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2017年5月7日日曜日

Salvation By Allegiance Alone 1

こちらが、大和郷にある教会ブログにアップした「救いについての『教理』」を引き継ぐ記事となります。

こちらはこちらで幾らか前置きがあります。

ただ今フェイスブックのライト読書会では『シンプリー・ジーザス』を読んでいるのですが、その1章に『還元主義(リダクショニズム)』の問題を扱った箇所(24-6ページ)があります。
 私たち教会のほうこそ、本当は還元主義者なのだ。私たちは神の王国を個人的な信仰に、十字架での勝利を良心の慰めへと矮小化してしまっている。そしてイースターの出来事そのものを、悲しく痛ましいお話の現実逃避的なハッピー・エンディングにしてしまっている。信仰も、良心も、究極の幸せもみな大切だが、それらはイエスその人ほど大切なものではない。
還元主義/矮小化の問題は、
私たちは、イエスのいちばん大切な主張や彼の成し遂げた偉業から生まれる、巨大で世界を揺るがすほどのチャレンジを、他の問いの背後に隠し、体よくかわしてしまっている。
という指摘に続くものです。

ライトが問題にしているのは、私たちがいつのまにか「イエスのチャレンジ」を回避し、自分たちに収まりのいい「信仰生活・教会生活」に「イエス像」を調整(スケールダウン)してしまっていないか、ということです。

「イエスのチャレンジ」とは福音派になじみのある問題の形式に置き換えれば「福音」とその福音に対する応答である「信仰」のことになると思います。

「イエスのチャレンジ」を真正面から受けるような福音提示になっているか、という問題です。

Salvation By Allegiance Alone』はこの問題のうち「信仰(ピスティス)」に焦点を当てています。

新約聖書における「ピスティス」は英語で言う「faith(信仰)」より「allegiance(忠誠)」のような意味が強いのではないか。単に頭や心で「知的な事柄」を信ずるというよりも、イエスに信じ従って行く、その忠誠的態度を指すのではないか・・・。

そんな問題提起をするのが『Salvation By Allegiance Alone』です。

読書会の方ではその辺のことを以下のようにまとめました。
以前書いたのではないかと思いますが、ピスティスの質(クォリティー・性格)と連動しているのではないだろうか。
イエスに対するピスティスが「十字架贖罪(という教理)」の『信仰』にとどまってしまうのか、(自分を捨て自分の十字架を負って)イエスに従う『忠誠(allegiance)』として生涯発揮され続けるのか、そういう問題と関連があるのではないか。

そうしたら、ある方が、「この本に通じるのでしょうか」と言及したのが『Salvation By Allegiance Alone』でした。




早速グーグル・ブックスでスコット・マクナイトの書いた序文を読んでみたら、まさにピスティスのニュアンスに関するほぼドンピシャリのような本であることが分かりました。

しかし、この本は2017年3月の出版です。

筆者は、この「ピスティス」解釈に関し、従来とは違うラインで捉えていたのがライトであったことを思い出していたのですが、それがどこであったか探すのにしばらくかかりました。

ライトは「福音=イエスを王メシアと宣言すること」と捉え、その福音理解に呼応する形でピスティスを「忠誠」で考えていました。

結局記憶は呼び起こせませんでしたが、それらしき論文は探し当てました。

まずその論文を紹介してみます。

肝心のピスティスを「忠誠(allegiance)」と捉えている部分(10ページの第3と第4段落)以下に引用します。


This family, uniquely among families ......, bore only one distinguishing mark, and that was πίστις, faith. ‘Justification by faith’ was not, for Paul, a doctrine about how people could ‘find a gracious god’ without moralism. Nor does it speak merely, as the Romantic movement has encouraged some Protestants to speak, of the difference between outward and inward religion (a difference well enough known to first century Jews in any case). Nor is ‘justification by faith’ to be equated with ‘the gospel’ itself; it is, rather, its direct corollary. ‘The gospel’ is the announcement of the kingship of Jesus; ‘justification by faith’ reminds those who, abandoning their varied idolatries, have given their allegiance to Jesus that this very allegiance is the only distinguishing mark by which the renewed and united family of Abraham is to be known. All other possible distinguishing marks undermine the gospel itself, implying that the crucified and risen Jesus is not after all the one true king. Allegiance and loyalty to Jesus, ‘faith’ in this full and rich sense, is not the gospel itself; it is what the gospel is designed to produce and by the power of the spirit, does produce.
    For this is where Galatians has its equivalent of the statement in Romans that the gospel is ‘the power of God for salvation to all who believe’ (Rom. 1.16). When the message of King Jesus was announced it brought forth faith, and the only explanation of this is that the spirit works as and when the message is proclaimed. That, at least, is how I believe Gal. 3.2-5 should be read, not least in light of 1 Thess. 1.4-10 and 2.13. The royal proclamation is not simply the conveying of true information about the kingship of Jesus; it is the putting into effect of that kingship, the decisive and authoritative summoning to allegiance. That is why it challenges the powers. That is why to retain, or to embrace, symbols and praxis which speak of other loyalties and other allegiances is to imply that other powers are still being invoked. And that is to deny, ‘the truth of the gospel’. 

というわけで、『Salvation By Allegiance Alone』の著者マシュー・ベイツもライト(そしてスコット・マクナイト)の影響を大いに受けていることを話していますが、このライン(福音=「イエスを王と宣言すること」、信仰=「この王に従うこと」)をさらに洗練し、先鋭化していることがうかがわれます。

以上がイントロです。

今後は以下にリストアップした「書評」や「インタヴュー」を紹介しながら『Salvation By Allegiance Alone』に迫ってみたいと思います。

チャド・ソーンヒル(Chad Thornhill)の書評、

2016年12月4日日曜日

『新約聖書と神の民・上』の書評紹介

 『新約聖書と神の民・上』が2015年12月に新教出版から出てちょうど1年になります。

4月には訳者による出版記念講演会もありました。

その後ネット上での反応が出てくるか気にはしていたのですが、小嶋が知っている方々を除くとまだ少ない感じがします。大著ということもあるのかも知れません。

でもちょうど出版1年ですので、ここでまとめて紹介しておきます。

(1) 久保木牧師のブログ(現在5回目まで続いています。)
(2) 一キリスト者からのメッセージ(現在25回目まで続いています。)
(3) 『本のひろば』(2016年6月号)、小林高徳氏(東京基督教大学学長)
(4) 自然神学・環境・経済

(4)は京都大学の芦名定道氏のブログと聞くが以下の寸評が付けられている。
 方法論的な議論がきちんとなされた上で大きな構想の中での論の展開であり、意欲的な著作である。背景に、リクールなどの現代哲学の動向も見え隠れし、「第5章 「神学」、権威、そして新約聖書」の「1. 序論:「文学」と「歴史」から「神学」へ」の議論の設定などは、わたくしも従来から論じてきた主張も合致している。新約聖書学でもこうした議論を行う研究者が現れていることは心強い(印象としては、ドイツとアメリカの中間的なポジションと言えるだろうか)。議論の細かな点においても、示唆的な内容が少なくない。
 訳語の選択に気になるところも存在するが、訳者あとがきは詳細であり、ライトを理解する助けとなる。

以上。また見つかったらそのつどご紹介します。(←ツイッターでは逐次紹介しています。)

2015年10月12日月曜日

ライトのパウロ研究をめぐる論集

N.T.ライトの「キリスト教起源と『神』問題」シリーズは、現在、
Paul and the Faithfulness of God(以下PFG)
で予定6巻中の第4巻を刊行した。

そのつど論集が組まれプロもコンも含めた学者たちが、ライトの野心的な新約聖書神学研究を分析評価している。

このブログでもPFGへの書評はそのつど目に付いたものは紹介してきた。

1. ダグ・ムー (ホィートン大)
2. ベン・ウィザリントン (アズベリー神学校)
3. ラリー・フルタドフルタド2フルタド3 (エディバラ大)
4. アレクサンドラ・ブラウン (ワシントン・リー大)

ここでやめてしまったが、実はPFGに対する最も厳しい書評がセントアンドリュース大の同僚ダーラム大のジョン・バークレーから出された。 (ついでといっては悪いが、クリス・ティリングの書評も好評。)
5. ジョン・バークレー
6. クリス・ティリングティリング2

さてここまでは前段。

ライトのPFGに対する本格的な論文集が、マイク・バードら若手の学者たちによって企画されている。論文を寄せるのは英語圏のみならず、ドイツ語圏の学者たちも含まれる、より国際的な視野によるものだ。

(※中に一本韓国の学者によるものも含む。)

God and the Faithfulness of Paul

※PFGではなく、GFPですから、お間違いなく。
紹介文に
N. T. Wright’s Paul and the Faithfulness of God is the culmination of his long, influential, and often controversial career – a landmark study of the history and thought of the Apostle Paul, which attempts to make fresh suggestions in a variety of sub-fields of New Testament studies
とあるが、「引き締まった議論」という点で1700ページのPFGは大分批判を受けているが、多様な背景を一箇所に集めて「厚い描写(thick description)」を施すという人類学的手法に近い観点から言うと、新約聖書学の諸分野への波及が評価される点になるのかもしれない。

マイク・バードとともに編者のひとりとなっている、クリストフ・ハイリッヒはセント・アンドリュース大でも少し学んでいるが、今回の論集にドイツ語圏の学者たちも引き入れいれる役割を果たしているのかもしれない。

とにかく、このようなかたちで取り上げられるライトはいろいろな批判があっても、それだけ学問の分野の幅を広げたり、新しい視点を提供したり、貢献しているのだろう。

それがライトの影響力ということではないだろうか。

2014年10月17日金曜日

PFGに対する批判的な書評、アレクサンドラ・ブラウン

まだ本当に出たばっかりの書評だ。

ワシントン&リー大学宗教学部教授、アレクサンドラ・ブラウン

Paul and the Faithfulness of God (クリスチャン・センチュリー誌、2014年10月16日)

2014年4月14日月曜日

『大衆』向けPFG書評

 これは余りいい書評じゃないが(アンダーステートメント)、ライトのポピュラリティーが拡大すればするほど、こう言うことは当然出てくるし、ある意味異なる読者層間での批評空間が必要になることを示唆するものだろう。

 とても一つの批評空間で一つの作品(ここで言えばPFG)を論評することは難しい。
 その好例として、フランク・ヴァィオラの、N.T. Wright: Paul and the Faithfulness of God – A Review December 1, 2013(リンク)を紹介する。

 誰でも自分の獲得している知見や解釈枠組みの範囲内で収まるように「楽に読みたい」ものである。

 と言う命題を立ててから考えてみよう。
 フランクは、「聖書のグランド・ナレーティブ」と言う点で、自分のものと、ライトとのものが、簡単に比較できるもののように思っているようだ。
N.T. Wright holds to a grand narrative of Scripture (as do I, as set forth in From Eternity to Here).
特にフランクは、「聖書のグランド・ナレーティブ」における『永遠の目的』と言う部分にこだわりがあるようだ。
 そのためフランクの書評は殆んどこの『永遠の目的』規準から、ライトがどこまで書けているか、或いは書けていないか、と言う叙述に堕してしまっている。
 何しろD・L・ムーディーやウォッチマン・ニーが同一線上で議論されるという恐ろしい展開になっているが、本人はあまりその辺のことに「違和感」や、ある種の「認知的不協和」を感じていないみたいである。(だからこんな書評が架けるのだろうが・・・。)

 実はフランクは書評でこのような引用をしている。
On Wright’s scheme, one critical reviewer remarked, “Wright seeks a macro-conceptual/theological narrative through which to read the entire NT. To my mind the risks in this include imposing such a narrative monolithically upon texts.”
しかしフランクは言及箇所を示さない。
 多分彼のブログの読者には「難しい」とでも思ったのだろうか。
 
 しかしグーグル先生(と言う表現は私のものではないが)にかかれば出典はほぼ判明する。
 この記事だ。
 悪いことに(或いは一種の隠蔽か)、この段階ではフルタド教授はPFGを受け取っただけで、PFGのデカさに言及しているだけで、書評はしていない!
 しかもこの引用は記事本文ではなく、コメントセクションでのものである。
I’d say that one difference between Wright and me is that he seeks a macro-conceptual/theological narrative through which to read the entire NT.... imposing such a narrative monolithically upon texts.

最後の部分は文法的に不備で言い足りていない。

 そんな書評前の少し不用意な発言を引用してフランクは次のように続ける。
This is true. The fact that Wright’s grand narrative is somewhat different from mine is an example of this.
書評もしていない前の(多分に先入観的判断の可能性もある)言葉を捉えて、「本当」も何もないだろう。「ライトと自分のとは違う」も何もあったもんじゃない、と感じても致し方なかろう。

 現在PFGに関してはラリー・フルタドの連載記事書評を紹介しているが、フランクの書評は全然次元の違うものであることは一読してすぐ分かるだろう。

 フルタドの書評は、ほぼ同じ学術領域で研究して来た者の「批判的、エンゲージングな書評」であり、他方フランクはフルタドと肩を並べるかのような読解をしたような印象を与えるが、要するに『大衆』向けの言っちゃ悪いがウエメセ的読書指導に近い。

 しかし既に指摘したようにフランク本人がPFGをどこまで理解できているか甚だ疑わしいので、一応大雑把なアウトライン的要点ポイントを提示されても、それがフランクのうちでどう解釈されたのかは、「フランクの解釈枠組み」に引き付けて読まれたであろうこと以外は、つまりPFGに即した批判的な読みは殆んど分からない、と言って良いのではないかと思う。
It’s a work for the academic community, primarily. However, readers of dense material can profit from it. Those who live on a steady diet of Max Lucado, Francine Rivers, and Beth Moore can use the book as a door stop or a nice fire-starter.
マックス・ルケードという日本でも知られた「大衆的作家」の名を挙げているが、そんな簡単に「有用・有益」になるなどと言えたものやら・・・。
 誰でも自分の獲得している知見や解釈枠組みの範囲内で収まるように「楽に読みたい」ものである。
と言う命題に戻ろう。読む価値のある本とは「自分が住み慣れた理解」をチャレンジするような本であり、じっくり読むことによって次第に自分の「意味地平」と著者の「意味地平」との間にある壁に気付き、それと格闘することによって「新たな意味の地平」が築かれるような本であろう。

 簡単に自分の懐に収まるような本など、大した本でないか、(フランクとPFGにおいては)殆んど読めていないか、と言うことになるだろう。

 コメンターの一人が「critical realism」について質問しているが(ベン・マイヤーと宗教社会学者のクリスチャン・スミスとの相違について)、恐らくフランクは「面倒臭いから説明を省く」のではなく、もっと単純に「分からない」のであろう。

 もし分かっていたら、つまり「キリスト教起源」シリーズの方法論的意図や意義を理解していたら、こんな書評は書かないと言うことだ。

 以上依然としてPFGを手にとって読んでいない、その意味ではフランクのフルタド引用の仕方と同罪の、小嶋の「偉そうな」解説でした。

 

2014年4月7日月曜日

フルタドPFG書評3

 ラリー・フルタド教授(エジンバラ大)のブログで連載されている、ライトのPFG書評紹介の続きです。

 さて今ライトの聖ミレタス大学でのレクチャーを聴きながら書いているので、集中力が分散していますので、支離滅裂なところが出てくるかもしれませんが、とにかくフルタド教授のブログ記事を読んで頂ければ、と思います。

 今回のフルタド教授の疑問は「イスラエル民族と教会(イエスをメシアと信じた者たちの共同体)の関係」についてです。
That is, ironically, in Paul’s view it was the appearance of Jesus and the preaching of the gospel that produced any failure on the part of Israel.  The failure was specifically to refuse to acknowledge Jesus as God’s new eschatological revelation, and in this way their “zeal for God” is “not according to knowledge” (Rom. 10:2).  So, I don’t see anything in Paul that supports Wright’s grand narrative of the national failure of Israel that Wright posits.  And that means that I see no basis in Paul for Wright’s notion that Jesus assumed the role and responsibility of Israel.
と論難しているように、フルタド教授は、ライトのグランド・ナレーティブの「イエスが神の民としての使命を失敗したイスラエルの役割と責任を一人で負った」、と言う部分を俎上に挙げ、そのような理解はパウロ書簡(特にロマ書)には見当たらない、と主張しています。

 これは釈義とは別な神学議論で言うと、「教会によって民族的イスラエルの役割は取って替わられた(だからイスラエル民族の歴史における宗教的意味は最早なくなった)」と言う解釈(スーパーセセッショニズム)に関わってくるものです。

 フルタド教授は「新約」後も、イスラエルとの契約はなくならず、「二つの契約」は並行して継続される、と言う観方に否定的な点ではライトと同じですが、民族的イスラエルの意義が全然なくなったわけではない、と言う点でライトのロマ書9-11章解釈をチャレンジします。

 フルタド教授はライトの解釈(イスラエルの役割がイエス一人に集中して代理される)がロマ書2章25-29節の解釈から大きく影響されたものではないか、と疑問を投げかけています。
    It’s clear that for Wright his reading of Romans 2:25-29 is crucial to this notion that the oneness of the people of God cannot accommodate a continuing ethnic entity of “Israel”.
イエス・キリストによって実現した「アブラハムの家族」が一つである以上、イスラエルは教会と民族的イスラエルに二分されない、と言うことでしょうね。

 フルタド教授は、民族的イスラエルは教会と並存しながら依然として約束の実現を待っている、と言うのがパウロの観方だ、とロマ書解釈でライトに対抗します。
To be sure, their respective identities were to have no negative impact upon accepting one another, for they were all “one in Christ Jesus” (Gal. 3:28).  But along with that oneness there remained (for Paul) the significance of “Israel” as fellow Jews, who were (as he saw it) heirs of divine promises (Rom 9:4-5).  Although at present, most of his fellow Jews were “enemies” (so far as concerns the gospel), they were, nevertheless, “beloved” by God, whose gifts and calling were irrevocable (11:28-29).

 残念ながら小嶋はまだPFGを持っていないので、フルタド教授の提出している疑問がPFGにおけるライトを正確に解釈したものかどうか判定できません。

 しかし聖書の引用箇所だけで言うと、「イスラエルの不信仰=失敗は、イエスの出現と福音宣教の結果」であって、イスラエルの失敗がメシア・イエスを生じさせたのではない、と言うポイントはどうも「ライトのグランド・ナレーティブ」の読み方を時間軸と逆行して読んでいるように思うのです。

 あるいはフルタド教授は(ライトの解釈に対抗するために)ロマ書11章の解釈からスタートしてパウロのナレーティブを構築しようとしているのではないか、とも思えます。


 既にお持ちの方はどんな感想をお持ちになるでしょうか。

 では連載はまだ続いているようなので、次回に。

  

2014年1月20日月曜日

PFG書評シリーズ ベン・ウィザリントン

ここのところライトのPaul and The Faithfulness of Godの書評をブログ等で展開している方々のものをちょこっとずつ紹介している。

今回はベン・ウィザリントン(アズベリー神学校新約学教授)のBible & CultureブログでのPFG書評シリーズ、その④から引用する。(リンク
Tom is not merely a global thinker, he is a longitudinal thinker and in most major things he has not changed his mind much in the last two decades and so he can say things like this and mean them. Not many persons, including not many scholars, have that degree of orderly sequential mental processes and convictions over such a long stretch of time.
これは結構重要なポイントだと思う。

ライトは考え抜いたことを書き物に著し、その後膨らましたり、展開したり、色々発展はするが、基本的にぶれない、と言うこと。

これはウィザリントンが「過去20年」と言っているが、もっと長いと、小嶋は考える。

いずれにしてもPFGは他の先行する研究書で展開された議論に基づいていることを弁えることは、PFGと言う大著を踏破する上でも助けになるだろう。