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2017年7月3日月曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー ペーパー募集

第6回 N.T.ライト・セミナー
「ライトの終末論: 1コリント15章における『死者の復活』の教理をめぐって」

ペーパー募集!!!

「ライト・セミナー」ウェブサイトで案内した、2017年「第6回 N.T.ライト・セミナー」の《ペーパー募集》の応募要項をお知らせします。

1. ねらい

1コリント15章16-19節でパウロは「もし『死者の復活』がなかったら」と仮定を使って「使徒の福音」にとっていかに『復活』を事実として受け止めることが大切かを議論しています。

さてその一連の「もし・・・復活がなかったら」のうち、17節は以下のようになっています。
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
はたしてパウロが言う「今もなお罪の中にいる」とはどういうことなのでしょうか。

パウロは同じ15章の3節で「使徒の福音」を簡潔に要約していますが、後半は次のようになっています。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために 死なれたこと、」(新改訳)
ということは「キリストは確かに“私たちの”罪のために(十字架で)死なれたけれども、まだ復活していないとしたら贖罪は不成立になってしまう」、ということでしょうか。

それともこの場合「復活」は「十字架の死による贖罪」も含めた“一つながりの出来事”として言っているのでしょうか。そして一つながりの出来事として復活も含めて完了しなければ贖罪は不成立、ということでしょうか。

この17節の「今もなお、自分の罪の中にいる 」についての神学的意味を入口にして、ライトにおける終末論、キリストの復活によって開始される「新創造」に一歩足を踏み入れてみたいと思います。

2.ペーパーの内容

ライトはSurprised By Hope の247ページ最初のパラグラフ(13行)で次のように言っています。
"We begin with Paul's great statement of the new world in I Corinthians 15:12-28. He is battling to get it into the heads of the ex-pagan Corinthians, many of whom clearly didn't fully grasp that the gospel meant what it said about Jesus's resurrection. The crunch comes in verse 17: if the Messiah isn't raised, then your faith is futile and you are still in your sins. In other words, with the resurrection of Jesus a new world has dawned in which forgiveness of sins is not simply a private experience; it is a fact about the cosmos. Sin is the root cause of death; if death has been defeated, it must mean that sin has been dealt with. But if the Messiah has not been raised, we are still in a world where sin reigns supreme and undefeated so that the foundational Christian belief, that God has dealt with our sins in Christ, is based on thin air and is reduced to whistling in the dark."(SBH/247)
このライトの註解を適宜参考にしながら(反論も含め)、「各自の視点や問題意識」で意見をまとめそして発表してください。

3.字数制限、締め切り等

・1200~2000字くらいを目安にお願いします。
・締め切り
 第一次締切日・・・8月31日
 第二次締切日・・・9月24日

・セミナー当日(10月23日)に出席して発表・討論できる方を優先しますが、当日参加できない方のペーパーも「独自の視点や解釈を含むもの」はできるだけ当日のレジュメに入れたいと思います。

・「神学生・若手奨励」
応募してくださった方の中から2人の方に
ライト著『使徒パウロは何を語ったのか』(2017年、いのちのことば社)
を贈呈します。奮ってご応募ください。

4.応募のアドレス
サイト左に表示してあります「問合せ連絡先」まで(氏名・所属教会/学校・立場等)を付記してお送りください。 

5.問合せ
応募の条件や内容等に関し不明な点があれば同じアドレスまでお問合せください。

以上よろしくお願いします。
小嶋 崇(ブログ管理人) 

2016年3月29日火曜日

復活:自然啓示と特別啓示

先日、久し振りに銀座の教文館を訪れた。

本を置くスペースが狭くなっていた。

平積みになった新刊書・近刊書を何度も眺めながら、ついに購入したのは一冊だけに終わった。

しかし購入しなかった中で気になった本はあった。


そのことを書こうと思ったのは、イースターの説教で語ったことと、(後から紹介する)この本の主張(原書である英書の紹介文によればだが)とが多分に重なるのを感じたからだ。

しかし、先ず、きっかけはこのツイートだった。

以下吉田さんの連ツイをまとめて紹介。
1. 私の呟きは、マルコ福音書読者の周囲では既にイエスの復活が語られていたことを前提としていましたが、これはマルコ福音書の成立がイエスの死と復活から随分と時間が経っていると考えられているからです。

2. 多くの研究者はマルコ福音書の成立を70年前後と考えていますが、つまりマルコ福音書の成立はイエスの死と復活から40年後も経ってから、ということにな ります。それではこれ以前にイエスの死と復活はどのように語られていたのかと言いますと、これはパウロの書簡が参考になります。
3.パウロが著した『コリントの信徒への手紙一』15章3節から少なくとも5節には、彼がコリントの教会にかつての伝道に際して伝えた教えが再録されてい ますが、そこでパウロはこの教えを「私も受け取った」ものとして、つまり彼が信仰の先達から受け取った伝承として紹介しています。

4.パウロがコリントを訪れた時期或いは『コリントの信徒への手紙一』を著した時期はイエスの死と復活からおよそ20年後と考えられていますから、マルコ 福音書より20年は古いことになります。さて、その15章3節にはこの教えをパウロ「も受け取った」ものと記されていますから、

5.教え自体はパウロ以前に既に在ったと、つまりイエスの死と復活にかなり近い内に成立したものと考えられます。尤も、いつ誰がどのようにして作成したのかは不明でして、この点に関しては様々な研究が行われていますが、

6.所謂「キリスト教」のそもそもの始めがキリストの死(一コリ15:3-4a「キリストが…死んだこと、葬られたこと」)と復活(一コリ15:4b-5 「聖書に従って三日目に起こされたこと、…に現れたこと」)を信じることにあったことをこの伝承が語っているという点では見解が一致しています。

7.イースターをただのお祭りとして楽しむのも良いですが、その始まりを知ること、そしてその歴史に思いを馳せることもその楽しみに加えて欲しいなぁ、と思ったりなどもします。

先日出版されたT・ピーターズ他『死者の復活:神学的・科学的論考集』(小河陽訳、日本キリスト教団出版局、2016年)は、「復活を科学的および神学的にどのように評価すべきであるか」との問いに関する18本の論文をまとめたもの。

 「宇宙の終末において我々はいかに変容するのか?物理学、生物学、神経科学、哲学、聖書学、エジプト学、教会史、組織神学…多彩な学問領域の研究者18名が「体の復活」の可能性を考究した学際的対話の試み。」

(以下まだ少し続くが略。訳者の小河陽の『あとがき』も含めて実質19論文であると『あとがき』をイントロとして読むことを推薦している。)
訳書ということで値段がいかにもだが、 原書である、Resurrection: Theological and Scientific Assessments、は2002年の出版だからライトの『キリスト教起源』シリーズⅢ『復活と神の子』より一年前ということになる。(逆だったら少し面白かったとは思うが。)



ところでその「紹介文」だが、「前半」はこうなっている。
A team of scientists and theologians from both sides of the Atlantic explore the Christian concept of bodily resurrection in light of the views of contemporary science. Whether it be the Easter resurrection of Jesus or the promised new life of individual believers, the authors argue that resurrection must be conceived as "embodied" and that our bodies cannot exist apart from their worldly environment.
この「身体的復活」に焦点を当てる、というのは神学と(自然)科学との「共同作業」としては当然だが、ライトが、Surprised By Hope、で指摘するように、西洋近代において「からだの よみがえり」がかなり薄められたり、曖昧になったり、歪められたり、矮小化されてきた歴史から言えば、なかなか意欲的な取組みではないかと思う。

後半はこうなっている。
Yet nothing in today's scientific disciplines supports the possibility of either bodily resurrection or the new creation of the universe at large. Bridging such disciplines as physics, biology, neuroscience, philosophy, biblical studies, and theology, Resurrection offers fascinating reading to anyone interested in this vital Christian belief or in the intersection of faith and scientific thought.
アマゾン・コムの紹介文では省略されているが、間にはこう言う文章が挿入されている。
Cosmology, for example, only forecasts an end to the universe. If persons and the cosmos are to rise up anew in the eschaton, such an event will have to be a willful act of God. Thus, while modern science can offer aid in constructing models for picturing what resurrection of the body could mean, the warrant for this belief must come from distinctly theological resources such as divine revelation. Christian faith ultimately gains its strength not from modern science but from Gods promises.
科学は「身体的復活」を視覚化するモデルは提供できるが、現在の理論では「身体の復活」の可能性も、「新創造」の可能性もともに悲観的な見通ししか提供できない。

ゆえに「神学的根拠」が残されるが、それはどこに・・・、という問題提起になっている。

...such an event will have to be a willful act of God.
とあるように「イエス」を「死者の中から復活させた神(その神の力)」というところにキリスト者の信仰と希望は集まる・・・ということをイースター・メッセージでは語ったわけだった。

少々蛇足だが、『論集』中にはナンシー・マーフィーの、The Resurrection Body and Personal Identity、もありこのブログでも「イエスの復活の身体④」で取り上げた 
①「復活の身体」の連続と非連続の問題
『意識(たましい)』の問題を『自分』あるいはアイデンティティーの問題として考えるとどうだろう。
身体的には全く更新しながら、どうやって『自分』が回復されるのだろうか。
辺りの問題にどんな見通しを示しているか興味深い。 

2014年12月8日月曜日

FB読書会 2014年11月近況

10月近況」に続いて、11月近況を掲げられるとは・・・。

季節は早くも待降節に入りました。

最終章、15章 Reshaping the Church for Mission (2)、は(個人的な印象だが)残ったものを全部積み込んだ感じの長い章。

読書会の方も進展具合が緩慢になり、息の長いラストストレッチである。

さて、この章の、Resurrection and spirituality、と言うセクションを進んでいる。

New birth and Baptism(初担当のTさんがリード・・・ほぼ全訳してくださった)

ここでの討論は洗礼の形式(浸礼と滴礼) の違いが教会内で統一していないことで、他教会からの転入時、果たして異なる形式の洗礼を受容するかどうか・・・と言う問題に集中。

なかなか議論としては興味深かった。

Eucharist

洗礼に続いて聖餐ということで、サクラメント神学が話題になったが、聖餐の方では「職制」もかなり議論になった。

読書会に参加している方々はどちらかと言うとロー・チャーチ系で、さらに職制を認めない群れも加わっている。
「聖体」の象徴説か現臨説も議論されたが、プロテスタント教会史を大きくカバーする話題なので討論参加の方々のウンチクが披露された感もあり。

Prayer

この部分は余り討論が盛り上がりませんでした。
消化未了か・・・。

Scripture

霊性との関わりでの「聖書(を読むこと)」がテーマであったが、「ディスペンセーション主義」の話題に火が点いて、別スレッドでも議論が続いた。

11月の中では一番盛んな、ホットな話題となった感あり。


※どうやら最後の、Love、までリーダーの方の投稿がなされたので(討論はまだ進展していない)、年内には一応の「終了」宣言が出るかもしれません。

2014年11月3日月曜日

FB読書会 2014年10月近況

先日メンバーの方が、どんどんウォールへの投稿が増えて行き、後から(遅れて)読もうとしても簡単じゃない、と言うコメント(ツイート)があった。

その時FB読書会2013年6月近況のような記事があれば助かる、とも書き加えてあった。

なるほどこの記事以降、同種のものは出していない。

と言うことで少し不定期になるかもしれないが、「遅れてくる人のための要約」っぽいものをば・・・。



実は「14章、Reshaping The Church For Mission (1) : Biblical Roots」に入ったのが、7月の頭だから、最近はなかなかペースダウンなのだ。

14章の「イントロ」担当の方が、ほぼ全訳してくれたので、一部を抜粋。
近頃ミッション重視の教会について語られるとき、必然的に、そして当然のことなのだが、そのほとんどが教会生活の実際的側面に関わることになる。たとえば、ミニストリーや教区の再構成や、私たちが召されている使命をよりよく進めるための働き方、などのように。・・・
その代わり、希望を中心に据えたミッション(a hope-shaped mission)に焦点を合わせ直した教会の、聖書的&霊的優先事項と思われる事柄を取り上げる。そうすることで、これからの教会にとって必要不可欠で重要な働きを補強したいと思う。それがないと、教会の働きは単なるプラグマティズム(実用主義)に陥りかねない。
ライトはイエスの復活に基盤を置く『新創造』と言うパラダイムから(つまり従来の「死んだら天国へ行く」式伝道からシフトする)宣教を再考しようとするので、実際論にすぐ入らないで(迂回して)、聖書的基盤を掘り下げる必要を解く。
伝道実践の前に、新しいパラダイムのもとでの宣教のための聖書と神学が必要だと言うこと。

イントロの次は新約聖書のうち、福音書と使徒の働きを取り上げる。
復活は、分水嶺のようなもので、復活がなければ、聖書の物語は未完のイスラエルが希望を混沌とした世界の中でも持ち続けることになる、エマオへの下向の二人が語るように悲劇でしかなかったのである。しかし、復活を認めれば聖書全体を見通せる話になる・・・。
全ての過去の約束が実現する、すなわちダビデの王権が立てられ、イスラエルが最大の流浪から帰還し、マタイ、ルカ、ヨハネでは明らかに示されているが、アブラハムの末によりすべての国民へ の祝福が実現した時点だったのだ。
イエスの復活は、聖書全体のストーリーが「新創造」に転じて行く「発射台」とライトはよく表現する。ここでは「分水嶺」のたとえで、物語が一気に動いて行く「成就と展開」のポイントであると指摘する。 

※福音書と使徒の働きの次に、パウロ書簡があるのだが、これはアクシデントでスキップしてしまった。

暑い夏もようやく終わり、9月に入る頃、「15章 Reshaping the Church for Mission(2): Living the Future」 、最終章に到達した。

15章のイントロは、『イースターを祝う』と言うこと。
 我々はもっとイースターを盛大に祝うために、新しい讃美歌や新しい芸術に取り組む必要があるのではないか。イースターの良い讃美歌は、初代教会時代からあるが、悪い讃美歌は19世紀に入ってからが大半である。新しい方法で、イースターを祝うべきなのではないか。
 ※ライトが言う「悪い讃美歌」とは、キリスト者の希望が死後「あの世」に行くことを歌詞としているもので沢山ある。讃美歌の歌詞については度々話題となった。


次のセクションは、Space, Time, Matter: Creation Redeemed

※「スペース・タイム・マター」とは、ライトが神が造られた「世界」に言及する時、対立する二元論的思惟を意識しながらより「コンクリート」に把握させようと用いられる表現のようだ。
 だとすれば、教会のミッションがまさに空間、時間、物質の世界において、またそれらの世界のために、刷新されるのであれば、その同じ世界を無視したり軽 視したりすることはできないだろう。むしろ、神の国のために、イエスのlordshipのために、そして御霊の力によって、それを自分たちのものとすべき である。そうして初めて、出て行って未来にのために働き、イエスが主であることを宣言し、その力によって変化をもたらすことができるようになるのだ。
とあるが、教会のミッションを(最大限)『文脈化』すると
 (1)「場所・空間」
 (2)「時間」
 (3)「物質」
における「刷新と再生」に関わることになる、との指摘。

このうち、(1)「場所・空間」に関して、"thin places"と呼ばれる場所の例を挙げながら、
老朽した教会が取り壊されたりといったことはあるが、長年祈りと礼拝に用いられてきたことで、聖別された場所というものは確かにあることが、今日多くの人 たちに認められている。そういう場所は、多くの人にとって、自然に祈れる場所、神がもっと自然と身近に感じられる場所になっている。場所や土地を手放して しまう前に、すべての被造物を新しくするという神の約束を思い出し、場所と空間についての適切な神学について、じっくりと考えるべきである。
と、老朽化した教会建物を簡単に解体しようとするような「宣教論」を牽制している。

次の、Resurrection and Mission、と言うセクションでは、最近福音派も「社会変革」や「社会正義」に取り組むようになってきているが、それよりははるかに広い視野で教会の取り組む「回復」のミニストリーの領域とポテンシャルを具体例を挙げながら描こうとしている。

※現在(10月末)はここまで進んでいる。残すところ18ページ。

この期間で、Surprised By Hope、以外で盛り上がった話題は、(Love Japanと言うイベントがあったことと関係するが)ジョン・パイパー牧師のこと。
※今から7年ほど前に「義認」について、ライトとパイパー牧師の間でその理解と位置づけに関し突っ込んだ応酬があり、それぞれが1冊ずつ本を書くまでとなった。


10月は色々あって、「第3回 N.T.ライト・セミナー」があったり、新メンバーが続々出たり、忙しかった。

と言ったところが、FB読書会の近況レポートです。

2014年2月15日土曜日

「死後のいのち」再考

現在、フェイスブック読書会の方は、
Surprised By Hope、の10章に入ったところです。

進行速度は大分落ちました。

この本を紹介する動画は幾つもあると思いますが、今回はカルヴィン大学で収録されたインタヴューを紹介したいと思います。


2013年7月1日月曜日

FB読書会 2013年6月近況

以前(2012年3月~2013年1月)How God Became King、を読んでいた時には小嶋がディスカッションリーダーを一人でやっていた。
その反省もあって現在読んでいるSurprised By Hope、ではボランティアで何人かの人に順番にやってもらっている。

さて、「6月近況」と言っても、ついここ2日間のディスカッションをルポ的に紹介してみよう。
現在、3. Early Christian Hope in Its Historical Setting、のResurrection and Life After Death、のところを読んでいます。

*******************
pp.35〜40の要約
「復活(アナスタシス)」という言葉が、古代地中海世界の人々、特にユダヤ人にとってどういう意味があったのかということが簡潔に述べられています。

異邦人にとっても、ユダヤ人にとっても、「復活」は死後の世界を意味しない、という点をまず押さえる必要があります。

「誰々さんが復活した」というのは「誰々さんが天国に行った」という意味ではない、ということです。古代の人々は、人が死ぬと霊魂のような存在として生き続けると概して信じていたようですが、体から抜け出た霊魂の状態になることを指して、それを「復活」と呼ぶことは決してなかったのだと。
「復活」とは何かしらのphysicality、「からだ」を伴う甦り現象として古代人に理解されていました。

また、「復活」とは「神になること」という意味でもなかった、ということも大切です。徳川家康が東照大権現になる、というような現象をさして「復活」という言葉が用いられることもなかった訳です。ですからイエスが天の国に行って、そこで神になったと信じられたとしても、それを指して「復活」という言葉が使われることも決して無かった筈です。

ユダヤ人は、サドカイ派のような人々を除けば、たいていは体を持った甦りとしての「復活」を信じていました。しかしその復活とは、「世の終わりに皆が一斉に復活する」という集団的復活(復活するのは義人だけの場合と、義人とそれ以外の全ての人を含む場合、というような見解の相違はありましたが)のことでした。誰かが世の終わりの前に、一人だけ復活するなどという期待や思想は、どこを探しても見られませんでした。またイエスも、そのような特殊な復活があると生前教えた形跡もありません。イエスは弟子たちの「復活」についての因習的理解を変革しようとはしていなかったのです。

そういう訳で、イエスが十字架に架かった時に、「イエスは死んでもすぐ復活するから大丈夫だ」などと考えた弟子は誰もいなかったのです。もちろん彼らもイエスの復活そのものを否定した訳では無かったでしょう。しかし、それが起きるのは「世の終わり」、皆が一斉に復活する時であって、三日の後だなどとは誰も考えませんでした。そのため、イエスが十字架で死んだ時、弟子たちの希望(つまり神の王国の実現)はまさに打ち砕かれたのです。もう終わりだと、誰もが理解したことでしょう
 *********************
これに対するOさんのコメント:
読みやすく、分かりやすく解説をいただき、ありがとうございます。
イエスは弟子たちに、三日後によみがえると伝えたと福音書に書いてありますが、文字通り三日とは受け取らなかった、ということですね。
リーダーの回答:
Oさん、マルコ9:9など、たしかにイエスは生前から自分の復活を予告しています。ライトは学者たちの通説に反対し、この予告は後から福音作家が付け足したものではなく、イエス自身が語ったものだと主張しています。
しかしライトはそれを「復活」の予告というよりも、神が自分をVindication(「義認」と訳されることもあります)してくださる、つまり自分に帰せられた汚名を神御自身が振り払って、イエスの正しさを証明して下さる、とイエスが予告したのだと考えているようですね。自分が文字通り「復活」することについては、イエスは明確に説明することなく、謎めいたサジェスチョンを残しただけだったので、弟子たちはそれに気づかなかった、という風に説明されています。
Oさんの感想:
なるほど。そういう理解ですね。この説をまだ全面的に受け入れられるかはわかりませんが、いろいろと考察してみたいです。
ここでTさんが加わる:
Yさん(リーダー)、イエスの弟子たちがイエスの復活預言を聞いて、終わりの日の復活のことを言っていると思ったというのは、納得できます。そのように考えることはあまりなかったので・・・ 
そうすると、三日目とイエス様があえて明言したことに大きな意味があるのですね・・・
Oさん、
このところはⅡマカバイ記7章を読んでみるともっとピンとくると思います。そこには終わりの日の復活の希望のゆえに雄々しく殉教の死を迎える様子が描かれています。(以下略)
Oさんの感想:
Tさん、解説ありがとうございます。ふ〜ん、初めて聞く、新鮮な視点です。よく考えてみます。
ジグゾーパズルが、だんだんと全体像を浮き上がらせつつ、埋まってくるような感じですね。

Ⅱマカバイ記7章を初めて読みました。家族対するすごい残虐な拷問の場面でショックです。
この書は、たぶん当時のユダヤ人のローマ人に対するレジスタンス精神に影響を与えていたということですね。

この後リーダー、Oさん、TさんのⅡマカバイ記7章に始まる「外典」が余り読まれていない現状についての意見交換が続く。そして、
Oさんの感想:
いや〜、なんとも、素晴らしい。こういう背景がわかってくると、預言書とイエスの時代、イエスの生涯とメッセージが、立体的に立ち上がり、繋がってきて、「聖書の世界、読み方はこうだったんだ〜」と見えてきて、ワクワクしてきますね。
これまでの私にとって、預言書、小預言書は、あちこち素晴らしい御言葉が散りばめられているとはいえ、現実の信仰生活にあまり関係ない、あるいは妖しげな終末論に使われる、もやに隠れた遠景でしかなかったです。
 

と言う訳でこの読書会ならでは議論の深まりと、相互啓発が垣間見える面白いディスカッションが継続中。

読者の方、今からでもまだまだ間に合いますよ。ゆっくり読み進めていますから。
あなたもお仲間に入りませんか。 

 
 

2013年5月13日月曜日

FB読書会 2013年5月近況

フェイスブックの読書会の方は
昨日からSurprised By Hopeの第2章、Exploring the Optionsに入りました。

ディスカッションをリードするのは、関西在住のブレザレンのKさん。
度々彼のブログの文章量に圧倒されるのですが、この部分の丁寧な要約と感想をつけてくださいました。

人々の間でどんな天国観があるのか。
ライトはこの節ではマリア・シュライバー(ケネディ家に連なる方)のWhat's Heaven


を取りあげています。

ライトが17ページで引用した部分をKさんが簡単に訳してくれていますのでここに紹介させていただきます。(承諾なしですけど、Kさんよろしく。あっ今承諾得ました。 
 天国は、ふわふわの雲の上にのって話したりすることができる場所で、夜には、宇宙で一番キラキラに光るお星の隣に座ったり、生きている間、いい子ちゃんにしていれば神様が連れて行ってくれるところで、死んだときには、神様が天国から天使を遣わせて、引き上げてくれるとこで、自分に自信をもつことを教えてくれたおばあちゃんは星や神様や、天使たちと一緒にいて、私たちを高いところから見ていてくれるの。 
 そして、おばあちゃんが地上にいなくても、おばあちゃんの霊は、私の中にいるの。
ライトはこう引用した後次のように書いています。
This is more or less what millions of people in the Western world have come to believe, to accept as truth, and to teach to their children. The book was sent me by a friend who works with grieving children and who described this as "one of the worst books for children" and said, "I hope you find this awful book helpful in what not to say"! It is indeed a prime example of that genre. The truth of what the Bible teaches is very, very different at several levels. (P.17-18.)
実際に死の悲しみに遭遇している子どもたちのケアーをする方が、マリア・シュライバーの本をこれほど批判している、ということは、子供だからといってこのような「子供だまし」のような話で終わらせるなどと言うことは失礼だ、とのことですね。

さてこのブログ管理人も関係しているスコット・マクナイト「福音の発見」が5/15発売予定なので、その宣伝も兼ねてマクナイト教授のブログ、ジーザス・クリードで連投されたSurprised By Hopeシリーズのリンクを貼っておきます。

シリーズ1(※コメント・セクションの一番下、jonの感想も読んでみて。) 
シリーズ2(※リンクは今はここでストップ。読書会の読んでいる場所より先に行ってしまうので。)