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2018年8月14日火曜日

Paul within Judaism

「大和郷にある教会」ブログに、「パウロと“ユダヤ教”」と題した記事を書いた。

こちらのブログでは「新約聖書学」「パウロ研究」のトピックとしてもう少し踏み込んだことを書こう。

と言ってもあくまでネットで得られる参考記事などを列挙するだけだが。
それでも「Paul within Judaism」に関心のある方には少しは便利な記事になるのではないかと思って。

(1)ポーラ・フレデリクセン


と先日ツイートしたばかりだ。

彼女が「Bible Odyssey」に「パウロとユダヤ教 (Paul and Judaism)」を書いている。
The point is this: a Law-free Gentile mission gives us no reason in itself to assume that Paul himself was also Law-free. His teaching Gentiles that they did not have to live according to the Law tells us nothing about his own level of observance. And, as we have seen, the Gentile mission was not exactly Law-free either....
But in his own generation—which Paul was convinced was history’s last generation—the Jesus movement was yet one more variety of late Second Temple Judaism.
(2)『ガラテヤ書とキリスト教神学』
Galatians and Christian Theology: Justification, the Gospel, and Ethics in Paul's Letter

 ライトがいるセント・アンドリュース大学の研究会議でガラテヤ書が取り上げられたときの論文集である、 その書評でマーク・ノーベンソンの『パウロのユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)』について以下のようにポイントがまとめられている。
Second, Matthew V. Novenson’s essay centers on the appropriate meaning of Paul’s use of Ιουδαϊσμος in Galatians 1:13-14. Seizing upon the work of Steve Mason (who himself proposed a revision of the term) Novenson concludes that the verbal form ιουδαϊζω, means to ‘act like a Jew’, which was only something that non-Jews could do (Mason’s point). ... But Novenson, while agreeing with Mason concerning the verb ιουδαϊζειν, contends that the noun ιουδαϊσμος is actually something that Jews would doThis certainly accounts for Paul’s use of the noun in Gal.1:13, where Gentiles are not in the context. Paul’s usage also agrees with the use of ιουδαϊσμος in 2 Maccabees, where the term refers to ‘the cause championed by Judah Maccabee’ (32). For Novenson then, the verb ιουδαϊζειν refers to non-Jews who adopt Jewish rituals, whereas the noun ιουδαϊσμος refers to Jews who promote the adoption of Jewish customs and rituals. The important point to note is that not all Jews practice ιουδαϊσμος, as this term refers to a certain cause or political movement that arose in the Maccabean era. A better gloss for ιουδαϊσμος is not ‘Judaism’ but ‘the judaization movement’ (36). Novenson’s observations, along with the many other studies on this issue, will challenge any overly simplistic and monolithic reading of ‘Judaism’ as we understand the term.(色による強調は筆者)
要するにガラテヤ1:13のような箇所では「ユダヤ教」と訳すべきではなく、もっと具体的に「ユダヤ主義運動」のようなニュアンスで捉えるべきとのこと。

(3)『ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)』
Mark D. Nanos and Magnus Zetterholm, eds. Paul within Judaism: Restoring the First-Century Context to the Apostle

これも書評ですが、チャド・ソーンヒルが編著者の視点を以下のようにまとめています。
In other words, Paul was an adherent to Judaism and remained so even after he came to believe that Jesus was the Messiah. Thus, Paul’s endeavor in advancing the “cause of Christ” (Phil 1:13) should be thought of “as a new Jewish “sect” or “coalition” or “reform movement” (10), not as a conversion to a new religion.

(4)リオネル・ウィンザー
も、さきほどの(2)のマーク・ノーベンソン『パウロのユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)』とほぼ同じように理解しています。
In my book, I argue that the rare word Ἰουδαϊσμός–which is often translated “Judaism” in our Bibles (Gal 1:13-14)–doesn’t mean “Judaism” in the modern sense of a system of religious thought. Rather, it should be understood in a vocational sense:

                 ☆ ☆ ☆

以上いくつか「“回心後”もユダヤ教徒として生きたパウロ(Paul within Judaism)」と云う視点を紹介してきましたが、そんな風に考えてみるとやはり翻訳と言うのはニュアンスに左右されるものだなと思います。

最後に《イスラエル・バイブル・センター》のリゾーキン-アイゼンバーグ博士(Dr. Lizorkin-Eyzenberg)の『パウロは回心したのかそれとも召命を受けたのか(Was Paul Converted or Called?)』を紹介してみたいと思います。
博士の見方は、パウロはユダヤ教からキリスト教に回心したのではなく、ダマスコ途上のイェシュアとの出会いの後、パリサイ派ユダヤ人として「アポカリプティックな体験をしたキリストの弟子」となった、というものです。
As you can surely anticipate, I will seek to convince you that Paul (Paulos) was not converted from Judaism to Christianity. Instead, Paulos as he called himself in his own surviving writings, was called to the service of Israel’s God as were many other Israelite prophets. Before he personally encountered Yeshua/Jesus on road to Damascus, he was a pharisaic Jew. After that earth-shaking encounter, however, something dramatic had happened. He became an apocalyptic and Christ-following pharisaic Jew.

「一世紀の文脈では『ユダヤ教』と『キリスト教』というような宗教的区分はまだなかった」、という視点からですが問題となっている「ユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)」については以下のように訳すのがいいとしています。
For you have heard of my former manner of life in Judaism, how I used to persecute the ekklesia[6] of God beyond measure and tried to destroy it; and I was advancing in Judaism beyond many of my contemporaries among my countrymen, being more extremely zealous for my ancestral traditions. (Gal. 1:13-14 NASB 強調はリゾーキン-アイゼンバーグ博士)
この訳では今一つはっきりしませんが、要するにパウロが“以前”のこととして振り返っているのは(キリスト教徒になる前)「ユダヤ教徒であった(within Judaism)とき」というようなニュアンスではなく、当時「ユダヤ教徒であることを前面に出すような(過激な)行動を取っていたとき」というニュアンスだ、というもののようです。
要するに以前も以後も「ユダヤ教徒」であることに変わりはなく、変わったのはその生き方なのだ、ということです。
In the above quoted text, the choices are not between Judaism and Christianity, i.e. the former way of Judaism vs. the newer way of Christianity, but it is rather a comparison between Paul’s former ways and his newfound ways, i.e. Christ-centered and apocalyptic Judaism.[7]

こうしてみるとなかなか「宗教」のカテゴリーでパウロ自身のアイデンティティー理解がどうであったかを論ずるのはなかなか難しい感じがします。
やはりポイントはパウロにとって「キリストはどういうお方であったか」とキリストのアイデンティティーを中心に持ってくる必要があるのではないかと思いました。


なおこの辺の複雑な事情を考究した本として、デーヴィッド・ルドルフ『ユダヤ人に対してはユダヤ人として(A Jew to the Jews)』を「良さそうな本だなー」として言及しておきます。

[2018/8/15 追記]

このブログでは既にお馴染みのアンドリュー・ペリマンが、(3)『ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)』
Mark D. Nanos and Magnus Zetterholm, eds. Paul within Judaism: Restoring the First-Century Context to the Apostle
の出版を受けて、自らの「(新約聖書の)歴史的ナラティブ解釈枠」の視点からは「ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)」はどのように受け止められるか、と云うレスポンスを記事にしています。

2018年4月29日日曜日

God and the Faithfulness of Paul(追記)

GFP(God and the Faithfulness of Paul)については

 (1)ライトのパウロ研究をめぐる論集
 (2)God and the Faithfulness of Paul
で紹介していますが、大分経ちましたが「追記」をしたいと思いました。




(2)God and the Faithfulness of Paul の方で「目次」を全部紹介していますが、その中の「Part Ⅱ」の最後にあるジョエル・R・ホワイトの論文がacademia.eduサイトから読めるようになっている、と先日案内がありました。

筆者はすでにGFPを購入しているので特に必要なわけではないですが、GFPに関心があり、ホワイトの論文のタイトルが「N・T・ライトのナラティブ・アプローチ」ということなので、特に「ナラティブ」「物語り」アプローチに関心のある方にはお勧めと思い追記しました。
Joel R. White, N. T. Wright's Narrative Approach

 (2)で紹介したクリストフ・ハイリッヒの指摘にあるように、ライトのPFGは「教会論」とか「救済論」とか「従来の組織神学的」枠組を用いず、「世界観」や「ストーリー」を使ってパウロを解釈している点で注意深く読むことが必要です。

ホワイトの論文はその辺りのナラティブ・アプローチの基本的な事柄を丁寧に解説し、ライトのナラティブ・アプローチの斬新さを理解させようとしている点で有益だと思います。一読をオススメします。

2017年8月8日火曜日

Salvation By Allegiance Alone 7

さて、『Salvation By Allegiance Alone』という一冊の本についての様々な紹介記事を見てきました。

それだけこの本が、「福音・救い・信仰・キリスト者生活」をトータルで再確認する、特に「王なるキリストを中心に」再構築する必要を訴える本になっているので注目を集めたのではないかと思います。

今回この「7」でシリーズを終了するにあたって、もし一番簡単な紹介文、最も導入として的を射ている「帯文」は・・・(まだ本書そのものを読んでいないで言うのも何ですが)これではないでしょうか。


"Matthew Bates argues that faith or believing is not mere assent, not easy believism, but covenantal loyalty to the God who saves his people through the Lord Jesus Christ. Bates forces us to rethink the meaning of faith, the gospel, and works with a view to demonstrating their significance for true Christian discipleship. This will be a controversial book, but perhaps it is the controversy we need!"
Michael F. Bird, lecturer in theology, Ridley College, Melbourne, Australia
 このバードの表現に即して言えば、
(1)easy believism
(2)Christian discipleship
(3)covenantal loyalty
あたりが特に目に付きます。

マクナイトの紹介でも何度か出てきたと思いますが、ボンヘッファーが強調した「弟子(付き従う)」としての能動的信仰面が、「救いの恵みを受ける(「安価な恵み」の問題)」という受動的信仰ではなかなか伴わない、ということがこの本の主張の背景にあると思います。

また宗教改革来の課題である(信仰に対して)「行い」をどうするか、倫理とか「キリスト者生活」の問題が、(組織)神学的には「聖化」や「キリスト教倫理」という形では取り組まれてきましたが、やはり「(個々人の)救いの完成」というフレームを越えては解決できていないのではないか、ということがあると思います。

一つの《中間考察》として

前回6でも言いましたが、このシリーズは「大和郷にある教会」ブログの『救いについての「教理」』
と並行して進めてきました。

いまこちらのシリーズを終えるにあたり思うことを一つ二つ挙げておきたいと思います。


(1)(救いの)共同体面をどのように回復するか

これだけ注目を集める『Salvation By Allegiance Alone』が様々に指摘している「救い」をめぐる問題群は、(宗教改革後の)プロテスタント諸教派共通の問題となってきたように思います。

簡単に言えば「個人的な視点」がかなり強くなったわけです。

それは「制度的な教会」、つまりカトリック教会への様々な過剰反応として現れてきた面を含むと思います。(たとえばその一つは「サクラメント」と「ヒエラルキー的職制」の問題がダイレクトに繋がって見えるということとか・・・。)

いま宗教改革の伝統に属する教会の「教えと実践」でかなり基本的なところで見直しが起こっていることの背景に考えられるのは・・・やはり一つの大きな要因は「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)」ではないかと思います。

たくさんの書評を紹介してきましたが、ある意味指摘されている問題群は「キリスト教文明」に典型的に起こりそうな問題だと思います。

簡単に言えば「キリスト教が文化」な環境、「信仰」や「救い」に中途半端に接することが多い環境です。

ノミナル(名ばかり)・クリスチャン、(幼児)洗礼は受けたが・・・その後はさっぱり、というクリスチャン文化です。

キリスト教がマイノリティーだったり、キリスト教に対して敵対的だったりする文化圏では、信仰にしても救いにしても中途半端に過ごすことはそれなりに難しい。やはり覚悟がいります。

(しかし「キリスト教がマイノリティー」だからといって「教会文化」がない、育たないと言うことではありません。)

そういう意味でも、バードが(アリージャンスと同意に?)使った「covenantal loyalty」はなかなか示唆的です。

個人主義的視点から見た場合、「救い」の「信仰」に「契約共同体」的側面があることを自覚するのはなかなか難しい。

「洗礼式」の式文では「(教会)入会式」的な側面がありますが、リバイバリズムの背景が強い教会では「回心」の後に 「洗礼を受けて・教会に入る」意識がどうしても強くなりがちです。
(「回心」と「洗礼」とは教会共同体を中心にしてなるべく分離しない、時間的にも重なるような枠組みが必要に思います。)

(2) 「日本」の文脈との連絡の仕方

第1点で指摘した「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」がそれなりに正しいとすると・・・いわゆる日本における「欧米の最新神学思潮・流行導入傾向」 ということで二重に注意が必要になるかもしれません。

日本語文化圏というのは「近代」国家ということでいえば「日本語の代わりにどれか近代諸国家の言語を第一言語として国家制度を整える」という国家政策を取らずにきた結果である、と言えます。(この現象の文化面からの重層的分析として水村美苗の『日本語が亡びるとき』があります。この記事この記事 など。)

明治以来、一生懸命「知識人」たちが最新科学技術及び文化情報を「翻訳」して国民全体の教育レベルを維持してきたわけです。

残念ながら福音派「神学」では最近この志向にブレーキをかける傾向があるみたいですが・・・。

さて、『Salvation By Allegiance Alone』がNPP等のアカデミックな議論の延長上、つまり「聖書学」からの「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への波及、という文脈で捉えた場合、「日本」の文脈との連絡の仕方は二つのフロントで評価・導入するという問題になると思います。

① すなわち「聖書学」での議論の積み上げへの評価が必要と言うこと。

このことは「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への影響とはある程度切り離した形で必要だと思います。
※このシリーズでは紹介しませんでしたが、ニジェイ・グプタが「この本は内容はわざわざ議論される必要がないほど(聖書学的見地からは)すでに前提的なものである・・・」みたいな嘆きをその紹介記事で添えています。
現状は「聖書学」の評価を独立してするほどまだ(欧米の福音主義でも)基盤が強くないような印象です。そのため予防・防衛的に悪影響のありそうな思潮・潮流に限定して 水際作戦を展開するメンタリティが先行気味・・・などと言うことも散見されるのでしょう。

もちろん「トレンド・流行」にだけ敏感になるのも問題ですが、日本が「島国鎖国的メンタリティ」を引きずる伝統があるとすると、世界の(神学的)動向に絶えず注意を向けていることには積極的であっていいと思います。

② もう一つのフロントである「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」のフロントですが、これに関してはむしろ「教派神学」的伝統にしても、「福音主義」という今日(20世紀)的神学運動にしても、日本ではほぼ受動的であったし、今後も同様に推移しそうな感じです。

だとすると、逆に言えば、「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」に対しては(皮肉な言い方になりますが)ある面余裕をもって対応できるのではないか・・・。

「キリスト教がメジャーからマイナーに転落する」経験は日本においては得られそうにありませんが、「キリスト教がマイナー」な環境でどう「教えと実践」を展開するかという問題に対してはそれなりの備えがあると思います。

今回のシリーズで紹介した中では、アンドリュー・ペリマンが最も自覚的にこの問題を捉えているので、この面では一番参考になると思います。

ただしペリマンの「キリスト教の福音の地平線」設定は慣れないとかなりラディカルに響くと思いますが・・・。

それでは7回も連載したシリーズを(めでたく)終了いたします。



2017年8月7日月曜日

Salvation By Allegiance Alone 6

スコット・マクナイト(ジーザス・クリード)の『Salvation By Allegiance Alone』紹介・インタヴュー(全9回)の2回目になります。

マクナイトの書評と著者インタヴュー、 
 Faith as Allegiance
 What Allegiance (Faith) is Not
 The Gospel of Allegiance
 Three Elements of Faith
(以上前半)

以上を前回カバーしました。

今回は以下の5つとなります。
 Is Salvation by Allegiance a Kind of Works?
 Is Faith-as-Allegiance Yet Another Instance of the Law of Moses?
 So How Much Allegiance is Required?
 When the Gospel includes New Creation
 Matthew Bates: When Justification Meets Allegiance


前回もそうですが、5つの記事それぞれにコメントはしません。

正直言ってベイツの主張が引き起こす論争の多くは「恵みのみ」「信仰のみ」の宗教改革原則にもとるのではないか、といったような「神学的要請」と「新約聖書テクスト」の意味・ニュアンスの中心・はばはどの辺にあるか・・・というかなり押し問答的な様相を呈するわけです。

一応著者であるベイツ自身も、紹介するマクナイトもその辺りのことをかなり意識していろいろやっているわけで、どうしてもそれらをいちいち紹介しようとすると「くどくなる」感じなのです。

たとえば「恵みのみ・信仰のみ」に関して、神からの一方的「賜物」として受け取るはずが、「アリージャンス」は「付加する」ニュアンスを伴うのではないか・・・という疑問に対して、マクナイトはジョン・バークレイ『たまもの』やハワード・マーシャルを引き合いに出しながら反論しています。

これを有名な「NPP対OP論争」のフレームで戦わせると「義」を獲得する道が「トーラー遵守」なのか「信仰」なのか・・・という風になるわけですが、ベイツはこのような論争の細かいニュアンスを(マクナイトの引用によれば)以下のように潜り抜けている、としています。
In other words, the real “faith” versus “works” divide in Paul is more accurately framed as a divide between works performed as allegiance to Jesus the king versus works performed apart from new creation in the Christ. And the latter usually but not always takes the form of a system that seeks to establish righteousness through performing prescribed regulations. 
この他にも救いと言うことに関連して、「新創造/天(国)」の様相や、「救いの秩序(ordo salutis)」の問題などでも、「(改革派系)神学的要請」に対して新約聖書(パウロ書簡)テクストの持つニュアンスがどのようなものかベイツの主張・強調点を拾い上げています。

義認においては(復活し義とされた)王なるイエスとの結合(union with Christ)、その(個人的な性格ではなく)集合(教会)的な救いの性格、などが「アリージャンス」ニュアンスの長所として紹介しています。(改革派神学に対しては修正点となります。)


以上たくさんリンクを挙げた割には簡単な紹介になってしまいました。(さすがに飽きてしまいました。)

「大和郷にある教会」ブログで連載しています「義認論ノート(、)」がここで紹介した論点等について、より踏み込んだ議論をしていますのでそちらもお読みいただけると感謝です。

2017年7月20日木曜日

Salvation By Allegiance Alone 5

ではスコット・マクナイト(ジーザス・クリード)の本書紹介・インタヴュー(全9回)に移って行きます。

多分一回では無理だと思うので、今回は前半となると思います。


マクナイトの書評と著者インタヴュー、 
 Faith as Allegiance
 What Allegiance (Faith) is Not
 The Gospel of Allegiance
 Three Elements of Faith
(以上前半)

 Is Salvation by Allegiance a Kind of Works?
 Is Faith-as-Allegiance Yet Another Instance of the Law of Moses?
 So How Much Allegiance is Required?
 When the Gospel includes New Creation
 Matthew Bates: When Justification Meets Allegiance


スコット・マクナイトがこの本を高く評価しているのはご存知のとおり。序言を書いていますし、ベイツの研究がマクナイト(もちろんその前にN.T.ライト)の「『福音』とは何か」の新約聖書学的探求を受けてのものだからです。

つまり「信仰とは何か」の前に「福音とは何か」が問われるべきなのです。そしてその流れの中で「義認」が問われ、「キリストとの合体(union with Christ)」が問われ、「救いの順序(オルド・サリューティス)」 や救済論の位置付けが問われるべきなのだと思います。

Ⅰ. 問いを枠付けるのは福音

ベイツがSBAAで「信仰」をあらためて問い直し、その中心的な意味を「アリージャンス(忠誠)」と捉え直すのは、すなわち「福音」が新約聖書においてどのようなものとして捉えられているか、という問いに基づいているわけです。
「信仰」とはその「福音」に対する応答だからです。
It all depends on how the gospel is framed. Is it about how to go to heaven when you die? About being released from guilt? About liberation from some kind of (spiritual or social) slavery? Let this be said over and over: How we frame the gospel determines what the response is.
Ⅱ. 「痩せた福音(truncated gospel)」の問題
 いわゆる「矮小化された福音」、マクナイトが『福音の再発見』で問題にした「罪の処理に特化した福音提示」の問題、などがそうです。
 
Ⅲ. 福音
… the gospel is the power-releasing story of Jesus’s life, death for sins, resurrection, and installation as king, but that story only makes sense in the wider framework of the stories of Israel and creation. The gospel is not in the first instance a story about heaven, hell, making a decision, raising your hand after praying a certain prayer, justification by faith alone, trusting that Jesus’s righteousness is sufficient, or any putative human tendencies toward self-salvation through good works. It is, in the final analysis, most succinctly good news about the enthronement of Jesus the atoning king as he brings these wider stories to a climax (30).
Ⅳ. (この)福音への応答: Allegiance to the Enthroned King

Ⅴ. 信仰/アリージャンスの三要素
 アリージャンスが「信仰(ピスティス)」 のすべての意味、というわけではなく、様々なニュアンス(信頼、忠実、信仰/ビリーフ、etc.)を「王となられたイエスへの忠誠」が大きく包み込むような形。

  1. Mental affirmation/intellectual agreement: certain enough to yield.
  2. Professed fealty to Jesus as Lord (Rom 10:9-10).
  3. Enacted loyalty to the king, as in the obedience of faith.
“If we remember that the allegiance concept welds mental agreement, professed fealty, and embodied loyalty, foregrounding allegiance makes excellent contextual sense in all of these crucial passages” (82).

以上、主に、The Gospel of Allegianceと、Three Elements of Faithから紹介しました。

(次回に続く)

2017年6月11日日曜日

Salvation By Allegiance Alone 3

さてこのシリーズ3回目となります。

前回はチャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、
Salvation by Grace through Faith… But What Is Faith

でした。

極めて簡単なものでしたのではぐらかされたように思われた方もいるかもしれません。

シリーズ最初の記事では(その時点で見つかった)書評のリストを挙げておきましたが、チャド・ソーンヒルの後に続いていたのが、「ジーザス・クリード」ブログのものでした。

全部で8本の記事やインタヴューがあります。やはり数が多いので一回の記事では紹介できないと思います。

今回は「ジーザス・クリード」ブログ記事は回避して、マイケル・バードのインタヴュー記事(全3回)を紹介したいと思います。


マイク・バードによる著者インタヴュー、
 Salvation by Allegiance Alone – Interview with Matt Bates (Part 1)
 Salvation by Allegiance Alone – Interview with Matt Bates (Part 2)
 Salvation by Allegiance Alone – Interview with Matt Bates (Part 3)

バードは3回に分けて全部で6つの質問をしています。

一つ一つについて紹介はしませんが、バードはベイツが「ピスティス」を「忠誠(アリージャンス)」と訳すことで宗教改革原理「信仰のみ」から逸脱するのではないか、「行為義認」にならないかと質問しています。

また「救いの順序(オルド・サリューティス)」フレームワークでの「義認」や「救い」の理解はどういう風になるのか等、聖書釈義の妥当性だけでなく、(主に改革派の)組織神学的伝統との整合性について質問しています。

最後にベイツの解釈枠組みだと「伝道の実際(招き・決断)」ではどんな違いが出てくるかについても質問しています。


以下、ベイツの回答から「気になる点」や、「注記しておくべき点」を幾つか挙げておきます。


(1)「信仰」は「福音」の提示に対する応答ですが、特に提示される「福音」内容に関し(スコット・マクナイトも指摘しているように)これまでの福音理解が(「王なるイエス」宣言を省略した)縮小版になっていないかと問題提起しています。(この問題点に関しては『ゴスペル・コーリション(TGC)』も含まれるとしています。)

(2)逆に、本来的には「福音」に含まれないもの(私たちの信仰、私たちの義認)を入れてしまっている。
So we have made the gospel contain three items: “our faith,” “our justification,” and “faith in Jesus’s death for us.” My contention is that the gospel proper only includes the last item, Jesus’s death for our sins, but even then this is only a small part of the gospel and not the central target of “faith.” Saving faith is better understood as allegiance to Jesus the atoning king. The emphasis in Scripture is on loyalty to him as Messiah-king as that which forges the saving union.
(3)「(キリストの)義の転嫁(imputation)」用語について
 信ずる者にどのように「キリストの義」が与えられるのかについて神学用語が幾つか用いられてきたのですが、それらについて見解を示しています。
The biblical witness can perhaps best be understood by juxtaposing it alongside classic Protestant and Catholic treatments. In the book, in light of the biblical evidence, I discuss some limitations to imputed righteousness (the dominant Protestant model) while still accepting it if union is explicitly foregrounded. Meanwhile, I reject Catholic imparted righteousness yet accept infused righteousness, if properly qualified. Chapter 8 in the book has the rationale and details. However, in the end I think it best for the church to prioritize new language that better reflects Scripture’s own emphases: in-the-Christ righteousness or incorporated righteousness. I am not sure who has suggested incorporated righteousness, but, wow, it’s brilliant.
(4)改革派聖書学者(T・シュライナーとか)がベイツの解釈を従来の「救いの順序(オルド・サリューティス)」フレームワークを崩すものとして警戒感を持っているようだが・・・。ベイツは以下に述べるようにパウロ自身がそのような「個人的救済の順序」に従って「義認」を言っていない、としている。
I also show that “justification” was not considered by Paul to be a “step” in a person’s order of salvation. The Reformed tradition has been deeply invested in trying to systematize the true order by which salvation comes to be applied to an individual—the ordo salutis. A traditional version of the Reformed ordo salutis begins with God’s unsearchable decree to save and to damn specific individuals, and then proceeds to speak about how God comes to apply salvation to those individuals that have been elected through calling, regeneration, repentance/faith, justification, sanctification, and then, finally, glorification. It is important for the Reformed scheme that God is the primary actor in each step of the ordo salutis, otherwise human works contaminate the process. Then humans would have a “boast” before God. The problem is, I contend, that the Bible nowhere articulates an individualized ordo salutis, nor can “justification” be considered a step or stage in the order.
特には挙げませんでしたが、リチャード・ヘイズの『イエス・キリストの信仰』 やN.T.ライトの見解なども俎上に上げて持論を展開していて「どの辺りのニュアンス」を狙っているのかある程度分かる内容になっています。

ただ議論の精密さが増しても、その議論の土俵から漏れた問題に関してどうなのか・・・という懸念は残ります。

ベイツは「キリスト者の義」として『 in-the-Christ righteousness or incorporated righteousness』を採用すると言っていますが、(用語も含めて)同種の主張をするインタヴュアーのマイク・バードの問題設定と解決方法を見ると(ここ)、(議論の)土俵は依然として「聖書の言及箇所(アイデア)」に限定されている印象です。

昨年の「N.T.ライトの義認論」でも(本当に残念ながらですが)見取り図的に示唆したように、「義認」を得させる(体験化させる)枠組みとして「制度的教会」論、特に「聖礼典(洗礼)」論の視点が殆ど抜け落ちている、と云う印象です。

このことを「神学的にまとめる」にはなかなか荷が重い問題なので依然として記事にしてアップできていない目下の時点では、読者としては何のこっちゃでしょうが・・・。


(次回に続く)

[『Salvation By Allegiance Alone』書評ブログ記事のリストへの追加]

パトリック・シュライナー『The V-Shaped Gospel』、『Salvation by Allegiance Alone? Part 2

2017年5月18日木曜日

Salvation By Allegiance Alone 2

さてなるべくサクサクっと進めて行きたいと思いますが、まず
Salvation by Allegiance Alone: Rethinking Faith, Works, and the Gospel of Jesus the King
の紹介サイトに出ていた「書評」 の一つから見てみます。

※スクロールダウンして「Reviews」のところの「3番目」のものです。そして掲載されたのはスコット・マクナイトの「ジーザス・クリード」ブログです。冒頭マクナイトによる「書評シリーズ」開始の説明と、書評者の簡単な紹介があります。

 
チャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、
Salvation by Grace through Faith… But What Is Faith

新約聖書由来のことばで、「kingdom」「grace」「salvation」「heaven」と同様「faith」も実は聖書全体の文脈で理解しているとは言い難い。この本はそのような理解を助けてくれるもの。
と紹介しています。

西洋キリスト教の伝統では、救いにおいて「信仰」と「行い(功徳)」の関係が議論されてきたわけですが、宗教改革において「信仰義認」原則が確立されると、「信仰」からあらゆる「行い」の要素を取り除こうとする動きが強くなりました。

すると、キリスト者となってからの「聖化」や「道徳的成長・努力」をどのように位置づけたらよいのかということが、神学的にも実践的にも微妙な問題として扱われてきました。

「福音」に対して「律法」が対立的に理解される問題や、「聖化」が「行い」に人間的努力にならないように、とかそう言う問題です。
Bates is careful to nuance what this entails. This does not “sneak” merit into salvation in some Pelagian or Semi-Pelagian construct. Pistis/allegiance, Bates clarifies, is not “works,” but rather “pistis is the fundamental framework into which works must fit as a part of our salvation” (109).
「信仰(ピスティス)」に「アリージャンス(allegiance)」のニュアンスが加えられることによって、福音の理解が広がり、「救い」を受けたところにとどまらず、よりコミットした「キリスト者生活(イエスに従う弟子の生活)」へと繋がる、そういう視界・展望を与えてくれるだろう・・・そんな感じの評価をしています。
There is much more to this book that defining faith. Bates has in mind setting biblical soteriology straight concerning the future eschatological fate of the people of God, the place of justification in an allegiance-based understanding of faith, a biblical-theological understanding of “election,” rooted in the Bible’s context rather than later theological debates, and the connection between allegiance to Jesus and the Bible’s teaching concerning the image of God in humanity. What Bates has accomplished in such a small book is admirable. His writing is clear and accessible, yet rooted in solid scholarship. This books gets to the heart of the Bible’s vision on salvation, faith, works, and the gospel.

以上短いですが、今回はこの書評一本だけにします。

(次回に続く)

2017年5月7日日曜日

Salvation By Allegiance Alone 1

こちらが、大和郷にある教会ブログにアップした「救いについての『教理』」を引き継ぐ記事となります。

こちらはこちらで幾らか前置きがあります。

ただ今フェイスブックのライト読書会では『シンプリー・ジーザス』を読んでいるのですが、その1章に『還元主義(リダクショニズム)』の問題を扱った箇所(24-6ページ)があります。
 私たち教会のほうこそ、本当は還元主義者なのだ。私たちは神の王国を個人的な信仰に、十字架での勝利を良心の慰めへと矮小化してしまっている。そしてイースターの出来事そのものを、悲しく痛ましいお話の現実逃避的なハッピー・エンディングにしてしまっている。信仰も、良心も、究極の幸せもみな大切だが、それらはイエスその人ほど大切なものではない。
還元主義/矮小化の問題は、
私たちは、イエスのいちばん大切な主張や彼の成し遂げた偉業から生まれる、巨大で世界を揺るがすほどのチャレンジを、他の問いの背後に隠し、体よくかわしてしまっている。
という指摘に続くものです。

ライトが問題にしているのは、私たちがいつのまにか「イエスのチャレンジ」を回避し、自分たちに収まりのいい「信仰生活・教会生活」に「イエス像」を調整(スケールダウン)してしまっていないか、ということです。

「イエスのチャレンジ」とは福音派になじみのある問題の形式に置き換えれば「福音」とその福音に対する応答である「信仰」のことになると思います。

「イエスのチャレンジ」を真正面から受けるような福音提示になっているか、という問題です。

Salvation By Allegiance Alone』はこの問題のうち「信仰(ピスティス)」に焦点を当てています。

新約聖書における「ピスティス」は英語で言う「faith(信仰)」より「allegiance(忠誠)」のような意味が強いのではないか。単に頭や心で「知的な事柄」を信ずるというよりも、イエスに信じ従って行く、その忠誠的態度を指すのではないか・・・。

そんな問題提起をするのが『Salvation By Allegiance Alone』です。

読書会の方ではその辺のことを以下のようにまとめました。
以前書いたのではないかと思いますが、ピスティスの質(クォリティー・性格)と連動しているのではないだろうか。
イエスに対するピスティスが「十字架贖罪(という教理)」の『信仰』にとどまってしまうのか、(自分を捨て自分の十字架を負って)イエスに従う『忠誠(allegiance)』として生涯発揮され続けるのか、そういう問題と関連があるのではないか。

そうしたら、ある方が、「この本に通じるのでしょうか」と言及したのが『Salvation By Allegiance Alone』でした。




早速グーグル・ブックスでスコット・マクナイトの書いた序文を読んでみたら、まさにピスティスのニュアンスに関するほぼドンピシャリのような本であることが分かりました。

しかし、この本は2017年3月の出版です。

筆者は、この「ピスティス」解釈に関し、従来とは違うラインで捉えていたのがライトであったことを思い出していたのですが、それがどこであったか探すのにしばらくかかりました。

ライトは「福音=イエスを王メシアと宣言すること」と捉え、その福音理解に呼応する形でピスティスを「忠誠」で考えていました。

結局記憶は呼び起こせませんでしたが、それらしき論文は探し当てました。

まずその論文を紹介してみます。

肝心のピスティスを「忠誠(allegiance)」と捉えている部分(10ページの第3と第4段落)以下に引用します。


This family, uniquely among families ......, bore only one distinguishing mark, and that was πίστις, faith. ‘Justification by faith’ was not, for Paul, a doctrine about how people could ‘find a gracious god’ without moralism. Nor does it speak merely, as the Romantic movement has encouraged some Protestants to speak, of the difference between outward and inward religion (a difference well enough known to first century Jews in any case). Nor is ‘justification by faith’ to be equated with ‘the gospel’ itself; it is, rather, its direct corollary. ‘The gospel’ is the announcement of the kingship of Jesus; ‘justification by faith’ reminds those who, abandoning their varied idolatries, have given their allegiance to Jesus that this very allegiance is the only distinguishing mark by which the renewed and united family of Abraham is to be known. All other possible distinguishing marks undermine the gospel itself, implying that the crucified and risen Jesus is not after all the one true king. Allegiance and loyalty to Jesus, ‘faith’ in this full and rich sense, is not the gospel itself; it is what the gospel is designed to produce and by the power of the spirit, does produce.
    For this is where Galatians has its equivalent of the statement in Romans that the gospel is ‘the power of God for salvation to all who believe’ (Rom. 1.16). When the message of King Jesus was announced it brought forth faith, and the only explanation of this is that the spirit works as and when the message is proclaimed. That, at least, is how I believe Gal. 3.2-5 should be read, not least in light of 1 Thess. 1.4-10 and 2.13. The royal proclamation is not simply the conveying of true information about the kingship of Jesus; it is the putting into effect of that kingship, the decisive and authoritative summoning to allegiance. That is why it challenges the powers. That is why to retain, or to embrace, symbols and praxis which speak of other loyalties and other allegiances is to imply that other powers are still being invoked. And that is to deny, ‘the truth of the gospel’. 

というわけで、『Salvation By Allegiance Alone』の著者マシュー・ベイツもライト(そしてスコット・マクナイト)の影響を大いに受けていることを話していますが、このライン(福音=「イエスを王と宣言すること」、信仰=「この王に従うこと」)をさらに洗練し、先鋭化していることがうかがわれます。

以上がイントロです。

今後は以下にリストアップした「書評」や「インタヴュー」を紹介しながら『Salvation By Allegiance Alone』に迫ってみたいと思います。

チャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、

2017年2月9日木曜日

2017年度(リアル)ライト読書会のご案内

[追記: 第2回目読書会の日時変更について、2017年2月20日 ]

2017年度の(リアルの方の)ライト読書会のご案内です。

昨年は新たな「ライト邦訳書」が間に合いませんでした。
その代わりと言うか今年は次々出るみたいです。(後日あらためてご紹介します。)

リアルのライト読書会 は、
 (1)日本語に翻訳された書を使ったセッションと、
 (2)英語の主にNTWrightPage.Com掲載の論文を使ったセッション、
の二本立てで継続したいと思っていますが、今年2017年は(2)の方のセッションを2回計画しています。


2017年は「宗教改革500周年」です。しかしそちら方面のテーマはあえて取り上げません。

これまでライト神学のモチーフの中で(正面切って)取り上げてこなかったものを選びます。 
今年のテーマ: 宗教と政治
キリスト教を含めた一世紀の状況では、西洋近代のような「政教分離」はありませんでした(と言っていいと思います)。

しかし現在私たちが新約聖書を通して「イエス」や「パウロ」を理解しようとするとき、多分にこの「政教分離」のフィルターを通して「宗教」と「政治」をそれぞれ別々の文脈のものとして解釈しがちです。(あるいはそのようなステレオタイプで理解していないかと言う疑義があります。)

ライトはいち早くそのことに問題意識をもって取り組んできた研究者です。
たとえば「パウロ研究」の領域では「パウロとローマ帝国」のような研究ジャンルが近年かなり確立されてきました。
今年はあくまで導入レベルにとどめたいと思います。
2回に分けて抜粋程度(一回につきせいぜい数ページ)の文を読んでみたいと思います。

《第1回目ライト読書会》

 日時: 2017年4月1日(土)午前10-12時(※エイプリルフールですが。)
 場所: 活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)
 テキスト: Stephen Kuhrt, Tom Wright for Everyone (2011, SPCK)へのライトによる「序文(Foreword)」(2ページ)
「政教分離バイアス」問題の所在や背景についてライトが序文で書いてます。
カートの「ライト入門書」を使ってライト(神学)入門も多少兼ねます。

序文だけですのでわざわざ本を購入しなくても「グーグル・ブックス」で事足ります。
 (※「グーグル・ブックス」が不明の方にはスキャンした文書を送ります。) 
 しかし、「ライト入門」も兼ねていますので、著者のカート氏がライトの神学をいかに実際的・実践的にまとめようとしているかを目次等で見るだけでも参考になります。

《第2回目ライト読書会》
 日時: 2017年5月27日(土)午前10-12時※6月3日から変更しました。
 場所: 活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)
 テキスト: Paul and Caesar: A New Reading of Romans 

 ※最初の方数ページだけの予定です。

いつものように、出席希望者は小嶋までご連絡お願いします。

以上今年もよろしくお願いします。
小嶋

2016年11月4日金曜日

God and the Faithfulness of Paul


アマゾン日本では16,730円もするこの本、とても手が出ない。
[※追記 2016/11/5 FBライト読書会のメンバーが教えてくれました。来年ペーパーバック版が出るようです。プリオーダー価格が30ドルちょっとです。]
が、全部で30本ほどの論文のタイトルに目を通し、論文寄稿者の豪華な顔ぶれとカバーされている範囲を知るだけでも益を感じることが出来るのではないかと思い、以下に紹介します。


(その後ろに少しコメントして置きました。)

 

God and the Faithfulness of Paul:

A Critical Examination of the Pauline Theology of N.T. Wright

 

edited by

Christoph Heilig, J. Thomas Hewitt and Michael F. Bird

 

Table of Contents

Part I: Prologue

Michael F. Bird, Christoph Heilig, and J. Thomas Hewitt

Introduction
Benjamin Schliesser
  Paul and the Faithfulness of God among Pauline Theologies


Part II: Methodological Issues

(※)Oda Wischmeyer
  N. T. Wright's Biblical Hermeneutics: Considered from A German Exegetical Perspctive

Andreas Losch
  Wright's Version of Critical Realism

Theresa Heilig and Christoph Heilig
  Historical Methodology

Eve-Marie Becker
  Wright's Paul and the Paul of Acts: A Critique of Pauline Exegesis - Inspired by Lukan Studies

Steve Moyise
  Wright's Understanding of Paul's Use of Scripture

Joel R. White
   N. T. Wright's Narrative Approach


Part III: Contextual Issues

James Hamilton Charlesworth
  Wright's Paradigm of Early Jewish Thought: Avoidance of Anachronisms?

Gregory E. Sterling
  Wisdom or Foolishness?: The Role of Philosophy in the Thought of Paul

James Constantine Hanges
  "A World of Shrines and Groves":  N. T. Wright and Paul among the Gods

Seyoon Kim
  Paul and the Roman Empire


Part IV: Exegetical Issues


Gregory Tatum
  Law and Covenant in Paul and the Faithfulness of God

Sigurd Grindheim
  Election and the Role of Israel

James D. G. Dunn
  An Insider's Perspective on Wright's Version of the New Perspective on Paul

(※)Peter Stuhlmacher
  N. T. Wright's Understanding of Justification and Redemption

Aquila H. I. Lee
  Messianism and Messiah in Paul: Christ as Jesus?

J. Thomas Hewitt and Matthew V. Novenson
  Participationism and Messiah Christology in Paul

Larry W. Hurtado
  YHWH's Return to Zion: A New Catalyst for Earliest High Christology?

John R. (Jack) Levison
  The Spirit in Its Second Temple Context: An Exegetical Analysis of the Pneumatology of N. T. Wright

Torsten Jantsch
  God and His Faithfulness in Paul: Aspects of the History of Research in Light of the Letter to the Romans

Jorg Frey
  Demythologizing Apocalyptic?: On N. T. Wright's Paul, Apocalyptic Interpretation, and the Constraints of Construction

Richard H. Bell
  Individual Eschatology

Volker Rabens
  The Faithfulfness of God and Its Effects on Faithful Living: A Critical Analysis of Tom Wright's Faithfulness to Paul's Ethics


Part V: Implications

Andrew McGowan
  Ecclesiology as Ethnology: The Church in N. T. Wright's Paul and the Faithfulness of God

James G. Crossley and Katie Edwards
  Paul and the Faithfulness of God as Postmodern Scholarship

Frank D. Macchia
  The Spirit and God's Return to Indwell a People: A Systematic Theologian's Response to  N. T. Wright's Reading of Paul's Pneumatology

Sven Ensminger
  Barth, Wright, and Theology

Edith M. Humphrey
  Bishop Wright: Sacramentality and the Role of Sacraments

Eckhard J. Schnabel
  Evangelism and the Mission of the Church


Part VI: Epilogue

N. T. Wright
  The Challenge of Dialogue: A Partial and Preliminary Response


ライトのPFGも巨大だが、このGFP論集もかなりの厚さになるようだ。

編者の一人Christoph Heiligさんがインタヴューを受けているが、そこでこの論集にまつわる色々なエピソードを紹介している。

インタヴューはドイツ語なので、グーグル翻訳で英訳したものを読んだ。

結構読めるものだ。

その中でドイツのNPP受容とその中でライトがまだ無名な状況であることが言われている。

さらにライトのパウロ解釈が及ぼした影響を要約している部分があるので抜粋しておく。


It should not happen (but it is already happening) that German-language discussions on the NPP do not even name the name Wright - although he is again the name given to this paradigm.
But exegetical works on individual areas of Pauline theology will have to deal with the fact that Wright throws the classical analysis on top of systematic theological topoi and introduces a completely different, early-Jewish system from his point of view. So we will no longer be able to write without any discussion about the "ecclesiology" or "soteriology" of Paul as if it were clear from the outset that this is an adequate, non-anachronistic category for the understanding of the object.

とまあ、ライトは「初期ユダヤ教の枠組みを従来の組織神学的解釈上に投げつけ」たみたいなことを言っており、「それまで教会論とか救済論とかあたかもパウロが実際に使っているカテゴリーであるかのように議論することはもはや出来ないだろう」とも言っていますね。

論文集にはドイツの学者の名前が何人も入っているだけでなく、韓国の方も二人入っています。国際色が豊かですね。

(※) マークした二人のドイツ人学者は、今回の論文集の中でもChristoph Heiligさんが格別感銘を受けたほどライトと真剣に向き合っている労作だ、と評しているものです。

あっとそれから、寄稿者の中にエディンバラ大の方が3名いるが、大学サイトでこの本への貢献を紹介しているページがあるのでそれも一応紹介しておく。

2016年6月25日土曜日

ライト近刊紹介インタヴュー

最近は「ポッドキャスト」(ネット音声配信)をやるところが増えてきました。

今回紹介するのは、ブリガムヤング大学(米ユタ州)の「ニール・A・マックスウェル(宗教学)研究所」のものです。

今年2月の配信ですが、ライトの『最近のパウロ研究史』(2015年10月)などの著作を紹介しています。
 (こちらは一章「舞台設定」の抜粋です。)


この本の他に、The Paul Debate: Critical Questions for Understanding the Apostle(2015年10月)


さらに、今年10月に出版して予定の、The Meaning of the Cross: The Day a Revolution Began.(仮題) のことも話題にしています。(26分過ぎくらい)

その他の話題としては、ヨーロッパの左派系哲学者たちが「パウロ」にインスピレーションを探る動きを紹介しました。
このインタヴューでもライトはそのことを取り上げています。(54分過ぎくらいから)


1時間を越えるインタヴューで、質問者もしっかり聖書学動向を押さえていて、充実した内容になっています。

それにしても、Paul and His Recent Interpreters はどうやら購入した方が良さそうかな・・・と考え始めています。

既に書評としては、ニジェイ・グプタ(これ、他2本)が書いています。

[2016/8/5 追記]


上で紹介した本の正式な案内が出ました。
 The Day the Revolution Began: Reconsidering the Meaning of Jesus's Crucifixionこちらがリンク

2016年4月25日月曜日

2016.4 雑談会報告

先日案内した雑談会の報告です。

 日時、4月20日(水)、午後1-3時  場所、活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)

※出席を予定していた二人の姉妹が体調と仕事の都合で見えられませんでしたが、最近ではリアルの読書会としては集まった方です。
今回新しく参加なさった方(内一人はFB読書会メンバー)は二人とも道に迷ってぐるぐるしてしまったとか。

かるーく自己紹介から始まり、それぞれの経験から見えてくる
 「福音派の聖書理解から旧約聖書がそっくり欠落している」
 「牧師と信徒の健全な関係のあり方」
 「牧師の神学的リーダーシップ」
等の問題を念頭に開始。

(1)上沼師の報告
 今回(2016年1回目の来日)の日本各地でのセミナーで用いた資料を紹介して下さった。旧新約聖書全体を概観する「神の真実」チャート。
 セレクトした聖書引用箇所。
 その中でも中心となったロマ書5章1-21節

(2)After You Belive (AYB)への質問
 小嶋が用意したのは
・AYBは簡単に言うとどういう本なのですか?
 よく知られているキリスト教書や信仰書ではどれに近いですか?
・AYBが取り組むのはどういう問題ですか?
 そしてどのような解決を提示しようとするのですか?
・AYBは『クリスチャンであるとは』とはどう繋がりどう発展させているのですか?
このうち三つ目の質問には『ク・・・であるとは』から引用しながら答えていた(と記憶している)。

少人数でもあり、また信仰生活の長い方々なのでフランクな意見交換が多かった。
福音派の特色として「救い」「伝道」は重きをおくが、「信仰生活」の発展や方向性に関し、なかなか明確なヴィジョンを示せないでいるのではないか。
あるいは示せたとしても、様々な問題や諸課題に一貫した聖書的指針を提示できないでいるのではないか。
それが説教のテーマや内容に反映しているのではないか。

ライトの「新創造」(をベースにし、御霊によって「神の国」のために働く教会)のヴィジョンはそういった欠落状態に新風を吹き込んでいるように思う。


2016年3月29日火曜日

復活:自然啓示と特別啓示

先日、久し振りに銀座の教文館を訪れた。

本を置くスペースが狭くなっていた。

平積みになった新刊書・近刊書を何度も眺めながら、ついに購入したのは一冊だけに終わった。

しかし購入しなかった中で気になった本はあった。


そのことを書こうと思ったのは、イースターの説教で語ったことと、(後から紹介する)この本の主張(原書である英書の紹介文によればだが)とが多分に重なるのを感じたからだ。

しかし、先ず、きっかけはこのツイートだった。

以下吉田さんの連ツイをまとめて紹介。
1. 私の呟きは、マルコ福音書読者の周囲では既にイエスの復活が語られていたことを前提としていましたが、これはマルコ福音書の成立がイエスの死と復活から随分と時間が経っていると考えられているからです。

2. 多くの研究者はマルコ福音書の成立を70年前後と考えていますが、つまりマルコ福音書の成立はイエスの死と復活から40年後も経ってから、ということにな ります。それではこれ以前にイエスの死と復活はどのように語られていたのかと言いますと、これはパウロの書簡が参考になります。
3.パウロが著した『コリントの信徒への手紙一』15章3節から少なくとも5節には、彼がコリントの教会にかつての伝道に際して伝えた教えが再録されてい ますが、そこでパウロはこの教えを「私も受け取った」ものとして、つまり彼が信仰の先達から受け取った伝承として紹介しています。

4.パウロがコリントを訪れた時期或いは『コリントの信徒への手紙一』を著した時期はイエスの死と復活からおよそ20年後と考えられていますから、マルコ 福音書より20年は古いことになります。さて、その15章3節にはこの教えをパウロ「も受け取った」ものと記されていますから、

5.教え自体はパウロ以前に既に在ったと、つまりイエスの死と復活にかなり近い内に成立したものと考えられます。尤も、いつ誰がどのようにして作成したのかは不明でして、この点に関しては様々な研究が行われていますが、

6.所謂「キリスト教」のそもそもの始めがキリストの死(一コリ15:3-4a「キリストが…死んだこと、葬られたこと」)と復活(一コリ15:4b-5 「聖書に従って三日目に起こされたこと、…に現れたこと」)を信じることにあったことをこの伝承が語っているという点では見解が一致しています。

7.イースターをただのお祭りとして楽しむのも良いですが、その始まりを知ること、そしてその歴史に思いを馳せることもその楽しみに加えて欲しいなぁ、と思ったりなどもします。

先日出版されたT・ピーターズ他『死者の復活:神学的・科学的論考集』(小河陽訳、日本キリスト教団出版局、2016年)は、「復活を科学的および神学的にどのように評価すべきであるか」との問いに関する18本の論文をまとめたもの。

 「宇宙の終末において我々はいかに変容するのか?物理学、生物学、神経科学、哲学、聖書学、エジプト学、教会史、組織神学…多彩な学問領域の研究者18名が「体の復活」の可能性を考究した学際的対話の試み。」

(以下まだ少し続くが略。訳者の小河陽の『あとがき』も含めて実質19論文であると『あとがき』をイントロとして読むことを推薦している。)
訳書ということで値段がいかにもだが、 原書である、Resurrection: Theological and Scientific Assessments、は2002年の出版だからライトの『キリスト教起源』シリーズⅢ『復活と神の子』より一年前ということになる。(逆だったら少し面白かったとは思うが。)



ところでその「紹介文」だが、「前半」はこうなっている。
A team of scientists and theologians from both sides of the Atlantic explore the Christian concept of bodily resurrection in light of the views of contemporary science. Whether it be the Easter resurrection of Jesus or the promised new life of individual believers, the authors argue that resurrection must be conceived as "embodied" and that our bodies cannot exist apart from their worldly environment.
この「身体的復活」に焦点を当てる、というのは神学と(自然)科学との「共同作業」としては当然だが、ライトが、Surprised By Hope、で指摘するように、西洋近代において「からだの よみがえり」がかなり薄められたり、曖昧になったり、歪められたり、矮小化されてきた歴史から言えば、なかなか意欲的な取組みではないかと思う。

後半はこうなっている。
Yet nothing in today's scientific disciplines supports the possibility of either bodily resurrection or the new creation of the universe at large. Bridging such disciplines as physics, biology, neuroscience, philosophy, biblical studies, and theology, Resurrection offers fascinating reading to anyone interested in this vital Christian belief or in the intersection of faith and scientific thought.
アマゾン・コムの紹介文では省略されているが、間にはこう言う文章が挿入されている。
Cosmology, for example, only forecasts an end to the universe. If persons and the cosmos are to rise up anew in the eschaton, such an event will have to be a willful act of God. Thus, while modern science can offer aid in constructing models for picturing what resurrection of the body could mean, the warrant for this belief must come from distinctly theological resources such as divine revelation. Christian faith ultimately gains its strength not from modern science but from Gods promises.
科学は「身体的復活」を視覚化するモデルは提供できるが、現在の理論では「身体の復活」の可能性も、「新創造」の可能性もともに悲観的な見通ししか提供できない。

ゆえに「神学的根拠」が残されるが、それはどこに・・・、という問題提起になっている。

...such an event will have to be a willful act of God.
とあるように「イエス」を「死者の中から復活させた神(その神の力)」というところにキリスト者の信仰と希望は集まる・・・ということをイースター・メッセージでは語ったわけだった。

少々蛇足だが、『論集』中にはナンシー・マーフィーの、The Resurrection Body and Personal Identity、もありこのブログでも「イエスの復活の身体④」で取り上げた 
①「復活の身体」の連続と非連続の問題
『意識(たましい)』の問題を『自分』あるいはアイデンティティーの問題として考えるとどうだろう。
身体的には全く更新しながら、どうやって『自分』が回復されるのだろうか。
辺りの問題にどんな見通しを示しているか興味深い。 

2016年1月26日火曜日

信仰義認メモ: ジョン・ウェスレー

(断り書き)
 これは反射的なメモです。まだちゃんと読んでも、考えてもいません。

最初にこのツイートに反応したのだ。

これを読んで、「えっ」と思い、「でもやっぱりそうか」と頷いたわけ。

アン・アウェイクンドとは「認罪」の段階に至っていない、つまり「福音(信仰義認)」を聞く必要に至っていない段階であることを示唆しているウェスレーの言葉なのだろうと取ったわけです。

つまりライトの信仰義認の理解の枠組みとは異なるわけで、そこにまず反応したわけです。

※しかし、ウェスレーの救済論が基本的に「宗教改革神学」に基づき、「救いの順序(オルド・サリューティス)」に則って展開されているわけですから、ウェスレーの理解自体は不思議でもなんでもないのです。

ただある期間ライトの信仰義認論を聞いてきた後でこのような文章にいきなり接すると、やはり、まず「えっ」となるわけです。


さてそれから次に試してみたことなのですが、この文章全体ググってみたら、グーグル・ブックスで、スティーブン・ウェスターホルムの『Perspectives Old And New On Paul: The "Lutheran" Paul And His Critics』のページがヒットしました。

(以下の画像はその関連部分を切り取ったもの)



この本は2003年のもので、「彼の1988年の著作『Israel's Law and the Church's Faith』をさらに深めたもの」とのブルース・ロングネッカー評があります。

この本では「ルター的パウロ(信仰義認)解釈」をアウグスティヌスから、ルター、カルヴィンとたどり、さらに「第4章 ジョン・ウェスレー」までトレースしています。

そう言う本なのですね。まさに引用された文章(実際の引用は同ページの脚注にあります)は「ルター的ウェスレー」を示すものなわけです。

先ほどの「オルド・サリューティス」でいうと、まず「自然状態(まだ福音を聞くには相応しくない段階)」、それから「律法」による「認罪」、そして福音提示→「回心=救いの開始」という順序が垣間見られます。

さてライトの信仰義認論はというと、(ここではメモの役割なので論じませんが)先ずウェスターホルムのことを名前を挙げてライトが自分のことを間違って解釈している人物として言及している文書を紹介しておきます。


CTR: In what way do you feel your adversaries have misrepresented your teaching on the NP?
WRIGHT: Starting at the top ...the most remarkable misrepresentations—remarkable because they come from an internationally famous scholar—are those of Stephen Westerholm in his recent book. He insists on a complete disjunction: either Paul’s language about justification is all about how sinners get saved by God’s grace, or it’s all about how Gentiles get in to the community without being circumcised. The silly thing is that, though some NP advocates may sometimes have implied something like this, I certainly have not. My commentary on Romans in the New Interpreters Bible should make this clear.


次に、ライトが「伝統的信仰義認論」(つまりオルド・サリューティスの順でいうと、回心と義認を同一時期のものと扱う論) に対して、「召し」(回心に相当するものだが、敢えてパウロの語彙を使う)と「義認」とは異なるフェーズのものであることを端的に説明している文書を紹介しておく。