2015年9月3日木曜日

第4回 N.T.ライト・セミナー

9月を迎えました。

第4回 N.T.ライト・セミナーまで1ヶ月となりました。

日時: 2015年10月5日(月) 13時30分~16時30分
場所: お茶の水クリスチャンセンター・416号室(50名収容)


簡単にご紹介します。

Ⅰ. 開会講演

スピーカー:上沼昌雄(『クリスチャンであるとは』訳者)

テーマ:「『クリスチャンであるとは』にみるN.T.ライトの歴史観」

趣旨:
「聖書を読む時、私たちはこれまで『16世紀が設定した問題に、19世紀が回答する』枠組みを用いてきた。しかし今や『1世紀が設定した問題に、21世紀が回答する』枠組みに取り替えるべきときである」
We need to find 21st Century answers to 1st century questions, not 19th century answers to 16th century questions - See more at: http://www.biblesociety.org.au/news/n-t-wrights-australian-visit-sparks-respectful-arguments-on-pauls-writings#sthash.KcJogkuU.dpuf
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という決まり文句を使って、ライトは「現在の混迷する(西洋)キリスト教の所在と、そこからの脱出のヒント」を示唆する。

ライトの著作に流れるこのような(歴史認識のずれた神学論争に対する)問題意識を無視してライトを読むと大変な読み違いをすることになるだろう。

いかに「1世紀の視点で、そして21世紀の問題意識をもって聖書を読む」か。その作業の重大さと難しさを覚える。

その困難さを『クリスチャンであるとは』から紹介しながら、ライトという人の歴史観とはいかなるものか考えてみたいと願っている。 


Ⅱ. 研究発表

スピーカー:伊藤明生(東京基督教大学神学科長・新約聖書学教授)

テーマ:「呪いと契約:ガラテヤ3章10節~14節」

趣旨:
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3章10節、新改訳)
N.T.ライトの新約聖書理解は、旧約聖書を単に「背景ストーリー」として参照するのではなく、創造から始まり、イスラエルの民の選びと契約という「大きな物語の成就」としてイエスの十字架と復活を捉えます。

特に「十字架の贖罪」理解において、「契約」が決定的に重要な要素であることを、ライトは自身の論文集、The Climax of the Covenant: Christ and the Law in Pauline Theologyで論証しています。
発表ではその議論を紹介し、私たちのガラテヤ書理解にどんな光を投げかけるか見てみたいと思います。

参加費千円を当日受付にて係りの者にお支払いください。

チラシも間もなくできることと思いますが、しばらくお待ちください。



問合せ・連絡:(小嶋崇)t.t.koji*gmail.com (*を@に変換してください。)


セミナー実行委員一同

2015年8月30日日曜日

FB読書会 2015年8月近況

恒例の月例報告です。

先ずは本書の方から。


進展具合から言うと、第5章が(担当者発表分までは)終わりました。

 
今回が2回目の担当となるのか、Yさんが担当したのは、
第五章『神』、81-85ページ。

Yさんは特に「・・・神を片隅に追い込み、押さえ込んで・・・」(84)のところに注目しました。「押さえ込み」が原文ではpinned downとなっていることに関して、
あたかも生きている蝶を捕まえて殺して標本にして「ピンでとめて」コレクションに加えて鑑賞する、そんなイメージが湧きました。人間の知的営みの犠牲となる「神」のイメージです。
 クリスチャンもそれぞれ神についてのイメージを持っていて、「神なんてもうわかってるよ」と思いがちだと思います。しかしその態度それ自体がまさに神を「ピンでとめる」ことであり、神の自己開示を拒絶する、これがイエスの受難そのもの。
と感想を述べておられました。

その後この「ピン・ダウン」についてのディスカッションがかなり続きました。



次に、レギュラーのMHさんが、続く86-92ページを担当されました。 



ここはこの本にも多用されている「天と地がどのように関わる(関わらない)か」についての「神論」的に見た場合の3類型(汎神論、理神論、ユダヤ・キリスト教神観)が導入されている箇所です。

その前置きの部分、「天」と「地」がどのように交差するか(しないか)について以下のようにコメントくださっています。

 聖書では、私たちの世界を地と呼ぶ。天は空を示す事もあるが、通常は私たちの現実に対する神の現実の次元を示すことが多い。
 この「次元」(原著 Dimension)というのは案外大事だと思います。つまり、3次元が2次元や1次元を包括するように、神の次元、天の次元は、 人間の現実次元を包括するということを言いたいのかなぁ、と思います。単に別世界という意味での次元間の交差がほとんどない異次元ではなく、きっちり地の 世界を内包するものとして、天の次元をとらえている様な気がします。
ここは概念的にもなかなか理解が込み入りやすいところだと思いますが、先ずは「なるべくやさしく解説している」部分だと思います。


第5章の残り(92-101ページ)は、小嶋が担当しました。

(ですので半分だけここにも掲載します。)

その①
「天と地は重なり合い(overlapping)、かみ合っている(interlocking)」

『天と地が重なり合い、そうすることで神は天を離れることなく地にいるという意味づけは、ユダヤ教と初期キリスト教神学の中心にあった。多くの混乱はまさ にここにある。もしクリスチャンの主要なこの主張を、他の思考の枠(・・・選択肢1と2・・・)で考えるなら、不可解で変なものになり、おそらく矛盾して さえ見えるだろう。しかし、正しい枠に戻して見るなら、まさに意味が通じるようになる。』(95)
一つ具体例からこの議論にアプローチしてみます。

カウンセリング対象の方でこう言う方がいました。まるっきり宗教音痴なのです。親が宗教に関心がなく、およそ信仰とか宗教とか無縁で育ちました。精神的な悩みで世俗のカウンセリングを受けていたのですが、宗教的な信仰を勧めらきした。

「祈り」をしたい、どうしたらいいか・・・と言うことでアドバイスしたのですが、先ず「神に向かって祈る」といってもその感覚が分かりません。その存在も 意識できないものに向かって祈るということが不可解なためです。まるで壁に向かってごにょごにょやるようなことが何の役に立つのか・・・。

しかしそれでもトライしようということで「何を祈るか」となった時、思いつくのは「祈ればすぐ目に見えてその効果が分かるような祈り」なのです。まるでマジックでもするみたいな・・・。

この人にとって「壁に向かって祈るような・・・」は、《選択肢2、理神論》のようなものです。余りにも自分の場である地と神の場である天とが全く接触点がないので祈りという行為にリアリティーを見出せないのです。

次に、もしトライするとするとその祈りはまるで「マジックのようなもの」になるとは、《選択肢1、汎神論》に近くなります。殆どスイッチポンの自動機械の ような感覚です。祈る、というよりただ「開けゴマ」を口にするようなもので、(人格的な)神というより日常的リアリティーにある様々な因果関係の仕組みを また一つ覚えるようなものです。

二つの選択肢(汎神論と理神論)をこのような具体例で考えてみても何となく分かると思いますが、結局一種の合理主義的なリダクショニズム(単純化)になっ てしまうのです。それに対して旧約聖書が示す「神と世界の関わり」は(天と地の重なり合い)はかなり複雑で多様であり、簡単な形式ができません。

それが「もしクリスチャンの主要なこの主張を、他の思考の枠で考えるなら、不可解で変なものになり、おそらく矛盾してさえ見えるだろう。」ということになるのだと思います。

四つの声の響きが「真正なもの」であるとは、キリスト教的世界観からいえば、神が造られた世界と人間は、複雑で多様な「神と人とのあり方」を抱合する関係 なのだ、ということでしょう。それはやはり神と人との「人格的な交わり」を暗示する複雑さであり、多様性であり、旧約聖書の「セオファニー(神が世界に、 人に顕れる)」はその様々な例証である、ということに繋がるのだと思います。


前回の報告でも『クリスチャンであるとは』の書評を一つ紹介しましたが、今回も一つ。
木原活信ブログ
おすすめです。
 

この他目立ったものでは、「ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ」 関連の記事(と言うより警戒注意を含んだ感想のような・・・この読書会の方ではありません)が紹介されました。

それで少し「パウロ研究」、特にNPP(ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ)についての現況を討論しました。


また、8月の入会者数は6名で、トータル167名となりました。
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2015年8月2日日曜日

FB読書会 2015年7月近況

恒例の月例報告です。

先ずは本書の進展について。

まだ入会新しいMさんが担当したのは、

第四章『この地の美しさのために』、59-68ページ

Mさんのアプローチは、
第一部「ある声の響き」は、伝統的神学の用語でいえば、自然啓示の部です。自然啓示とは、神は外的自然・内的自然(理性)をとおして、私たちに語ってくださるという教理です。
というもので、キリスト教神学に慣れた方々が読むとそういう印象を強くもたれると思います。

こちらでも
『クリスチャンであるとは』は「神の存在証明」の現代(ポストモダン)版、ではないか。
との見立てをいわれた方がおりました。

一見「オーソドックスな啓示論に基づいた弁証論(キリスト教的な視点から『神はいる、そしてご自身を自然等を通して啓示している』と証明する議論)」に見えますが、そして確かに内容的にはかなり重なる部分もありますが)、アプローチとしてはポストモダンの懐疑主義やニヒリズムを意識した(彼らの内懐に入ろうとする)議論ではないかと思うのですが・・・。

その点を意識していただくと、もちょっと面白く読めるのではないかと思います。


次に、MHさんが、4章の残り『美と神と・・・』以降、68-77ページを担当されました。 
最高傑作の実態は作曲家の頭の中に在って、現時点で人間の側で演奏する準備がない、という表現で、本書冒頭に在った在る作品の部分譜が見つかった話と結び付けていて、我々の世界の不完全さを示しています。
と、その後イザヤ11章の箇所(創造された良き世界が回復されたイメージ) と続くわけですが、プラトン的な「イデアの世界」方向に完全を求めるか(結果は物質世界の軽視否定)、それとも現状不完全ながらも(将来に回復を希望する)世界肯定にとどまるか、選択が分かれます。

複雑な世界に、複雑な人生に』、71-77ページ、についてMHさんは
 「複雑さと単純さ(our complexity and our simplicity)を、次の5つの事をし続ける事で誇りに思い、そして楽しみ、祝う。即ち、私たちは物語を語る。儀式を執り行う、美を作り出す。コ ミュニティで働く、信仰を表明し、考える。」p.74は個人的にあぁ、N.T.ライト先輩はやっぱりアングリカンコミュニオンの人だなぁ、と思ったのです。
この辺りの複雑さを喜ぶということは、単純さ、分かりやすさを主眼に据えたアメリカ的なキリスト教のかなりの部分と違うなぁ、と思ったのです。特に、 「儀式を執り行う、美を作り出す。コミュニティで働く」という部分は、割とプロテスタントでは弱い部分なので、そこらをどう考えるのか、というのは個人的な問いです。
という感想をもたれました。

この「生活の細部」まで意味と意義に満ちた人生が、すなわち神の造られた世界に対する「イエス(肯定)」ではないかと、思われるのですね。


本書の方の進展は7月中はここまででした。
8月に入って早速第5章に進みましたが、それは次回ご報告します。


その他のことで言うと、当ブログで案内や報告したとおり、7月は『クリスチャンであるとは』の訳者上沼氏が来日して各地でセミナーや勉強会、キリスト教書店での講演会が催され、賑やかな月でした。


また、『クリスチャンであるとは』書評として、長田さんのブログ記事を紹介しました。

章ごとに要約されていて、ところどころご自分の「気づき」や「疑問」を挿入されています。
 
注意深く本書の視点と内容を掴まえていると思いますし、「ニュアンス」について今後の理解の課題とされている箇所も重要なポイントが挙げられています。

おすすめです。

また7月の入会者数は8名で、トータル161名となりました。 


以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2015年7月30日木曜日

(リアル)読書会報告 2015年7月

予定外の「雑談会」風な読書会でした。

『クリスチャンであるとは』出版祝!
訳者を囲んで雑談会!

 (日時) 7月23日(木)、15-17時(14時30分開場)
 (場所) 活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)


ライトの『クリスチャンであるとは』の訳者である上沼昌雄氏が7月に来日し、大阪、名古屋、山形、東京、を回られて各地でライト関連のセミナーや学び会をしています。

まあそれに便乗して小嶋が主宰する「ライト読書会」でも一つ。
ということで、週日の午後。
普通に仕事を持っている人には出にくい設定ではありましたが・・・。



出席者はご覧の6名でした。

最初に各自の聞きたいこと、討論したいこと等をリストアップして始めました。
(F) 第4章『美』についてのところが頭に入りにくかった。何かアドヴァイスを。
(I) 『あとがき』のコメント(338ページ「訳者はここ10年ほど・・・」以下の部分)をもう少し解説して欲しい。
(O) 「ピルグリメージ」を巡礼と訳さず「旅」と訳したこだわりを解説して欲しい。
(U) (N氏へ)「ライトを越える」とはどういう意味か教えて欲しい。
(N) ライトの英国教会内での影響力がどのようになっているか、特にダラム主教からセント・アンドリュース大に転進した辺りの経緯を知りたい。
(U) 今後「ライト」を(日本で)どうして行ったらよいか皆で検討したい。
といったところです。

以下要約とまで行きませんが、興味深かった点などピックアップして紹介します。 

(F) 第4章『美』についてのところが頭に入りにくかった。何かアドヴァイスを。

(脈絡はあいまいだが)第4章最後の部分「複雑な世界に、複雑な人生に」は、第1部全体の要約となっていて、第2部への橋渡し部分であるといった指摘がなされた後、訳者が指摘し、編集のO氏がこだわった箇所として以下のくだりが紹介された。
この世界、すなわち音楽と性、笑いと涙、山岳と数学、鷲とわらじ虫、彫刻と交響曲、雪の結晶と残照などのある世界・・・(73ページ)
この部分は韻を踏んでいて、読んで楽しい。 

(I) 『あとがき』のコメントをもう少し解説して欲しい。


 自分の神学の行き詰まりを覚えていたときに、ギリシャのロゴス(論理)中心的性格に貫かれたキリスト教思想の歴史に思いをいたすようになり、かえって旧約の物語りが描き出す全人的世界に開眼するようになった。

 ライトの(新約聖書の)読みは、旧約聖書を深く読むことで成り立っている。そこに魅力を感じた。

(O) 「ピルグリメージ」を巡礼と訳さず「旅」と訳したわけ。

 ライトを読み始める前にレヴィナスを読んでいた。
 2千年たったキリスト教がギリシャ思想に深く浸透されていることを思った。

 ギリシャ思想は自己中心。「巡礼」のように絶えず元の場所に帰ってくる。しかしユダヤ思想はアブラハムの旅のように故郷には戻らない旅だ。

 そのことを意識して「巡礼」とは訳さず「旅」とした。

(U) (N氏へ)「ライトを越える(※)とはどういう意味か。

(※)「ライトを越える」とはN氏が講師のセミナーでのタイトルに使ったフレーズ


 『クリスチャンであるとは』は「神の存在証明」の現代(ポストモダン)版、ではないか。

 ポストモダン状況のヨーロッパで、「キリスト教」が生き延びられるか、深刻な疑問の中にある。
 誰かが正面切ってキリスト教の真理性・絶対性を弁証しなければならないが、知性と教養に溢れたライトがそれをやった。(しかし、それ以上でもそれ以下でもない。)

 U師は「ファンダメンタリスト」の枠組みで神学をやっていて行き詰まったのではないか。最初からライトのように広い世界でやっていれば良かったのではないか。やっとライトに来てくれたか、という感慨がある。

(中略)
 ライトは学者で歴史家で、神学者である。幾つかのスタイルを自由に組み合わせることができる。

 しかし日本でそのような必要があるだろうか。
 日本の平均的牧師たちができることは、ただ聖書を物語ることで、解説したり議論したりする必要は余りないのではないか・・・。

 ライトは取っ掛かりで、聖書66巻を展開すればそれでいいのではないか。

 (U師のレスポンス) 訳者の「神学遍歴」に関し、今回の各地での勉強会の場で、あるとき指摘されたのが「(聖書)無誤論」との関わりだった。

 ライトの受容はその人の「神学スタイル」で(それに合うか合わないかで)判断する傾向がある。

(U) 今後「ライト」を(日本で)どうして行ったらよいか皆で検討したい。

 やはり翻訳が続いて行われ、自然とディスカッションが盛んになれば、反対者たちも認めるようになるだろう。(原理的に)認めない人たちはどこまで行っても認めないだろうから回心させようとなどしないほうが良い。

 自然神学のアプローチとしては、科学が教えることはそのまま受け容れてよいだろう。無理に「信仰対科学」などと対決させる必要はない。

 無誤性の問題で言うと、(私たちの教会グループでは)依然として「文言」は踏襲しているが、もはや規範的には機能していない。だから議論が縛られていない。(もちろんそうではない立場のグループもあるにはあるが。)

 無誤性に関連してだが、ライトは「創造・新創造」つまり創世記と黙示録を「文字通り」に受け取っている。つまりこの中にすべての一般史の出来事も含めたリアリティーを受け止めている。

 救済史と一般史、という風に分けていない。この受け止め方を吸収するのはなかなか大変だが・・・。

 この「物語性(創造→堕落→イスラエル→イエス→教会→終末)」についてはほぼコンセンサスがあるのではないか。この物語のフレームの中で提示されたものを(ライトを踏襲するにしてもしなくても)そのまま出せばよいのではないか。


・・・とこの後、日本の福音主義神学における隠れた1ページの述懐が始まった。

 この記事を書いている小嶋としては、ここが最も関心深いところであり、詳しく紹介したいところなのだが、簡単な説明と資料の紹介に留めておく。

実は『クリスチャンであるとは』が出てブログの書評に訳者とかつての「無誤性」論争における役割についての言及があったので、「今となっては・・・」といったような「振り返り」が聞けるかと思っていた。
それで、今度はもう一方の当事者であったN氏に次のように振ってみた。
「ところで(N氏は)神学遍歴の中で行き詰まりとか躓きとかありませんでしたか?」
「(N氏)それはもうU氏と私はみなさんご存知だと思うけど、30年前の・・・ある人が言うんだけど、私の神学はU氏と(もう一人の)U氏への「恨みを晴らすものとして」やっていませんかといわれるけど、別にそんなことはないんだけど、30年前無誤性のことで議論したとき、完璧に挫折ですよね。そう言う意味では(私は)一度葬られているんですよ。・・・」
と言うことであった。

この後、「現在においても日本の福音派における神学論争にはしばしば陰湿さ、不透明さ、煮え切らなさがつきまとうこと」、について話された。

それで今回ライトのおかげでめぐって来た、かつては「無誤論」で敵味方に分かれてやりあった二人の歴史的再会について、少しハイライトして書く気になったのである。
ちなみにN氏は30年前の「無誤論」論争の経緯についてご自分のウェブサイトで文章化されているので、紹介しておく。

聖書の無誤性の論争をめぐって (pdf)
 

2015年7月15日水曜日

NTW伝記的断片 2014/10/14

かなり時が経ってしまいましたが、ライト教授(英語だとプロフ・ライトですね。最近いろいろ呼び名を試していますが今回はこれで。)を伝記的に綴ったり、ライト教授の横顔が知れる文章に触れるとメモしています。

以下のリンクにある文章はエルスペス・バーネットさんの「信仰と神学的研鑽」についての回顧になっています。

現在は表示されていないようですが、小嶋がメモした時点(記事がアップされた数日後以内)にあった読者のコメントの一つに「ケンブリッジ時代のライト教授」が登場します。

そう言うわけで、現在表示されていないものを引用するのは技術的に多少問題あるかと思いますが、(架空ではないであろう)一つのエピソードとして読んでいただければ、と思います。

Will Studying Theology Undermine My Faith?


Because God is gracious, I BECAME evangelical by studying Theology at Cambridge 1978-81! Tutors included "Honest to God" JAT Robinson & "Taking Leave of God" Don Cupitt. In my first year, I did a paper on the history of biblical criticism as it related to the life of Jesus. This taught me the simple truth that the results you get at the end tend to depend on the presuppositions you put in at the beginning, e.g. assume that the miraculous doesn't happen, discount or explain away all texts in which miracles happen, then conclude that, surprise, surprise, miracles don't happen!

The radically critical mindset that Elspeth describes certainly did cause damage and I'm still on the journey of dealing with it. However, I also had the privilege of having Tom Wright as New Testament tutor for 2 years: it was so helpful to be taught by someone much cleverer than I am who had a high view of Scripture and who continues to demonstrate that you don't need to leave your brains outside when you're an evangelical. In fact, most of the liberal views I struggled with as a student, he has subsequently demolished by better arguments.

I studied later at All Nations Christian College, where we were given tools for working in a cross-cultural situation, exactly what one needs for handling Scripture accurately and not something that seemed to be a priority for many in the Divinity Faculty at Cambridge. There, I perhaps harshly concluded, people were out to show how clever they were, rather than concerned to submit their undoubtedly gifted minds to God's revelation in its original context. Clearly this is a broad generalisation, but contains at least a grain of truth.

One final comment: we are so fortunate now to have a depth and breadth of evangelical scholarship that simply was not available when I was a student. We can be extremely grateful to our gracious God for it!

2015年7月11日土曜日

PFGへのロードマップ

2013年に出版された、ライトのPaul and the Faithfulness of God、はその余りのボリューム(約1700ページ)ゆえ、二分冊となった。

既に何本かブログ等に発表された書評を紹介した。

専門の学者たちも書評を書くために結構きつい読書をしたと思うが、我ら常人ではなかなか読み通すのが大変。

そこでロードマップを提供します、ということになった。

Derek Vreeland
さんは牧師さんのようだが、このたび

Through the Eyes of N.T. Wright: A Reader’s Guide to Paul and the Faithfulness of God (Doctrina Press 2015)

『N.T.ライトの眼:読者のためのPFGガイド』

という本を出しました。

100ページほどらしいですが、中身はブログで発表した記事をまとめたもののようです。

今回紹介するのは、このブログ記事の方です。

これを読んで本を購入するかどうかを決めてもいいのではないかと思って。

N.T. Wright and the Faithfulness of Paul: 
Part 1: Charting the Course 
Part 2: Birds in Paul's Head
Part 3: Paul's Worldview
Part 4: Monotheism Redifined in Light of Jesus and the Spirit
Part 5: Election, Righteousness, and Faithfulness
Part 6: Election, the Spirit, and Justification
Part 7: Eschatology and Ethics
Part 8: Eschatology and Romans 9-11
Part 9: Paul in History

となっています。

ともあれご覧になってはいかがでしょうか。

2015年6月29日月曜日

FB読書会 2015年6月近況

6月に入りいよいよ本格的に『クリスチャンであるとは』の読書が進行しています。


第3章 互いのために造られて」(45-58ページ)

関わりの複雑さ(47-51)・・・T・K担当

コミュニティーをミクロからマクロまで眺めながら、祝福であり同時に呪いとなりうるようなパラドキシカルな性格を指摘する。

特に「民主主義」政治の問題をカバーしている。

性について(51-54) ・・・S・N担当
(一部を抜粋)
 「性的アイデンティティー、すなわち男性であり女性であることは、人間として自分がどういう存在かという中心に近いところにあり… このことを理屈でも行動でも否定することは、人間関係を非人間化することに繋がり、生きたまま死を抱えることになる」(54) 
ここはなかなか内容が含みを持っていて、ディスカッションもまだ進行中です。(ただ今スレッドには53個の意見があります。)

死そして人であること(54-58) ・・・H・K担当
(一部を抜粋)
この命のはかなさ、義の問題、霊性、人間関係、美の問題、いずれも、この命のはかなさと類似していて、それが長く続くことが望ましいと思いつつも、それを 手にしたと思った瞬間、それが壊れてしまうという性質が極めて共通するものを持っているものとして存在することから、この4つを取り上げているような気が するのです。
ここはまだ始まったばかりのところです。
現在被造物管理(あるいは経営とかケアー)をめぐってディスカッションが進んでいます。


6月は9名が入会し、トータル150名を越えました。 

読書会メンバーではありませんが、『クリスチャンであるとは』の書評がどこかに泉が湧くようにブログ主さんによってアップされています。