すでに神学ディベートとしてこのウェブサイトで掲載した「対話に向けて、1~9」は撤収したが、何らかの報告と云うか感想みたいなものをぼちぼち書こうと思っている。
ところで、一週間後となる第5回 N.T.ライト・セミナー(概要)では「いま、福音は」と云うテーマで「義認(論)」や「救済(論)」よりもキリスト教会にとってはより生命線ともいえることを取り上げようとしている。
用語としてはあるかもしれないが「福音論」という論議や論争はあまり聞かない。
一つには福音が「自明」とされていることがあるかもしれない。
あるいは「福音」とは義認論とか救済論とかキリスト論を入れるパッケージのようなイメージなのかもしれない。(何でも入れられるから中身についてそんなに心配しなくてもいい、みたいな・・・。)
さて、その第5回 N.T.ライト・セミナーの案内で、「ちょっとした紹介」にイントロとして書いた文章がある。『福音再考へのアプローチ』と云う文章の一部引用だが、ここに転載してみる。
(1)谷口氏の問題意識・問題提起今回発題講演者にお招きした谷口氏は2008年から「福音とは何か」を『リバイバル・ジャパン』誌にリレー連載した。「福音」とは何かを意識的・持続的に取り上げた氏に全93回に及んだ連載記事の総括レポートを依頼したのは当然の流れかと思っている。福音派(と聖霊派)の牧師たちは「福音」をどう理解しているのか。彼らの福音理解にはどれくらい幅や多様性があるのか。あるいは逆に(判で押したように)画一的なのか・・・谷口氏の総括レポートにコメントしていただく高橋、坂原両氏はベテラン牧師と按手礼前の伝道者という組み合わせである。お二人にも事前に「福音」について自らの視点を簡単に示して頂くため「三つの質問」のうち二つ選んで回答してもらった。
2008年に「福音とは何か」連載シリーズを谷口氏は始められた。
毎回記事の冒頭には「福音とは何か」シリーズの「狙い・視点」が掲げられているが、それはこうなっている。
谷口氏の問題意識と問題設定は、福音を伝える側がどれだけ「福音」とその内容を「正確に、総合的に」理解しているだろうか・・・ということを掘り下げるものであっただろう。福音を語るためには、福音を理解していなければならない。しかし果たして、私たちはその『福音』を正しく、総合的に理解しているのだろうか。
自分たちが「受け」そして「伝えた」福音が、その指し示す事柄の把握の確かさの点でも、内容の豊かさの点でも、何か欠けているところ、十分整っていないところが(まだまだ)あるのではなかろうか・・・というような問題意識があったのではなかろうか。
昨今の教勢衰退、伝道不振、牧師不祥事頻発の状況が、教会(界)人をひたひたとその中心であり根拠である「福音」への理解に対する自省へ促しているのではなかろうか・・・。
(2)福音を取り巻く二つの「パラダイム・シフト」状況
個人的に注目したことがある、という意味での「二つ」であってまだ他にもあるとは思う。
「大和郷にある教会」ブログで、『福音派のパラダイム・シフト』というシリーズを全7回掲載した。(2013年6~8月)
紹介したゴードン・T・スミスの論文が分析したのは、18-19世紀(大西洋を挟んだ)欧米福音派を席巻したリバイバリズム(信仰復興運動)に端を発し20世紀以降ほぼ全世界に普及した
「回心体験」、そしてそれを中心に組み上げられた教会の伝道・礼拝・教育(霊的形成)の構造的性格であった。
問題の出発点となる「回心体験」についてスミスは以下のように(かなり大鉈で斬る様に)定義している。
回心体験の中心は「死後の(永遠の)いのち」であり、「死んだら天国に行く」のが救いと考えられた。この世は伝道のため以外には殆んど意味がなく、もっぱら未信者を天国に入らせるのが教会の使命であり、そのような伝道が重んじられた。福音を取り巻くと断ったが、スミスの論考は「福音とはそもそも何を指すのか」とか「福音が語る内容はどこからどこまでか」というようなことだけについての反省ではなく、「福音」ということで教会が実践している事業(礼拝・伝道・教育)の中心となってきた「回心体験」とは何であったか・・・という問い直しであったといえる。
このリバイバリズムという運動の中で定義された「福音の見方」、そしてそれに連動した教会の実践(礼拝・伝道・教育)を「一つのパラダイム」として分析した、というのが大事な点ではないかと思う。
一つはこの「200年くらいの間支配的であったパラダイム」、と云う歴史的視点。
もう一つは「回心体験」を中心にして教会事業が展開された、と云う(教会)社会学的視点。
[スコット・マクナイト『福音の再発見』についての補足]
マクナイトの本はある意味で「福音再考」だが、議論自体はかなりタイトでスミスのようなブロード(大風呂敷とも言えるが)ではない。
「福音」それ自体が厳密に何を指すかについての考察は新約聖書に遡って「聖書神学的に」論及されているが、議論の比重はスミスが対象とした「回心体験」を生み出した「メッセージ」とその「提示の仕方」に絞っている。
「天国に行くための罪の赦しによる救い」は宗教改革時点での「救済論的集中」から端を発し、その後の西洋キリスト教史における「個人的・主観的」キリスト教の発展・強化の文脈にあるもので、(一世紀)使徒的福音を尺度とした見た時、それは「個人的(罪からの)救いに特化した」福音であり、結果的に矮小化・(二元論的な面では歪曲)と分析される。(故に現在の福音派は「福音」派ではなく、実質「救い」派とみなされる。)
二つ目の「パラダイム・シフト」 状況とは、言わずと知れた「『パウロ研究』の新しい視点(NPP)」のことである。
ここでは詳しいことは書けないが、伝道会議の発題で最初に指摘したように、「義認」理解を巡るパラダイム・シフトは「新約聖書学」(その中の「パウロ研究」)というアカデミックな世界で先ず起こったことが、N.T.ライトと云う類まれなコミュニケーターを通して一般信徒等に浸透した現象である。
指摘したように「アカデミックな世界」での常識や知見が、そのまま「キリスト教会」に受け入れられるわけではない。かなりの隔たりがあり、説教のために聖書研究や聖書解釈をしている牧師たちでさえ聖書学の最新研究には殆ど不案内なことが普通だ。
そのような大きな隔たりを一人で何冊も本を著したり、各地で講演して埋めて行くライトの働きは先ずは賞賛されてしかるべきだろう。
「福音再考」にポイントを絞ると・・・
やはり問題となるのは「どれだけ歴史的に検証しようとするのか」ということではないだろうか。
歴史的資料を広く積極的に用いようとするか、それとも「新約聖書」文書を特別視して同時代の歴史的資料と一線を画し限定的に用いようとするか、「検証の入口」でもかなりな違いを生む可能性があるのではないか。
以上「福音を取り巻く二つのパラダイム・シフト」として「回心体験」と新約聖書学における歴史研究の深まりを挙げた。
後者に関しては論ずることはしなかったが、いずれにしても「福音とは何か」を問う時、どういう文脈で問いを発しているかを自覚できると、「問題の再設定」や「方法論」が次第に視野に入ってくるようになるのではなかろうか。