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2017年8月4日金曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー 参考資料

今回のライト・セミナーでは《共同研究》としました。

※「第一次応募締め切り」が4週間後となりました。


宗教改革500周年の《聖書のみ》と《万人祭司》にあやかってみたのですが、「『死者の復活』の教理」をめぐって、たった1節(コリント第一15章17節)
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
にしぼって、みんなで意見交換してみようと言うわけです。

たくさんの「現代訳を比較検討」してニュアンスの違いみてみるのもいいかもしれませんね。



今回は少しネット検索した中から二つ紹介します。

(1)説教(ノーザン神学校のチャペル・メッセージ?)

Our Victor – 1 Corinthians 15:17-20
By: Northern Seminary

For many years I never thought of the resurrection as important, as if Easter was about having your sins forgiven through Jesus’ death on the cross, and the resurrection on the third day was little more than a really happy ending.

Eventually Paul’s words in 1 Corinthians 15 helped me to see that Jesus’ resurrection wasn’t nice but necessary, and wasn’t a happy ending but a glorious beginning.


(2) 研究論文

Rollin Ramsaran

 この論文は
「コリント第一の手紙」が、(書かれた手紙だが)パウロが(口頭によって)スピーチした内容を下敷きにし、手紙の読者に対して口頭で読まれるために、特に「15章がクライマックス」となるよう様々工夫されて全体が構成されたもの、
という方法論的前提(オーラル・パフォーマンス)に立って分析されています。

数箇所、関連のありそうなところを引用してみます。


“Christ raised” becomes the basis for Paul’s argument through oral performance in 15:12-58. Going forward, Paul does not attempt to “prove” that Jesus was raised – he assumes it and he expects his audience to continue following him in that common belief. Paul, through his envoy, comes alive once again before the Corinthians as the proclaiming apocalyptic teacher and guide who was, in that very preaching, originally the occasion for their coming to faith.

Paul’s first question in 15:12 ( “How can some of you say that there is no resurrection of the dead?”), from a set of imaginary (?) interlocutors in Corinth, provides an opportunity to assert the necessity of Christ’s resurrection as the representative pattern for believers.

Much work has been done recently on  analyzing the oral performance indicators embedded in written texts (orally-derived texts).
My burden to this point has been to show the likelihood of Paul’s having composed the letter of 1 Corinthians in memory and then dictating it to a scribe. The written text then functioned as an aide-memoire for a sent envoy who would orally perform Paul’s message.


以上、何か参考になればと思い・・・。

2017年7月3日月曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー ペーパー募集

第6回 N.T.ライト・セミナー
「ライトの終末論: 1コリント15章における『死者の復活』の教理をめぐって」

ペーパー募集!!!

「ライト・セミナー」ウェブサイトで案内した、2017年「第6回 N.T.ライト・セミナー」の《ペーパー募集》の応募要項をお知らせします。

1. ねらい

1コリント15章16-19節でパウロは「もし『死者の復活』がなかったら」と仮定を使って「使徒の福音」にとっていかに『復活』を事実として受け止めることが大切かを議論しています。

さてその一連の「もし・・・復活がなかったら」のうち、17節は以下のようになっています。
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
はたしてパウロが言う「今もなお罪の中にいる」とはどういうことなのでしょうか。

パウロは同じ15章の3節で「使徒の福音」を簡潔に要約していますが、後半は次のようになっています。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために 死なれたこと、」(新改訳)
ということは「キリストは確かに“私たちの”罪のために(十字架で)死なれたけれども、まだ復活していないとしたら贖罪は不成立になってしまう」、ということでしょうか。

それともこの場合「復活」は「十字架の死による贖罪」も含めた“一つながりの出来事”として言っているのでしょうか。そして一つながりの出来事として復活も含めて完了しなければ贖罪は不成立、ということでしょうか。

この17節の「今もなお、自分の罪の中にいる 」についての神学的意味を入口にして、ライトにおける終末論、キリストの復活によって開始される「新創造」に一歩足を踏み入れてみたいと思います。

2.ペーパーの内容

ライトはSurprised By Hope の247ページ最初のパラグラフ(13行)で次のように言っています。
"We begin with Paul's great statement of the new world in I Corinthians 15:12-28. He is battling to get it into the heads of the ex-pagan Corinthians, many of whom clearly didn't fully grasp that the gospel meant what it said about Jesus's resurrection. The crunch comes in verse 17: if the Messiah isn't raised, then your faith is futile and you are still in your sins. In other words, with the resurrection of Jesus a new world has dawned in which forgiveness of sins is not simply a private experience; it is a fact about the cosmos. Sin is the root cause of death; if death has been defeated, it must mean that sin has been dealt with. But if the Messiah has not been raised, we are still in a world where sin reigns supreme and undefeated so that the foundational Christian belief, that God has dealt with our sins in Christ, is based on thin air and is reduced to whistling in the dark."(SBH/247)
このライトの註解を適宜参考にしながら(反論も含め)、「各自の視点や問題意識」で意見をまとめそして発表してください。

3.字数制限、締め切り等

・1200~2000字くらいを目安にお願いします。
・締め切り
 第一次締切日・・・8月31日
 第二次締切日・・・9月24日

・セミナー当日(10月23日)に出席して発表・討論できる方を優先しますが、当日参加できない方のペーパーも「独自の視点や解釈を含むもの」はできるだけ当日のレジュメに入れたいと思います。

・「神学生・若手奨励」
応募してくださった方の中から2人の方に
ライト著『使徒パウロは何を語ったのか』(2017年、いのちのことば社)
を贈呈します。奮ってご応募ください。

4.応募のアドレス
サイト左に表示してあります「問合せ連絡先」まで(氏名・所属教会/学校・立場等)を付記してお送りください。 

5.問合せ
応募の条件や内容等に関し不明な点があれば同じアドレスまでお問合せください。

以上よろしくお願いします。
小嶋 崇(ブログ管理人) 

2016年10月24日月曜日

「『福音』再考」について

まもなく日本伝道会議(分科会)「N.T.ライトの義認論」が終わって一ヶ月となる。

すでに神学ディベートとしてこのウェブサイトで掲載した「対話に向けて、1~9」は撤収したが、何らかの報告と云うか感想みたいなものをぼちぼち書こうと思っている。


ところで、一週間後となる第5回 N.T.ライト・セミナー(概要)では「いま、福音は」と云うテーマで「義認(論)」や「救済(論)」よりもキリスト教会にとってはより生命線ともいえることを取り上げようとしている。

用語としてはあるかもしれないが「福音論」という論議や論争はあまり聞かない。

一つには福音が「自明」とされていることがあるかもしれない。

あるいは「福音」とは義認論とか救済論とかキリスト論を入れるパッケージのようなイメージなのかもしれない。(何でも入れられるから中身についてそんなに心配しなくてもいい、みたいな・・・。)



さて、その第5回 N.T.ライト・セミナーの案内で、「ちょっとした紹介」にイントロとして書いた文章がある。『福音再考へのアプローチ』と云う文章の一部引用だが、ここに転載してみる。


 今回発題講演者にお招きした谷口氏は2008年から「福音とは何か」を『リバイバル・ジャパン』誌にリレー連載した。「福音」とは何かを意識的・持続的に取り上げた氏に全93回に及んだ連載記事の総括レポートを依頼したのは当然の流れかと思っている。福音派(と聖霊派)の牧師たちは「福音」をどう理解しているのか。彼らの福音理解にはどれくらい幅や多様性があるのか。あるいは逆に(判で押したように)画一的なのか・・・

 谷口氏の総括レポートにコメントしていただく高橋、坂原両氏はベテラン牧師と按手礼前の伝道者という組み合わせである。お二人にも事前に「福音」について自らの視点を簡単に示して頂くため「三つの質問」のうち二つ選んで回答してもらった。
(1)谷口氏の問題意識・問題提起

 2008年に「福音とは何か」連載シリーズを谷口氏は始められた。

 毎回記事の冒頭には「福音とは何か」シリーズの「狙い・視点」が掲げられているが、それはこうなっている。

福音を語るためには、福音を理解していなければならない。しかし果たして、私たちはその『福音』を正しく総合的に理解しているのだろうか。
谷口氏の問題意識と問題設定は、福音を伝える側がどれだけ「福音」とその内容を「正確に、総合的に」理解しているだろうか・・・ということを掘り下げるものであっただろう。

 自分たちが「受け」そして「伝えた」福音が、その指し示す事柄の把握の確かさの点でも、内容の豊かさの点でも、何か欠けているところ、十分整っていないところが(まだまだ)あるのではなかろうか・・・というような問題意識があったのではなかろうか。

 昨今の教勢衰退、伝道不振、牧師不祥事頻発の状況が、教会(界)人をひたひたとその中心であり根拠である「福音」への理解に対する自省へ促しているのではなかろうか・・・。


(2)福音を取り巻く二つの「パラダイム・シフト」状況

 個人的に注目したことがある、という意味での「二つ」であってまだ他にもあるとは思う。

 「大和郷にある教会」ブログで、『福音派のパラダイム・シフト』というシリーズを全7回掲載した。(2013年6~8月)

 紹介したゴードン・T・スミスの論文が分析したのは、18-19世紀(大西洋を挟んだ)欧米福音派を席巻したリバイバリズム(信仰復興運動)に端を発し20世紀以降ほぼ全世界に普及した
「回心体験」、そしてそれを中心に組み上げられた教会の伝道・礼拝・教育(霊的形成)の構造的性格 
であった。

 問題の出発点となる「回心体験」についてスミスは以下のように(かなり大鉈で斬る様に)定義している。
回心体験の中心は「死後の(永遠の)いのち」であり、「死んだら天国に行く」のが救いと考えられた。この世は伝道のため以外には殆んど意味がなく、もっぱら未信者を天国に入らせるのが教会の使命であり、そのような伝道が重んじられた。
 福音を取り巻くと断ったが、スミスの論考は「福音とはそもそも何を指すのか」とか「福音が語る内容はどこからどこまでか」というようなことだけについての反省ではなく、「福音」ということで教会が実践している事業(礼拝・伝道・教育)の中心となってきた「回心体験」とは何であったか・・・という問い直しであったといえる。

 このリバイバリズムという運動の中で定義された「福音の見方」、そしてそれに連動した教会の実践(礼拝・伝道・教育)を「一つのパラダイム」として分析した、というのが大事な点ではないかと思う。

 一つはこの「200年くらいの間支配的であったパラダイム」、と云う歴史的視点。

 もう一つは「回心体験」を中心にして教会事業が展開された、と云う(教会)社会学的視点。
  

 [スコット・マクナイト『福音の再発見』についての補足]

 マクナイトの本はある意味で「福音再考」だが、議論自体はかなりタイトでスミスのようなブロード(大風呂敷とも言えるが)ではない。

 「福音」それ自体が厳密に何を指すかについての考察は新約聖書に遡って「聖書神学的に」論及されているが、議論の比重はスミスが対象とした「回心体験」を生み出した「メッセージ」とその「提示の仕方」に絞っている。

 「天国に行くための罪の赦しによる救い」は宗教改革時点での「救済論的集中」から端を発し、その後の西洋キリスト教史における「個人的・主観的」キリスト教の発展・強化の文脈にあるもので、(一世紀)使徒的福音を尺度とした見た時、それは「個人的(罪からの)救いに特化した」福音であり、結果的に矮小化・(二元論的な面では歪曲)と分析される。(故に現在の福音派は「福音」派ではなく、実質「救い」派とみなされる。)


二つ目の「パラダイム・シフト」 状況とは、言わずと知れた「『パウロ研究』の新しい視点(NPP)」のことである。

 ここでは詳しいことは書けないが、伝道会議の発題で最初に指摘したように、「義認」理解を巡るパラダイム・シフトは「新約聖書学」(その中の「パウロ研究」)というアカデミックな世界で先ず起こったことが、N.T.ライトと云う類まれなコミュニケーターを通して一般信徒等に浸透した現象である。

 指摘したように「アカデミックな世界」での常識や知見が、そのまま「キリスト教会」に受け入れられるわけではない。かなりの隔たりがあり、説教のために聖書研究や聖書解釈をしている牧師たちでさえ聖書学の最新研究には殆ど不案内なことが普通だ。

 そのような大きな隔たりを一人で何冊も本を著したり、各地で講演して埋めて行くライトの働きは先ずは賞賛されてしかるべきだろう。

 「福音再考」にポイントを絞ると・・・

 やはり問題となるのは「どれだけ歴史的に検証しようとするのか」ということではないだろうか。

 歴史的資料を広く積極的に用いようとするか、それとも「新約聖書」文書を特別視して同時代の歴史的資料と一線を画し限定的に用いようとするか、「検証の入口」でもかなりな違いを生む可能性があるのではないか。



 以上「福音を取り巻く二つのパラダイム・シフト」として「回心体験」と新約聖書学における歴史研究の深まりを挙げた。

 後者に関しては論ずることはしなかったが、いずれにしても「福音とは何か」を問う時、どういう文脈で問いを発しているかを自覚できると、「問題の再設定」や「方法論」が次第に視野に入ってくるようになるのではなかろうか。

2015年10月26日月曜日

「継続する捕囚」補記

先日の「ライト・セミナー」のDVDが発売となりました。

(近日中にウェブでも紹介しますが、お急ぎの方はあめんどう社へ直行ください。)

その伊藤講演の背景となる重要モチーフ「継続する捕囚」についてまだまだ「理解が難しい」ことが何人かの方からの感想で聞き及んでいます。

しっかりとした解説をするのは無理ですが、小出しで申し訳ありませんが、また一つ「理解のための材料」を紹介します。

英語の動画ですが。



デンバー神学校の新約学教授のクレイグ・ブロンバーグの講演です。

ヴェリタス・フォーラムという、大学キャンパスでの「キリスト教の弁明」活動的なことをやるプログラムでのものです。

聴衆はノン・クリスチャンを念頭にしてますから、「史的イエス」入門としても聞きやすい、ざっくりとしたものです。

特に「現代の史的イエス研究」のリーダーの一人としてN.T.ライトの研究を紹介しているのですが、まさに「継続する捕囚」を終わらせるイエスの神の国宣教、として解説しています。(動画では大体37分過ぎ頃)

The problem is the problem of exile, of not living in freedom. Many Jews were literally in exile even though they were living in their homeland, they were not living in freedom.
Jesus came announcing that the exile was over, without one Roman soldier having been removed from his post.
The exile is over、捕囚は終わった。

神の国は到来した。(慰めの時、回復の時)



と言ったあたりを、短くですが解説しています。


ところで「10月月例報告」の方に書きますが、continuing exileを他のメンバーの方が「長引く捕囚」と訳していましたね。まさにそんな感じです。

2015年10月22日木曜日

「継続する捕囚」

先日もたれた第4回N.T.ライト・セミナーの第Ⅱ部で、伊藤明生(東京基督教大学神学科長・新約聖書学教授)氏が「呪いと契約:ガラテヤ3章10節~14節」と題して発表した。


セミナー案内記事で少し解説した文を先ず以下に再掲する。
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3章10節、新改訳)
N.T.ライトの新約聖書理解は、旧約聖書を単に「背景ストーリー」として参照するのではなく、創造から始まり、イスラエルの民の選びと契約という「大きな物語の成就」としてイエスの十字架と復活を捉えます。
特に「十字架の贖罪」理解において、「契約」が決定的に重要な要素であることを、ライトは自身の論文集、The Climax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theologyで論証しています。
発表ではその議論を紹介し、私たちのガラテヤ書理解にどんな光を投げかけるか見てみたいと思います。

と書いておいたが、標題の「継続する捕囚」とは、
このガラテヤ3章を解釈する枠組みとして「契約」、特に申命記に書かれている契約に伴う「呪い」の結果である「捕囚」が、第二神殿期ユダヤ人の世界観の中で「依然として終わっていない、継続していた」、という歴史的理解の前提をさす用語
である。

「継続する捕囚」については、小嶋がセミナー当日の資料のイントロに「簡単な解説」を付したが、ここで少し引用してみよう。


 「一世紀、イ エスやパウロ時代のユダヤ人は地理的には捕囚から帰還し、約束の地に戻り、神殿も再建していた。にも拘らず、政治的独立を奪われている情況では預言者たちが約束した『捕囚からの帰還』は成就していない。依然として捕囚は続いている」という当時のユダヤ人の歴史認識、世界観の一部を指します。今回伊藤氏が翻訳した部分の直前、パウロの「呪いと契約」枠組みの歴史的「前置き」としてライトがプロポーズしているものです。
 ライトは、パウロはガラテヤ3 章を「契約」(・・・)の枠組みで議論していること踏まえ、メシアがイスラエルを代表して呪いを受けることによって捕囚が終わり、アブラハムの祝福をブロックしていた律法の呪いが終了し、異邦人への祝福(その結果である聖霊 の賜物)がメシア(アブラハムの『末(seed)』)を通して到達した、という見通しを示します。 

『契約のクライマックス』(1991年)は「パウロ研究」の本だが、「継続する捕囚」は「史的イエス」研究でも、そしてライトの《新約聖書神学アプローチ》全体でも、重要なモチーフの一つであり、「第二神殿期ユダヤ教」の世界観を構築する上での大切なビルディング・ブロックとなっている、と言って差し支えないだろう。


『クリスチャンであるとは』の叙述では「継続する捕囚」という表現は出てこないが、「イスラエルの物語」を織りなす「繰り返される」スレッドとして「捕囚と回復」のパターンが指摘されています。(126ページ)

以下、「継続する捕囚」が解説・議論されている代表的なものを挙げておきます。

1. NTPG, 268-272.

2. Continuing Exile: Paul and the Deuteronomy/Daniel Tradition (2010年11月、Trinity Western Universityでの講演)

3. Justification: God's Plan and Paul's Vision, 41-45. (上記講演の簡易版)

4. JVGでは「捕囚からの帰還(Return from exile)」で、沢山の箇所で議論されている。



5. Carey C. Newman編の、Jesus the Restoration of Israel: A Critical Assessment of N. T. Wright's Jesus the Victory of Godでは、特にCraig Evansが扱っている。

6. 新約聖書ブロガーのMike Birdが,自身の Euangelionブログで扱っている。これ、とこれ

最近では、
7. アンドリュー・ウィルソンが今年の英国新約聖書学会(BNTC)で、「捕囚の終わり」のテーマでフィリップ・アレキサンダーとライトの発表ノートを記事にしている。

興味深いところではユダヤ人学者で死海写本研究で名高いローレンス・H・シフマンが、
"Exile and Return in the Dead Sea Scrolls"(「死海写本での捕囚と帰還」)
を自身のブログで記事にしているが、基本的に「継続する捕囚」の見方を支持している。

Perhaps one of the most interesting aspects of our study will be the observation that from the point of view of the Qumran sectarians, and indeed in some other Second Temple sources as well, the return that took place during the Persian period and the creation of a Jewish commonwealth at that time, and even the rebuilding of the Temple, were not considered to be the fulfillment of biblical prophecies of return. Indeed, we will see that our authors write as if the exile continues in their own time, despite the fact that they are living in the land of Israel.

以上関心のある方へ、ご参考までに。

2015年9月3日木曜日

第4回 N.T.ライト・セミナー

9月を迎えました。

第4回 N.T.ライト・セミナーまで1ヶ月となりました。

日時: 2015年10月5日(月) 13時30分~16時30分
場所: お茶の水クリスチャンセンター・416号室(50名収容)


簡単にご紹介します。

Ⅰ. 開会講演

スピーカー:上沼昌雄(『クリスチャンであるとは』訳者)

テーマ:「『クリスチャンであるとは』にみるN.T.ライトの歴史観」

趣旨:
「聖書を読む時、私たちはこれまで『16世紀が設定した問題に、19世紀が回答する』枠組みを用いてきた。しかし今や『1世紀が設定した問題に、21世紀が回答する』枠組みに取り替えるべきときである」
We need to find 21st Century answers to 1st century questions, not 19th century answers to 16th century questions - See more at: http://www.biblesociety.org.au/news/n-t-wrights-australian-visit-sparks-respectful-arguments-on-pauls-writings#sthash.KcJogkuU.dpuf
We need to find 21st Century answers to 1st century questions, not 19th century answers to 16th century questions - See more at: http://www.biblesociety.org.au/news/n-t-wrights-australian-visit-sparks-respectful-arguments-on-pauls-writings#sthash.KcJogkuU.dpuf
We need to find 21st Century answers to 1st century questions, not 19th century answers to 16th century questions - See more at: http://www.biblesociety.org.au/news/n-t-wrights-australian-visit-sparks-respectful-arguments-on-pauls-writings#sthash.KcJogkuU.dpuf

という決まり文句を使って、ライトは「現在の混迷する(西洋)キリスト教の所在と、そこからの脱出のヒント」を示唆する。

ライトの著作に流れるこのような(歴史認識のずれた神学論争に対する)問題意識を無視してライトを読むと大変な読み違いをすることになるだろう。

いかに「1世紀の視点で、そして21世紀の問題意識をもって聖書を読む」か。その作業の重大さと難しさを覚える。

その困難さを『クリスチャンであるとは』から紹介しながら、ライトという人の歴史観とはいかなるものか考えてみたいと願っている。 


Ⅱ. 研究発表

スピーカー:伊藤明生(東京基督教大学神学科長・新約聖書学教授)

テーマ:「呪いと契約:ガラテヤ3章10節~14節」

趣旨:
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3章10節、新改訳)
N.T.ライトの新約聖書理解は、旧約聖書を単に「背景ストーリー」として参照するのではなく、創造から始まり、イスラエルの民の選びと契約という「大きな物語の成就」としてイエスの十字架と復活を捉えます。

特に「十字架の贖罪」理解において、「契約」が決定的に重要な要素であることを、ライトは自身の論文集、The Climax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theologyで論証しています。
発表ではその議論を紹介し、私たちのガラテヤ書理解にどんな光を投げかけるか見てみたいと思います。

参加費千円を当日受付にて係りの者にお支払いください。

チラシも間もなくできることと思いますが、しばらくお待ちください。



問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)


セミナー実行委員一同

2015年6月9日火曜日

FB読書会 2015年5月近況

5月はちょうど、『Simply Christian』から『クリスチャンであるとは』に切り替わるところで、殆どページ進行はありませんでした。

『クリスチャンであるとは』を出版したあめんどうのOさん(読書会のメンバーでもあり、ライト・セミナーの運営委員でもあります)から、出版直前の報告や案内などがウォールを賑わしました。

さて、MH氏が『クリスチャンであるとは』に切り替え後、最初の部分をリードしてくださいました。

「互いのために造られて」(45-47ページ)

イントロ部分では、結婚における人間関係の難しさが取り上げられている。
我々は互いのために造られているものの、現実には関係をうまく保つためには、困難であり、社会的なものとしてつくられているのに、それにうまく対応できないでいる。
と、「関係に生きる人間」のパラドックスな面を指摘して今後の考察を進めることになる。

担当のMH氏は「感想」で《霊性の問題とコミュニティの問題》を扱った本として以下の3冊を紹介した。
ヘンリー・ナウエンの「愛されている者の生活」
http://amendo.ocnk.net/product/7
ジャン・ヴァニエの「コミュニティ」
http://www.ichibaku.co.jp/cgi-bin/cart/cart.cgi?pid=28
ディートリヒ・ボンヘッファーの『共に生きる生活』
http://www.shinkyo-pb.com/2014/05/08/post-1193.php



その他「ウォール」で目立ったものと言うと・・・

ライト・セミナーin大阪の案内

『クリスチャンであるとは』出版間近ということもあったのか、新規会員が急に増えてきました。
5月中に8名くらい増えたみたい。


といったところです。

ではまたご報告します。

2015年5月25日月曜日

ライト・セミナーin大阪

『クリスチャンであること』の出版までもうカウントダウンに入りました。

訳者の上沼昌雄氏をゲストにセミナーが開かれます。

日時:2015年7月13日(月)、午後1時30分~4時
場所:大阪市立総合学習センター 





『クリスチャンであること』をご購入いただいて読み始めるにあたり、ライトについてより広範に知る機会かと思います。
どうぞ大阪近辺の方、ご参加ください。

詳細等についての問合せは・・・
 川向肇(かわむかい はじめ)
 kawamukaihajime*gmail.com(*を@に変換)
までよろしくお願いします。

2013年11月26日火曜日

「第2回N.T.ライト・セミナー」収録DVD

2013年10月9日に行なわれたセミナーの模様を収録したDVDが10部限定販売されています。(お早くどうぞ)



簡易な製作でお値段も下げてあります。

販売代行は、「本を枕に--スピリチュアルな日々」ブログ主、クレオパさん(あめんどう)です。


なお購入希望の方は「本を枕に--スピリチュアルな日々」サイトの『第二回N.T.ライト・セミナーを収録したDVDを発売中です』へどうぞ。

2013年11月6日水曜日

イエスの復活の身体②

さて、前回「復活後のイエスの身体性」が如何なるものであったか、そのような疑問の一つの入り口として「第2回N.T.ライト・セミナー」での「『イエス昇天後の遍在』における身体性の如何」の疑問について紹介した。

今回は前回紹介したように、ライトが「復活後のイエスの身体性」を提示する概念として造語した
transphysicality
について少し書く。

「神の子の復活」(キリスト教起源シリーズ第3巻目、2003年)において初めてtransphysicality
と言う造語が紹介された。

その最初の箇所(477-8+ページ)の文脈をかいつまんで言うと、
①「新約聖書の復活観」の結論を5つのポイントにまとめている部分である。
②(幾つかの復活観のオプションの中でも)パリサイ派の復活観が修正されたものであるとしている。
その要素として、
(A)(死者からの)復活が起こるとされた『終末』が(時系列的に)2段階に分けられた。
(B)将来与えられる復活の身体の性質は、「死ぬことも朽ちることも出来ない身体」であり、このような身体は、既に死んだ者たちも、イエスの来臨の時生きているキリスト者たちも、両方が「着せられる」ことになるのだが、それはトランスフォメーションを必要とする。

この(B)の部分を論述している過程で、ライトは(権威ある)オックスフォード英語辞典には見つからないtransphysicality(transphosphorylationと言う語と、transpicuousと言う後の間に入ることになるわけだが)と言う語を提案するわけである。

そしてライトはこの語の「使用範囲」と言うか、「目的」について制限を加える。

transphysicality、とは新約聖書記者が復活後のイエスの体が実際にどのような身体性を持ったものであるか、また将来キリスト者たちが持つようになるであろう復活の身体の詳細を描写した概念でも、またどのようにそのような身体性を獲得するかについて描写した概念でもない。

transphysicality、とは初代キリスト者たちがそのような復活の体が(変な言い方に聞こえるかもしれないが・・・筆者注)「十分身体的(robustly physical)」であり、現在持っている身体とは質的に異なるものである、と認識していたことは動かし難い事実であることを主張するために考案した「ラベル」のようなものである。 

「神の子の復活」で、ライトがtransphysicalityを使って論述している箇所は他に数箇所あるだけなので、この造語によって「復活の体の身体性」について何か理論的な考察をしているわけではないことは明らかである。
ただこの語を用いて「復活の体の身体性」が持つ特異な面について読者の注意を喚起しようとしていることは確かではないかと思う。

このことは、①パウロ書簡(特に第一コリント15章)を釈義する時もそうであるが、さらに②福音書において復活後のイエスについて(特にその身体性の特異性について)記述している箇所を釈義する時に必要な「枠組み」であることを示唆しているものと思われる。

(次回に続く) 

2013年10月28日月曜日

イエスの復活の身体①

先日(10月9日)持たれた「第2回N.T.ライト・セミナー(案内簡単な報告)」

 

天と地が出会う場所:神殿、イエス、そしてN・T・ライトの空間理解

 と言う基調講演をなされた鎌野氏は、その中で「神殿」の理解を、どのようにライトが「イエス」理解に繋げているかを

『天と地が出会う場所としてのイエス、そしてキリスト者共同体』

と言う部分で5つのポイントにまとめている。

その第5ポイントは以下のようになっている。(ネットではまだ公表されていない論文なのであしからず。)
第五に、イエスの昇天を通して、地におけるイエスの遍在が可能となった。天と地は全く同じ種類の空間ではない。地にいる限り、イエスはある特定の場所にしか 存在することははできなかっただろう。しかし、天は地に十分に浸透している。天にいるからこそ、イエスは地のあらゆる場所にいることが可能となった。イエ スは王として天の王座につき、そこから全地を導いているのだ(脚注31)。
※脚注31とは、ライトの2011年刊、Simply Jesus: A New Vision of Who He was, What He did, and Why He Matters、の191-2ページ(ペーパーバック版、ハードカバー版は、195-6ページ)。
この「イエスの遍在」ということについて、当日のセミナーで、フロアーから質問があった。
イエスの昇天によってイエスの肉体は現在遍在するのか。このような書き方だとイエスは肉体を持ったまま天に着座した、と読めるのですが・・・。
これに対して鎌野氏は(質問者は聖餐におけるイエスの臨在のことにも言及されたので)聖餐におけるイエスの臨在に関する理解が「象徴説」から、よりルター的 な、あるいはよりカトリック的な理解に近づきつつある、としながら「イエスの遍在」に関しては「遍在」が可能になったのだけれども、それは「汎神論」的な意味での「遍在」のあり方とは違う。
とおよそそのような回答をなされた。

筆者は基調講演へのレスポンデントとして同席していたのだが、この質問には人一倍関心があったので、ついでに意見を言わせて頂いた。

筆者は、ライトが「キリスト教起源」シリーズ第3巻の「神の子の復活」で、復活したイエスの身体が、パウロ(第一コリント15章)によれば「朽ちない身体に 変わった(トランスフォーム)」としているのをどう表現したら良いか探しあぐねて用いた言葉がtransphysicalityだ、と紹介した。
そしてその理解はSimply Jesusでも継続されている、と発言した。

しかしそもそも transphysicalityと言う言葉自体ライトの造語であるし、また果たして昇天の時のイエスの身体性は、復活後40日間弟子たちに顕現された時の身体性と同一であるかどうか、筆者は改めてその点を確認する必要があるのではないか、と思っている。

これはかなり推論的な思索にならざるを得ないので、ライトと言えどもそれほど「確実性」を主張していないものだと思う。

と言う訳でどこまでライトが言う transphysicalityに肉薄できるか分からないが、あくまで試論として、あるいは断想的なものとして書いてみようと思う。

(次回へ)



2013年8月17日土曜日

第2回N.T.ライト・セミナーのチラシ

第2回N.T.ライト・セミナーのチラシ

チラシが印刷されて小嶋のところに届いています。

クロネコメール便で送ります。
 

主催者である「N.T.ライト・セミナー」が送料を負担します。

(※でも手渡しできる場合は、なるべくそのようにお願いします。

例えば9/14の早稲田奉仕園でのいのフェスに参加する方の場合は、手渡し出来ます。)
ご希望の方は、以下の事項を明記の上お申し込みください。
①名前
②住所
③必要枚数
《問合・申込》
小嶋崇(コジマタカシ) t.t.kojiアットマークgmail.com
 
以上よろしくお願いします。

2013年7月11日木曜日

第2回N.T.ライト・セミナー ご案内

いよいよ第2回のN.T.ライト・セミナーの対外的案内が始まりました。

第2回N.T.ライト・セミナー

日時:2013年10月9日(水) 午後1時~4時
場所:OCC4階、415号室


拡散お願いします。