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2018年9月26日水曜日

『驚くべき希望』読書会

4月以降、N.T.ライトFB(フェイスブック)読書会はお休みしていました。

9月になり首を長くして待っていた驚くべき希望』(あめんどう)がついに出ました。

それで読書会を再開することにしたのですが、今回新たな試みとして
(1)『驚くべき希望』専用の
(2)「公開グループ」の
(3)ライト・ビギナーに焦点を合わせた
読書会を立ち上げました。

その名も N.T.ライト『驚くべき希望』読書会 です。


公開グループですのでメンバーにならなくても読むことはできます。

でも読み始めたらいろいろ分からないことが多く、できたら一緒に読み進める仲間がいたらいいな・・・と思う方は「メンバーとして参加する」ことを考えてみてはどうでしょうか。


N.T.ライト『驚くべき希望』読書会 ページに掲載した「説明」を以下にご紹介しておきます。

よくお読みの上よろしければご参加ください。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

英国の新約聖書学者N.T.ライトの『驚くべき希望(Surprised By Hope)』(あめんどう、2018年9月刊)専用の読書会です。

『驚くべき希望』専用の「公開」グループの読書会として、
 (1)この分厚い本を読み通す仲間を作り、
 (2)質問や疑問があればシェアし、
 (3)(本を理解するための)参考となる情報をシェアするプラットホームを目指します。


「公開」グループの読書会として次のことをお守りください。
 (1)メンバーは『驚くべき希望』を入手している方に限定します。(原書、Surprised By Hope、で参加したい方も受け入れますが、シェアする内容は日本語にてお願いします。)
 (2)メンバーは、本を読み進めるのに適した《質問》や《疑問》をシェアしてください。
 (3)メンバーは、本を読み進める励ましとなるような《感想》や《気づいたこと》をシェアしてください。

※「ディスカッションや議論」について
 シェアされた《質問》や《感想》から「ディスカッション」に発展する場合もあるかと思います。
 『驚くべき希望』の(終末論と呼ばれる)神学的内容については様々な解釈がありますが、この読書会ではその一つである「ライトの解釈」を☆読んで理解する☆ことが目的です。他の解釈とどちらが正しいか議論して決着を付けることではありません。
 多少の意見の交換は構いませんが、その場合でも他の人が本を読み進める妨げとならないよう、短く切り上げるか、グループ外で続けてください。

このグループの「管理人/世話役」
 2013年から、N.T.ライトFB(フェイスブック)読書会は「非公開」グループとして活動してきました。(現在も続いています。)
 その管理人/世話役としてグループをリードしてきたのが、小嶋・中村・川向の3名です。
 この『驚くべき希望』専用の「公開」グループ読書会も同じ小嶋・中村・川向の3名がリードします。
 (ちなみに中村氏は『驚くべき希望』の訳者でもあります。)

『驚くべき希望』を他の方々と一緒に読みすすめたいなーと思われる方はどうぞ参加なさってください。







2017年8月4日金曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー 参考資料

今回のライト・セミナーでは《共同研究》としました。

※「第一次応募締め切り」が4週間後となりました。


宗教改革500周年の《聖書のみ》と《万人祭司》にあやかってみたのですが、「『死者の復活』の教理」をめぐって、たった1節(コリント第一15章17節)
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
にしぼって、みんなで意見交換してみようと言うわけです。

たくさんの「現代訳を比較検討」してニュアンスの違いみてみるのもいいかもしれませんね。



今回は少しネット検索した中から二つ紹介します。

(1)説教(ノーザン神学校のチャペル・メッセージ?)

Our Victor – 1 Corinthians 15:17-20
By: Northern Seminary

For many years I never thought of the resurrection as important, as if Easter was about having your sins forgiven through Jesus’ death on the cross, and the resurrection on the third day was little more than a really happy ending.

Eventually Paul’s words in 1 Corinthians 15 helped me to see that Jesus’ resurrection wasn’t nice but necessary, and wasn’t a happy ending but a glorious beginning.


(2) 研究論文

Rollin Ramsaran

 この論文は
「コリント第一の手紙」が、(書かれた手紙だが)パウロが(口頭によって)スピーチした内容を下敷きにし、手紙の読者に対して口頭で読まれるために、特に「15章がクライマックス」となるよう様々工夫されて全体が構成されたもの、
という方法論的前提(オーラル・パフォーマンス)に立って分析されています。

数箇所、関連のありそうなところを引用してみます。


“Christ raised” becomes the basis for Paul’s argument through oral performance in 15:12-58. Going forward, Paul does not attempt to “prove” that Jesus was raised – he assumes it and he expects his audience to continue following him in that common belief. Paul, through his envoy, comes alive once again before the Corinthians as the proclaiming apocalyptic teacher and guide who was, in that very preaching, originally the occasion for their coming to faith.

Paul’s first question in 15:12 ( “How can some of you say that there is no resurrection of the dead?”), from a set of imaginary (?) interlocutors in Corinth, provides an opportunity to assert the necessity of Christ’s resurrection as the representative pattern for believers.

Much work has been done recently on  analyzing the oral performance indicators embedded in written texts (orally-derived texts).
My burden to this point has been to show the likelihood of Paul’s having composed the letter of 1 Corinthians in memory and then dictating it to a scribe. The written text then functioned as an aide-memoire for a sent envoy who would orally perform Paul’s message.


以上、何か参考になればと思い・・・。

2017年7月3日月曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー ペーパー募集

第6回 N.T.ライト・セミナー
「ライトの終末論: 1コリント15章における『死者の復活』の教理をめぐって」

ペーパー募集!!!

「ライト・セミナー」ウェブサイトで案内した、2017年「第6回 N.T.ライト・セミナー」の《ペーパー募集》の応募要項をお知らせします。

1. ねらい

1コリント15章16-19節でパウロは「もし『死者の復活』がなかったら」と仮定を使って「使徒の福音」にとっていかに『復活』を事実として受け止めることが大切かを議論しています。

さてその一連の「もし・・・復活がなかったら」のうち、17節は以下のようになっています。
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
はたしてパウロが言う「今もなお罪の中にいる」とはどういうことなのでしょうか。

パウロは同じ15章の3節で「使徒の福音」を簡潔に要約していますが、後半は次のようになっています。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために 死なれたこと、」(新改訳)
ということは「キリストは確かに“私たちの”罪のために(十字架で)死なれたけれども、まだ復活していないとしたら贖罪は不成立になってしまう」、ということでしょうか。

それともこの場合「復活」は「十字架の死による贖罪」も含めた“一つながりの出来事”として言っているのでしょうか。そして一つながりの出来事として復活も含めて完了しなければ贖罪は不成立、ということでしょうか。

この17節の「今もなお、自分の罪の中にいる 」についての神学的意味を入口にして、ライトにおける終末論、キリストの復活によって開始される「新創造」に一歩足を踏み入れてみたいと思います。

2.ペーパーの内容

ライトはSurprised By Hope の247ページ最初のパラグラフ(13行)で次のように言っています。
"We begin with Paul's great statement of the new world in I Corinthians 15:12-28. He is battling to get it into the heads of the ex-pagan Corinthians, many of whom clearly didn't fully grasp that the gospel meant what it said about Jesus's resurrection. The crunch comes in verse 17: if the Messiah isn't raised, then your faith is futile and you are still in your sins. In other words, with the resurrection of Jesus a new world has dawned in which forgiveness of sins is not simply a private experience; it is a fact about the cosmos. Sin is the root cause of death; if death has been defeated, it must mean that sin has been dealt with. But if the Messiah has not been raised, we are still in a world where sin reigns supreme and undefeated so that the foundational Christian belief, that God has dealt with our sins in Christ, is based on thin air and is reduced to whistling in the dark."(SBH/247)
このライトの註解を適宜参考にしながら(反論も含め)、「各自の視点や問題意識」で意見をまとめそして発表してください。

3.字数制限、締め切り等

・1200~2000字くらいを目安にお願いします。
・締め切り
 第一次締切日・・・8月31日
 第二次締切日・・・9月24日

・セミナー当日(10月23日)に出席して発表・討論できる方を優先しますが、当日参加できない方のペーパーも「独自の視点や解釈を含むもの」はできるだけ当日のレジュメに入れたいと思います。

・「神学生・若手奨励」
応募してくださった方の中から2人の方に
ライト著『使徒パウロは何を語ったのか』(2017年、いのちのことば社)
を贈呈します。奮ってご応募ください。

4.応募のアドレス
サイト左に表示してあります「問合せ連絡先」まで(氏名・所属教会/学校・立場等)を付記してお送りください。 

5.問合せ
応募の条件や内容等に関し不明な点があれば同じアドレスまでお問合せください。

以上よろしくお願いします。
小嶋 崇(ブログ管理人) 

2016年7月21日木曜日

「悔改め」と「信仰」再考

新約聖書において「信仰」の意味はどういうものか。

プロテスタントの伝統にいると、「信仰」は強調されるが、その意味はいかにと立ち止まって考えることは余りなかったように思う。

もちろん宗教改革原則の「信仰義認」での意味と、福音派における「回心主義」の意味とを合わせて「伝統」としてきたので、その文脈における意味で由としてきた経緯があると思う。

しかしここ30-40年の「『パウロ研究』における新しい視点(New perspective on Paul)」とも連動して「ピスティス・クリストゥー」がかなり議論に上るようになり、狭義の「信仰義認」だけでなく、そもそも「福音を信じる」とは何か、が問われるようになってきた。

しかし、その前に「悔改め」にも言及しなければならない。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
(マルコ1:14-15、新共同訳)
新約聖書、一世紀の文脈では「悔改め」と「信仰」は「神の国の到来という終末的事態」に呼応するものとして現れた。

問題は、この「一世紀的ユダヤ・キリスト教」の文脈で「悔改め」と「信仰」議論されるときに緊密に参照される「終末(エスカトン)」「黙示(アポカリプティック)」の及ぼす意味合いが、それから時と文化・言語を隔てた今日のキリスト者が「イエス・キリスト」や「福音」や「義認」や「信仰」について語るときにどうなっているか、ということである。

あるいは、それらはどこへ行ってしまったのか、と問い直すことも出来るだろう。

おそらくこの問題を要約するフレーズとして最も流通しているのが、「『既に(already)』と『未だ(not yet)』であり、これら二つの緊張関係として議論されるやり方であろう。

この「時の間にある」問題を、キリスト教信仰の歴史的課題として自覚し、問題にしている場合、二千年の教会史の中で「幾つかの対応パターン」があった。(各千年期説のバリエーションのことではない。)

 ※しかし以上はイントロなので、ここではそのことを論じず指摘するだけに留める。


(1)「悔改め」


新約聖書での重要なテーマである『悔改め』が、なぜ神学的に議論されることが少ないのか、とブロガーで新約聖書学博士のクリス・ティリングが問題提起している。

そして、共感を込めてドイツの学者らしい、トマス・ゼーディングを引用(訳)している。
The coming of the kingdom doesn't depend on repentance. It's the other way around: The necessity and possibility of the repentance and faith depends on the nearness of the kingdom.
「神の国」の到来は悔改めが招き寄せるのではない。実際はその逆だ。悔改めと信仰が必要になりそして可能になるのはその神の国が近づいていることによるのだ。

この「一世紀的ユダヤ・キリスト教」の文脈で重要だと思われる「悔改め」のポイントは、「アブラハム契約」の祝福を受け継ぐべき「割礼を受けた契約の民」が「悔改めのバプテスマ」の必要をヨハネから訴えられていることである。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。(マルコ3:7-10、新共同訳)
ここには「神の国の到来」を間近にした時点での「契約の更新」の暗示があり、その時に通る「神の怒りのさばき」と(恐らく)契約律法による義の問題とが絡んでいるのを見ることが出来るのではないか。


(2)(福音に対する)信仰

個人的には、「福音とは何か」ということでスコット・マクナイトの『福音の再発見』をかなり手広く紹介してきたが、改めて新約聖書の歴史的文脈により近く接近した「信仰」のニュアンスに分け入る時が来ているのかな、と思っている。(それに関してはまた書くつもり。)

福音のコンテントは何か、「救いの方法」か、それとも「主イエス・キリスト」か。

当然普通のキリスト者はこれら二つのことを別のこととは思わず、単にそのときの強調の違いであり、どちらにしても実質上は両方を含む、と考えて「問題化」しないで済ますのではないか。

しかし「強調の違い」は「パースペクティブの違い」であり、信仰者生活に「実質上の差異を生じさせる」としてマクナイトは問題化したわけであった。

さて「信仰」のニュアンスの違いとして考える際に、ギリシャ語ピスティスを「信仰(faith)」「忠実(faithfulness)」「忠誠(loyalty)」として区別しながら問題に迫ろうとしているらしい著書二つを、先輩ブロガーでもあり、新約聖書学者でもあるマイケル・バードが Pistis as Faith or Faithfulness or even Loyalty?  で紹介している。


以上、(1)も(2)も基本的用語である「信仰」「福音」の整理に有益のようであるのでお勧めしておこうと思う。

2016年4月28日木曜日

身体的復活と埋葬

「イエスの復活の身体」として4本の記事をアップした。・・・(1) (2) (3) (4)

最近も「復活」については随時アップしているが、今朝また北米のジョン・パイパー牧師が何やら「埋葬」のやり方で「聖書的」「キリスト教的」と見解を述べているらしい記事があることを知った。

John Piper Makes Biblical Argument for Burial Over Cremation as It Relates to 'the Meaning and Importance for the Human Body'

『ジョン・パイパー、人間の身体的意義と重要さを考えると、火葬より土葬が聖書的であると主張』

パイパー自身の記事を読んでいるわけではないので(上記の記事にリンクがある)、あくまでこの記事にまとめられている議論を読んだだけだが、キリスト者は「火葬」より「土葬」を選ぶべき理由が何箇所かの聖書の解釈を通して提示されている(らしい)。

パイパーによると・・・
 「土葬」は、人間の身体(遺体)に対して敬意を払っているが、
 「火葬」は、火で遺体を焼き払う点で「嫌・身体」的だという。

キリスト教は「身体のよみがえり」を信ずるわけだから、その身体(遺体)の埋葬の仕方の点でも上記の相違を考えると、より「聖書的」「キリスト教的」な立場があるはずだ。それは「土葬」ということになる、ということらしい。

「復活の身体」がどんなものであるか・・・の議論と思弁は、おそらく「復活」の思想が顕在化してきたとき(第二神殿期ユダヤ教期)からあると思うが、キリスト教が特にユダヤ教以外の文化圏に浸透して行くにつれて様々に持ち上がったと思われる。

以下の動画でも言及されるが、教会教父時代、人肉食(カニバリズム)の文化背景を持つ信徒が、生前ある人が食べた(あるいは食べられた)人の「肉片」は、復活のときどのように扱われるのか、と云う問題で悩んだらしい。

復活信仰あってこその「復活の身体はいかに」と云う神学的疑問だから、それ自体は当然であるが(と思うが)、どのような思弁を用い、どのような現代的「実践(神学的適用)」を施すかは簡単な結論はないのではないかと思う。

新約聖書学での「終末論」の研究者としても名高い、Dale C. Allison Jr.が自らの(臨死まで行かない)近死体験を交えて「復活」「復活の身体」についてインタヴューに答えている。



・カニバリズム問題(5分30秒くらいから)
・復活の身体で「消化器系」は必要か
・「免疫系」「生殖器」はどうか
・何歳の身体で復活するのか
・夭逝したばあいはどうか
(教会教父時代から近代・現代に移行すると科学的知見の問題が浮上する)
・分子レベルで解体した「身体痕」は原子レベルで「拡散」して分からなくなるが
・原子レベルではもはや「誰の身体だったか」はナンセンスでは
と「思弁」は多様に拡散して行く。

さらに現代は「葬式」のやり方に関してもかなり多様に考えるようになっている。
「終活」の前に考えたい 死の迎え方と送られ方 - 東嶋和子 (科学ジャーナリスト・筑波大学非常勤講師)(リンク
と云うわけで、パイパー牧師の「おすすめ」は一つの例と云うことになるだろう。

2016年3月30日水曜日

追記「復活:自然啓示と特別啓示」

たまたまでしょうか、ちょうどこのトピックに関連する記事がINTERPRETATIONで「ただで読める」、ということで追記します。

1. Robert John Russell (The Center for Theology and the Natural Sciences, Berkeley, CA)
   Resurrection, Eschatology, and the Challenge of Big Bang Cosmology
2. Anna Case-Winters (McCormick Theological Seminary, Chicago, IL)
   The End? Christian Eschatology and the End of the World
※ただの期間は2週間!!だそうですので、お早めに。