2017年7月2日日曜日

FB読書会 2017年6月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて3ヶ月が過ぎました。
まだまだペースはあがらず・・・です。

今回は引用だけでなく、「担当者の感想」も少し入れてみました。


第5章ハリケーン(75-110)


「歴史の複雑さという問題」(75-77)

イエスは、自分の抱いていた神のハリケーンである預言者的ヴィジョンと、人々の心理状態とが衝突してしまう瞬間が、いま再び起きつつあると信じていた。しかし、それだけではなかった。イエスは自分の語ってきたストーリーを、自分が実証すると信じていたように思える。つまり、イエスがエルサレムにやって来ることそのものが、イスラエルの神が力と栄光をもって帰還することの体現、顕現であると信じていたようなのだ。(p.76)
《Oさんの感想・・・パーフェクト・ストームがローマとユダヤと両方の背景を説明するものとして》
What St. Paul Really Said [『使徒パウロは何を語ったのか』] でも、ライトは「福音」(ユーアンゲリオン)の背景として、ユダヤ教的背景とローマ的背景の両方を考えていますし、この視点は、福音書に限らず、新約聖書全般の歴史的背景を考える際のライトの一般的視点とも言えるようです。私自身は、こういった視点で新約聖書を読むことはあまりなかったので、最初は斜めに見ていたところがありますが、繰り返しライトのこういった視点に触れ続けることにより、自然な視点として捉えられるようになってきました。


「神の愛のハリケーン」(77-79)

 それは神の愛のハリケーンが、ローマ帝国の冷酷な力やイスラエルの過熱した民族的待望と衝突する瞬間だった。この衝突について考えることを通じて初めて、私たちはイエスの死の意味を理解し始めることができる。真の神の子、真の大祭司が、どのように世界の王となったかを理解し始めることができるのだ。
 もちろん、これらを理解できるようになるのは、まだ先のことである。こうした深い理解に達するために、神の主権とその独自の行動というテーマが、旧約聖書の中でどれほど強力なものであるかを知っておく必要がある。
《感想》
 「旧約聖書背景」というような簡単なことではなく、イスラエルの信仰における「神の主権(とその行動)」に対するある意味「実感的な認識」を身につけることではないかと思います。

「飼いならされた神」?(79-81)
《引用》
 ・・・古代のユダヤ人たちが神についてどのように考えていたにせよ、神は、飼いならされた神ではなかった。・・・
 ある意味で、神の風を他の二つの風と同列に論じることそのものがおかしなことなのだ。それでもあえてそうする理由は、一世紀のユダヤ人たちが、自分たちの民族のストーリーだけでなく、彼らの神のストーリーも語っていたからだ。・・・熱烈な信仰心を持って、彼らの神は唯一の神であること、彼らの苦悩は世界の痛みであること、彼らの苦しみこそが世界の中心にあること、こうした信仰を彼らの神は一つにつなぎ合わせていた。
《感想》
 この部分、「一つの民族とその民族神との関係が作るストーリー」がどうしようもなく自民族中心的になるのに、イスラエルの場合は「唯一創造神」ゆえに「飼い慣らす」ことができなかった。むしろ身から出た錆びとはいえ周辺強国に翻弄され苦難を負うストーリー・・・というようなことを言っているように響きます。

「神政政治」(81-86)

《引用1》
 長いあいだの希望と、もっと長いあいだの悲嘆の中から生まれたこの運動は、神が、神だけが王となれると主張した。神は戻ってこられ、人々を治めるだろう。

《引用2》
 神政政治と言う思想は、現代人が思うほど突飛な考え方ではない。

《感想》 「神のみが王となられる」ということと、「それは神かダビデか、というような二者択一の問題としては捉えられなかった。それは両方を意味すると思われる。」のあいだに「どこまで人間的エージェンシーによる統治なのか」という「あいまい領域」があるように思います。
「王なる神」(86-97)

《引用1》
実際のところ、イスラエルのストーリーが進展していくにつれて、古代の詩人や預言者たちは、神ご自身が王であり、実権を握っておられ、すべてのことを解決するだろうと公然と語るようになった。彼らは、神がそのようになさるとき、物事がどうなるかについての印象的な歌を残した。(86頁)
詩編10:16-18・詩編47:1-10・詩編95:3-7・詩編96:10-13・詩編145:1, 10-13・イザヤ52:7-10・マラキ1:14
 長いあいだの希望と、もっと長いあいだの悲嘆の中から生まれたこの運動は、神が、神だけが王となれると主張した。神は戻ってこられ、人々を治めるだろう。
《感想》 ライトが明らかにしているのは、預言者が語る神が、
 A)完全な支配者の「王」
 B)完全に世話をしてくださる「羊飼い」
として表現されており、どちらも普通の人間の「支配者」にはそのようなことはできないのだ、だから「ほんとうの王」「ほんとうの羊飼い」を求める機運が歴史的に高まった、というイスラエルの歴史としてのストーリーを紡いでいるように思います。

以上6月中は「5章」の三分の二くらいをカバーできました。

担当してくれる方も、まったく初めての方も含め2名いました。


最近の動向として『シンプリー・ジーザス』があっちこっちの読書会で用いられたり、またこの本を読むために読書会が作られたりしているようです。


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年6月は、入会6名で、トータル224名となりました。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

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