、その契約の神が何を望まれているかの宣言であり、それ自体が祈りであり、礼拝と献身の行為なのである
という部分であり、聖書そのものを祈りに使う、ということです。
242-4ページ 
 私は、同僚との関係で大変困難に陥った時、霊的指導者の勧めで解放されたことを良く覚えている。それは、「主の祈り」を唱えることと、その祈りのそれぞれ の部分を、特にその同僚に当てはめて思いめぐらすことだった。書物、リトリートでのリーダー、友人、牧師は、それぞれ助けになる。
 クリスチャンの祈りには、さらに他の仕方もある。ある人にとって異言で祈ることは、具体的に何を祈ったらよいかわからない時、あるいは、あまりに明白な課 題やそのことで圧倒されて、どう祈ったらわからない時に、その状況や人々の必要を想いながら神の前に出るのに役立つ(もう一度、『ローマ人への手紙』第8 章26~27節に戻ってほしい)。沈黙の祈りはかなりの人にとって実行が難しく、それを継続して行うとなると、ほとんどの人には困難である。しかし、よい 意味での暗闇のように、信仰と希望と愛の種が人知れず芽生える土壌となる。

第13章「聖書

245-6ページ
 

 聖書を手にするとき、自分にこう言い聞かせる必要がある。いま私は、世界で最も有名な書物を手にしているだけではなく、人生を変え、社会を変え、世界を変え得る偉大な力を持つ書を手にしているのだと。
 聖書は、クリスチャンの信仰と生活にとって決定的で不可欠な要素である。

246-7ページ 
 今日、聖書についての論争がある。・・・兄弟争いである。
 だが、聖書の持つ可能性のすべてをあなたを通して、あなたのうちで活用させないとしたら、手を固く閉じてピアノを弾いているようなものだ。
248-9ページ 
 事実から始めよう。
 初期のクリスチャンの記述の多くは、旧約聖書としっかり結びつけられ、それを引用したり、反映させたりすることで、自分たちがその契約刷新を受けとる存在、すなわち「新しい契約(新約)」の担い手であることを明確にしている。
 またその問いとは、ユダヤ人にとっての聖書を、イエスにあって「契約(カベナント)」が刷新されたことを心から信じている者たちが、どのように理解し、どう適用するかである。
《コメント》(コメント欄に紹介したある「聖書入門」動画で久し振りに賑やかなスレッドになった。)

249-50ページ 

 その正式に認められたものを、ギリシャ語で「キャノン(正典)」という。
 旧約聖書の原典に関する知識は、死海写本の発見によって極めて豊かなものになった。

251ページ

 残念なことに、多くの人は外典を実際に読んだことがないばかりか、これらの書に議論があったことをほとんど知らない。
251ページ 
 パウロの手紙は、紀元40年代の終わり50年代に書かれた。ただし、パウロの名前がついた手紙のすべてをパウロが書いたかどうかは議論が続いている。
252-3ページ 
 それらを研究することは比較にならないほど聖書本文の信頼性を高める。すなわち、写本にあるわずかなことばの違いから、原典がどうだったかを見極めることが可能なのだ。 
253-5ページ 
 このように、聖書の構成、集大成、普及の歴史を語ることは必要なことである。・・・その「決定的に大切なこと」について、次に取りかかるとしよう。

大体以上となります。


メンバーによる(主にライト関連の)様々な情報や報告が寄せられるが、(5月中のものから)その一つを紹介。

 (1)ライトのオンライン講座の受講レポ
「・・・ 今回はWorlviewについての学びでした。
アメリカ人の物の見方と英国人の物の見方の対比から(大変な違いに気づきました)、ローマ人とユダヤ人の世界観に入ってゆきました。
 一回、二十分ぐらいの講義に、質問やダイアグラムやレスポンスなどがあります。
 それにしても、ビデオメッセージを見ながらこれほど引き込まれるとは思いませんでした。
 何とも言えない感動です。一挙に四回分聞いてしまいました。まだまだ続きます。後が楽しみです。」


5月は、入会2名、退会1名で、トータル198名となりました。
 
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年5月1日日曜日

FB読書会 2016年4月近況

5月を迎えました。

いつものように過ぎた月の報告です。

『クリスチャンであるとは』の読書ペースはまだまだゆっくりです。(でも11章に入りました。)

第10章「御霊によって生きる

194-5ページ

 聖霊の働きの特徴的なしるしの一つはまさに、神の親密な臨在感である。
 それはいわゆる、「魂の暗夜」といわれるもので、祈りの生活の神秘を深く探求した人によって伝えられている。
195-6ページ  
 イエスに従う者たちは、古い世界のルールよりも、新しい世界のルールで生きるように召されている。  そうなると苦しみは、実際の迫害という形をとることがあるかもしれない。
 しかし苦しみは、他にも多くの形をとってやってくる。
197-8ページ
 イエスをしっかりと見てほしい。とくに、イエスがみずから死に立ち向かうときのことを見てほしい。  そして神は、真の神とは、ナザレのイエス、イスラエルのメシア、世界のための真の主の内に見られる神である。
 [コメント] 最初の引用の言葉から連想した賛美歌が二つあります。
 「まぶねのなかに」(由木康、1923)
 「Turn Your Eyes Upon Jesus」(Helen H. Lemmel, 1922)
 [コメントへのリプ] ちようど、物事をよく見る目が大事だという短いエッセイを今朝読んだばかりで、シンクロしました。よく見る目は、よく聴く耳、よく考える頭につながると思います。いかにボーっとしか見てないことか。中でもイエスに目を注ぐ大事さを想いました。
198-200ページ
 しかしながら、神についてのクリスチャンの教理が、賢い知的な言語ゲームとか、心理 [mind] ゲームのような印象を与えてしまうのは間違いである。クリスチャンにとってそれは、つねに愛のゲームである。
 ・・・聖霊を理解する手がかりの一つは、父が御子に対して、また御子が父に対して抱く人格的な愛として、聖霊を理解することである。
第11章「礼拝

203-4ページ 
 先見者であるヨハネは、自分の見た幻をそこに描いているが、それは壁にとまっているハエのようにして、神の王座をこっそりのぞき見しているかのようである。
 時には、その間の境界線は薄い幕のようで、ある人たちには、ときおりその戸が開かれ、カーテンが開かれ、私たちのいるこの世界の人も、神の臨在しておられる場で起こっていることを見ることができる。
204-6ページ 
礼拝とは、あるもの、もしくはある存在に価値があることを、文字どおりに認めることを意味する。  動物たちは途絶えることなく神を讃える。そこに人間たちが加わる。人間たちの歌はさらに豊かである。なぜなら、言いたいことがたくさんあるからだ。
 人間は、なぜ神を誉め讃えるべきか、また、なぜ神を誉め讃えたいかを知っている。神が万物を造られたので、神を誉め讃えるのだ。
207-8ページ 
さらに、偉大なオラトリオのように、四方から聖歌隊が加わり、御使いたちが歌う。
 ほふられた子羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉と、
 栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。

そして最後に、「天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物」が賛美に加わる。
 御座にすわる方と、子羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。
 これこそ、まさに礼拝である。造られたものがみずからの造り主を認め、子羊の勝利を悟って、創造主なる神と救い主である神に向けられた賛美の雄たけびである。それが天において、神のおられるところで、つねになされている礼拝なのだ。
 [コメント] 礼拝というと、教会でやる儀式にばかり意識が行くことが多いのですが、実は、神の存在を認め、造り主を認め、子羊の勝利を悟って、創造主なる神と救い主である神に向けられた賛美ということをもう少し、考えた方がいいかもしれないなぁ、と思いました。
209-212ページ 
 しかし、真の神、創造者、贖い主を礼拝するためのチャンス、招き、召集が、私たちに差し出されている。真の神を礼拝することは、いっそう真の人間になるためなのである。
212-14ページ 
 私たちは神を、この世界の創造において、イスラエルの歴史を通して、とくにイエスのうちになされたことを通して知る。クリスチャンの礼拝とは、この神を、それらをなさった方を賛えることである。神によるそれらの出来事を記録した場所は、もちろん聖書、バイブルである。
 ・・・聖書を声をあげて読むことが、つねにクリスチャンの礼拝の中心となるのだ。 
214-5ページ 
 私たちは神を、この世界の創造において、イスラエルの歴史を通して、とくにイエスのうちになされたことを通して知る。クリスチャンの礼拝とは、この神を、それらをなさった方を賛えることである。神によるそれらの出来事を記録した場所は、もちろん聖書、バイブルである。
 ・・・聖書を声をあげて読むことが、つねにクリスチャンの礼拝の中心となるのだ。
 [コメント] ミサでは旧約、使徒書、福音書から一か所づつ暦に則って読まれますが、「印刷された聖書の文字を追うな、まず聞け、古代にはみんな礼拝では読んでいなかった」ということを言う司祭がいました。ちなみに、基督教は目よりも「耳」の宗教だと思っています。
215-6ページ 

 『詩篇』は無尽蔵である。それを読み、語り、歌い、詠唱し、口ずさみ、暗記し、大声で叫ぶことすらしてきた。・・・『詩篇』は私たちの感じるすべての感 情を表わしている。時には、そのように感じたくないと思うものさえ表現している。そんな感情でさえ、そのまま公然と神の前に差し出している。

216-7ページ

 そこに書かれていることをすべて理解することはできない。もちろん謎や疑問もある。
 『詩篇』を有効に用いているだろうか。その周辺をぐるぐる回るだけでなく、深みに入っているだろうか。

4月は、『新約聖書と神の民 上巻』講演会と、雑談会があり結構充実した月でした。
 

3月の入会者数は4名で、トータル197名となりました。
 
 

 以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年4月25日月曜日

2016.4 雑談会報告

先日案内した雑談会の報告です。

 日時、4月20日(水)、午後1-3時  場所、活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)

※出席を予定していた二人の姉妹が体調と仕事の都合で見えられませんでしたが、最近ではリアルの読書会としては集まった方です。
今回新しく参加なさった方(内一人はFB読書会メンバー)は二人とも道に迷ってぐるぐるしてしまったとか。

かるーく自己紹介から始まり、それぞれの経験から見えてくる
 「福音派の聖書理解から旧約聖書がそっくり欠落している」
 「牧師と信徒の健全な関係のあり方」
 「牧師の神学的リーダーシップ」
等の問題を念頭に開始。

(1)上沼師の報告
 今回(2016年1回目の来日)の日本各地でのセミナーで用いた資料を紹介して下さった。旧新約聖書全体を概観する「神の真実」チャート。
 セレクトした聖書引用箇所。
 その中でも中心となったロマ書5章1-21節

(2)After You Belive (AYB)への質問
 小嶋が用意したのは
・AYBは簡単に言うとどういう本なのですか?
 よく知られているキリスト教書や信仰書ではどれに近いですか?
・AYBが取り組むのはどういう問題ですか?
 そしてどのような解決を提示しようとするのですか?
・AYBは『クリスチャンであるとは』とはどう繋がりどう発展させているのですか?
このうち三つ目の質問には『ク・・・であるとは』から引用しながら答えていた(と記憶している)。

少人数でもあり、また信仰生活の長い方々なのでフランクな意見交換が多かった。
福音派の特色として「救い」「伝道」は重きをおくが、「信仰生活」の発展や方向性に関し、なかなか明確なヴィジョンを示せないでいるのではないか。
あるいは示せたとしても、様々な問題や諸課題に一貫した聖書的指針を提示できないでいるのではないか。
それが説教のテーマや内容に反映しているのではないか。

ライトの「新創造」(をベースにし、御霊によって「神の国」のために働く教会)のヴィジョンはそういった欠落状態に新風を吹き込んでいるように思う。


2016年3月1日火曜日

FB読書会 2016年2月近況

第8章「イエス――救出と刷新」

イエスとその神性 (167-171)をMH氏が担当。

一応ライトのコントロバーシャルな新約聖書解釈の一つである「イエスの神性」について簡単に触れられている箇所をMH氏は以下のようにまとめている。
・・・イエスの評価として、イエスにおいて天と地が出会い、神殿にとって代わる生きた神そのものとしての体現者、という理解の確信性がpp.168-169で指摘されてありました。

 ただ、物議を醸しかねないのは、p.169の”イエスが生涯の間、自分が「神である」ということに”気が付いていた”という従来の理解が間違っていた、という指摘であると思います。これは、キリストの神性と公生涯での神性がないと下手をすると受け取られかねない議論としての立論をしているようです。


 但し、”イスラエルの神のみが可能とされる行いとそのあり方を、自分の召命として、使命として、自覚していた”(169ページ)と記載しておられます。つまり、神からの Call やVocation(召命や使命)そのものを受けているがゆえに神であり、人であるということが成立するのだ、という立場をかなり明確に出しているようで す。この辺の神学議論は、ほとんどわかんないので、どなたかお願いします。
これを受けて、ライトの『イエス』論文翻訳以来、少しくライトの解釈を追ってきている小嶋がコメントした。
 ライトの「史的イエス」と「キリスト論」と「神の問題」がどのように絡むのか、そしてその「論争的」な含意を自覚するようになったのは、ライト読書会の《翻訳》のところにある『イエス』論文を翻訳しているときです。

 以下に「メシア」「神の子」「召命」「イスラエルの神の体現」を述べている部分(6)を引用してみます。

*****
6. 受肉の教理は、パウロが登場する頃(ピリピ2:5-11参照)には既に初代教会に定着していたが、その「意味付け」はどこに起源があるかと言えば、それは この十字架の物語の枠内に見つけることができる。(外部から取って付けたようなものではない。)

イエス自身が自覚し、かつ忠実に果たしたその使命は、旧約聖書から言えば、ただ神ご自身が果たしえるものであった(イザヤ59:15-19、63:7-9、エゼキエル34:7-16)。

イスラエルの神ご自身が果たすべき仕事であることを自覚しつつ、人間イエスは信仰と従順のうちに、時に間接的、時にはっきりと(偽りであれば神への冒涜に値するような事柄を)主張しつつこの仕事を遂行した。イエスは誰の権威も借りずに発言し行動した。

この光に照らす時、「神の子」の意味が明らかになる。旧約ではイスラエルとメシヤに使われた称号だが、新約ではそれら二つを含んだ上、それ以上の真実を伝えている。イエスの宣教と、特にその死において確かに働いておられた神は、契約通り憐れみと信実に満ちた、まさにイスラエルの神ご自身であった。病める者、罪人に直に触れられ、汚れを身に帯びる(それによって逆にいのちを与える) 「愛」は、十字架の上で十二分に神ご自身の内実を顕にし、ユダヤ人の王として神の民を率いてその真の敵に勝利したのである。
*****

第9章「神のいのちの息

 ※9章からREADER/LEADERの担当のやり方を変えました。セクション(数ページ)ではなく1ページくらいの量で各自の印象深い部分をマーク(アンダーライン)し、適宜コメントするという、より簡便なフォーマットにしました。(これでより多くの人が担当してくれるようになれば、と期待しています。)

173ページ
・・・神による創造の香りが・・・新しいいのちの出現を待っている。
・・・古代の創造物語のイメージを借りて、・・・秩序といのちの誕生をもたらしたのだと語った。
[コメント] 新創造(New Creation)は(新創造によって古くなるはずの)世界を焼却処分して出現するのではなく、その世界の只中から(苦難と死をくぐり抜けて)出現する。
174ページ  
イエスに従う者たちは、・・・、イエスのよみがえりに大いに困惑した。次に何をしたらよいか分からないほどだった。神が次に何をなさるのか、先が読めなかった。そのためか、一時は漁師生活に戻った。
[コメント] ヨハネ福音書の方はライトがここで採用しているエピソードにあるようにイースター後の弟子たちが深い混乱と混迷の霧の中にあったことを示唆しています。
ある意味、初代弟子たちの「ポスト・イースター症候群」は依然としてわたしたちとともにあるように思います。
174-5ページ
聖霊と教会の務め。この二つは共に手を携えていく。別々に語ることはできない。今より少し前の世代のクリスチャンは、新しい霊的体験に興奮した。そこから 連想されるかもしれないことだが、神はディズニーランドの一日のような霊的楽しみを与えるために聖霊を与えるのではない。

同じように、教会の務めも聖霊なしには果たされない。イエスのうちで業をなした神は、次は私たちが独力で聖任を果たすのを願っているかのようにクリスチャ ンたちが語っているのを聞いたことがある。しかし、それは大変悲しい誤解である。それは、傲慢に行き着くか、燃え尽きに行き着くか、あるいはその両方にな るだけである。神の霊なしに神の王国に関することはできない。神の霊なしに教会は教会でありえない。
175-6ページ
私はここで「教会(チャーチ)」という語を幾分重苦しい思いをしながら使っている。多くの読者もこの用語で、大きな暗い建物、尊大な宗教的宣言、見せかけ の厳粛さ、ひどい偽善を思い浮かべることを知っている。しかし、それに代わる言葉を見つけるのは容易ではない。私もまた、否定的イメージをつよく持っている。

多くの人にとって「教会」は、先に触れた否定的イメージと反対のものを意味している。教会は、人を受け入れ、笑いがあり、癒しと希望をもたらし、友であることや、家族、義、新しいいのちの場であるというイメージだ。

人々は、そこに、それぞれの小さな信仰を携えてきて、他の人たちと共に神の神を礼拝するために集まる。全体でまとまるのは、ここバラバラの単なる総計より もはるかに大きな意味があることを見出すのである。どの教会もいつもこのようではない。しかし、驚くほど多くの教会で、たとえ部分的であっても、頻繁にこ のようなことが起こっている。
[コメント] 教会は信仰におけるシナジー効果を生む部分もあるかもしれません。おそらく、ロバート・パットナムという社会学者の『孤独なボウリング』の第1章 米国における社会変化の考察 に教会のことがかなり出てくるあたり、こういう部分と関係しているかもしれません。
176-7ページ
多くの愚かさや失敗にも拘らず(関わらず)、病院、学校、刑務所、その他たくさんの場所を含め、そこにはいつも教会があった。「神の民の家族」とか、「イ エスを信じ従うすべての者」とか、「聖霊の力によって神の新しい創造を生み出す者の群れ」とかいう長々しい言い方より、私はむしろ、「教会(チャーチ)」 という言葉を再生させたい。
[コメント] まあ軽い皮肉とともに「伝統」的な呼び方を捨てないライトの保守的な姿勢が感じられます。
177ページ 
実際聖霊が与えられているのは、イエスが神のおられるところ、すなわち天に昇られたいまにおいて、教会がイエスご自身のいのちと、いまも続いているイエスの働きを分かち合うためである。
[コメント] 《いのち》と《働き》
教会は、聖霊によって、イエスの《いのち》と《働き》を分け与えられている。
178ページ 
 これが最も初期のクリスチャン・ライターであるパウロが来たるべきものの保証、あるいは手付金と聖霊のことを読んでいる理由である。ギリシア語のアラ ボーン(arrabon)がそこでは使われているが、その現代ギリシア語での意味は婚約指輪であり、来るべきものの現在のしるしなのである。
[コメント] 最近になって読み始めた家内は、ここが面白かったといっておりました。花婿なるキリストからの婚約指輪としての聖霊、というのがなかなか、あぁ、そうか、となんとなくスっと理解できたようです。
   

 フェイスブック上でのライト読書会もまもなく開始4年になります。

 昨年ライトの本翻訳2冊を受けて「ライト元年」スタートしましたが、今年はさらに多方向に進展するかも・・・と期待しています。

 ただそうなると最早「ライト読書会」は、その中のひとつ(One of Them)ということでそれ程「旗を振る」必要もなくなり、もっと気楽にやっていけるようになるかと思っています。


2月の入会者数は3名で、トータル195名となりました。
 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。


 

2016年1月31日日曜日

FB読書会 2016年1月近況

まだ晦日ですが恒例の月例報告です。

1月は少しのろのろの進行振りでした。


以下(いつものように)順に担当者の文章を一部抜粋して紹介します。

第8章「イエス――救出と刷新」

神殿・晩餐・そして十字架へ(155-159)を小嶋が担当。
いわゆるイエスの「最後の一週間」です。
象徴(的)という表現が目に付きます。
 「最後の一週間」は「象徴的行為」がさらに凝縮し、意味が充満する感じです。

①「最も象徴的行為」(156)としての『(伝統的名称では)宮きよめ』
・・・「これは単に神殿をきよめるのではなく、神殿そのものが神のさばきのもとにあることのしるし」
さらに
「神殿を破壊することによって、ユダヤ国家を全体的に擁護するのでなく、イエス自身と彼に従う者を擁護する」もの
②最後の晩餐が提示する「象徴的解釈」
 「神が自分の民と全世界を単に政治的な敵から救い出すのではなく、悪そのものから、人々を捕らえていた罪から救い出す」
 イエスの「神の国」樹立の戦略は、山上の垂訓にあるように「愛敵」によって「悪」に勝利するというものであったが、それを十字架で悪そのものを一身に受け「苦難のメシア」を成就する形で「実行に移し」た。
といったようなことを書きました。

最初のイースターは(159-167)をKYさんが担当。下記のような感想を書いてくれました。
復活をどう捉えるかということは単に歴史や科学の領域にとどまらず、それに直面する私たちに対して世界観の刷新を求めているのだということを強く感じまし た。
今回の箇所を何度も読みながら、実は認知的不協和現象を起こしているのは2000年前のユダヤ人ではなくて今を生きる現代人ではないか、と問うています。私たちの持っている世界観や信条に合わせてイエスの復活を否定しようとしたり、あるいは「死後の命」と関連付けようとしたり、あるいは「最大の奇跡」 と捉えようとすることは、皮肉にも認知的不協和と言えるのかもしれません。
 このスレッドには久し振りに充実した内容のコメントが続きました。こう言うスレッドが発生するだけでも、FB読書会を続ける甲斐があるというものです。(最近閑散としたウォールを見ることが多いのでなおさらそう感じたのですが・・・。)
 

この他、今月新しく加入したKMさんが「パウロ研究」で継続中の「NP対AP」についての感想を投稿してくださいました。(現在北米の神学校で研究中の課題のようです。)
※「NP対AP」についてはこちらの記事を読んでいただくと少し様子が掴めるかも知れない。


1月の入会者数は1名で、トータル192名となりました。(どうも2名ほど退会なさったようです。)
 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。 



2016年1月5日火曜日

FB読書会 2015年12月近況

2016年となりました。

今年もよろしくお願いします。
 
さっそく恒例の月例報告です。

12月はまあまあの進行振りでした。


以下順に担当者の文章を一部抜粋して紹介します。


第7章「イエス」神の王国の到来 

イエスについてどこまで知ることができるのか(134-138)をI氏担当。 


 イエスは1世紀のユダヤ人でしたが、1世紀のどのようなユダヤ人であったか、と問いかけられています。
 その前に、1930年代のドイツの神学者たちのイエス像にも触れられています。反ユダヤ的とさえ形容できるほどユダヤ人とかけ離れた人物としてイエスが描かれていたことに言及されています。・・・
 ルターの時代から、キリスト教からユダヤ的な要素を排除する傾向はありました。その延長線上で1930年代にナチスが台頭した当時、ドイツの神学者たちの間で反ユダヤ的色彩は著しかっ たようです。
 学問というものが、必ずしも純粋な意味での真理探究ではなく、様々な世相や思惑に影響されることは良くあることです。そして、神学も聖書学 も、けっして例外ではありません。
福音書は信頼できるのか(138-143)をY氏担当。

なぜトマス福音書などの外典に正典性が認められないのか?・・・
それは四福音書が旧約聖書のイスラエルの物語(原文ではストーリー)の延長線上に、そしてそのクライマックスとしてイエスのストーリーを語っているのに対し、外典にはそのようなストーリーが存在しない、あるいは全く別のストー リーを語っているからだ、ということです。   
神の王国、それではイエスは(143-149)は小嶋が担当。

 世界はついに正しい方向へと向かうことになった。神の王国がいま到来したと語ることは、すべてのナラティブが集約されることであり、そのクライマックスに至ったことの宣言である。まさに神の未来が、現在に突入しようとしている。天が地に到来しようとしている。(144)
イエスの神の国運動は「イスラエルに全く新しいチャレンジを与えた。」(145)と指摘しています。その一つが「愛敵の教え」に代表される山上の垂訓の教えです。
 これは非常に理解されるに、受容されるに困難なチャレンジあったことが強調されています。イエスの取った戦略としては、①象徴的行動と、②物語りでこの困難なチャレンジの浸透を図るというものでした。

第8章「イエス――救出と刷新」

イントロ(150-155)をMH氏担当。

ちょうど、メガネ屋が度数の異なるレンズを何度も取り換え、目の前のスクリーンの文字が読めるようになるまで調整するように、私たちもイエスが何のため、 またなぜその任に招かれたのか、それをどのように信じていたのかを理解するためには、これらすべてのテーマとイメージを、こころにしっ かり理解しておく必要がある。
(案外大事なのは、イエスが何のために来たのか、それをどう旧約聖書から読み解いたのか、そして、その最終目的とは何か、ということを考えることは実に大事なような気がします。そして、案外これがなされていないような気がします。)
その他「パウロ」スレッドにT氏が「ピリピ2章6-11節の背景にイザヤ53章を見るというライトさんの解釈の釈義部分だけ」ですが投稿してくださいました。

またライトの神学についての講演が案内されました。
2016年1月19日(火) 13:30~16:00
「N・T・ライトの神学ーその一断面ー」
場所 聖契神学校チャペル
講師 山﨑ランサム和彦師 

その他、ライトの『新約聖書と神の民 上巻』(新教出版)のクリスチャントゥデイ記事の案内がありました。

12月の入会者数は3名で、トータル193名となりました。
 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。 



2015年12月3日木曜日

FB読書会 2015年11月近況

恒例の月例報告です。

11月はまあまあの進行振りでした。



さて10月月例報告では、6章の最後の部分がまだ残っていました。それを小嶋が担当しました。


第6章「イスラエル」
ヤハウェのしもべ/ナザレのイエスに(127-130) 

第6章最後の部分に当たるわけですが、「旧約聖書のストーリーが全体としてどこに向かっているのか」、ということを最後にまとめて(スレッドを束ねて、といってもいいか)「新約聖書のメッセージ=ナザレのイエス」に繋ぐ・・・という役割をしているように思います。
(最初に一箇所引用)

 イスラエルの神は王であり、バビロンの神々はそうではない、という政治的メッセージの中心で、捕囚と回復の物語が、ある人物に関する預言へと向けられて いるのが分かる。それはあたかもその先にある、神、イスラエル、世界のそれぞれの物語の流れが一つにまとまる在処(ありか)を示す、霧の中に立つ不思議な 道しるべのようのようである。(128)
ライトにとってイザヤ40―55は、ダニエル7章とともに「イエスに焦点を合わせて聖書全体のナラティブを読み解く」上で特別重要な箇所だと思うのです が、ここでは特に「苦難のしもべ」を中心に、イザヤ40―55の主要物語りスレッドをどう読み解くか、という攻め方(アプローチ)のあらすじを提供してい ると思います。
といったようなことを書きました。

そしてようやく第7章に入るわけでしたが、担当者が決まるのにてまどりゆっくりペースで進みました。

第7章「イエス」神の王国の到来 

イントロ(131-133)をMH氏が担当しました。 

氏の感想は
この部分は、キリスト教とその周辺(特に西ヨーロッパとアメリカ大陸)での”キリスト教”への誤解をきっぱり言い切っているように思いました。日本の教会 でこれを明白に言うと、”炎上”することは覚悟せねばなりませんが、案外、我々がキリスト教だと思っていることに対して、それはそれでいいのか?というこ とを、西ヨーロッパを背景としたN.T.ライト先輩がきちんと突き付けているという意味で、この部分はあっさり読み飛ばしそうになる部分ですが、非常に大 事な部分だと思います。
というものです。

イエスについてどこまで知ることができるのか(134-138)、はI氏が担当しました。
 結論的には、イエスは1世紀のユダヤ人でしたが、1世紀のどのようなユダヤ人であっ たか、という問いかけられています。その前に、1930年代のドイツの神学者たちのイエス像にも触れられています。反ユダヤ的とさえ形容できるほどユダヤ 人とかけ離れた人物としてイエスが描かれていたことに言及されています。日本のキリスト教界では余り知られていないことかもしれませんが、ルターの時代か ら、キリスト教からユダヤ的な要素を排除する傾向はありました。その延長線上で1930年代にナチスが台頭した当時、ドイツの神学者たちの間で反ユダヤ的 色彩は著しかったようです。学問というものが、必ずしも純粋な意味での真理探究ではなく、様々な世相や思惑に影響されることは良くあることです。そして、 神学も聖書学も、けっして例外ではありません。
と締めくくっています。


11月は読書会メンバーが関わっている学会の発表会や講演会等があり、その報告がありました。

1. 第18回 神戸改革派神学校・神戸ルーテル神学校 合同神学シンポジウム
 日時:2015年11月6日
 場所:神戸ルーテル神学校
 橋本昭夫教授(神戸ルーテル神学校)が「N.T.ライトの義認論」、で発表されました。

2. 日本福音主義神学会東部部会
 日時:2015年11月16日
 場所:お茶の水クリスチャンセンター
 安黒務氏が「義認と審判に関する一考察」で講演なされたようです。


その他、いよいよライトの『新約聖書と神の民 上巻』(新教出版)がいよいよ12月10日に発売予定です。

クリスマスプレゼントに是非。

また、11月の入会者数は2名で、トータル190名となりました。

 
以上、簡単ではありますが、ご報告まで。