2016年6月25日土曜日

ライト近刊紹介インタヴュー

最近は「ポッドキャスト」(ネット音声配信)をやるところが増えてきました。

今回紹介するのは、ブリガムヤング大学(米ユタ州)の「ニール・A・マックスウェル(宗教学)研究所」のものです。

今年2月の配信ですが、ライトの『最近のパウロ研究史』(2015年10月)などの著作を紹介しています。
 (こちらは一章「舞台設定」の抜粋です。)


この本の他に、The Paul Debate: Critical Questions for Understanding the Apostle(2015年10月)


さらに、今年10月に出版して予定の、The Meaning of the Cross: The Day a Revolution Began.(仮題) のことも話題にしています。(26分過ぎくらい)

その他の話題としては、ヨーロッパの左派系哲学者たちが「パウロ」にインスピレーションを探る動きを紹介しました。
このインタヴューでもライトはそのことを取り上げています。(54分過ぎくらいから)


1時間を越えるインタヴューで、質問者もしっかり聖書学動向を押さえていて、充実した内容になっています。

それにしても、Paul and His Recent Interpreters はどうやら購入した方が良さそうかな・・・と考え始めています。

既に書評としては、ニジェイ・グプタ(これ、他2本)が書いています。

[2016/8/5 追記]


上で紹介した本の正式な案内が出ました。
 The Day the Revolution Began: Reconsidering the Meaning of Jesus's Crucifixionこちらがリンク

2016年6月3日金曜日

FB読書会 2016年5月近況

5月を迎えました。

いつものように過ぎた月の報告です。

『クリスチャンであるとは』が出版されてから約1年が経ちました。

最初は原書 Simply Christian でスタートしましたが、途中で訳書の方に切り替えました。

読書ペースはいくらか上昇中。(既に13章に入っています。)

第11章「礼拝

218-9ページ

 共にパンを裂き、ぶどう酒を飲むときは、イエスの死の物語を語っているのである。それほどに単純なことである。
 ・・・それは理論ではない。私たちの罪のために死んでくださったのは、私たちを救い出すためであった。理念は重要ではあるが、それを提供するためではない。

219-20ページ  
 パンを裂き、いただくことで、神の新しい創造を味わうのである。すなわち、イエスがその原型であり起源である、新しい創造なのである。
 このことが、イエスが「これはわたしのからだである」「これはわたしの血である」といった理由の一つである。その核心に触れるために、長いラテン語名の ついた形而上学の凝った理論は必要ない。それはイエス、実在するイエスであり、いまも生きているイエスのことである。天に住み、同時に地をも治めているイ エスであり、神の未来を現在にもたらすイエスである。
221-3ページ
 つまり、どのようなことであろうとも、礼拝中に決まってなされることは、それ自体が目的となった儀式行為になり得る。同様に、礼拝中に決まってなされることでも感謝を表わす純粋な行為や、無償の恵みに対する喜びの行為になり得るのだ。
 このような不毛な議論は、天と地、神の未来と現在という組み合わせの二つが、イエスと霊にあって一つとなるという、大きな絵図から礼拝を考えることで乗り越えられると私は信じている。
第12章「祈り

225-8ページ 
 この祈りはすべての点で、イエス自身の行ってきたわざを反映している。・・・その祈りは何といっても、とりわけイエスに関わる [Jesus-specific] ものである。
 この祈りは、祈っている私自身も、イエスの宣べ伝えた神の国運動の一員になりたいという意思表明である。
 いずれにしても [主の祈りを] 用いたいと思うやり方で用いるのがよい。
《コメント》
 ライトが言っているように、主の祈りは弟子たちのものであるより前に、Jesus-specific なものであり、イエスが繰り広げた宣教の文脈に密接に関わっていて、福音書を繰り返し読んで「神の国」宣教の全体像がおぼろげに頭に描けるようになったと き、「主の祈り」のことばがより的確な祈りの言葉として意識できるようになった気がする。
《感想》
私も「主の祈り」は子供のころから暗記している祈りですが、それは現実の中で「生きた祈り」ではなかったように思えます。ライトの本を通して「御国が来ます ように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」が私のうちで未来形でなく、現在完了形になったことは全く新しい体験(新しい創造)で す。

228-30ページ 
私は、天と地が重なり合う地点で生きることに召されている。(p.229)
クリスチャンの祈りは、この2つのときが重なり合うところに自分たちがいて、自分たちも新しい誕生の陣痛で苦しむ創造物の一部であることに気づくときに、その特徴が最も表れ出てくる。(p.229-230)
230-3ページ 
 それ [理神論者の祈り] は、孤島に置き去りにされた船乗りが、メモを書いた紙を瓶に入れ、海に放し、誰かが見つけてくれるまで待つようなものだ。
234-8ページ 
 私たちはいまだに、一方でロマン主義、他方で実存主義の遺産によってがんじがらめにされている。そのために、誰にも指示されることなく、自分の心の深みから生まれる自発的な祈りだけが本物だという発想が出てくる。

238-40ページ 
この祈りについて、それが何を意味し、どのように用いられ、どこに導かれていくものなのか、これまで多くのことが書かれてきた。一見、堅苦しい感じがする が、それほどでもない。憐れみを求めて祈るのは、「悪いことをしたので赦してください」ということは意味しない。それはもっと広意味での嘆願である。自分 は神の憐れみを受けるに値しない、決して値しないものだが、あらゆる状況で、神の憐れみ部会臨在と助けを送ってください、と神に祈ることである。
《上記引用の解説》
ここでは、正教会で用いられる、イエススの祈りが出てきます。
日本ハリストス正教会では、
主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え。
英語
Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner.
Lord have mercy.
が紹介された後、次のような記述が続きます。



240-2ページ 
もうおひとつ用いるこのできるものがある。先に紹介したのと同じように、初代教会で用いられていたと思われるものだ。古代から現在のユダヤ教に至るまで、 それは毎日3回祈られてきた。このように始まる。「聞け、イスラエル、ヤハウェは私たちの神。ヤハウェは唯一である。心を尽くしてあなたの神、ヤハウェを 愛せよ」。『申命記』第6章4節から始まる言葉から採用されたものである。シェマーの祈りとして知られている。ヘブル語の『シェマー(聞け)』から始まる のでそう呼ばれる。これが祈りだとは驚きかもしれない。命令を共なった神学的宣言のように見えるからっである。それは会衆に教えるためではない。礼拝で聖 書朗読がなされるように、神がなしたことを賛え、ヤハウェは真に誰であるか、その契約の神が何を望まれているかの宣言であり、それ自体が祈りであり、礼拝 と献身の行為なのである。
《コメント》

特にここで気になった記述は、
礼拝で聖書朗読がなされるように、神がなしたことを賛え、ヤハウェは真に誰であるか、その契約の神が何を望まれているかの宣言であり、それ自体が祈りであり、礼拝と献身の行為なのである
という部分であり、聖書そのものを祈りに使う、ということです。
242-4ページ 
 私は、同僚との関係で大変困難に陥った時、霊的指導者の勧めで解放されたことを良く覚えている。それは、「主の祈り」を唱えることと、その祈りのそれぞれ の部分を、特にその同僚に当てはめて思いめぐらすことだった。書物、リトリートでのリーダー、友人、牧師は、それぞれ助けになる。
 クリスチャンの祈りには、さらに他の仕方もある。ある人にとって異言で祈ることは、具体的に何を祈ったらよいかわからない時、あるいは、あまりに明白な課 題やそのことで圧倒されて、どう祈ったらわからない時に、その状況や人々の必要を想いながら神の前に出るのに役立つ(もう一度、『ローマ人への手紙』第8 章26~27節に戻ってほしい)。沈黙の祈りはかなりの人にとって実行が難しく、それを継続して行うとなると、ほとんどの人には困難である。しかし、よい 意味での暗闇のように、信仰と希望と愛の種が人知れず芽生える土壌となる。

第13章「聖書

245-6ページ
 

 聖書を手にするとき、自分にこう言い聞かせる必要がある。いま私は、世界で最も有名な書物を手にしているだけではなく、人生を変え、社会を変え、世界を変え得る偉大な力を持つ書を手にしているのだと。
 聖書は、クリスチャンの信仰と生活にとって決定的で不可欠な要素である。

246-7ページ 
 今日、聖書についての論争がある。・・・兄弟争いである。
 だが、聖書の持つ可能性のすべてをあなたを通して、あなたのうちで活用させないとしたら、手を固く閉じてピアノを弾いているようなものだ。
248-9ページ 
 事実から始めよう。
 初期のクリスチャンの記述の多くは、旧約聖書としっかり結びつけられ、それを引用したり、反映させたりすることで、自分たちがその契約刷新を受けとる存在、すなわち「新しい契約(新約)」の担い手であることを明確にしている。
 またその問いとは、ユダヤ人にとっての聖書を、イエスにあって「契約(カベナント)」が刷新されたことを心から信じている者たちが、どのように理解し、どう適用するかである。
《コメント》(コメント欄に紹介したある「聖書入門」動画で久し振りに賑やかなスレッドになった。)

249-50ページ 

 その正式に認められたものを、ギリシャ語で「キャノン(正典)」という。
 旧約聖書の原典に関する知識は、死海写本の発見によって極めて豊かなものになった。

251ページ

 残念なことに、多くの人は外典を実際に読んだことがないばかりか、これらの書に議論があったことをほとんど知らない。
251ページ 
 パウロの手紙は、紀元40年代の終わり50年代に書かれた。ただし、パウロの名前がついた手紙のすべてをパウロが書いたかどうかは議論が続いている。
252-3ページ 
 それらを研究することは比較にならないほど聖書本文の信頼性を高める。すなわち、写本にあるわずかなことばの違いから、原典がどうだったかを見極めることが可能なのだ。 
253-5ページ 
 このように、聖書の構成、集大成、普及の歴史を語ることは必要なことである。・・・その「決定的に大切なこと」について、次に取りかかるとしよう。

大体以上となります。


メンバーによる(主にライト関連の)様々な情報や報告が寄せられるが、(5月中のものから)その一つを紹介。

 (1)ライトのオンライン講座の受講レポ
「・・・ 今回はWorlviewについての学びでした。
アメリカ人の物の見方と英国人の物の見方の対比から(大変な違いに気づきました)、ローマ人とユダヤ人の世界観に入ってゆきました。
 一回、二十分ぐらいの講義に、質問やダイアグラムやレスポンスなどがあります。
 それにしても、ビデオメッセージを見ながらこれほど引き込まれるとは思いませんでした。
 何とも言えない感動です。一挙に四回分聞いてしまいました。まだまだ続きます。後が楽しみです。」


5月は、入会2名、退会1名で、トータル198名となりました。
 
 

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年5月1日日曜日

FB読書会 2016年4月近況

5月を迎えました。

いつものように過ぎた月の報告です。

『クリスチャンであるとは』の読書ペースはまだまだゆっくりです。(でも11章に入りました。)

第10章「御霊によって生きる

194-5ページ

 聖霊の働きの特徴的なしるしの一つはまさに、神の親密な臨在感である。
 それはいわゆる、「魂の暗夜」といわれるもので、祈りの生活の神秘を深く探求した人によって伝えられている。
195-6ページ  
 イエスに従う者たちは、古い世界のルールよりも、新しい世界のルールで生きるように召されている。  そうなると苦しみは、実際の迫害という形をとることがあるかもしれない。
 しかし苦しみは、他にも多くの形をとってやってくる。
197-8ページ
 イエスをしっかりと見てほしい。とくに、イエスがみずから死に立ち向かうときのことを見てほしい。  そして神は、真の神とは、ナザレのイエス、イスラエルのメシア、世界のための真の主の内に見られる神である。
 [コメント] 最初の引用の言葉から連想した賛美歌が二つあります。
 「まぶねのなかに」(由木康、1923)
 「Turn Your Eyes Upon Jesus」(Helen H. Lemmel, 1922)
 [コメントへのリプ] ちようど、物事をよく見る目が大事だという短いエッセイを今朝読んだばかりで、シンクロしました。よく見る目は、よく聴く耳、よく考える頭につながると思います。いかにボーっとしか見てないことか。中でもイエスに目を注ぐ大事さを想いました。
198-200ページ
 しかしながら、神についてのクリスチャンの教理が、賢い知的な言語ゲームとか、心理 [mind] ゲームのような印象を与えてしまうのは間違いである。クリスチャンにとってそれは、つねに愛のゲームである。
 ・・・聖霊を理解する手がかりの一つは、父が御子に対して、また御子が父に対して抱く人格的な愛として、聖霊を理解することである。
第11章「礼拝

203-4ページ 
 先見者であるヨハネは、自分の見た幻をそこに描いているが、それは壁にとまっているハエのようにして、神の王座をこっそりのぞき見しているかのようである。
 時には、その間の境界線は薄い幕のようで、ある人たちには、ときおりその戸が開かれ、カーテンが開かれ、私たちのいるこの世界の人も、神の臨在しておられる場で起こっていることを見ることができる。
204-6ページ 
礼拝とは、あるもの、もしくはある存在に価値があることを、文字どおりに認めることを意味する。  動物たちは途絶えることなく神を讃える。そこに人間たちが加わる。人間たちの歌はさらに豊かである。なぜなら、言いたいことがたくさんあるからだ。
 人間は、なぜ神を誉め讃えるべきか、また、なぜ神を誉め讃えたいかを知っている。神が万物を造られたので、神を誉め讃えるのだ。
207-8ページ 
さらに、偉大なオラトリオのように、四方から聖歌隊が加わり、御使いたちが歌う。
 ほふられた子羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉と、
 栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。

そして最後に、「天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物」が賛美に加わる。
 御座にすわる方と、子羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。
 これこそ、まさに礼拝である。造られたものがみずからの造り主を認め、子羊の勝利を悟って、創造主なる神と救い主である神に向けられた賛美の雄たけびである。それが天において、神のおられるところで、つねになされている礼拝なのだ。
 [コメント] 礼拝というと、教会でやる儀式にばかり意識が行くことが多いのですが、実は、神の存在を認め、造り主を認め、子羊の勝利を悟って、創造主なる神と救い主である神に向けられた賛美ということをもう少し、考えた方がいいかもしれないなぁ、と思いました。
209-212ページ 
 しかし、真の神、創造者、贖い主を礼拝するためのチャンス、招き、召集が、私たちに差し出されている。真の神を礼拝することは、いっそう真の人間になるためなのである。
212-14ページ 
 私たちは神を、この世界の創造において、イスラエルの歴史を通して、とくにイエスのうちになされたことを通して知る。クリスチャンの礼拝とは、この神を、それらをなさった方を賛えることである。神によるそれらの出来事を記録した場所は、もちろん聖書、バイブルである。
 ・・・聖書を声をあげて読むことが、つねにクリスチャンの礼拝の中心となるのだ。 
214-5ページ 
 私たちは神を、この世界の創造において、イスラエルの歴史を通して、とくにイエスのうちになされたことを通して知る。クリスチャンの礼拝とは、この神を、それらをなさった方を賛えることである。神によるそれらの出来事を記録した場所は、もちろん聖書、バイブルである。
 ・・・聖書を声をあげて読むことが、つねにクリスチャンの礼拝の中心となるのだ。
 [コメント] ミサでは旧約、使徒書、福音書から一か所づつ暦に則って読まれますが、「印刷された聖書の文字を追うな、まず聞け、古代にはみんな礼拝では読んでいなかった」ということを言う司祭がいました。ちなみに、基督教は目よりも「耳」の宗教だと思っています。
215-6ページ 

 『詩篇』は無尽蔵である。それを読み、語り、歌い、詠唱し、口ずさみ、暗記し、大声で叫ぶことすらしてきた。・・・『詩篇』は私たちの感じるすべての感 情を表わしている。時には、そのように感じたくないと思うものさえ表現している。そんな感情でさえ、そのまま公然と神の前に差し出している。

216-7ページ

 そこに書かれていることをすべて理解することはできない。もちろん謎や疑問もある。
 『詩篇』を有効に用いているだろうか。その周辺をぐるぐる回るだけでなく、深みに入っているだろうか。

4月は、『新約聖書と神の民 上巻』講演会と、雑談会があり結構充実した月でした。
 

3月の入会者数は4名で、トータル197名となりました。
 
 

 以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2016年4月28日木曜日

身体的復活と埋葬

「イエスの復活の身体」として4本の記事をアップした。・・・(1) (2) (3) (4)

最近も「復活」については随時アップしているが、今朝また北米のジョン・パイパー牧師が何やら「埋葬」のやり方で「聖書的」「キリスト教的」と見解を述べているらしい記事があることを知った。

John Piper Makes Biblical Argument for Burial Over Cremation as It Relates to 'the Meaning and Importance for the Human Body'

『ジョン・パイパー、人間の身体的意義と重要さを考えると、火葬より土葬が聖書的であると主張』

パイパー自身の記事を読んでいるわけではないので(上記の記事にリンクがある)、あくまでこの記事にまとめられている議論を読んだだけだが、キリスト者は「火葬」より「土葬」を選ぶべき理由が何箇所かの聖書の解釈を通して提示されている(らしい)。

パイパーによると・・・
 「土葬」は、人間の身体(遺体)に対して敬意を払っているが、
 「火葬」は、火で遺体を焼き払う点で「嫌・身体」的だという。

キリスト教は「身体のよみがえり」を信ずるわけだから、その身体(遺体)の埋葬の仕方の点でも上記の相違を考えると、より「聖書的」「キリスト教的」な立場があるはずだ。それは「土葬」ということになる、ということらしい。

「復活の身体」がどんなものであるか・・・の議論と思弁は、おそらく「復活」の思想が顕在化してきたとき(第二神殿期ユダヤ教期)からあると思うが、キリスト教が特にユダヤ教以外の文化圏に浸透して行くにつれて様々に持ち上がったと思われる。

以下の動画でも言及されるが、教会教父時代、人肉食(カニバリズム)の文化背景を持つ信徒が、生前ある人が食べた(あるいは食べられた)人の「肉片」は、復活のときどのように扱われるのか、と云う問題で悩んだらしい。

復活信仰あってこその「復活の身体はいかに」と云う神学的疑問だから、それ自体は当然であるが(と思うが)、どのような思弁を用い、どのような現代的「実践(神学的適用)」を施すかは簡単な結論はないのではないかと思う。

新約聖書学での「終末論」の研究者としても名高い、Dale C. Allison Jr.が自らの(臨死まで行かない)近死体験を交えて「復活」「復活の身体」についてインタヴューに答えている。



・カニバリズム問題(5分30秒くらいから)
・復活の身体で「消化器系」は必要か
・「免疫系」「生殖器」はどうか
・何歳の身体で復活するのか
・夭逝したばあいはどうか
(教会教父時代から近代・現代に移行すると科学的知見の問題が浮上する)
・分子レベルで解体した「身体痕」は原子レベルで「拡散」して分からなくなるが
・原子レベルではもはや「誰の身体だったか」はナンセンスでは
と「思弁」は多様に拡散して行く。

さらに現代は「葬式」のやり方に関してもかなり多様に考えるようになっている。
「終活」の前に考えたい 死の迎え方と送られ方 - 東嶋和子 (科学ジャーナリスト・筑波大学非常勤講師)(リンク
と云うわけで、パイパー牧師の「おすすめ」は一つの例と云うことになるだろう。

2016年4月25日月曜日

2016.4 雑談会報告

先日案内した雑談会の報告です。

 日時、4月20日(水)、午後1-3時  場所、活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)

※出席を予定していた二人の姉妹が体調と仕事の都合で見えられませんでしたが、最近ではリアルの読書会としては集まった方です。
今回新しく参加なさった方(内一人はFB読書会メンバー)は二人とも道に迷ってぐるぐるしてしまったとか。

かるーく自己紹介から始まり、それぞれの経験から見えてくる
 「福音派の聖書理解から旧約聖書がそっくり欠落している」
 「牧師と信徒の健全な関係のあり方」
 「牧師の神学的リーダーシップ」
等の問題を念頭に開始。

(1)上沼師の報告
 今回(2016年1回目の来日)の日本各地でのセミナーで用いた資料を紹介して下さった。旧新約聖書全体を概観する「神の真実」チャート。
 セレクトした聖書引用箇所。
 その中でも中心となったロマ書5章1-21節

(2)After You Belive (AYB)への質問
 小嶋が用意したのは
・AYBは簡単に言うとどういう本なのですか?
 よく知られているキリスト教書や信仰書ではどれに近いですか?
・AYBが取り組むのはどういう問題ですか?
 そしてどのような解決を提示しようとするのですか?
・AYBは『クリスチャンであるとは』とはどう繋がりどう発展させているのですか?
このうち三つ目の質問には『ク・・・であるとは』から引用しながら答えていた(と記憶している)。

少人数でもあり、また信仰生活の長い方々なのでフランクな意見交換が多かった。
福音派の特色として「救い」「伝道」は重きをおくが、「信仰生活」の発展や方向性に関し、なかなか明確なヴィジョンを示せないでいるのではないか。
あるいは示せたとしても、様々な問題や諸課題に一貫した聖書的指針を提示できないでいるのではないか。
それが説教のテーマや内容に反映しているのではないか。

ライトの「新創造」(をベースにし、御霊によって「神の国」のために働く教会)のヴィジョンはそういった欠落状態に新風を吹き込んでいるように思う。


2016年4月5日火曜日

雑談会のご案内


『クリスチャンであるとは』訳者で、N.T.ライト・セミナー賛同人の上沼昌雄先生がいま日本に来られ各地で勉強会やセミナーをしています。



これに合わせてライト読書会も集まりを持ちたいと思います。いわゆるオフ会みたいなものでしょうか・・・。

 日時、4月20日(水)、午後1-3時
 場所、活水工房ティールーム(巣鴨聖泉キリスト教会となり)

《雑談会テーマ》
 今回は雑談会ですが、ライトの『After You Believe』がトピックです。


 『Simply Christian』『Surprised By Hope』と合わせ『After You Believe』で「三部作」といわれています。

 英国出版社のタイトルは『Virtue Reborn』ですが、米国では『After You Believe』となりました。

 「クリスチャン生活」「キリスト教倫理」の範疇に入る著作ですが、特に「徳の倫理」と言われる、近年また注目されるようになった「倫理学」の伝統を参照しながら、ライト神学の基本テーマである「創造→新創造」が展開されています。

 (そんな印象でした。再読して確認しなければなりませんが。)


 雑談会なので、特に発表とかはありませんが、「クリスチャン生活」「キリスト教倫理」は日本において伝道(救い)の次、教会形成での実際問題領域では多分に遅れている分野だと思います。

 「新創造」と言う大きな神学的ヴィジョンからいかに「神の国」宣教を推進するのか、そこでの「キリスト者の成長と役割」を考える機会を提供する著作ではないかと思います。


 ※いつものように、ご出席なさりたい方、関心ある方は
小嶋(t.t.kojiアットマークgmail.com
までお知らせください。

2016年4月4日月曜日

『新約聖書と神の民・上』 出版記念講演会 レジュメ

案内しています 講演会のレジュメが届いています。



イベントタイトル: 

  N.T.ライト『新約聖書と神の民』出版記念講演

講演題: パウロの「ストーリー神学」のクライマックス
    ―N.T.ライトによるローマ9-11章の講解―

講演者: 山口 希生


レジュメ:


1.N. T. ライト先生の紹介

2.「ストーリー神学」について

 ・ストーリー神学は、「文芸批評」や「物語神学」とは同じではない
 ・ストーリー神学とは、神学の営みにおいて、「歴史」をストーリーとして語ることを指す。同じ歴史を語るのでも、どのような観点からその歴史を語るかで、全く異なる神学的見解が表明される。


3.ユダヤ人たちのストーリー語り

 ・第一マカベア記…当時のユダヤ人たちが抱いていた「律法主義」とはどのようなものか?「律法への熱心(ゼーロス)」の意味を考える。
 ・4QMMT「律法のもろもろの行い」…当時のユダヤ人たちが抱いていた「申命記史観」について。そして特に、申命記30章の重要性について。


4.ローマ人への手紙9章―11章

 ①ローマ9章6節-29節

…パウロによるイスラエルの歴史語り。族長時代、出エジプト、バビロン捕囚とその後の回復。これらの歴史語りを通じて、アブラハムの子孫(スペルマ)、「約束の子」とは誰なのかが明らかにされる。


 ➁ローマ9章30節-10章4節

…「律法に達しませんでした」とはどういう意味か?ここで引用される申命記30章から、パウロの真意を明らかにする。

 ③ローマ10章5節-13節

…このセクション全体の心臓部。

 ④ローマ11章1節-24節

…イスラエルが捨てられたことの救済的意味。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば…」

 ⑤ローマ11章25節-32節

…「全イスラエル」とは誰を指すのか?また、彼らはどのように救われるのか?



※当日講演へのレスポンスが、聖書学から、神学から、それぞれございます。

ご来場をお待ちしています。