ラベル 復活 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 復活 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年9月26日水曜日

『驚くべき希望』読書会

4月以降、N.T.ライトFB(フェイスブック)読書会はお休みしていました。

9月になり首を長くして待っていた驚くべき希望』(あめんどう)がついに出ました。

それで読書会を再開することにしたのですが、今回新たな試みとして
(1)『驚くべき希望』専用の
(2)「公開グループ」の
(3)ライト・ビギナーに焦点を合わせた
読書会を立ち上げました。

その名も N.T.ライト『驚くべき希望』読書会 です。


公開グループですのでメンバーにならなくても読むことはできます。

でも読み始めたらいろいろ分からないことが多く、できたら一緒に読み進める仲間がいたらいいな・・・と思う方は「メンバーとして参加する」ことを考えてみてはどうでしょうか。


N.T.ライト『驚くべき希望』読書会 ページに掲載した「説明」を以下にご紹介しておきます。

よくお読みの上よろしければご参加ください。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

英国の新約聖書学者N.T.ライトの『驚くべき希望(Surprised By Hope)』(あめんどう、2018年9月刊)専用の読書会です。

『驚くべき希望』専用の「公開」グループの読書会として、
 (1)この分厚い本を読み通す仲間を作り、
 (2)質問や疑問があればシェアし、
 (3)(本を理解するための)参考となる情報をシェアするプラットホームを目指します。


「公開」グループの読書会として次のことをお守りください。
 (1)メンバーは『驚くべき希望』を入手している方に限定します。(原書、Surprised By Hope、で参加したい方も受け入れますが、シェアする内容は日本語にてお願いします。)
 (2)メンバーは、本を読み進めるのに適した《質問》や《疑問》をシェアしてください。
 (3)メンバーは、本を読み進める励ましとなるような《感想》や《気づいたこと》をシェアしてください。

※「ディスカッションや議論」について
 シェアされた《質問》や《感想》から「ディスカッション」に発展する場合もあるかと思います。
 『驚くべき希望』の(終末論と呼ばれる)神学的内容については様々な解釈がありますが、この読書会ではその一つである「ライトの解釈」を☆読んで理解する☆ことが目的です。他の解釈とどちらが正しいか議論して決着を付けることではありません。
 多少の意見の交換は構いませんが、その場合でも他の人が本を読み進める妨げとならないよう、短く切り上げるか、グループ外で続けてください。

このグループの「管理人/世話役」
 2013年から、N.T.ライトFB(フェイスブック)読書会は「非公開」グループとして活動してきました。(現在も続いています。)
 その管理人/世話役としてグループをリードしてきたのが、小嶋・中村・川向の3名です。
 この『驚くべき希望』専用の「公開」グループ読書会も同じ小嶋・中村・川向の3名がリードします。
 (ちなみに中村氏は『驚くべき希望』の訳者でもあります。)

『驚くべき希望』を他の方々と一緒に読みすすめたいなーと思われる方はどうぞ参加なさってください。







2017年8月4日金曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー 参考資料

今回のライト・セミナーでは《共同研究》としました。

※「第一次応募締め切り」が4週間後となりました。


宗教改革500周年の《聖書のみ》と《万人祭司》にあやかってみたのですが、「『死者の復活』の教理」をめぐって、たった1節(コリント第一15章17節)
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
にしぼって、みんなで意見交換してみようと言うわけです。

たくさんの「現代訳を比較検討」してニュアンスの違いみてみるのもいいかもしれませんね。



今回は少しネット検索した中から二つ紹介します。

(1)説教(ノーザン神学校のチャペル・メッセージ?)

Our Victor – 1 Corinthians 15:17-20
By: Northern Seminary

For many years I never thought of the resurrection as important, as if Easter was about having your sins forgiven through Jesus’ death on the cross, and the resurrection on the third day was little more than a really happy ending.

Eventually Paul’s words in 1 Corinthians 15 helped me to see that Jesus’ resurrection wasn’t nice but necessary, and wasn’t a happy ending but a glorious beginning.


(2) 研究論文

Rollin Ramsaran

 この論文は
「コリント第一の手紙」が、(書かれた手紙だが)パウロが(口頭によって)スピーチした内容を下敷きにし、手紙の読者に対して口頭で読まれるために、特に「15章がクライマックス」となるよう様々工夫されて全体が構成されたもの、
という方法論的前提(オーラル・パフォーマンス)に立って分析されています。

数箇所、関連のありそうなところを引用してみます。


“Christ raised” becomes the basis for Paul’s argument through oral performance in 15:12-58. Going forward, Paul does not attempt to “prove” that Jesus was raised – he assumes it and he expects his audience to continue following him in that common belief. Paul, through his envoy, comes alive once again before the Corinthians as the proclaiming apocalyptic teacher and guide who was, in that very preaching, originally the occasion for their coming to faith.

Paul’s first question in 15:12 ( “How can some of you say that there is no resurrection of the dead?”), from a set of imaginary (?) interlocutors in Corinth, provides an opportunity to assert the necessity of Christ’s resurrection as the representative pattern for believers.

Much work has been done recently on  analyzing the oral performance indicators embedded in written texts (orally-derived texts).
My burden to this point has been to show the likelihood of Paul’s having composed the letter of 1 Corinthians in memory and then dictating it to a scribe. The written text then functioned as an aide-memoire for a sent envoy who would orally perform Paul’s message.


以上、何か参考になればと思い・・・。

2016年4月28日木曜日

身体的復活と埋葬

「イエスの復活の身体」として4本の記事をアップした。・・・(1) (2) (3) (4)

最近も「復活」については随時アップしているが、今朝また北米のジョン・パイパー牧師が何やら「埋葬」のやり方で「聖書的」「キリスト教的」と見解を述べているらしい記事があることを知った。

John Piper Makes Biblical Argument for Burial Over Cremation as It Relates to 'the Meaning and Importance for the Human Body'

『ジョン・パイパー、人間の身体的意義と重要さを考えると、火葬より土葬が聖書的であると主張』

パイパー自身の記事を読んでいるわけではないので(上記の記事にリンクがある)、あくまでこの記事にまとめられている議論を読んだだけだが、キリスト者は「火葬」より「土葬」を選ぶべき理由が何箇所かの聖書の解釈を通して提示されている(らしい)。

パイパーによると・・・
 「土葬」は、人間の身体(遺体)に対して敬意を払っているが、
 「火葬」は、火で遺体を焼き払う点で「嫌・身体」的だという。

キリスト教は「身体のよみがえり」を信ずるわけだから、その身体(遺体)の埋葬の仕方の点でも上記の相違を考えると、より「聖書的」「キリスト教的」な立場があるはずだ。それは「土葬」ということになる、ということらしい。

「復活の身体」がどんなものであるか・・・の議論と思弁は、おそらく「復活」の思想が顕在化してきたとき(第二神殿期ユダヤ教期)からあると思うが、キリスト教が特にユダヤ教以外の文化圏に浸透して行くにつれて様々に持ち上がったと思われる。

以下の動画でも言及されるが、教会教父時代、人肉食(カニバリズム)の文化背景を持つ信徒が、生前ある人が食べた(あるいは食べられた)人の「肉片」は、復活のときどのように扱われるのか、と云う問題で悩んだらしい。

復活信仰あってこその「復活の身体はいかに」と云う神学的疑問だから、それ自体は当然であるが(と思うが)、どのような思弁を用い、どのような現代的「実践(神学的適用)」を施すかは簡単な結論はないのではないかと思う。

新約聖書学での「終末論」の研究者としても名高い、Dale C. Allison Jr.が自らの(臨死まで行かない)近死体験を交えて「復活」「復活の身体」についてインタヴューに答えている。



・カニバリズム問題(5分30秒くらいから)
・復活の身体で「消化器系」は必要か
・「免疫系」「生殖器」はどうか
・何歳の身体で復活するのか
・夭逝したばあいはどうか
(教会教父時代から近代・現代に移行すると科学的知見の問題が浮上する)
・分子レベルで解体した「身体痕」は原子レベルで「拡散」して分からなくなるが
・原子レベルではもはや「誰の身体だったか」はナンセンスでは
と「思弁」は多様に拡散して行く。

さらに現代は「葬式」のやり方に関してもかなり多様に考えるようになっている。
「終活」の前に考えたい 死の迎え方と送られ方 - 東嶋和子 (科学ジャーナリスト・筑波大学非常勤講師)(リンク
と云うわけで、パイパー牧師の「おすすめ」は一つの例と云うことになるだろう。

2016年3月29日火曜日

復活:自然啓示と特別啓示

先日、久し振りに銀座の教文館を訪れた。

本を置くスペースが狭くなっていた。

平積みになった新刊書・近刊書を何度も眺めながら、ついに購入したのは一冊だけに終わった。

しかし購入しなかった中で気になった本はあった。


そのことを書こうと思ったのは、イースターの説教で語ったことと、(後から紹介する)この本の主張(原書である英書の紹介文によればだが)とが多分に重なるのを感じたからだ。

しかし、先ず、きっかけはこのツイートだった。

以下吉田さんの連ツイをまとめて紹介。
1. 私の呟きは、マルコ福音書読者の周囲では既にイエスの復活が語られていたことを前提としていましたが、これはマルコ福音書の成立がイエスの死と復活から随分と時間が経っていると考えられているからです。

2. 多くの研究者はマルコ福音書の成立を70年前後と考えていますが、つまりマルコ福音書の成立はイエスの死と復活から40年後も経ってから、ということにな ります。それではこれ以前にイエスの死と復活はどのように語られていたのかと言いますと、これはパウロの書簡が参考になります。
3.パウロが著した『コリントの信徒への手紙一』15章3節から少なくとも5節には、彼がコリントの教会にかつての伝道に際して伝えた教えが再録されてい ますが、そこでパウロはこの教えを「私も受け取った」ものとして、つまり彼が信仰の先達から受け取った伝承として紹介しています。

4.パウロがコリントを訪れた時期或いは『コリントの信徒への手紙一』を著した時期はイエスの死と復活からおよそ20年後と考えられていますから、マルコ 福音書より20年は古いことになります。さて、その15章3節にはこの教えをパウロ「も受け取った」ものと記されていますから、

5.教え自体はパウロ以前に既に在ったと、つまりイエスの死と復活にかなり近い内に成立したものと考えられます。尤も、いつ誰がどのようにして作成したのかは不明でして、この点に関しては様々な研究が行われていますが、

6.所謂「キリスト教」のそもそもの始めがキリストの死(一コリ15:3-4a「キリストが…死んだこと、葬られたこと」)と復活(一コリ15:4b-5 「聖書に従って三日目に起こされたこと、…に現れたこと」)を信じることにあったことをこの伝承が語っているという点では見解が一致しています。

7.イースターをただのお祭りとして楽しむのも良いですが、その始まりを知ること、そしてその歴史に思いを馳せることもその楽しみに加えて欲しいなぁ、と思ったりなどもします。

先日出版されたT・ピーターズ他『死者の復活:神学的・科学的論考集』(小河陽訳、日本キリスト教団出版局、2016年)は、「復活を科学的および神学的にどのように評価すべきであるか」との問いに関する18本の論文をまとめたもの。

 「宇宙の終末において我々はいかに変容するのか?物理学、生物学、神経科学、哲学、聖書学、エジプト学、教会史、組織神学…多彩な学問領域の研究者18名が「体の復活」の可能性を考究した学際的対話の試み。」

(以下まだ少し続くが略。訳者の小河陽の『あとがき』も含めて実質19論文であると『あとがき』をイントロとして読むことを推薦している。)
訳書ということで値段がいかにもだが、 原書である、Resurrection: Theological and Scientific Assessments、は2002年の出版だからライトの『キリスト教起源』シリーズⅢ『復活と神の子』より一年前ということになる。(逆だったら少し面白かったとは思うが。)



ところでその「紹介文」だが、「前半」はこうなっている。
A team of scientists and theologians from both sides of the Atlantic explore the Christian concept of bodily resurrection in light of the views of contemporary science. Whether it be the Easter resurrection of Jesus or the promised new life of individual believers, the authors argue that resurrection must be conceived as "embodied" and that our bodies cannot exist apart from their worldly environment.
この「身体的復活」に焦点を当てる、というのは神学と(自然)科学との「共同作業」としては当然だが、ライトが、Surprised By Hope、で指摘するように、西洋近代において「からだの よみがえり」がかなり薄められたり、曖昧になったり、歪められたり、矮小化されてきた歴史から言えば、なかなか意欲的な取組みではないかと思う。

後半はこうなっている。
Yet nothing in today's scientific disciplines supports the possibility of either bodily resurrection or the new creation of the universe at large. Bridging such disciplines as physics, biology, neuroscience, philosophy, biblical studies, and theology, Resurrection offers fascinating reading to anyone interested in this vital Christian belief or in the intersection of faith and scientific thought.
アマゾン・コムの紹介文では省略されているが、間にはこう言う文章が挿入されている。
Cosmology, for example, only forecasts an end to the universe. If persons and the cosmos are to rise up anew in the eschaton, such an event will have to be a willful act of God. Thus, while modern science can offer aid in constructing models for picturing what resurrection of the body could mean, the warrant for this belief must come from distinctly theological resources such as divine revelation. Christian faith ultimately gains its strength not from modern science but from Gods promises.
科学は「身体的復活」を視覚化するモデルは提供できるが、現在の理論では「身体の復活」の可能性も、「新創造」の可能性もともに悲観的な見通ししか提供できない。

ゆえに「神学的根拠」が残されるが、それはどこに・・・、という問題提起になっている。

...such an event will have to be a willful act of God.
とあるように「イエス」を「死者の中から復活させた神(その神の力)」というところにキリスト者の信仰と希望は集まる・・・ということをイースター・メッセージでは語ったわけだった。

少々蛇足だが、『論集』中にはナンシー・マーフィーの、The Resurrection Body and Personal Identity、もありこのブログでも「イエスの復活の身体④」で取り上げた 
①「復活の身体」の連続と非連続の問題
『意識(たましい)』の問題を『自分』あるいはアイデンティティーの問題として考えるとどうだろう。
身体的には全く更新しながら、どうやって『自分』が回復されるのだろうか。
辺りの問題にどんな見通しを示しているか興味深い。 

2015年5月14日木曜日

『クリスチャンであるとは』発売決定

ライト元年を飾る、ライトの一般向け著作初邦訳!

『クリスチャンであるとは』(原題:Simply Christian)
 ーーN・T・ライトによるキリスト教入門ーー
 著者 N・T・ライト
 訳者 上沼昌雄
 四六版 並製 344頁
 定価 2,700円(2,500円+税)

小嶋 崇さんの写真



お待たせしました。

5月末に出るみたいです。

ぜひ読んでください。

そして友人・知人にオススメください。

お金に余裕ある人はプレゼントしてください。

自分の教会の牧師にもオススメください。

スタディー・グループや読書会でテキストにお選びください。



※何人もの協力者によって翻訳が吟味されました。

※編集者の汗と涙が滲む、苦労本。

※スコット・マクナイト『福音の再発見』からちょうど2年。ついに真打登場!


あめんどう社のウェブサイトに「予約受付サイト」が来週には設定されるようです。

出版社を支援するためにも、Amazonではなく、直販ネットショップをご利用ください。

2014年12月18日木曜日

イエスの復活の身体④

ライトにとって「復活」がキリスト教の中核的メッセージであることは、彼のキリスト教の包括的把握が「創造→新創造」であると見做すことで、ある程度明らかではないかと思う。

しかし、
①中世以降のキリスト教がギリシャ思惟的二元論に浸透されて、「死んでからあの世に行く」救済教になり、
さらに、
②啓蒙主義の支配下で「私的、敬虔主義的信仰」に閉じ込められた後、
③もう一度「本来の使徒的な福音」である、「全宇宙を視野に入れた包括的レスキュー・ミッション」に再起動されるために、

ライトがことさら主張したポイントは
④単に「復活」ではなく「身体を持った復活」であり、
⑤罪と死に隷属されているとは言え、依然として全体として贖われるべき被造世界に対する「イエス」のメッセージ

であった。

ここまではライトの主張は説得力があり、特に欧米のキリスト教圏における受容は(理解度において深浅はあろうが)広範なものがあるように思う。

しかし脱キリスト教化した、世俗化した層への到達度・浸透度となるとどうなのだろう、との疑問はあるだろう。

キリスト教内にあっても、同じ新約聖書学のギルドにいるジョン・ドミニク・クロサンやマーカス・ボーグとの討論によって、どれだけ感化できただろうか。

もちろんライト一人に「本来の使徒的な福音」のアポロジストとしての役割を押し付けるのはどうかとは思う。
既にこれまでの旺盛な著作活動、講演活動で、ライトは多くの者たちを啓蒙してきたし、それによって「キリスト教が新しく感受できる」ようになった人はかなりの数に上るだろう。

しかし、敢えて、ここで「身体の復活」の含意を掘り下げるとどんな問題が出てくるだろうか。

幾つかのも問題はぼんやりとは脳裏に上るが、余りしつこく議論されてきていないものが幾つかあると思う。

①「復活の身体」の連続と非連続の問題
所謂、死後の2段階移行において(ある意味分離した)『身体』と『意識(たましい)』はどのような再統一を与えられるのか、と言う問題。
ライトが好んで用いる比喩が、ジョン・ポルキングホーンの、「今のハードウェアが死んでなくなっても、(神のもとに)保存されたソフトウェアーは維持され、(死者の復活で与えられる)新しいハードウェアーに再インストールされる」、というものである。

『意識(たましい)』の問題を『自分』あるいはアイデンティティーの問題として考えるとどうだろう。
身体的には全く更新しながら、どうやって『自分』が回復されるのだろうか。

このような疑問にライトが用いるのが、「人間の身体は細胞レベルで考えれば7年くらいで殆ど全部入れ替わるが、7年前も今も同じ『自分』として保持されているではないか」、と言うものだ。

②「万物が更新」した世界が最早朽ちることなく、永遠に続くとすると、果たして人間は一体何をして過ごせば充実感を得られるのか。「終わりがない」ことは却ってつまらなくないか。


以上のような、より哲学的な問題をライトと、イェール大学のシェリー・ケーガン教授が討論している動画を紹介しよう。


※ケーガン教授は身体的復活を信じないけれども、少なくともその可能性まで否定するつもりはない。ただ彼にとってもし「復活の身体」があったとしても、そのような「生」がとても魅力的であるようには思えない。そのような疑問をライトにぶつけている。



※この動画を見ながら「ライトの後に来るキリスト教アポロジスト」はかなり高レベルの知性やユーモアが必要だろうなー、と思いました。

2014年11月11日火曜日

復活:学問と信仰

「イエスの復活の身体」と言うテーマで何回か投稿したのがそのままになっている。
イエスの復活の身体 ①
イエスの復活の身体 ②
イエスの復活の身体 ③
しばらく前、ネットでこんなものを見つけた。
原口尚彰『新約聖書の死生観』
本稿は2013年8月26日に東北学院大学で開催された「第7回教職(牧師・聖書科教師)研修セミナー」で行った講演原稿に加筆したものである。
とある。まだ最近のものと言うことだ。

新約聖書(福音書、パウロ書簡、黙示録、)文献に沿って「死生観」について概観したもので、ドイツ語、英語、日本語による研究文献を参照している。

その中にはN. T. Wrightのものは何も見当たらない。

あっさりとした概観の印象だが、「まとめと展望」の中に以下のような感想と言うか観察が加えられている。
現代の教会も教理としては,世の終わりにおける死者の復活の思想を維持しているが(使徒信条第三項やニカイア・コンスタンティノポリス信条第三項を参照),信徒が現実に持つ信仰において,終末の到来の切迫感や死者の復活の希望のリアリティは薄れ,死後は天に召され,他の召天者たちと共に神の御許で憩うイメージを漠然と抱いている場合が多いのではないだろうか。(強調は筆者)
少なくともこの観察は、ライトがSurprised By Hopeで指摘した、Going to heaven when you die、神学が日本でも踏襲されている、と言うことを傍証するものではないか。

2014年2月26日水曜日

イエスの復活の身体③

「続く」とした後大分経ってしまった。

前回ライトが復活後のイエスの身体の状態を指す造語として使用した、トランスフィジカリティーについて紹介した。

まだ訳語が見つからないのでカタカナで表記しておく。

ルカ文書では、イエスは復活後40日間弟子たちに現れた後、「天に上げら」れて見えなくなる。
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録1章9-11節、新共同訳)
昇天から着座と言う事になるわけだが、ライトはSimply Jesusで、「イエスが天にいることによって、地上に遍在することができるようになる。もし地上に留まっていれば、そういうことは出来ない。イエスの昇天とは、イエスが地とは隔絶した天に消えていなくなるのではなく、天において主として地を統治をなさるためだ」と言う趣旨のことを書いている。

では天におられる間、イエスのトランスフィジカリティーはどのように保たれ、また「遍在」はイエスのトランスフィジカリティーとどのように関わってくるのだろうか。

イエスの復活の身体① では、イエスのトランスフィジカリティーはSimply Jesusでも継続されている、と書いたが、今読んでみたが発見することは出来ない。
どうやら視界から消えているようだ。

今回イースター後のイエスのトランスフィジカリティーを考える上で念頭にある聖書箇所は使徒言行録の二箇所だ。
このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。(使徒言行録3章21節、新共同訳)
ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。(使徒言行録7章55-56節、新共同訳)
かなり強引なこじつけになるかもしれないが、敢えて補助線として「ライティアン」な筋でまとめるとこうなる。

①復活したイエスは「新しい神殿」として天と地を結びつける存在である。

②天と地は時空間的連続の中にはないが、「扉を隔てて行き来できるような異なる次元の領域である。」(Simply Jesus)

③復活したイエスは天に上げられ、そこから地を統治する。

④最終的に「天と地が合一する時」まで、すなわち御子がすべての統治権を父に返還するまで、御子・イエスは天に留まって統治を完了しなければならない。(Ⅰコリント15章24-25節)

イエスのトランスフィジカリティーは、ではどんな意義があるのか。

今回は取上げないがその身体性はパウロの回心体験が「霊的」なものではなく、復活のイエスの証人として目撃者証言者のリスト(Ⅰコリント15章)に加えられている点でも重要である。

ステパノの幻はそのパウロのような目撃者証言とはみなされていないようだが、クリストファー・ローランドがThe Open Heavenで指摘しているように、「真正な幻体験」とすると、イエスのトランスフィジカリティーを例証するものと受け止められるのではないだろうか。

2014年2月15日土曜日

「死後のいのち」再考

現在、フェイスブック読書会の方は、
Surprised By Hope、の10章に入ったところです。

進行速度は大分落ちました。

この本を紹介する動画は幾つもあると思いますが、今回はカルヴィン大学で収録されたインタヴューを紹介したいと思います。


2013年11月6日水曜日

イエスの復活の身体②

さて、前回「復活後のイエスの身体性」が如何なるものであったか、そのような疑問の一つの入り口として「第2回N.T.ライト・セミナー」での「『イエス昇天後の遍在』における身体性の如何」の疑問について紹介した。

今回は前回紹介したように、ライトが「復活後のイエスの身体性」を提示する概念として造語した
transphysicality
について少し書く。

「神の子の復活」(キリスト教起源シリーズ第3巻目、2003年)において初めてtransphysicality
と言う造語が紹介された。

その最初の箇所(477-8+ページ)の文脈をかいつまんで言うと、
①「新約聖書の復活観」の結論を5つのポイントにまとめている部分である。
②(幾つかの復活観のオプションの中でも)パリサイ派の復活観が修正されたものであるとしている。
その要素として、
(A)(死者からの)復活が起こるとされた『終末』が(時系列的に)2段階に分けられた。
(B)将来与えられる復活の身体の性質は、「死ぬことも朽ちることも出来ない身体」であり、このような身体は、既に死んだ者たちも、イエスの来臨の時生きているキリスト者たちも、両方が「着せられる」ことになるのだが、それはトランスフォメーションを必要とする。

この(B)の部分を論述している過程で、ライトは(権威ある)オックスフォード英語辞典には見つからないtransphysicality(transphosphorylationと言う語と、transpicuousと言う後の間に入ることになるわけだが)と言う語を提案するわけである。

そしてライトはこの語の「使用範囲」と言うか、「目的」について制限を加える。

transphysicality、とは新約聖書記者が復活後のイエスの体が実際にどのような身体性を持ったものであるか、また将来キリスト者たちが持つようになるであろう復活の身体の詳細を描写した概念でも、またどのようにそのような身体性を獲得するかについて描写した概念でもない。

transphysicality、とは初代キリスト者たちがそのような復活の体が(変な言い方に聞こえるかもしれないが・・・筆者注)「十分身体的(robustly physical)」であり、現在持っている身体とは質的に異なるものである、と認識していたことは動かし難い事実であることを主張するために考案した「ラベル」のようなものである。 

「神の子の復活」で、ライトがtransphysicalityを使って論述している箇所は他に数箇所あるだけなので、この造語によって「復活の体の身体性」について何か理論的な考察をしているわけではないことは明らかである。
ただこの語を用いて「復活の体の身体性」が持つ特異な面について読者の注意を喚起しようとしていることは確かではないかと思う。

このことは、①パウロ書簡(特に第一コリント15章)を釈義する時もそうであるが、さらに②福音書において復活後のイエスについて(特にその身体性の特異性について)記述している箇所を釈義する時に必要な「枠組み」であることを示唆しているものと思われる。

(次回に続く) 

2013年10月28日月曜日

イエスの復活の身体①

先日(10月9日)持たれた「第2回N.T.ライト・セミナー(案内簡単な報告)」

 

天と地が出会う場所:神殿、イエス、そしてN・T・ライトの空間理解

 と言う基調講演をなされた鎌野氏は、その中で「神殿」の理解を、どのようにライトが「イエス」理解に繋げているかを

『天と地が出会う場所としてのイエス、そしてキリスト者共同体』

と言う部分で5つのポイントにまとめている。

その第5ポイントは以下のようになっている。(ネットではまだ公表されていない論文なのであしからず。)
第五に、イエスの昇天を通して、地におけるイエスの遍在が可能となった。天と地は全く同じ種類の空間ではない。地にいる限り、イエスはある特定の場所にしか 存在することははできなかっただろう。しかし、天は地に十分に浸透している。天にいるからこそ、イエスは地のあらゆる場所にいることが可能となった。イエ スは王として天の王座につき、そこから全地を導いているのだ(脚注31)。
※脚注31とは、ライトの2011年刊、Simply Jesus: A New Vision of Who He was, What He did, and Why He Matters、の191-2ページ(ペーパーバック版、ハードカバー版は、195-6ページ)。
この「イエスの遍在」ということについて、当日のセミナーで、フロアーから質問があった。
イエスの昇天によってイエスの肉体は現在遍在するのか。このような書き方だとイエスは肉体を持ったまま天に着座した、と読めるのですが・・・。
これに対して鎌野氏は(質問者は聖餐におけるイエスの臨在のことにも言及されたので)聖餐におけるイエスの臨在に関する理解が「象徴説」から、よりルター的 な、あるいはよりカトリック的な理解に近づきつつある、としながら「イエスの遍在」に関しては「遍在」が可能になったのだけれども、それは「汎神論」的な意味での「遍在」のあり方とは違う。
とおよそそのような回答をなされた。

筆者は基調講演へのレスポンデントとして同席していたのだが、この質問には人一倍関心があったので、ついでに意見を言わせて頂いた。

筆者は、ライトが「キリスト教起源」シリーズ第3巻の「神の子の復活」で、復活したイエスの身体が、パウロ(第一コリント15章)によれば「朽ちない身体に 変わった(トランスフォーム)」としているのをどう表現したら良いか探しあぐねて用いた言葉がtransphysicalityだ、と紹介した。
そしてその理解はSimply Jesusでも継続されている、と発言した。

しかしそもそも transphysicalityと言う言葉自体ライトの造語であるし、また果たして昇天の時のイエスの身体性は、復活後40日間弟子たちに顕現された時の身体性と同一であるかどうか、筆者は改めてその点を確認する必要があるのではないか、と思っている。

これはかなり推論的な思索にならざるを得ないので、ライトと言えどもそれほど「確実性」を主張していないものだと思う。

と言う訳でどこまでライトが言う transphysicalityに肉薄できるか分からないが、あくまで試論として、あるいは断想的なものとして書いてみようと思う。

(次回へ)



2013年7月29日月曜日

ロックンロールキリスト教

たまたま、N.T.ライト読書会ブログのツィッターのTL(タイム・ライン) を見てたら、くめしゃんさんが

で思い出した。
ライトの使う有名な挿入用エピソード。
何回も使っている。

デューク神学校コンボケーションでのレクチャー(音声ファイル)の方から紹介すると、
1 Gray Lecture (11:00 AM)

これの26分30秒を経過する辺りに入っています。

こちらは説教です。Resurrection and Rock'n'Roll
The taxi driver looked back at me in his mirror. His face was a mixture of amusement and sympathy. We were stuck in traffic and he’d asked me, as they do, what I did for a living.

‘Ah,’ he said, ‘you Church of England people’ (having told me he was a Roman Catholic himself). ‘You’re still having all that trouble about women bishops, aren’t you?’

I had to admit that that was indeed the case.

‘The way I look at it,’ he said, ‘is this: if God raised Jesus Christ from the dead, all the rest is basically rock’n’roll.’
まっ少し相違はありますが・・・。
ポイントは、
St Paul put the same point negatively: ‘if Christ is not raised, your faith is futile, and you are still in your sins.’ But the positive point is this: if Christ has been raised, then all the rest is, well, sorted out. It’s basically just rock’n’roll. God has won the decisive victory over the forces of darkness, and he will win the final victory that results. Everything else can in principle be worked out.
つまり「イエスの復活」は勝利宣言みたいなもんで、それを受けて「お祭り状態」みたいになっちゃった。
だから「ロックンロール」だ、とタクシーの運ちゃんは表現したのでしょう。

まっ個人的には若い時は少しはロックは聴きましたが、ある年齢からはクラシックになっちゃいましたのでもう一つピンと来ないのですけどね。

2013年7月22日月曜日

『天』と『地』は二つで一つ

かなり長い間(主に)西洋キリスト教のイマジネーションを支配してきた二元化し、切り離された「天地観」に対し、ライトはその著作や講演の至るところで再考を促す。

キリスト者も(キリスト者ではなくても、そのような西洋キリスト教「天地観」の影響下にある人たちにも)、ライトは新鮮な(ライトの大好きな形容詞、"fresh")捉え方、理解の仕方を提案する。

以下は長くなるが引用です。(ひとさまの引用の孫引きなので、小嶋自身はチェックできません。あしからず。)
Acts 1:9-10のコメンタリー(Acts For Everyone)のようです。
In the Bible, heaven and earth are the two halves of God’s created world. ... Talking about ‘heaven and earth’ is a way, in the Bible, of talking about the fact, as many people and many cultures have perceived it to be, that everything in our world (call it ‘earth’ for the sake of argument, though that can be confusing because that is also the name we give to our particular planet within our particular solar system, whereas ‘earth’ in the Bible really means the entire cosmos of space, time and matter) has another dimension, another sort of reality, that goes with it as well.
ちょっと()の中の挿入ですが、こう言う風に私たちの住む惑星「地」球と、全被造物における物質的世界に区別して考えるのも興味深いです。
You could call this other reality, this other dimension, the ‘inner’ reality, if you like, thinking perhaps of a golf ball which has an outer reality (the hard, mottled surface) and an inner reality (the tightly-packed, springy interior). But you could just as easily think of earth as the ‘inner’ reality, the dense material of the world where we live at the moment, and ‘heaven’ as the outer reality, the ‘side’ of our reality that is open to all kinds of other things, to meanings and possibilities which our ‘inner’ reality, our busy little world of space, time and matter sometimes seem to exclude.
ここではゴルフボールと言う球体をイメージしながら、「中身」と「外殻」とで一つであるようなものが天と地なのだ、と説明しています。
If these illustrations don’t help, leave them to one side and concentrate on the reality. The reality is this: ‘heaven’ in the Bible is God’s space, and ‘earth’ is our space. ‘Heaven’isn’t just ‘the happy place where God’s people go when they die’, and it certainly isn’t our ‘home’ if by that you mean (as some Christians, sadly, have meant) that our eventual destiny is to leave ‘earth’ altogether and go to ‘heaven’ instead. God’s plan, as we see again and again in the Bible, is for ‘new heavens and new earth’, and for them to be joined together in that renewal once and for all. ‘Heaven’ may well be our temporary home, after this present life, but the whole new world, united and transformed, is our eventual destination.
これは今N.T.ライトFB読書会で読んでいる、Surprised By Hopeで繰り返し強調されているポイントです。

上記の引用が「使徒の働き1章9-10節の註解だとすると、このビデオも参考になるでしょう。

 

2013年7月2日火曜日

キリスト教の福音の中心:刑罰代受?、地獄?、復活?

アンドリュー・ウィルソン氏が「復活」の最重要性(Ⅰコリント15章)を強調するのに、面白い提示の仕方をしている。

次の三つの命題のうち、もし真実と判定された場合、最もキリスト教信仰にダメージを与えるのはどれか、と聴衆に問いかける。

①イエスが十字架の上で死なれたのは私たちの身代わりとしてではなかった。
②地獄(ヘル)と言うような場所は存在しない。
③キリスト者は死ぬと、魂(ソウル)は肉体から解き放たれて天国に行きそこに永遠に存在する。

答えはもちろん③だ。

そしてⅠコリント15章の講解に入っていく。



Catalyst Festival 2013 - Main Meeting 1 - Andrew Wilson from Catalyst on Vimeo.

なるほど。
そうやって入っていくやり方もあるか。

でもそれだと「ビリーフ(信じている事柄)」中心のキリスト教紹介にはなるね。

2013年7月1日月曜日

FB読書会 2013年6月近況

以前(2012年3月~2013年1月)How God Became King、を読んでいた時には小嶋がディスカッションリーダーを一人でやっていた。
その反省もあって現在読んでいるSurprised By Hope、ではボランティアで何人かの人に順番にやってもらっている。

さて、「6月近況」と言っても、ついここ2日間のディスカッションをルポ的に紹介してみよう。
現在、3. Early Christian Hope in Its Historical Setting、のResurrection and Life After Death、のところを読んでいます。

*******************
pp.35〜40の要約
「復活(アナスタシス)」という言葉が、古代地中海世界の人々、特にユダヤ人にとってどういう意味があったのかということが簡潔に述べられています。

異邦人にとっても、ユダヤ人にとっても、「復活」は死後の世界を意味しない、という点をまず押さえる必要があります。

「誰々さんが復活した」というのは「誰々さんが天国に行った」という意味ではない、ということです。古代の人々は、人が死ぬと霊魂のような存在として生き続けると概して信じていたようですが、体から抜け出た霊魂の状態になることを指して、それを「復活」と呼ぶことは決してなかったのだと。
「復活」とは何かしらのphysicality、「からだ」を伴う甦り現象として古代人に理解されていました。

また、「復活」とは「神になること」という意味でもなかった、ということも大切です。徳川家康が東照大権現になる、というような現象をさして「復活」という言葉が用いられることもなかった訳です。ですからイエスが天の国に行って、そこで神になったと信じられたとしても、それを指して「復活」という言葉が使われることも決して無かった筈です。

ユダヤ人は、サドカイ派のような人々を除けば、たいていは体を持った甦りとしての「復活」を信じていました。しかしその復活とは、「世の終わりに皆が一斉に復活する」という集団的復活(復活するのは義人だけの場合と、義人とそれ以外の全ての人を含む場合、というような見解の相違はありましたが)のことでした。誰かが世の終わりの前に、一人だけ復活するなどという期待や思想は、どこを探しても見られませんでした。またイエスも、そのような特殊な復活があると生前教えた形跡もありません。イエスは弟子たちの「復活」についての因習的理解を変革しようとはしていなかったのです。

そういう訳で、イエスが十字架に架かった時に、「イエスは死んでもすぐ復活するから大丈夫だ」などと考えた弟子は誰もいなかったのです。もちろん彼らもイエスの復活そのものを否定した訳では無かったでしょう。しかし、それが起きるのは「世の終わり」、皆が一斉に復活する時であって、三日の後だなどとは誰も考えませんでした。そのため、イエスが十字架で死んだ時、弟子たちの希望(つまり神の王国の実現)はまさに打ち砕かれたのです。もう終わりだと、誰もが理解したことでしょう
 *********************
これに対するOさんのコメント:
読みやすく、分かりやすく解説をいただき、ありがとうございます。
イエスは弟子たちに、三日後によみがえると伝えたと福音書に書いてありますが、文字通り三日とは受け取らなかった、ということですね。
リーダーの回答:
Oさん、マルコ9:9など、たしかにイエスは生前から自分の復活を予告しています。ライトは学者たちの通説に反対し、この予告は後から福音作家が付け足したものではなく、イエス自身が語ったものだと主張しています。
しかしライトはそれを「復活」の予告というよりも、神が自分をVindication(「義認」と訳されることもあります)してくださる、つまり自分に帰せられた汚名を神御自身が振り払って、イエスの正しさを証明して下さる、とイエスが予告したのだと考えているようですね。自分が文字通り「復活」することについては、イエスは明確に説明することなく、謎めいたサジェスチョンを残しただけだったので、弟子たちはそれに気づかなかった、という風に説明されています。
Oさんの感想:
なるほど。そういう理解ですね。この説をまだ全面的に受け入れられるかはわかりませんが、いろいろと考察してみたいです。
ここでTさんが加わる:
Yさん(リーダー)、イエスの弟子たちがイエスの復活預言を聞いて、終わりの日の復活のことを言っていると思ったというのは、納得できます。そのように考えることはあまりなかったので・・・ 
そうすると、三日目とイエス様があえて明言したことに大きな意味があるのですね・・・
Oさん、
このところはⅡマカバイ記7章を読んでみるともっとピンとくると思います。そこには終わりの日の復活の希望のゆえに雄々しく殉教の死を迎える様子が描かれています。(以下略)
Oさんの感想:
Tさん、解説ありがとうございます。ふ〜ん、初めて聞く、新鮮な視点です。よく考えてみます。
ジグゾーパズルが、だんだんと全体像を浮き上がらせつつ、埋まってくるような感じですね。

Ⅱマカバイ記7章を初めて読みました。家族対するすごい残虐な拷問の場面でショックです。
この書は、たぶん当時のユダヤ人のローマ人に対するレジスタンス精神に影響を与えていたということですね。

この後リーダー、Oさん、TさんのⅡマカバイ記7章に始まる「外典」が余り読まれていない現状についての意見交換が続く。そして、
Oさんの感想:
いや〜、なんとも、素晴らしい。こういう背景がわかってくると、預言書とイエスの時代、イエスの生涯とメッセージが、立体的に立ち上がり、繋がってきて、「聖書の世界、読み方はこうだったんだ〜」と見えてきて、ワクワクしてきますね。
これまでの私にとって、預言書、小預言書は、あちこち素晴らしい御言葉が散りばめられているとはいえ、現実の信仰生活にあまり関係ない、あるいは妖しげな終末論に使われる、もやに隠れた遠景でしかなかったです。
 

と言う訳でこの読書会ならでは議論の深まりと、相互啓発が垣間見える面白いディスカッションが継続中。

読者の方、今からでもまだまだ間に合いますよ。ゆっくり読み進めていますから。
あなたもお仲間に入りませんか。 

 
 

2013年5月16日木曜日

復活のリアリティー

さて、小嶋も関わっている、スコット・マクナイト「福音の発見」がいよいよ発売となりました。

手元には早速「企画」CRISPのKさんによって5冊届けられました。

その流れで、スコット・マクナイトのジーザス・クリード・ブログで科学関連記事をレギュラーで書いているRJSさんのThe Reality of the Resurrectionを紹介します。

NTライトの、The Resurrection of the Son of Godと、ティモシー・ケラー、The Reason for Godから復活の事実性(リアリティー)の論点を紹介しています。

1. The resurrection is attested to early in Christian literature 
2. The gospel variation and presence of women as earliest witness attest to true testimony provided in these accounts.
3. The bodily resurrection was a foreign concept in Greek, Roman, and Jewish thought
4. The explosion of Christianity on the scene and the rapid, unstoppable growth despite persecution over the first several centuries.
5. The resurrection is the victory in the Christian story; it is the linchpin.
 動画のリンクもあります。