2016年3月29日火曜日

復活:自然啓示と特別啓示

先日、久し振りに銀座の教文館を訪れた。

本を置くスペースが狭くなっていた。

平積みになった新刊書・近刊書を何度も眺めながら、ついに購入したのは一冊だけに終わった。

しかし購入しなかった中で気になった本はあった。


そのことを書こうと思ったのは、イースターの説教で語ったことと、(後から紹介する)この本の主張(原書である英書の紹介文によればだが)とが多分に重なるのを感じたからだ。

しかし、先ず、きっかけはこのツイートだった。

以下吉田さんの連ツイをまとめて紹介。
1. 私の呟きは、マルコ福音書読者の周囲では既にイエスの復活が語られていたことを前提としていましたが、これはマルコ福音書の成立がイエスの死と復活から随分と時間が経っていると考えられているからです。

2. 多くの研究者はマルコ福音書の成立を70年前後と考えていますが、つまりマルコ福音書の成立はイエスの死と復活から40年後も経ってから、ということにな ります。それではこれ以前にイエスの死と復活はどのように語られていたのかと言いますと、これはパウロの書簡が参考になります。
3.パウロが著した『コリントの信徒への手紙一』15章3節から少なくとも5節には、彼がコリントの教会にかつての伝道に際して伝えた教えが再録されてい ますが、そこでパウロはこの教えを「私も受け取った」ものとして、つまり彼が信仰の先達から受け取った伝承として紹介しています。

4.パウロがコリントを訪れた時期或いは『コリントの信徒への手紙一』を著した時期はイエスの死と復活からおよそ20年後と考えられていますから、マルコ 福音書より20年は古いことになります。さて、その15章3節にはこの教えをパウロ「も受け取った」ものと記されていますから、

5.教え自体はパウロ以前に既に在ったと、つまりイエスの死と復活にかなり近い内に成立したものと考えられます。尤も、いつ誰がどのようにして作成したのかは不明でして、この点に関しては様々な研究が行われていますが、

6.所謂「キリスト教」のそもそもの始めがキリストの死(一コリ15:3-4a「キリストが…死んだこと、葬られたこと」)と復活(一コリ15:4b-5 「聖書に従って三日目に起こされたこと、…に現れたこと」)を信じることにあったことをこの伝承が語っているという点では見解が一致しています。

7.イースターをただのお祭りとして楽しむのも良いですが、その始まりを知ること、そしてその歴史に思いを馳せることもその楽しみに加えて欲しいなぁ、と思ったりなどもします。

先日出版されたT・ピーターズ他『死者の復活:神学的・科学的論考集』(小河陽訳、日本キリスト教団出版局、2016年)は、「復活を科学的および神学的にどのように評価すべきであるか」との問いに関する18本の論文をまとめたもの。

 「宇宙の終末において我々はいかに変容するのか?物理学、生物学、神経科学、哲学、聖書学、エジプト学、教会史、組織神学…多彩な学問領域の研究者18名が「体の復活」の可能性を考究した学際的対話の試み。」

(以下まだ少し続くが略。訳者の小河陽の『あとがき』も含めて実質19論文であると『あとがき』をイントロとして読むことを推薦している。)
訳書ということで値段がいかにもだが、 原書である、Resurrection: Theological and Scientific Assessments、は2002年の出版だからライトの『キリスト教起源』シリーズⅢ『復活と神の子』より一年前ということになる。(逆だったら少し面白かったとは思うが。)



ところでその「紹介文」だが、「前半」はこうなっている。
A team of scientists and theologians from both sides of the Atlantic explore the Christian concept of bodily resurrection in light of the views of contemporary science. Whether it be the Easter resurrection of Jesus or the promised new life of individual believers, the authors argue that resurrection must be conceived as "embodied" and that our bodies cannot exist apart from their worldly environment.
この「身体的復活」に焦点を当てる、というのは神学と(自然)科学との「共同作業」としては当然だが、ライトが、Surprised By Hope、で指摘するように、西洋近代において「からだの よみがえり」がかなり薄められたり、曖昧になったり、歪められたり、矮小化されてきた歴史から言えば、なかなか意欲的な取組みではないかと思う。

後半はこうなっている。
Yet nothing in today's scientific disciplines supports the possibility of either bodily resurrection or the new creation of the universe at large. Bridging such disciplines as physics, biology, neuroscience, philosophy, biblical studies, and theology, Resurrection offers fascinating reading to anyone interested in this vital Christian belief or in the intersection of faith and scientific thought.
アマゾン・コムの紹介文では省略されているが、間にはこう言う文章が挿入されている。
Cosmology, for example, only forecasts an end to the universe. If persons and the cosmos are to rise up anew in the eschaton, such an event will have to be a willful act of God. Thus, while modern science can offer aid in constructing models for picturing what resurrection of the body could mean, the warrant for this belief must come from distinctly theological resources such as divine revelation. Christian faith ultimately gains its strength not from modern science but from Gods promises.
科学は「身体的復活」を視覚化するモデルは提供できるが、現在の理論では「身体の復活」の可能性も、「新創造」の可能性もともに悲観的な見通ししか提供できない。

ゆえに「神学的根拠」が残されるが、それはどこに・・・、という問題提起になっている。

...such an event will have to be a willful act of God.
とあるように「イエス」を「死者の中から復活させた神(その神の力)」というところにキリスト者の信仰と希望は集まる・・・ということをイースター・メッセージでは語ったわけだった。

少々蛇足だが、『論集』中にはナンシー・マーフィーの、The Resurrection Body and Personal Identity、もありこのブログでも「イエスの復活の身体④」で取り上げた 
①「復活の身体」の連続と非連続の問題
『意識(たましい)』の問題を『自分』あるいはアイデンティティーの問題として考えるとどうだろう。
身体的には全く更新しながら、どうやって『自分』が回復されるのだろうか。
辺りの問題にどんな見通しを示しているか興味深い。 

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