2015年2月20日金曜日

2015年度(リアル)読書会、案内その2

先日ご案内した「2015年度(リアル)ライト読書会」第1回目ですが、
日時:2015年3月21日(土、春分の日)、午前10時~12時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会隣の活水工房ティー・ルーム
課題テキスト:『聖書と物語』 
と言うことでちょうど1ヶ月前となりました。

今回はテキストの『聖書と物語』を読んだ(クリスチャン新聞前編集長) 根田さんの感想を紹介しながら当日予想されるディスカッションテーマを探ってみたいと思います。
(※残念ながら根田さんは当日先約があり不参加とのこと。) 

以下メールでの対話

根田さっそく日本語訳をお送りくださりありがとうございます。基本的な視点はローザンヌ運動の前神学委員長だったクリス・ライトのMission of God とも相通じるように思います。随所にちょっと逆説的な問題提起があり、非常に興味深い論考ですね。」 

(クリストファー・ライトのMISSION OF GOD邦訳版第1巻)

小嶋「どういたしまして。クリス・ライトと比較した『逆説的な問題提起』と思われる部分はどこかご指摘頂けると、読書会のディスカッションのために有益だと思います。宜しければその箇所と、クリス・ライトの側の主張をご指摘いただければ幸いです。」 

根田 
クリス・ライトのMission of Godのベーシックトーンは、聖書は神の壮大な物語であるという視点です。
彼は旧約学者なので、アブラハム物語から説き起こします。神がアブラハムと祝福の契約を結んだのは、選民イスラエルをえこひいきするためではなく、世界の全ての民を祝福されるためであったということに焦点を当て、アブラハム以後の神の民のエピソードの中でも随所に同じ世界の全ての人への祝福というメッセージを読み取ります。その究極の実現がイエスの出来事であると捉え、旧約と新約を連続して一貫した視点で描きます。

神はもともと一貫して世界を祝福したくて仕方がなかった、そのためにその時代その時代に人を立て、神の宣教を遂行してきた。しかるに、現実の世界は神が創造された意図から離れてbroken worldとなっている。それゆえに、世界に満ちている人権侵害や差別や貧困やエイズのような病気の蔓延など、社会の諸問題にきちんと向き合って対処しようとする営みは、「社会事業」ではなく福音のミッションとして捉えられます。いわゆる狭義の福音伝道だけでなく、世界のあらゆる問題に対応することが福音のミッション(宣教)であるということになります。

そのこととも無関係とは言えないと思いますが、私が「逆説的な問題提起」と感じたのは、例えば、「聖書に従順でありたいと願うならば、聖書を関心の中心にしてはならない」とか「関心の焦点は聖書であるだけでなく、世界の主であるキリストであるべきである」といったところです。「聖書信仰」と言いながら、非常に狭い個人倫理に閉じこもろうとし続ける福音派が聞くべき声だと感じます。ローザンヌ運動も「福音派」の運動であるというアイデンティティーを取り下げていませんが、軸足を「福音」「聖書」に起きつつも、それを目的化するのでなく、福音や聖書が世界に対してどういう意味を持っているのかに目を向けさせます。クリス・ライトが起草委員長を務めた「ケープタウンコミットメント」はそういう視点で書かれています。
と言うことです。

(1)宣教的な視点で聖書を「神の壮大な物語」として読む、クリス・ライトとの共通点
 と言うトピックが提案されました。

 今回はクリス・ライトの「神の宣教」を取り上げることは出来ませんが、「教会の宣教の根拠」を聖書自体のグランド・ナレーティブに求める、そしてそこから「個別化し断片化する宣教論」ではなく、「包括的な宣教論」を導く・・・と言うことが「対比点」になるのではないかと思います。

トム・ライトの『聖書と物語』は様々な人権問題・倫理問題と言うよりも、文化面が対象です。
すなわち聖書は包括的物語として読む時、自ずと「諸宗教・諸思想との世界観的対立」に導かれるということ。

世界観の衝突の問題を理解すれば、聖書と現代文化の接点が、初代キリスト教とそれを取り巻く社会的環境との接点に類似する点が多いことが容易に理解できるだろう。聖書そのものを、包括的な物語を理解して読む時に、この物語が他の世界観と対立するものであることが分かる。(『聖書と物語』3ページ  
以下対立する「世界観」として挙げられているのは
 (1)多神教
 (2)理想主義
 (3)格言世界
 (4)多神教の権力構造
 (5)他の終末論
 (6)他宗教


以上、21世紀のグローバリズムに生きる私たちが、「諸宗教との対話」や「多文化主義」の問題を考える時、また日本にあって「寛容な多神教対排他的な一神教」の問題等を考える際の一つの指針を提供してくれる小論文ではないかと思います。


ここまで読まれた方で関心が湧いた方、『聖書と物語』を読んでみたい方、ディスカッションに参加したい方、どうぞご参加ください。
(『聖書と物語』はまだドラフト訳なのでアップしていません。今回は出席予定者にお渡ししています。)

問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)

※なお会場整備のため出席希望の方は事前にお知らせください

※第2回は6月頃、課題図書は、(2)英語の論文となる予定です。またご案内します。


N.T.ライト読書会主宰
小嶋 崇

2015年1月20日火曜日

FB読書会の3冊目はSimply Christian

Facebook上でのライト読書会の報告と案内です。

今まで読んでいた、Surprised By Hope、を2014年末で読み終えました。

次の本を選ぶため話し合っていましたが、
Simply Christian
に決まりました。

何と現在このサイトで、8円で売っています。
ものすごいお買い得です。
(※なぜこのような価格なのかよく分かっていませんが・・・。)

まもなく「シンプリー・クリスチャン」の邦訳が出版される見込みですが、それまでは英書で進めて行きます。

以上よろしくお願いします。

N.T.ライトFB読書会
世話人:川向肇、中村佐知、小嶋崇

2015年度(リアル)読書会、その1

2015年度第1回の読書会のご案内をいたします。

今年からライト翻訳書が出版されることを想定して、リアルのライト読書会 は、
 (1)翻訳書を使ったセッションと、
 (2)英語の主にNTWrightPage.Com掲載の論文を使ったセッション、
の二本立てで継続したいと思っています。

※第1回は翻訳書がまだ出ていませんが読書会メンバーが訳した小論文を使います。

日時:2015年3月21日(土、春分の日)、午前10時~12時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会隣の活水工房ティー・ルーム
課題テキスト:『聖書と物語』


The Book and the Storyのドラフト訳です。
※邦訳版はアップしていませんので、出席予定者及び希望者に配布いたします。

※The Book and the Story、はN.T.Wright Page.Comで掲載されているリンクは切れています。
こちらのリンクをクリックしてください。

今年新教出版社から邦訳出版予定のThe New Testament and the People of God、上巻は「キリスト教起源シリーズ」の序論・方法論などが入ったかなり読み応えのあるものです。

今回の課題テキストは、その入門編とも言える『ストーリー』『世界観』を平易に扱ったものです。
日本語で最初に読むものとしては、短く、問題点も整理されていて読みやすいのではないかと思います。

!!案内その②もアップしました。(2015/02/20)

関心のある方、都合のつく方、ご参加ください。


問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)

※なお会場整備のため出席なさる方は事前にお知らせください

※第2回は6月頃、課題図書は、(2)英語の論文となる予定です。またご案内します。


N.T.ライト読書会主宰
小嶋 崇

2014年12月18日木曜日

イエスの復活の身体④

ライトにとって「復活」がキリスト教の中核的メッセージであることは、彼のキリスト教の包括的把握が「創造→新創造」であると見做すことで、ある程度明らかではないかと思う。

しかし、
①中世以降のキリスト教がギリシャ思惟的二元論に浸透されて、「死んでからあの世に行く」救済教になり、
さらに、
②啓蒙主義の支配下で「私的、敬虔主義的信仰」に閉じ込められた後、
③もう一度「本来の使徒的な福音」である、「全宇宙を視野に入れた包括的レスキュー・ミッション」に再起動されるために、

ライトがことさら主張したポイントは
④単に「復活」ではなく「身体を持った復活」であり、
⑤罪と死に隷属されているとは言え、依然として全体として贖われるべき被造世界に対する「イエス」のメッセージ

であった。

ここまではライトの主張は説得力があり、特に欧米のキリスト教圏における受容は(理解度において深浅はあろうが)広範なものがあるように思う。

しかし脱キリスト教化した、世俗化した層への到達度・浸透度となるとどうなのだろう、との疑問はあるだろう。

キリスト教内にあっても、同じ新約聖書学のギルドにいるジョン・ドミニク・クロサンやマーカス・ボーグとの討論によって、どれだけ感化できただろうか。

もちろんライト一人に「本来の使徒的な福音」のアポロジストとしての役割を押し付けるのはどうかとは思う。
既にこれまでの旺盛な著作活動、講演活動で、ライトは多くの者たちを啓蒙してきたし、それによって「キリスト教が新しく感受できる」ようになった人はかなりの数に上るだろう。

しかし、敢えて、ここで「身体の復活」の含意を掘り下げるとどんな問題が出てくるだろうか。

幾つかのも問題はぼんやりとは脳裏に上るが、余りしつこく議論されてきていないものが幾つかあると思う。

①「復活の身体」の連続と非連続の問題
所謂、死後の2段階移行において(ある意味分離した)『身体』と『意識(たましい)』はどのような再統一を与えられるのか、と言う問題。
ライトが好んで用いる比喩が、ジョン・ポルキングホーンの、「今のハードウェアが死んでなくなっても、(神のもとに)保存されたソフトウェアーは維持され、(死者の復活で与えられる)新しいハードウェアーに再インストールされる」、というものである。

『意識(たましい)』の問題を『自分』あるいはアイデンティティーの問題として考えるとどうだろう。
身体的には全く更新しながら、どうやって『自分』が回復されるのだろうか。

このような疑問にライトが用いるのが、「人間の身体は細胞レベルで考えれば7年くらいで殆ど全部入れ替わるが、7年前も今も同じ『自分』として保持されているではないか」、と言うものだ。

②「万物が更新」した世界が最早朽ちることなく、永遠に続くとすると、果たして人間は一体何をして過ごせば充実感を得られるのか。「終わりがない」ことは却ってつまらなくないか。


以上のような、より哲学的な問題をライトと、イェール大学のシェリー・ケーガン教授が討論している動画を紹介しよう。


※ケーガン教授は身体的復活を信じないけれども、少なくともその可能性まで否定するつもりはない。ただ彼にとってもし「復活の身体」があったとしても、そのような「生」がとても魅力的であるようには思えない。そのような疑問をライトにぶつけている。



※この動画を見ながら「ライトの後に来るキリスト教アポロジスト」はかなり高レベルの知性やユーモアが必要だろうなー、と思いました。

2014年12月12日金曜日

パウロ研究動向にシフト?

『福音の再発見』の著者で、「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ」の名付け親、ジェームズ・ダン教授(英国ダーラム大学)のもとで博士号を取得したスコット・マクナイト氏が、自身の「ジーザス・クリード」ブログで、
The Conversation Shifts
と題する記事を投稿した。

簡単に紹介すると、
(1)過去「20年以上」にわたってパウロ研究をリードしてきた「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対オールド・パースペクティブ」(略して、NPP vs. OP) 論争がほぼ収束し、それに替わって
(2)「ニュー・パスペクティブ・オン・パウロ対アポカリプティック・パウロ」(略して、NPP vs. AP)論争が支配的になってきた。
つまり、パウロ研究での論争が、 NPP vs. OP、から、NPP vs. APにシフトしつつある、と言う観測である。

(1)についてのポイントは、既にこの記事にも少し書いておいたが、英語圏のアカデミックな世界では「収束」したと言っても、その外、特に日本では「まだこれから」観がある。

マクナイトが次のようにNPPの視点の意義を要約しているが、コンサイスでいいかな、と思う。
With the growing conviction that Judaism was a covenant and election based religion (Sanders, Wright) there came a radical change in how Paul’s opponents were understood and therefore what Paul was actually teaching. He was, to use the words of Dunn, opposing “boundary markers” more than self-justification.
「ユダヤ教は契約と選びに基づく宗教である」 と言う認識は、NPPの立場を取るマクナイトにとって、「アポカリプティック・パウロ」に対する疑問点のベースになるものだろう。
Concerns? Plenty. Where’s Israel, where’s the Story of Israel, where’s serious engagement with Jewish apocalypses (where one learns that many today do not think there is even such a thing as an apocalyptic worldview so much at work in the work of these apocalyptic Pauline specialists), where’s election, where’s the church, where’s the very problem that drove Paul — the vexed relation of Jews and Gentiles in the one people of God?
いずれにしても、ある種「論争」的なものが付きまとうのが「学会」であるとすれば、部外者としてはせめてその論争が鋭く対立することによって見えてくるものを期待するのもよしかなと思うが・・・。

2014年12月8日月曜日

FB読書会 2014年11月近況

10月近況」に続いて、11月近況を掲げられるとは・・・。

季節は早くも待降節に入りました。

最終章、15章 Reshaping the Church for Mission (2)、は(個人的な印象だが)残ったものを全部積み込んだ感じの長い章。

読書会の方も進展具合が緩慢になり、息の長いラストストレッチである。

さて、この章の、Resurrection and spirituality、と言うセクションを進んでいる。

New birth and Baptism(初担当のTさんがリード・・・ほぼ全訳してくださった)

ここでの討論は洗礼の形式(浸礼と滴礼) の違いが教会内で統一していないことで、他教会からの転入時、果たして異なる形式の洗礼を受容するかどうか・・・と言う問題に集中。

なかなか議論としては興味深かった。

Eucharist

洗礼に続いて聖餐ということで、サクラメント神学が話題になったが、聖餐の方では「職制」もかなり議論になった。

読書会に参加している方々はどちらかと言うとロー・チャーチ系で、さらに職制を認めない群れも加わっている。
「聖体」の象徴説か現臨説も議論されたが、プロテスタント教会史を大きくカバーする話題なので討論参加の方々のウンチクが披露された感もあり。

Prayer

この部分は余り討論が盛り上がりませんでした。
消化未了か・・・。

Scripture

霊性との関わりでの「聖書(を読むこと)」がテーマであったが、「ディスペンセーション主義」の話題に火が点いて、別スレッドでも議論が続いた。

11月の中では一番盛んな、ホットな話題となった感あり。


※どうやら最後の、Love、までリーダーの方の投稿がなされたので(討論はまだ進展していない)、年内には一応の「終了」宣言が出るかもしれません。

2014年11月11日火曜日

復活:学問と信仰

「イエスの復活の身体」と言うテーマで何回か投稿したのがそのままになっている。
イエスの復活の身体 ①
イエスの復活の身体 ②
イエスの復活の身体 ③
しばらく前、ネットでこんなものを見つけた。
原口尚彰『新約聖書の死生観』
本稿は2013年8月26日に東北学院大学で開催された「第7回教職(牧師・聖書科教師)研修セミナー」で行った講演原稿に加筆したものである。
とある。まだ最近のものと言うことだ。

新約聖書(福音書、パウロ書簡、黙示録、)文献に沿って「死生観」について概観したもので、ドイツ語、英語、日本語による研究文献を参照している。

その中にはN. T. Wrightのものは何も見当たらない。

あっさりとした概観の印象だが、「まとめと展望」の中に以下のような感想と言うか観察が加えられている。
現代の教会も教理としては,世の終わりにおける死者の復活の思想を維持しているが(使徒信条第三項やニカイア・コンスタンティノポリス信条第三項を参照),信徒が現実に持つ信仰において,終末の到来の切迫感や死者の復活の希望のリアリティは薄れ,死後は天に召され,他の召天者たちと共に神の御許で憩うイメージを漠然と抱いている場合が多いのではないだろうか。(強調は筆者)
少なくともこの観察は、ライトがSurprised By Hopeで指摘した、Going to heaven when you die、神学が日本でも踏襲されている、と言うことを傍証するものではないか。