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2018年8月14日火曜日

Paul within Judaism

「大和郷にある教会」ブログに、「パウロと“ユダヤ教”」と題した記事を書いた。

こちらのブログでは「新約聖書学」「パウロ研究」のトピックとしてもう少し踏み込んだことを書こう。

と言ってもあくまでネットで得られる参考記事などを列挙するだけだが。
それでも「Paul within Judaism」に関心のある方には少しは便利な記事になるのではないかと思って。

(1)ポーラ・フレデリクセン


と先日ツイートしたばかりだ。

彼女が「Bible Odyssey」に「パウロとユダヤ教 (Paul and Judaism)」を書いている。
The point is this: a Law-free Gentile mission gives us no reason in itself to assume that Paul himself was also Law-free. His teaching Gentiles that they did not have to live according to the Law tells us nothing about his own level of observance. And, as we have seen, the Gentile mission was not exactly Law-free either....
But in his own generation—which Paul was convinced was history’s last generation—the Jesus movement was yet one more variety of late Second Temple Judaism.
(2)『ガラテヤ書とキリスト教神学』
Galatians and Christian Theology: Justification, the Gospel, and Ethics in Paul's Letter

 ライトがいるセント・アンドリュース大学の研究会議でガラテヤ書が取り上げられたときの論文集である、 その書評でマーク・ノーベンソンの『パウロのユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)』について以下のようにポイントがまとめられている。
Second, Matthew V. Novenson’s essay centers on the appropriate meaning of Paul’s use of Ιουδαϊσμος in Galatians 1:13-14. Seizing upon the work of Steve Mason (who himself proposed a revision of the term) Novenson concludes that the verbal form ιουδαϊζω, means to ‘act like a Jew’, which was only something that non-Jews could do (Mason’s point). ... But Novenson, while agreeing with Mason concerning the verb ιουδαϊζειν, contends that the noun ιουδαϊσμος is actually something that Jews would doThis certainly accounts for Paul’s use of the noun in Gal.1:13, where Gentiles are not in the context. Paul’s usage also agrees with the use of ιουδαϊσμος in 2 Maccabees, where the term refers to ‘the cause championed by Judah Maccabee’ (32). For Novenson then, the verb ιουδαϊζειν refers to non-Jews who adopt Jewish rituals, whereas the noun ιουδαϊσμος refers to Jews who promote the adoption of Jewish customs and rituals. The important point to note is that not all Jews practice ιουδαϊσμος, as this term refers to a certain cause or political movement that arose in the Maccabean era. A better gloss for ιουδαϊσμος is not ‘Judaism’ but ‘the judaization movement’ (36). Novenson’s observations, along with the many other studies on this issue, will challenge any overly simplistic and monolithic reading of ‘Judaism’ as we understand the term.(色による強調は筆者)
要するにガラテヤ1:13のような箇所では「ユダヤ教」と訳すべきではなく、もっと具体的に「ユダヤ主義運動」のようなニュアンスで捉えるべきとのこと。

(3)『ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)』
Mark D. Nanos and Magnus Zetterholm, eds. Paul within Judaism: Restoring the First-Century Context to the Apostle

これも書評ですが、チャド・ソーンヒルが編著者の視点を以下のようにまとめています。
In other words, Paul was an adherent to Judaism and remained so even after he came to believe that Jesus was the Messiah. Thus, Paul’s endeavor in advancing the “cause of Christ” (Phil 1:13) should be thought of “as a new Jewish “sect” or “coalition” or “reform movement” (10), not as a conversion to a new religion.

(4)リオネル・ウィンザー
も、さきほどの(2)のマーク・ノーベンソン『パウロのユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)』とほぼ同じように理解しています。
In my book, I argue that the rare word Ἰουδαϊσμός–which is often translated “Judaism” in our Bibles (Gal 1:13-14)–doesn’t mean “Judaism” in the modern sense of a system of religious thought. Rather, it should be understood in a vocational sense:

                 ☆ ☆ ☆

以上いくつか「“回心後”もユダヤ教徒として生きたパウロ(Paul within Judaism)」と云う視点を紹介してきましたが、そんな風に考えてみるとやはり翻訳と言うのはニュアンスに左右されるものだなと思います。

最後に《イスラエル・バイブル・センター》のリゾーキン-アイゼンバーグ博士(Dr. Lizorkin-Eyzenberg)の『パウロは回心したのかそれとも召命を受けたのか(Was Paul Converted or Called?)』を紹介してみたいと思います。
博士の見方は、パウロはユダヤ教からキリスト教に回心したのではなく、ダマスコ途上のイェシュアとの出会いの後、パリサイ派ユダヤ人として「アポカリプティックな体験をしたキリストの弟子」となった、というものです。
As you can surely anticipate, I will seek to convince you that Paul (Paulos) was not converted from Judaism to Christianity. Instead, Paulos as he called himself in his own surviving writings, was called to the service of Israel’s God as were many other Israelite prophets. Before he personally encountered Yeshua/Jesus on road to Damascus, he was a pharisaic Jew. After that earth-shaking encounter, however, something dramatic had happened. He became an apocalyptic and Christ-following pharisaic Jew.

「一世紀の文脈では『ユダヤ教』と『キリスト教』というような宗教的区分はまだなかった」、という視点からですが問題となっている「ユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)」については以下のように訳すのがいいとしています。
For you have heard of my former manner of life in Judaism, how I used to persecute the ekklesia[6] of God beyond measure and tried to destroy it; and I was advancing in Judaism beyond many of my contemporaries among my countrymen, being more extremely zealous for my ancestral traditions. (Gal. 1:13-14 NASB 強調はリゾーキン-アイゼンバーグ博士)
この訳では今一つはっきりしませんが、要するにパウロが“以前”のこととして振り返っているのは(キリスト教徒になる前)「ユダヤ教徒であった(within Judaism)とき」というようなニュアンスではなく、当時「ユダヤ教徒であることを前面に出すような(過激な)行動を取っていたとき」というニュアンスだ、というもののようです。
要するに以前も以後も「ユダヤ教徒」であることに変わりはなく、変わったのはその生き方なのだ、ということです。
In the above quoted text, the choices are not between Judaism and Christianity, i.e. the former way of Judaism vs. the newer way of Christianity, but it is rather a comparison between Paul’s former ways and his newfound ways, i.e. Christ-centered and apocalyptic Judaism.[7]

こうしてみるとなかなか「宗教」のカテゴリーでパウロ自身のアイデンティティー理解がどうであったかを論ずるのはなかなか難しい感じがします。
やはりポイントはパウロにとって「キリストはどういうお方であったか」とキリストのアイデンティティーを中心に持ってくる必要があるのではないかと思いました。


なおこの辺の複雑な事情を考究した本として、デーヴィッド・ルドルフ『ユダヤ人に対してはユダヤ人として(A Jew to the Jews)』を「良さそうな本だなー」として言及しておきます。

[2018/8/15 追記]

このブログでは既にお馴染みのアンドリュー・ペリマンが、(3)『ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)』
Mark D. Nanos and Magnus Zetterholm, eds. Paul within Judaism: Restoring the First-Century Context to the Apostle
の出版を受けて、自らの「(新約聖書の)歴史的ナラティブ解釈枠」の視点からは「ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)」はどのように受け止められるか、と云うレスポンスを記事にしています。

2018年2月3日土曜日

聖書ストーリーの神学的解釈とライト誤読?

たまたまツイッターTLに流れてきた「ブログ記事」を取り上げただけなので、大した意味はないですが・・・。

暇の人のための「ライト誤読」を考えるブログ記事・入門編

とでも題してブログ記事にしてみようかと思い立ちました。
というわけで「たまたま時間に余裕ある方」にでも読んでもらえれば幸いです。
聖書ストーリーの全体(overarching story)での「アダム(人類)」の役割をどう見るか、はライトの神学的解釈でも重要なものだと思います。
特にその「コスモス管理」の役割は「贖い」の計画の中心を占めるものと思います。
この記事はライトの神学的解釈を(ある意味見事に)誤読しているように思うのです。
「アダム(人類)」と「コスモス」を切り分け、前者よりも後者を大事にするライト!!、といったような批判を展開しています。

単純に指摘できるポイントの一つは、「(神学的)視角の違い」を殆ど意識できてない、ということがあるのではないかと思います。

かなり初歩的な「誤読」と思いますが、聖書の神学的解釈において「(神学的)視角の違い」の持つ意味・重要性を考察する上では(反面教師的には)意外に「良い」一例になるのではないかと思います。

(たまたま最近暇のある)皆さんはこの記事をどう読まれるでしょうか。

※この方は「リフォームド」の方のようですが、「リフォームド」の神学的視角を揶揄する意図は毛頭ありません。最近元フラー神学校学長リチャード・マウの本を読みながら、あらためてリフォームドの「世界観」神学の貢献を思っているところです。(ライトもマッギル時代その影響を少なからず受けたようですし・・・。但しリフォームドのライトシンパの方々が思うほどライト神学はリフォームドではないと思います。ライトにとってやはり「一世紀ユダヤ教の世界観」研究が何よりも基盤になっていると思うので。)

2017年8月8日火曜日

Salvation By Allegiance Alone 7

さて、『Salvation By Allegiance Alone』という一冊の本についての様々な紹介記事を見てきました。

それだけこの本が、「福音・救い・信仰・キリスト者生活」をトータルで再確認する、特に「王なるキリストを中心に」再構築する必要を訴える本になっているので注目を集めたのではないかと思います。

今回この「7」でシリーズを終了するにあたって、もし一番簡単な紹介文、最も導入として的を射ている「帯文」は・・・(まだ本書そのものを読んでいないで言うのも何ですが)これではないでしょうか。


"Matthew Bates argues that faith or believing is not mere assent, not easy believism, but covenantal loyalty to the God who saves his people through the Lord Jesus Christ. Bates forces us to rethink the meaning of faith, the gospel, and works with a view to demonstrating their significance for true Christian discipleship. This will be a controversial book, but perhaps it is the controversy we need!"
Michael F. Bird, lecturer in theology, Ridley College, Melbourne, Australia
 このバードの表現に即して言えば、
(1)easy believism
(2)Christian discipleship
(3)covenantal loyalty
あたりが特に目に付きます。

マクナイトの紹介でも何度か出てきたと思いますが、ボンヘッファーが強調した「弟子(付き従う)」としての能動的信仰面が、「救いの恵みを受ける(「安価な恵み」の問題)」という受動的信仰ではなかなか伴わない、ということがこの本の主張の背景にあると思います。

また宗教改革来の課題である(信仰に対して)「行い」をどうするか、倫理とか「キリスト者生活」の問題が、(組織)神学的には「聖化」や「キリスト教倫理」という形では取り組まれてきましたが、やはり「(個々人の)救いの完成」というフレームを越えては解決できていないのではないか、ということがあると思います。

一つの《中間考察》として

前回6でも言いましたが、このシリーズは「大和郷にある教会」ブログの『救いについての「教理」』
と並行して進めてきました。

いまこちらのシリーズを終えるにあたり思うことを一つ二つ挙げておきたいと思います。


(1)(救いの)共同体面をどのように回復するか

これだけ注目を集める『Salvation By Allegiance Alone』が様々に指摘している「救い」をめぐる問題群は、(宗教改革後の)プロテスタント諸教派共通の問題となってきたように思います。

簡単に言えば「個人的な視点」がかなり強くなったわけです。

それは「制度的な教会」、つまりカトリック教会への様々な過剰反応として現れてきた面を含むと思います。(たとえばその一つは「サクラメント」と「ヒエラルキー的職制」の問題がダイレクトに繋がって見えるということとか・・・。)

いま宗教改革の伝統に属する教会の「教えと実践」でかなり基本的なところで見直しが起こっていることの背景に考えられるのは・・・やはり一つの大きな要因は「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)」ではないかと思います。

たくさんの書評を紹介してきましたが、ある意味指摘されている問題群は「キリスト教文明」に典型的に起こりそうな問題だと思います。

簡単に言えば「キリスト教が文化」な環境、「信仰」や「救い」に中途半端に接することが多い環境です。

ノミナル(名ばかり)・クリスチャン、(幼児)洗礼は受けたが・・・その後はさっぱり、というクリスチャン文化です。

キリスト教がマイノリティーだったり、キリスト教に対して敵対的だったりする文化圏では、信仰にしても救いにしても中途半端に過ごすことはそれなりに難しい。やはり覚悟がいります。

(しかし「キリスト教がマイノリティー」だからといって「教会文化」がない、育たないと言うことではありません。)

そういう意味でも、バードが(アリージャンスと同意に?)使った「covenantal loyalty」はなかなか示唆的です。

個人主義的視点から見た場合、「救い」の「信仰」に「契約共同体」的側面があることを自覚するのはなかなか難しい。

「洗礼式」の式文では「(教会)入会式」的な側面がありますが、リバイバリズムの背景が強い教会では「回心」の後に 「洗礼を受けて・教会に入る」意識がどうしても強くなりがちです。
(「回心」と「洗礼」とは教会共同体を中心にしてなるべく分離しない、時間的にも重なるような枠組みが必要に思います。)

(2) 「日本」の文脈との連絡の仕方

第1点で指摘した「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」がそれなりに正しいとすると・・・いわゆる日本における「欧米の最新神学思潮・流行導入傾向」 ということで二重に注意が必要になるかもしれません。

日本語文化圏というのは「近代」国家ということでいえば「日本語の代わりにどれか近代諸国家の言語を第一言語として国家制度を整える」という国家政策を取らずにきた結果である、と言えます。(この現象の文化面からの重層的分析として水村美苗の『日本語が亡びるとき』があります。この記事この記事 など。)

明治以来、一生懸命「知識人」たちが最新科学技術及び文化情報を「翻訳」して国民全体の教育レベルを維持してきたわけです。

残念ながら福音派「神学」では最近この志向にブレーキをかける傾向があるみたいですが・・・。

さて、『Salvation By Allegiance Alone』がNPP等のアカデミックな議論の延長上、つまり「聖書学」からの「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への波及、という文脈で捉えた場合、「日本」の文脈との連絡の仕方は二つのフロントで評価・導入するという問題になると思います。

① すなわち「聖書学」での議論の積み上げへの評価が必要と言うこと。

このことは「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への影響とはある程度切り離した形で必要だと思います。
※このシリーズでは紹介しませんでしたが、ニジェイ・グプタが「この本は内容はわざわざ議論される必要がないほど(聖書学的見地からは)すでに前提的なものである・・・」みたいな嘆きをその紹介記事で添えています。
現状は「聖書学」の評価を独立してするほどまだ(欧米の福音主義でも)基盤が強くないような印象です。そのため予防・防衛的に悪影響のありそうな思潮・潮流に限定して 水際作戦を展開するメンタリティが先行気味・・・などと言うことも散見されるのでしょう。

もちろん「トレンド・流行」にだけ敏感になるのも問題ですが、日本が「島国鎖国的メンタリティ」を引きずる伝統があるとすると、世界の(神学的)動向に絶えず注意を向けていることには積極的であっていいと思います。

② もう一つのフロントである「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」のフロントですが、これに関してはむしろ「教派神学」的伝統にしても、「福音主義」という今日(20世紀)的神学運動にしても、日本ではほぼ受動的であったし、今後も同様に推移しそうな感じです。

だとすると、逆に言えば、「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」に対しては(皮肉な言い方になりますが)ある面余裕をもって対応できるのではないか・・・。

「キリスト教がメジャーからマイナーに転落する」経験は日本においては得られそうにありませんが、「キリスト教がマイナー」な環境でどう「教えと実践」を展開するかという問題に対してはそれなりの備えがあると思います。

今回のシリーズで紹介した中では、アンドリュー・ペリマンが最も自覚的にこの問題を捉えているので、この面では一番参考になると思います。

ただしペリマンの「キリスト教の福音の地平線」設定は慣れないとかなりラディカルに響くと思いますが・・・。

それでは7回も連載したシリーズを(めでたく)終了いたします。



2016年7月21日木曜日

「悔改め」と「信仰」再考

新約聖書において「信仰」の意味はどういうものか。

プロテスタントの伝統にいると、「信仰」は強調されるが、その意味はいかにと立ち止まって考えることは余りなかったように思う。

もちろん宗教改革原則の「信仰義認」での意味と、福音派における「回心主義」の意味とを合わせて「伝統」としてきたので、その文脈における意味で由としてきた経緯があると思う。

しかしここ30-40年の「『パウロ研究』における新しい視点(New perspective on Paul)」とも連動して「ピスティス・クリストゥー」がかなり議論に上るようになり、狭義の「信仰義認」だけでなく、そもそも「福音を信じる」とは何か、が問われるようになってきた。

しかし、その前に「悔改め」にも言及しなければならない。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
(マルコ1:14-15、新共同訳)
新約聖書、一世紀の文脈では「悔改め」と「信仰」は「神の国の到来という終末的事態」に呼応するものとして現れた。

問題は、この「一世紀的ユダヤ・キリスト教」の文脈で「悔改め」と「信仰」議論されるときに緊密に参照される「終末(エスカトン)」「黙示(アポカリプティック)」の及ぼす意味合いが、それから時と文化・言語を隔てた今日のキリスト者が「イエス・キリスト」や「福音」や「義認」や「信仰」について語るときにどうなっているか、ということである。

あるいは、それらはどこへ行ってしまったのか、と問い直すことも出来るだろう。

おそらくこの問題を要約するフレーズとして最も流通しているのが、「『既に(already)』と『未だ(not yet)』であり、これら二つの緊張関係として議論されるやり方であろう。

この「時の間にある」問題を、キリスト教信仰の歴史的課題として自覚し、問題にしている場合、二千年の教会史の中で「幾つかの対応パターン」があった。(各千年期説のバリエーションのことではない。)

 ※しかし以上はイントロなので、ここではそのことを論じず指摘するだけに留める。


(1)「悔改め」


新約聖書での重要なテーマである『悔改め』が、なぜ神学的に議論されることが少ないのか、とブロガーで新約聖書学博士のクリス・ティリングが問題提起している。

そして、共感を込めてドイツの学者らしい、トマス・ゼーディングを引用(訳)している。
The coming of the kingdom doesn't depend on repentance. It's the other way around: The necessity and possibility of the repentance and faith depends on the nearness of the kingdom.
「神の国」の到来は悔改めが招き寄せるのではない。実際はその逆だ。悔改めと信仰が必要になりそして可能になるのはその神の国が近づいていることによるのだ。

この「一世紀的ユダヤ・キリスト教」の文脈で重要だと思われる「悔改め」のポイントは、「アブラハム契約」の祝福を受け継ぐべき「割礼を受けた契約の民」が「悔改めのバプテスマ」の必要をヨハネから訴えられていることである。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。(マルコ3:7-10、新共同訳)
ここには「神の国の到来」を間近にした時点での「契約の更新」の暗示があり、その時に通る「神の怒りのさばき」と(恐らく)契約律法による義の問題とが絡んでいるのを見ることが出来るのではないか。


(2)(福音に対する)信仰

個人的には、「福音とは何か」ということでスコット・マクナイトの『福音の再発見』をかなり手広く紹介してきたが、改めて新約聖書の歴史的文脈により近く接近した「信仰」のニュアンスに分け入る時が来ているのかな、と思っている。(それに関してはまた書くつもり。)

福音のコンテントは何か、「救いの方法」か、それとも「主イエス・キリスト」か。

当然普通のキリスト者はこれら二つのことを別のこととは思わず、単にそのときの強調の違いであり、どちらにしても実質上は両方を含む、と考えて「問題化」しないで済ますのではないか。

しかし「強調の違い」は「パースペクティブの違い」であり、信仰者生活に「実質上の差異を生じさせる」としてマクナイトは問題化したわけであった。

さて「信仰」のニュアンスの違いとして考える際に、ギリシャ語ピスティスを「信仰(faith)」「忠実(faithfulness)」「忠誠(loyalty)」として区別しながら問題に迫ろうとしているらしい著書二つを、先輩ブロガーでもあり、新約聖書学者でもあるマイケル・バードが Pistis as Faith or Faithfulness or even Loyalty?  で紹介している。


以上、(1)も(2)も基本的用語である「信仰」「福音」の整理に有益のようであるのでお勧めしておこうと思う。

2015年7月15日水曜日

NTW伝記的断片 2014/10/14

かなり時が経ってしまいましたが、ライト教授(英語だとプロフ・ライトですね。最近いろいろ呼び名を試していますが今回はこれで。)を伝記的に綴ったり、ライト教授の横顔が知れる文章に触れるとメモしています。

以下のリンクにある文章はエルスペス・バーネットさんの「信仰と神学的研鑽」についての回顧になっています。

現在は表示されていないようですが、小嶋がメモした時点(記事がアップされた数日後以内)にあった読者のコメントの一つに「ケンブリッジ時代のライト教授」が登場します。

そう言うわけで、現在表示されていないものを引用するのは技術的に多少問題あるかと思いますが、(架空ではないであろう)一つのエピソードとして読んでいただければ、と思います。

Will Studying Theology Undermine My Faith?


Because God is gracious, I BECAME evangelical by studying Theology at Cambridge 1978-81! Tutors included "Honest to God" JAT Robinson & "Taking Leave of God" Don Cupitt. In my first year, I did a paper on the history of biblical criticism as it related to the life of Jesus. This taught me the simple truth that the results you get at the end tend to depend on the presuppositions you put in at the beginning, e.g. assume that the miraculous doesn't happen, discount or explain away all texts in which miracles happen, then conclude that, surprise, surprise, miracles don't happen!

The radically critical mindset that Elspeth describes certainly did cause damage and I'm still on the journey of dealing with it. However, I also had the privilege of having Tom Wright as New Testament tutor for 2 years: it was so helpful to be taught by someone much cleverer than I am who had a high view of Scripture and who continues to demonstrate that you don't need to leave your brains outside when you're an evangelical. In fact, most of the liberal views I struggled with as a student, he has subsequently demolished by better arguments.

I studied later at All Nations Christian College, where we were given tools for working in a cross-cultural situation, exactly what one needs for handling Scripture accurately and not something that seemed to be a priority for many in the Divinity Faculty at Cambridge. There, I perhaps harshly concluded, people were out to show how clever they were, rather than concerned to submit their undoubtedly gifted minds to God's revelation in its original context. Clearly this is a broad generalisation, but contains at least a grain of truth.

One final comment: we are so fortunate now to have a depth and breadth of evangelical scholarship that simply was not available when I was a student. We can be extremely grateful to our gracious God for it!

2015年7月11日土曜日

PFGへのロードマップ

2013年に出版された、ライトのPaul and the Faithfulness of God、はその余りのボリューム(約1700ページ)ゆえ、二分冊となった。

既に何本かブログ等に発表された書評を紹介した。

専門の学者たちも書評を書くために結構きつい読書をしたと思うが、我ら常人ではなかなか読み通すのが大変。

そこでロードマップを提供します、ということになった。

Derek Vreeland
さんは牧師さんのようだが、このたび

Through the Eyes of N.T. Wright: A Reader’s Guide to Paul and the Faithfulness of God (Doctrina Press 2015)

『N.T.ライトの眼:読者のためのPFGガイド』

という本を出しました。

100ページほどらしいですが、中身はブログで発表した記事をまとめたもののようです。

今回紹介するのは、このブログ記事の方です。

これを読んで本を購入するかどうかを決めてもいいのではないかと思って。

N.T. Wright and the Faithfulness of Paul: 
Part 1: Charting the Course 
Part 2: Birds in Paul's Head
Part 3: Paul's Worldview
Part 4: Monotheism Redifined in Light of Jesus and the Spirit
Part 5: Election, Righteousness, and Faithfulness
Part 6: Election, the Spirit, and Justification
Part 7: Eschatology and Ethics
Part 8: Eschatology and Romans 9-11
Part 9: Paul in History

となっています。

ともあれご覧になってはいかがでしょうか。

2015年3月6日金曜日

チャールズ・E・B・クランフィールド(1915-2015)

新約聖書学、特にロマ書注解で貢献した英国の学者、チャールズ・E・B・クランフィールドが先日天に召された。

ビブリオブログスフィアーではもう幾つか「追悼記事(オビチュアリー)」が出ているが(※記事の最後に幾つかリンクを貼っておいた)、ライト読書会ブログとしてはライト自身の記事を紹介することにしよう。

読める人はリンクを辿って読んで頂きたいが、英語が大変な人のために3箇所だけ選んで引用してみた。

(1)新約聖書(釈義)学の偉大な「模範」としてクランフィールドを称えている箇所(周到に釈義されたものに対抗するような説を立てるには、「早朝からネジリ鉢巻」で格闘する覚悟が必要・・・とユーモアを効かせている)
The remarkable thing about this commentary is that, even though I now disagree with Cranfield on several of the major interpretative issues, his steady and persistent laying out and weighing up of all the exegetical options remains a model of ‘how to do it’. You always know, with Cranfield, that if you are going to take a different line you will need to get up very early in the morning and hold your nerve through some highly complex discussions of texts and theological issues.
(2)「パウロにおける律法」の扱いでライトが苦悩している時、大勢に反してクランフィールドが出した見方がライトが正しいと思っていたものだったことに感動して、「思わず跪づいて神に感謝の祈りをささげた」と言うエピソードを紹介している箇所。
Though I do not think Paul’s discussion of the Jewish Law was primarily about moral restraint, this easy-going rejection of the law, and a facile opposition between ‘law’ and ‘gospel’, was the order of the day, and I was having difficulty combatting it. At that point I came across Cranfield’s essay on ‘Paul and the Law’, published earlier, and then subsequently incorporated into the long essay on Pauline theology at the end of the second volume of the Romans commentary. I think that was the first time I ever spontaneously knelt down and thanked God for an academic article. It said what needed to be said at a time when nobody else was saying it.
(3)ある日クランフィールド家でお茶をいただいた時、クランフィールドとC・K・バレット(2011年没)にちょうど挟まれた席に座った時のことを、「象と犀の間」と面白く表現している箇所。
On one memorable afternoon, during a conference in Durham, I went to a meeting in the Cranfield home, and found myself sipping tea between the great man and C. K. Barrett. I felt like a small puppy sitting between an elephant and a rhinoceros. These were men who, for all their differences, showed the next generation what it looked like to hold together massive scholarship and deep personal faith and commitment. 

その他の記事のリンク
(1)ニジェイ・グプタ
(2)マイケル・バード
(3)ベン・ブラックウェル


2014年12月12日金曜日

パウロ研究動向にシフト?

『福音の再発見』の著者で、「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ」の名付け親、ジェームズ・ダン教授(英国ダーラム大学)のもとで博士号を取得したスコット・マクナイト氏が、自身の「ジーザス・クリード」ブログで、
The Conversation Shifts
と題する記事を投稿した。

簡単に紹介すると、
(1)過去「20年以上」にわたってパウロ研究をリードしてきた「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対オールド・パースペクティブ」(略して、NPP vs. OP) 論争がほぼ収束し、それに替わって
(2)「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対アポカリプティック・パウロ」(略して、NPP vs. AP)論争が支配的になってきた。
つまり、パウロ研究での論争が、 NPP vs. OP、から、NPP vs. APにシフトしつつある、と言う観測である。

(1)についてのポイントは、既にこの記事にも少し書いておいたが、英語圏のアカデミックな世界では「収束」したと言っても、その外、特に日本では「まだこれから」観がある。

マクナイトが次のようにNPPの視点の意義を要約しているが、コンサイスでいいかな、と思う。
With the growing conviction that Judaism was a covenant and election based religion (Sanders, Wright) there came a radical change in how Paul’s opponents were understood and therefore what Paul was actually teaching. He was, to use the words of Dunn, opposing “boundary markers” more than self-justification.
「ユダヤ教は契約と選びに基づく宗教である」 と言う認識は、NPPの立場を取るマクナイトにとって、「アポカリプティック・パウロ」に対する疑問点のベースになるものだろう。
Concerns? Plenty. Where’s Israel, where’s the Story of Israel, where’s serious engagement with Jewish apocalypses (where one learns that many today do not think there is even such a thing as an apocalyptic worldview so much at work in the work of these apocalyptic Pauline specialists), where’s election, where’s the church, where’s the very problem that drove Paul — the vexed relation of Jews and Gentiles in the one people of God?
いずれにしても、ある種「論争」的なものが付きまとうのが「学会」であるとすれば、部外者としてはせめてその論争が鋭く対立することによって見えてくるものを期待するのもよしかなと思うが・・・。

2014年7月10日木曜日

アラン・バデューのインパクト

大和郷にある教会
ブログで紹介したこともある、
ベン・マイヤースのFaith and Theologyで、
Alain BadiouSaint Paul
が紹介されていたのが2007年8月。 
実に7年も前だ。

当時の彼はアラン・バデューの「発見」を興奮しながら何回かその後のブログで投稿している。
ベンは「聖パウロ」から以下を引用している。
“With Paul, we notice a complete absence of the theme of mediation. Christ is not a mediation; he is not that through which we know God. Jesus Christ is the pure event, and as such is not a function, even were it to be a function of knowledge, or revelation…. Christ is a coming; he is what interrupts the previous regime of discourses. Christ is, in himself and for himself, what happens to us. And what is it that happens to us thus? We are relieved of the law. But the idea of mediation remains legal…. [This idea is] a muted negation of evental radicality” (pp. 48-49).
Theology with Alain Badiouから。

2014年4月14日月曜日

『大衆』向けPFG書評

 これは余りいい書評じゃないが(アンダーステートメント)、ライトのポピュラリティーが拡大すればするほど、こう言うことは当然出てくるし、ある意味異なる読者層間での批評空間が必要になることを示唆するものだろう。

 とても一つの批評空間で一つの作品(ここで言えばPFG)を論評することは難しい。
 その好例として、フランク・ヴァィオラの、N.T. Wright: Paul and the Faithfulness of God – A Review December 1, 2013(リンク)を紹介する。

 誰でも自分の獲得している知見や解釈枠組みの範囲内で収まるように「楽に読みたい」ものである。

 と言う命題を立ててから考えてみよう。
 フランクは、「聖書のグランド・ナレーティブ」と言う点で、自分のものと、ライトとのものが、簡単に比較できるもののように思っているようだ。
N.T. Wright holds to a grand narrative of Scripture (as do I, as set forth in From Eternity to Here).
特にフランクは、「聖書のグランド・ナレーティブ」における『永遠の目的』と言う部分にこだわりがあるようだ。
 そのためフランクの書評は殆んどこの『永遠の目的』規準から、ライトがどこまで書けているか、或いは書けていないか、と言う叙述に堕してしまっている。
 何しろD・L・ムーディーやウォッチマン・ニーが同一線上で議論されるという恐ろしい展開になっているが、本人はあまりその辺のことに「違和感」や、ある種の「認知的不協和」を感じていないみたいである。(だからこんな書評が架けるのだろうが・・・。)

 実はフランクは書評でこのような引用をしている。
On Wright’s scheme, one critical reviewer remarked, “Wright seeks a macro-conceptual/theological narrative through which to read the entire NT. To my mind the risks in this include imposing such a narrative monolithically upon texts.”
しかしフランクは言及箇所を示さない。
 多分彼のブログの読者には「難しい」とでも思ったのだろうか。
 
 しかしグーグル先生(と言う表現は私のものではないが)にかかれば出典はほぼ判明する。
 この記事だ。
 悪いことに(或いは一種の隠蔽か)、この段階ではフルタド教授はPFGを受け取っただけで、PFGのデカさに言及しているだけで、書評はしていない!
 しかもこの引用は記事本文ではなく、コメントセクションでのものである。
I’d say that one difference between Wright and me is that he seeks a macro-conceptual/theological narrative through which to read the entire NT.... imposing such a narrative monolithically upon texts.

最後の部分は文法的に不備で言い足りていない。

 そんな書評前の少し不用意な発言を引用してフランクは次のように続ける。
This is true. The fact that Wright’s grand narrative is somewhat different from mine is an example of this.
書評もしていない前の(多分に先入観的判断の可能性もある)言葉を捉えて、「本当」も何もないだろう。「ライトと自分のとは違う」も何もあったもんじゃない、と感じても致し方なかろう。

 現在PFGに関してはラリー・フルタドの連載記事書評を紹介しているが、フランクの書評は全然次元の違うものであることは一読してすぐ分かるだろう。

 フルタドの書評は、ほぼ同じ学術領域で研究して来た者の「批判的、エンゲージングな書評」であり、他方フランクはフルタドと肩を並べるかのような読解をしたような印象を与えるが、要するに『大衆』向けの言っちゃ悪いがウエメセ的読書指導に近い。

 しかし既に指摘したようにフランク本人がPFGをどこまで理解できているか甚だ疑わしいので、一応大雑把なアウトライン的要点ポイントを提示されても、それがフランクのうちでどう解釈されたのかは、「フランクの解釈枠組み」に引き付けて読まれたであろうこと以外は、つまりPFGに即した批判的な読みは殆んど分からない、と言って良いのではないかと思う。
It’s a work for the academic community, primarily. However, readers of dense material can profit from it. Those who live on a steady diet of Max Lucado, Francine Rivers, and Beth Moore can use the book as a door stop or a nice fire-starter.
マックス・ルケードという日本でも知られた「大衆的作家」の名を挙げているが、そんな簡単に「有用・有益」になるなどと言えたものやら・・・。
 誰でも自分の獲得している知見や解釈枠組みの範囲内で収まるように「楽に読みたい」ものである。
と言う命題に戻ろう。読む価値のある本とは「自分が住み慣れた理解」をチャレンジするような本であり、じっくり読むことによって次第に自分の「意味地平」と著者の「意味地平」との間にある壁に気付き、それと格闘することによって「新たな意味の地平」が築かれるような本であろう。

 簡単に自分の懐に収まるような本など、大した本でないか、(フランクとPFGにおいては)殆んど読めていないか、と言うことになるだろう。

 コメンターの一人が「critical realism」について質問しているが(ベン・マイヤーと宗教社会学者のクリスチャン・スミスとの相違について)、恐らくフランクは「面倒臭いから説明を省く」のではなく、もっと単純に「分からない」のであろう。

 もし分かっていたら、つまり「キリスト教起源」シリーズの方法論的意図や意義を理解していたら、こんな書評は書かないと言うことだ。

 以上依然としてPFGを手にとって読んでいない、その意味ではフランクのフルタド引用の仕方と同罪の、小嶋の「偉そうな」解説でした。

 

2014年4月7日月曜日

フルタドPFG書評3

 ラリー・フルタド教授(エジンバラ大)のブログで連載されている、ライトのPFG書評紹介の続きです。

 さて今ライトの聖ミレタス大学でのレクチャーを聴きながら書いているので、集中力が分散していますので、支離滅裂なところが出てくるかもしれませんが、とにかくフルタド教授のブログ記事を読んで頂ければ、と思います。

 今回のフルタド教授の疑問は「イスラエル民族と教会(イエスをメシアと信じた者たちの共同体)の関係」についてです。
That is, ironically, in Paul’s view it was the appearance of Jesus and the preaching of the gospel that produced any failure on the part of Israel.  The failure was specifically to refuse to acknowledge Jesus as God’s new eschatological revelation, and in this way their “zeal for God” is “not according to knowledge” (Rom. 10:2).  So, I don’t see anything in Paul that supports Wright’s grand narrative of the national failure of Israel that Wright posits.  And that means that I see no basis in Paul for Wright’s notion that Jesus assumed the role and responsibility of Israel.
と論難しているように、フルタド教授は、ライトのグランド・ナレーティブの「イエスが神の民としての使命を失敗したイスラエルの役割と責任を一人で負った」、と言う部分を俎上に挙げ、そのような理解はパウロ書簡(特にロマ書)には見当たらない、と主張しています。

 これは釈義とは別な神学議論で言うと、「教会によって民族的イスラエルの役割は取って替わられた(だからイスラエル民族の歴史における宗教的意味は最早なくなった)」と言う解釈(スーパーセセッショニズム)に関わってくるものです。

 フルタド教授は「新約」後も、イスラエルとの契約はなくならず、「二つの契約」は並行して継続される、と言う観方に否定的な点ではライトと同じですが、民族的イスラエルの意義が全然なくなったわけではない、と言う点でライトのロマ書9-11章解釈をチャレンジします。

 フルタド教授はライトの解釈(イスラエルの役割がイエス一人に集中して代理される)がロマ書2章25-29節の解釈から大きく影響されたものではないか、と疑問を投げかけています。
    It’s clear that for Wright his reading of Romans 2:25-29 is crucial to this notion that the oneness of the people of God cannot accommodate a continuing ethnic entity of “Israel”.
イエス・キリストによって実現した「アブラハムの家族」が一つである以上、イスラエルは教会と民族的イスラエルに二分されない、と言うことでしょうね。

 フルタド教授は、民族的イスラエルは教会と並存しながら依然として約束の実現を待っている、と言うのがパウロの観方だ、とロマ書解釈でライトに対抗します。
To be sure, their respective identities were to have no negative impact upon accepting one another, for they were all “one in Christ Jesus” (Gal. 3:28).  But along with that oneness there remained (for Paul) the significance of “Israel” as fellow Jews, who were (as he saw it) heirs of divine promises (Rom 9:4-5).  Although at present, most of his fellow Jews were “enemies” (so far as concerns the gospel), they were, nevertheless, “beloved” by God, whose gifts and calling were irrevocable (11:28-29).

 残念ながら小嶋はまだPFGを持っていないので、フルタド教授の提出している疑問がPFGにおけるライトを正確に解釈したものかどうか判定できません。

 しかし聖書の引用箇所だけで言うと、「イスラエルの不信仰=失敗は、イエスの出現と福音宣教の結果」であって、イスラエルの失敗がメシア・イエスを生じさせたのではない、と言うポイントはどうも「ライトのグランド・ナレーティブ」の読み方を時間軸と逆行して読んでいるように思うのです。

 あるいはフルタド教授は(ライトの解釈に対抗するために)ロマ書11章の解釈からスタートしてパウロのナレーティブを構築しようとしているのではないか、とも思えます。


 既にお持ちの方はどんな感想をお持ちになるでしょうか。

 では連載はまだ続いているようなので、次回に。

  

2014年4月5日土曜日

最近の日本語ブログ圏における「ライト」に関する話題

 ここ1-2年でN・T・ライトが話題にされることが増えてきたように感じる。

 少しずつ(もともとライトを読んでいた方々が)それをブログなどで出すようになってきたのだろうか。

 恐らくライトについて一番早くにブログで取り上げていたのは「のらくら者の日記」ではないかと思うが、先ずは最近の記事を紹介しておこう。
「欧米では、仮説を打ち立てる学者の方が尊敬される」(和田秀樹氏)。確かにそうだと思う。だからN. T. ライトも尊敬されるのだろう。ペテンでないとの確信があるならば、小保方さんも圧力に屈せず、論文取り下げは最後で最後の決断とした方が良い。

「ポストモダンはモダンの否定ではなく、その必然的な帰結である」との池田信夫氏の洞察はそのとおり。

そうしてみると、神学の世界も同様だ。神学論文の大半は「研究発表」ではあっても「論文」ではない。皮肉なことに、今日の神学界で「論文」を書いているのは聖書学者だけ、それも N. T. ライトだけかもしれない。(リンク
本当はもっと解説していただけるといいのだが本業がお忙しく、スパッと切り口だけ提供している。
まっそれだけでも面白いのだが。

 ライトの「キリスト教起源」シリーズ(現在までに4巻刊行、NTPG, JVG, RSG, PFG)の重要性を評価する「のらくら者の日記」さんがいる一方で、ライトの著作のうち「より一般的」なものを評価している「どこかに泉が湧くように」さんがいる。
  明日からはマルコによる福音書の学びが始まります。私は、トム・ライト(Tom Wright)の MARK for EVERYONE(SPCK/WJK)を、個人的なガイドにするつもりです。新約聖書の全巻が完結しているライトの ……for EVERYONE シリーズは、「万人のための」とうたわれているように、専門的な解説を避け、読みやすさが心がけられています。ただ、ウィリアム・バークレーの建徳的なシリーズのように、説教者にすぐに役立つといった性格のものではありません。
 
 時にはライトの解釈を理解するためには、彼の聖書全体の理解や黙示的な御言葉の読み方を知る必要も感じることもあります。私自身は、こういう意味だろうと納得していた御言葉が、思いがけない光に照らされて——ライトの解釈を鵜呑みにするかどうかは別にして——とても考えさせられ、時にはまったく違った御言葉の理解に導かれることもあります。

 最近、必要があって、ルカによる福音書を調べる機会がありました。何冊かの詳しい注解書から学ぶこともありましたが、最も目を開かれ、今もそのことを考えさせられているのは、ライトの LUKE for EVERYONE の理解でした。毎日のデボーションのために、すべてを読むのは難しいでしょうが、折に触れてライトのマルコに目を通すのもこれからの楽しみです。(リンク
「どこかに泉が湧くように」さんのような方でもそうであるように、ライトが一般向けに書いたものであっても、基盤となっている解釈学的枠組みを理解していないと、十分に当該箇所で註解されている意味を汲み取ることが出来ない、ということもままあるだろう。

 今年は少なくとも1冊はライトの邦訳が出る予定だが、翻訳中のNTPG(第一分冊)のものも含めて、今後ライトの著作が次々と出てくれば、やはり何かしら「ライト入門」のようなものが必要になってくるだろう。

2014年3月21日金曜日

フルタドのPFG書評2

前回、ラリー・フルタド教授(エディンバーグ)が御自身のブログで始められた、ライトのPFG書評のことを少し紹介しました。

今回はシリーズ2本目の記事から、特にフルタド教授が釈義的に疑問としている点を拾ってここにメモしておきます。

一つ目のポイントはパウロはイエスを、「人として、受肉して(イスラエルの民の許に)帰還したヤハウェ」、つまりフルタド教授が「イエス」と「ヤハウェ」を区別する概念として用いるダイアディック(“dyadic”)と比べると、より「イエス」と「ヤハウェ」の同一性が高い見方になるのではないか、と指摘します。
But, to engage critically some specifics, I really don’t see evidence in Paul’s letters of an explicit emphasis that Jesus is the “return of YHWH” embodied and in person.
次は新約聖書時代における「ハイ・クリストロジー」がどのように元となるユダヤ教「唯一神観」の変異として出てきたか、に関わるパウロの貢献度についてです。
Wright’s treatment seems to me, however, to credit Paul with a lot in the formulation of this “mutation”.  But I wonder if this is misjudged.
フルタド教授は、ライトは余りにもパウロをクリエイティブな神学者とし過ぎていないか、パウロはもっと先行する伝統に拠っているのではないか、と指摘します。

2014年3月18日火曜日

フルタドのPFG書評開始

ライトのパウロ研究に関するマグナム・オパス(主著、大著)となるPaul and the Faithfulness of Godについての書評は、このブログでも紹介した通り何人もの学者仲間たちが行なった(ウィザリントンはまだ継続中。現在シリーズ24回目がアップされている。)

今度はラリー・フルタドの番だ。リンク

ライトはそのアカデミック・スタンスが内容的にはかなり保守なのに、学友であったマーカス・ボーグやジョン・ドミニク・クロッサンなどとの対話を厭わない、オープンな学者だ。

しかし盟友と言う間柄もある。
最近は少々ぎごちなくなった感があるリチャード・ヘイズなど。

ラリー・フルタドとの距離はこの記事にもあるように「信頼関係」がベースにあるようだ。
しかし昨年Theologyと言う専門誌から書評を頼まれ、1600ページを超える大著に対し与えられた語数(字数ではない)1800と言う極めて限られた制約の中で賞賛の言葉だけでなく、幾つか疑問点や見解相違点も盛り込む、と言う仕事を果たしたようだ。(雑誌の出版はまだ。)

当然盛りきれなかった事柄はかなりあるようで、それが今回の自分のブログでの投稿となったようだ。

最初にフルタドが取上げたポイントは「義認」だ。

As an example, I found stimulating his emphasis that in Paul the “justification” of believers is essentially God’s eschatological judgment, extended now to those who put faith in Jesus’ vindication expressed in God raising him from death and exalting him to heavenly glory.
この下線部分は、既にジョン・パイパーとの論争で著わされた


Justification-Gods Plan and Pauls Visionでも示されたように「現在の義認と終末の義認との関係」にかかわってくることだ。

さてどんな書評になるか楽しみに読ませてもらおう。

2014年1月23日木曜日

The Founder of Christianity, Paul or Jesus?

先日案内した読書会の課題テキストのタイトルが、
Who Founded Christianity: Jesus or Paul? 
となっていますが、

上記のような標題のインタヴューが他のブログ、リンク、に載っています。

インタヴュイーは、デーヴィッド・ウェナム。

GJM: Who really was the founder of Christianity? Was it Paul or Jesus of Nazareth? Where does the evidence point?

DW: Of course, it was Jesus! Paul saw himself as a ‘slave’ of Jesus Christ, and the idea of Paul founding Christianity makes no sense at all: it was a vibrant growing movement before he ever joined it; indeed that is why he tried to eliminate the movement. And after his conversion he was in no position to turn Christianity into a new religion, even if he had wanted to, since he was an outsider not at all involved in the Jerusalem leadership of the church. But he would not have wanted to change Jesus’ religion, because he discovered its truth on the Damascus Road and was personally overwhelmed by the love of Jesus.

2013年10月13日日曜日

ライト・インタヴュー「パウロ研究論文集」

ライトの「キリスト教起源」シリーズの第4巻は、実際には4冊組のような形で出版されることはこのブログでも何度も案内してきました。

本体である「パウロと神の信実(Paul and the Faithfulness of God)」は1700ページの2冊組ですが、それと合わせて出版される「パウロ研究」論文集について、アズベリー神学校のベン・ウィザリントンがインタヴューをしています。


N. T. Wright's Pauline Perspectives Part 1
N. T. Wright's Pauline Perspectives Part 2

パート2では、ベン・ウィザリントンがこれまでの間に「義認」についての理解の変化があったかどうか、あったとしたらどのように変わってきたのか、と言う質問をしています。

それに対してライトは、初めの頃学者たちが提供している解釈が非常に不満足なものであるとの認識からスタートし、次第にクリアーになって行った経過を簡単に述べています。

①「神の義」(は人に分与されるものではないこと・・・旧約聖書)
②聖霊の働き
③「キリストにいる」のモチーフ
がライトの義認理解の発展に寄与している、と語っています。

次の部分にライトが言わんとしていることがよく出ていると思います。

The big thing to get across now, I think, is that the question ‘who then are the true family of Abraham’ and ‘how do I get my sins forgiven’ are not ultimately different questions. God called Abraham to undo the sin of Adam, so that to belong to Abraham’s family (Rom 4, Gal 3) is to be part of the family whose sins have been dealt with on the cross. Splitting these two themes apart, I now see in my old age, is the direct result of several false antitheses that have bedeviled western theology for long enough.

「義認」と「新生」の関係についての質問には殆んど答えていませんね。
ライトは新約聖書ではもっと違うことが中心的に語られている、と言っているようです。

2013年9月11日水曜日

ライトの新刊についてのインタヴュー

出版予定が11月1日の
Paul and the Faithfulness of God
についてマイク・バードがインタヴューをやりました。




多分この映像がネットで入手できるライト教授の一番最近の画像と思われます。

今後の「パウロ研究」にどんな貢献をするか、とのマイクの問いに、ライト教授はかなり突っ込んだ回答を示しています。

もちろん本を読むまで、その全体像も、議論の展開も十分には分からないですが、このインタヴュー質問への回答だけでもかなりヒントとなるものがありそうです。

マイクのブログ記事のリンク

2013年6月12日水曜日

N.T. ライトの日課

以下にN.T.ライトファンのブロガーでもあり著作家でもある、フランク・ヴァイオラがライトをインタヴューした時のものから抜粋して訳します。

N.T.ライト インタヴュー

フランク:
「あなたは物凄い多作家として有名ですが、どんな調子で物書きしているのですか。毎日毎週の著作のペースのことなど教えてください。」

ライト:
「通常のペースなんて言うものはありませんね。孫の子守、鶏の世話や掃除、買い物、博士課程の学生の論文指導、家族との団欒や学術関係その他諸々です。


めったにないですが、一人になれた時は朝5時頃起き、祈り、朝食、そして6時半か7時までには机に向かっている…なんて出来たら最高です。遅い昼食までたっぷり朝の時間を使えますから。その後は散歩、帰宅してまた書き物、夕食は7時半頃かな。食後はあれこれ12時間読んで、祈って、10時半か11時にはベッド、て言う感じですね。

たとえそんなベストの時間割が組めたとしても、仕事としてはとにかく早く書くこと、そして合間にゆっくり注意深く読書をします。新刊の大著な註解書や専門分野の研究書、時に学術誌、書評、ネット情報などが加わります。

しかしその中で一番好きなのはやはり書くことですね。言葉を選んだり考えたりする時の愉悦感、どう表現したらクリエイティブになるか工夫するのが楽しいね。

今までの人生の中でほぼ最高に上手く行った週と言うのがあるんだ。2006年の春だった。その時Acts For Everyoneを書いていた。土曜日に書き始め、日曜日はほぼ休み、そして翌日曜日数時間使って書き終えたのさ。一体何千語書いたか知らないが、とにかく机に向かって座り、後は蛇口をひねって水を出すように言葉が流れ出したってわけさ。あの時は痛快だったなー。」

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2013年5月16日木曜日

復活のリアリティー

さて、小嶋も関わっている、スコット・マクナイト「福音の発見」がいよいよ発売となりました。

手元には早速「企画」CRISPのKさんによって5冊届けられました。

その流れで、スコット・マクナイトのジーザス・クリード・ブログで科学関連記事をレギュラーで書いているRJSさんのThe Reality of the Resurrectionを紹介します。

NTライトの、The Resurrection of the Son of Godと、ティモシー・ケラー、The Reason for Godから復活の事実性(リアリティー)の論点を紹介しています。

1. The resurrection is attested to early in Christian literature 
2. The gospel variation and presence of women as earliest witness attest to true testimony provided in these accounts.
3. The bodily resurrection was a foreign concept in Greek, Roman, and Jewish thought
4. The explosion of Christianity on the scene and the rapid, unstoppable growth despite persecution over the first several centuries.
5. The resurrection is the victory in the Christian story; it is the linchpin.
 動画のリンクもあります。