2018年1月31日水曜日

FB読書会 2018年1月報告

今日はまだ1月ですが、いつもより少し早く「1月」の報告をしておきます。

1月は13章と14章の最初の部分をカバーしました。

今回は(ヴォランティア)担当者が少なかったので《感想》は割愛、引用された箇所だけ(全部ではありませんが)紹介しておきます。


第13章 なぜメシアは死なねばならなかったのか(292-330)

(292-303)

《引用①》 イエスの人生には特定の瞬間があり、それらの瞬間は、すでに象徴的な意味付けがされている特定の地理的空間で起こった。ユダヤの偉大な祝祭日、とりわけ過越祭、またはユダヤの偉大なランドマーク、とりわけヨルダン川やエルサレムでのことを考えてみれば分かる。
 私たちの手にある資料を通じ、繰り返し出てくるこれらの瞬間や場所で、三つの流れが一つに終結するのに気づく。それは私たちの扱ってきたパーフェクト・ストームを作る三つの要素というより、別々の谷を下ってきた三つの川の流れが一つに合流し、圧倒的な水流となったイメージに近い。 ・・・イスラエルの王朝の、長く波乱に富んだ歴史におけるメシアの役割という偉大な川の流れと、苦難のしもべという漆黒の流れが激突する。そしてその二つの流れは、イスラエルの神の帰還という、長く、暗く、そしてさらに強力な信仰の流れに飲み込まれていく。(295-6)

《引用②》 しかしイエスは、これらの召命を一つにした。彼はバプテスマのヨハネから洗礼を受けた。バプテスマには、重大な復興に必要とされる悔改めと、かつてイスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入った行為の象徴的再演という意味があった。・・・すなわち僕としての召命と王としての召命とが、イエスの心と頭の中で一つに溶け合ったのである。(299)

《引用③》・・・世界の多くの自称「正統な」または「保守的な」クリスチャンたちは、王国なしの十字架を求めてきた。つまり、この世界と何の関わりもなく、この世から逃れる手段だけを提供してくれる抽象的な「贖罪」である。(303)
新しい出エジプト(303-312)
《引用①》 イエスの生涯のクライマックスをこのように見るのは、標準的でも伝統的でも、「正統的」でも「保守的」でもないが、それは新しい角度から「受肉」と「贖罪」という「伝統的」な教義に光を当てるものだ。私が主張したいのは、このような見方は私たちに、本来の歴史的現実を理解させてくれる、ということである。これらの教理は、これまで非歴史化され、抽象的な要約になってしまっていた。(306)

《引用②》 エルサレムは余りにひどく道を踏み外してしまっていた。ユダヤの指導者たちのローマとの共謀、腐敗、圧政、貪欲によって、ひどく堕落してしまった。ユダヤの民、イエス自身の民は、軍事的な暴力と武装蜂起で神の勝利を世界にもたらそうと決意していた。(308)

《引用③》 だがイエスは、反逆の民に神の裁きを宣告しただけではなかった。イエスは民に先立って進み、破壊的な諸力に自ら対峙し、そのすべての重みを自分の身に引き受けるかのように語り、行動した。そうすることで神の民が刷新され、諸国を照らす光となる召命を彼らが再発見し、長く続く隷属と捕囚から民が解放されるためだった。(310)
十字架(312-321)
《引用①》 この食事の重要なポイントは、弟子たちが新しい形でイエス自身の命を分かち合うことで、その恩恵を分かち合えるようにしたことだ。パンとぶどう酒という贈り物は、すでに重要な象徴的意味を持っていたが、新たな深みを獲得する。すなわち、弟子たちの間でイエスの臨在を体験する方法になるだろう。献げものと臨在。これこそ新しい神殿である、過越しに見立てた食卓での、この不思議な集まりが神殿なのである。(314)

《引用②》 こうしてイエスは、新しい召命への道を拓く。土地、神殿という民族のアイデンティティを守ろうとする熱烈な圧力に代えて、イエスの信従者たちの新たにされた心と生活を通して、全世界のための王なる祭司という初期のヴィジョンを取り戻す。全世界はメシアの嗣業だが、今や彼らのものにもなる。これらすべてものの背後に、献げものがある。イエスはそのようにして「アッバ、父よ」と呼んだ方に従順を献げる。そして、長い間履行されなかったイスラエルの召命である従順が、ついに達成される。(315)
 《引用③》 多くの読者は、ヨハネの福音書でこのようなテーマを無視し、この書を「霊的な」、または「神学的な」論文として、個人的霊性と来世での救済の希望を促す書として読もうとしてきた。しかし、この書はきわめて明快だ。ローマ帝国の権力とイスラエルの指導者の裏切りが、神の愛と出会う。そのとき生まれた大いなる渦巻きで、王としての神の勝利がもたらされる。それは、この世の諸王国を凌駕する神の王国の勝利である。(317)
《引用④》 この対決 [ヨハネ18、19章] の核心にあるのは、神の王国の持つ政治的、神学的意味の両方である。イエスは神の王国を宣言し、行動でそれを具現化した。(318)
(320-331)
《引用1》ではイエスの死をどのように解釈すればよいのだろうか?(略)同様に、イエスの死を神学的に過小評価してしまうことも簡単だ。《引用終》

《引用2》その理解(刑罰代償説)を先のモデル(メシアであるイエスはイスラエルを代表し、したがって世界を代表する)と合わせれば、刑罰による死という理論に向けられてきた主な批判はその力を失う。《引用終》

《引用3》イエスのストーリーを読み、研究し、祈れば祈るほど私が確信に至ったのは、これらのモデルはさらに大きな枠組みの中で理解されるべきだということだ。(略)すなわち、いずれにせよイエスの死は、彼自身にとって、またそのストーリーを語り、最終的にそれを書き下ろした人々にとって、神の王国を樹立する究極の手段と見られていた、ということである。十字架は、神の王国が天にあるように地上に来るようにという祈りへの、ショッキングな答えなのだ。《引用終》

第14章 新たなる支配のもとで(331-356)

新しい世界(331-337)

《引用①》
 イエスがイースターの朝に死者の中からよみがえったそのとき、イエスは新しい世界の始まりとしてよみがえった。そしてその新しい世界は、神がつねに創造しようと意図していた世界なのである。これがイースターの意味について知るべき最初の、そしておそらく最も重要なことである。(332)

《引用②》
 今日の西洋世界の多くの人は、物質的な肉体は「天」にいることができない、と考えている。彼らはプラトン主義者で、もし「天」があるとすれば、それは空間や時間や物質と関わりのない、非物理的なところだと考えている。(334)

《引用③》
 さらにこう考えてみよう。--そこで創造主なる神は、自ら圧政者の武器を打ちこわし、創造本来の目的が満たされる新世界を始めるためにやって来られた。原始キリスト教徒たちは、よみがえったイエスに会ったとき、そのように考えていたようなのだ。よみがえったイエスは、「天」において自由に活動できるが、彼らにはそれが見えない。だが、イエスが「地」にいるとき、彼らは見ることができた。(334)


その他、2月末に出版予定のライトの『パウロ(伝記)』の紹介インタヴューがベン・ウィザリントンのブログで(今日の時点で)7回に渡って取り上げられているのを紹介しました。

この引用部分などちょっと目を引きました。

I had in mind the ‘general reader’, including students, and – I hope! – radio or TV: I want Paul to be seen as what he was, one of the primary public intellectuals of the ancient world (i.e. not just a ‘religious’ figure as people in our world tend to imagine).





「新規入会メンバー」について。
2018年1月は、退会者1名で、トータル232名でした。

以上1月の報告でした。

2018年1月3日水曜日

FB読書会 2017年12月報告

明けましておめでとうございます。
今年もN.T.ライト読書会(リアルとフェイスブックともども)よろしくお願いします。


いつものように先月12月の報告をば。

12月は11章残りの部分と、12章をカバーしました。
今回は担当者が揃ったので《感想》も一部交えてご紹介しておきます。

第11章 空間、時間、そして物質(233-264)


新しい種類の革命(256-264)

《引用箇所》 第一の間違った見方は、人々に「天国に行く方法」を教えにイエスがこの世に来られたと考えることである。(中略)イエスが語ったことは、神はまさにいまここで、「地上」において支配を始められたのであり、人々はこのことの実現のために祈るべきであり、またイエスご自身の働きのうちに、それが実際起きているしるしを認識すべきだ、ということだった。(256)
《感想》 (中略)ライトさんの著書に出会えて良かったと思ったのは、すでに分かり切っていると思っていることについて再考する、ということを教えられたからです。教会で教えられている解釈も、いつからか、誰かが言い始めたことであって、時間とともに作り上げられてきたものに他ならない。それをまるで聖書とセット梱包された、改変してはならないもののように扱ってしまっていたのではないか、ということに気づかされたのです。
第12章 嵐のただ中に(265-291)

イザヤ書の僕(しもべ)(265-279)
《引用箇所》  ローマは背後に控え、いつものやり方で帝国の要求と野望とを押し付けようとしていた。イスラエルもまた、過越の祭りを祝いながら民族の解放と異教徒に対する勝利を待ち望んでいた。そしてイエスが「アッバ、父よ」と呼んだ神は、ある使命のためにイエスをこの世に送ったが、その使命は、ローマのものともイスラエルのものとも異なっていた。その使命は両方からの妨害に遭い、絶望的で悲惨な失敗に終わりそうに見えた。私たちがこうした全体像を持ち続けることができれば 、イエスが何者で、なぜあのように行動したのかを理解する途上にいる。(266-7)

《感想》 パーフェクトストーム(「ローマ帝国からの圧力と、イスラエルの千年越しの希望がぶつかりあうところに、さらに別の角度から激しく吹き込む不可思議かつパワフルな神ご自身の目的が出会うところ」)のメタファーは、実は私はあまりピンときていなかったのですが、ようやく見えてきたような気がします…
ダニエル書、人の子(279-287)
《引用》 「不正なぶどう園の農夫たち」が主人の「息子」を殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまったとき、主人は帰ってきて彼らに復讐する。これは詩篇118篇22節の成就となるだろう。・・・すべてが一致している、すべてが同じ聖書の物語と共鳴している。(285-6)
 《感想》 ダニエル7章(人の子)、ダニエル2章(石)、次に福音書のイエス語録での「捨てられた石」を関連付けたことが大きいと思う。
つまり「神が王となるストーリー」であるダニエル書7章だけでなく、2章の「石」も同様「神が王となるストーリー」であることをくっきりさせたことで、十字架の「苦難」が「王国樹立」ストーリーであることを意識させられた。
ゼカリヤ書の王(287-291)
《引用》 わたしたちのここでの目的にとって注目すべき大切な点は、ゼカリヤがイザヤやダニエルと同じく、三本の線が一つに収斂していくのを思い描いていたことである。すなわち、神とその民に戦いを挑む邪悪な異教の国々、失敗したユダヤ民族の指導者達、そして他の誰も成し得ないことを成し遂げるために来られる神である。この3つは、イエスがそう見ていたように、パーフェクト・ストームを形成する三要素である。(290)
《感想》 マタイ22章の王子の婚礼のたとえ話ともどこかでつながっているような気がしています。この終末に関するマタイ22章の王子の婚礼での出来事の話は、現代人としては、当惑してしまうようなたとえ話なのですが。

以上12月の報告でした。

「新規入会メンバー」について。  2017年12月は、入退会者ともに0名で、トータル233名のままでした。


以上、ご報告まで。

2017年12月1日金曜日

FB読書会 2017年11月報告

12月です。
いつものように先月11月の報告をば。

11月は10章をカバーし、さらに11章に入りました。
今回は担当ボランティアがお一人でした。
感想は割愛して引用された部分だけご紹介しておきます。

第10章 戦いと神殿(213-232)

サタンとの戦い(220-226)

《引用箇所》 イエスは王としての任務を、真の問題が存在するところから再定義した。そうすることで、イエスは自分自身の召命を再定義した。・・・その召命とは、神の民を自由にし、神の主権と救済的な支配を打ち立てるための重要な戦いに勝利を収めることである。しかも、彼自身の苦難と死を通じて。(226)
イエスが見据えていた最後の戦いとは何だろうか?それはもはやローマ帝国への軍事的戦いではなく、神殿やエルサレムを奪い返すためのヘロデや祭司長たちに対する反乱でもない。・・・それはもっと根源的なものだ。それはサタンへの戦いである。(225)
善と悪との境界線は、神のレベルと、そしてサタンのレベルでは、はっきりしている。しかしそれが人間のレベルになると、個人であれ集団であれ、その区分がますますぼやけてくる。(219-220)
《感想》 この時代はシリアがエルサレムを支配していたのを、ユダ・ハンマーが3年間にわたるゲリラ戦に勝利し、神殿から異教の影響を一掃したそうです。ユダヤ教のハヌカがそれを祝うお祭りだったとは知りませんでした!
出来事のストーリー(性)とその意味解釈(226-232)
《引用箇所》  同じように、私たちがイエスのさまざまなストーリー、特に最後の数日間に起きた出来事のストーリーを読むときは、そこにあるさまざまなテーマを組み合わせ、一貫性のある一つの全体像を作り上げるのに相当の努力を要する。しかし、過越祭で賑わう当時のエルサレムで、イエスがろばに乗って入城する姿を見た人々は、ちょうどこの経験豊富な艦長のような立場にいた。
 イエスの行動、その行動が喚起する預言、過越しの何重ものテーマ(暴君への勝利、奴隷の解放、献げもの、神の臨在)、これらによって一つの一貫性ある、しかし非常に挑戦的な全体像を、人々は難なく作り上げただろう。当時の彼らの世界観や、その根幹となるストーリーをよく学んでいない私たちは、(少なくとも初めは)それらをばらばらの要素として見てしまうが、当時のエルサレムにいた人たちは、一つの濃密な出来事として見ただろう。彼らは一目見ただけで、すべてを理解しただろう。その意味するすべてを。
 ではその「意味」とは何だったのか? 何よりも、それは紛れもなく王の行動、イスラエルの真の王であると言う主張だった。・・・にもかかわらずこの平和な王の到来は、全世界的な彼の支配の確立を意味するのである。(228-9)
第11章 空間、時間、そして物質(233-264)
神殿という「空間」認識をめぐって(233-241)
《引用》 そこで私たちがイエスを理解しようとするなら、彼の住んでいた世界と私たちの世界との違いについて把握することがぜひとも必要になる。(233)
 だが、このような時間、空間、そして物質について現在の西洋的な考えを抱いたままイエスのストーリーを読んでも、イエスとは誰かを理解することは決してないだろう。(234)
・・・言い換えれば、その結合点とは、イエスのいた場所であり、イエスの活動そのものだった。イエスはいわば歩く神殿だった。生きて呼吸する人間が、神の住まわれるところだった。
 多くの人がすぐさま気づくように、これは後の神学者たちが受肉の教理と呼んだ、まさにそのものだった。だがそれは、多くの人が考えている受肉の教義と大きく異なっているように見える。(237)
・・・だが、この嘲笑的な批判は大事なことを忘れている。そう、確かにイエスは神について語った。しかしイエスは、まさに自分の行っていることを説明するために、神について語ったのだ。(237-8)
時は満ちた(241-247)
《要約》 時間!イエスの時代のユダヤ人も今日のユダヤ人も、時間について極めて特殊な感覚を持っている。ユダヤ人にとって時間は直線的に前へと進み、そこには始めがあり、中間があり、終わりがあると考えられている。それは、すべてのものが循環的にぐるぐる回り、必ず同じ時点に戻ってくるという別の人々の時間感覚と違う。(241頁) しかし、聖書の冒頭にはもう一つの特徴がある(241頁)
古代の異教徒たちがユダヤ民族について知っている数少ないことの一つは、異教徒の視点からすれば、彼らが一週間のうち一日は怠け者になることだった。しかしユダヤ人からすれば、それは怠けているのではない。(242頁)
安息日は、歴史の初めの礎の時から究極の回復へと進む時の流れを感じる瞬間でもあった。神殿が、神の領域と人の領域とが出会う空・間・であるならば、安息日は、神の時と人の時が一致する時間だった。(242頁)
新しい創造(247-255)

《引用①》 神の栄光はエルサレム神殿に降臨したのでもなく、またシナイ山の頂上に降り立ったのでもなく、イエスの上に、そして彼の中で輝き出た。彼はその成就の瞬間に、律法と預言者、つまりモーセとエリヤと語り合った。「キリストの変貌」と私たちが呼ぶものは、核心的な瞬間である。それは、イエスの生涯において、神殿の空間と安息日の時間の指し示すものが明らかになったように、イエスにおいて、より正確にはイエスの肉体において、物質世界そのものの指し示すものが明らかにされた瞬間であった。(252-3)
《引用②》 聞く耳と見る目を持っている人にとって、山上でのキリストの変貌のストーリーが証しているのは、イエスはいわば神の「物質」ーー新しい創造ーーと私たちの時間が交差する場だ、ということである。イエスが神の世界と私たちの世界、神の時間と私たちの時間が交差する場であったように。・・・新しい創造のすべては、大地に蒔かれた種、新しい世界の初穂としてよみがえられたイエスから始まる。(255)

以上11月の報告でした。

その他11月6~8日開催された「日本福音主義神学会・全国研究会議」関連の投稿が幾つもあり、ディスカッションが続きました。
 ※このサイトで講演のまとめ・レスポンスが読めます。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年11月は、入会3名で、トータル233名になりました。


以上、ご報告まで。

2017年11月3日金曜日

FB読書会 2017年10月報告

11月です。
いつものように先月10月の報告をば。


10月は9章(10章への準備的な内容みたいですが)をカバーし、さらに10章に入りました。
今回は担当ボランティアがお二人加わりましたので助かりました。


第9章 王国、現在と将来(192-212)

ユダ・ハンマー(192-197)
《引用箇所》 最も有名なのはパリサイ派である。彼らは自分たちなりの理解に従って、古代の伝承に忠実であろうと徹した大衆運動であり、神が再び行動を起こしてくださるのを熱烈に待ち望んでいた。そこで大切なことは、かの偉大なストーリーが、彼らの心と聖書の読み方の習慣に深く刻み込まれていたことである。(196-7)
《感想》 この時代はシリアがエルサレムを支配していたのを、ユダ・ハンマーが3年間にわたるゲリラ戦に勝利し、神殿から異教の影響を一掃したそうです。ユダヤ教のハヌカがそれを祝うお祭りだったとは知りませんでした!
星の子(バル・コクバ)シモン(197-204)
《引用箇所》 そして多くのユダヤ人は、メシアを待ち望むのはまったくの誤りだという結論に達した。ともかく、ユダヤ人の反乱はその後、途絶えてしまった。彼らはひっそりと神と律法に従って生きることに満足し、他民族が世界を支配したければ、それはそれでよしとした。……
星の子シモンのストーリーはユダ・ハンマーから300年後のことであるが、結末はまったく違うものの、そこに驚くほど共通のパターンがある。……
シモンと彼の支持者たちの信じたストーリーは、ユダ・ハンマーと同じストーリーだった。それこそが聖書の語るストーリーだと彼らは信じ、聖書の約束は、そのストーリーどおり成就すると信じていた。それは、神がついに王となられると語ったイエスの言葉を聞いた人々の脳裏に浮かんだストーリーだった。それはイエスがエルサレムに入城した際、人々が歌に込めたストーリーだった。(203-4)
《感想》 こういう歴史的背景を知るのはとても興味深いです。ユダ・ハンマーのように、イエスが登場する前にメシアとおぼしき人物が現れるのはわかるのですが、イエスが登場して、十字架の死と復活を遂げたあとでもなお、メシアを待ち続けていたユダヤ人… 彼らは、自分たちが待ち望んていた王が異教徒によって殺されるとか、終わりの日の前に1人だけ復活するとか、どうしても受け入れられなかったのでしょうか…
王国樹立のアジェンダ、ヘロデ大王、シモン・ベン・ギオラ(204-212)
《引用》 人々が「ユダヤ人の王」に期待した一連のことは広く知られていた。・・・それらの期待の最上位に来るものは、異教徒に対する勝利と神殿の清め、また再建であった。(176-7)
《感想》 9章はイエスの王国樹立のアジェンダを見通すための、いわば「座標軸」作りだったということでしょう。それを「回り道」をして・・・と言っています。  そして取り出した要素は「敵に対する勝利」と「神殿清め/再建」でした。この二つが10章のテーマになります。
第10章 戦いと神殿(213-232)

戦い(213-220)
《要約》 9章において示された、「ユダヤ人の王に対する期待」の最上位は、異教徒に対する勝利と神殿のきよめまたは再建でした。これを10章では「戦いと神殿」と題して提示します。分担されたところは、「戦い」の前半です。イエスは戦いに関与します。しかしその戦いは、人々が期待した異教徒に対する勝利を目的とするような戦いでは無く、「サタンとの戦い」でした。・・・・・・
《感想》 クリスチャンは自身を善の側にいると捉えがちなのではないかな。??

以上10月中の報告でした。

その他「第6回N.T.ライト・セミナー」が終わったところで様々な感想やら何やらが続けざまに投稿されしばらく賑やかでした。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年10月は、入会1名で、トータル230名です。


以上、ご報告まで。

2017年10月1日日曜日

FB読書会 2017年9月報告

10月です。今年もあと三ヶ月。


今月は23日に第6回N.T.ライト・セミナーもあり忙しくなりそうですが、『シンプリー・ジーザス』の方はしゅくしゅくと進行します。


9月は第8章をカバーしました。今回は担当ボランティアが一人に減りましたので、《感想》部分はほんの少しだけ紹介します。


第7章 説明するストーリー、変革をもたらすメッセージ(162-191)

ストーリー、ラザロと金持ち(162-169)

《引用箇所》 その良い例が、ルカの福音書16章19節から31節の、死後、別々の世界に住んだ二人の男についての不思議な話である。この話のポイントは、貧しい者を助けるべきだという警告と、悔改めの緊急性である。(163)
イエスは、種を蒔く人のたとえ、・・・そこに含まれている旧約聖書の響きが、聖書によく親しんだ聴衆の心に根を下ろすことを願った。・・・だが、罪人と思われていた人たちがそのメッセージを受け入れた一方、正しい人々の多くはまったく分かっていなかった。
 ・・・・・・イエスの言葉がどう機能するかを研究する専門家は、その「言語行為」効果を描く。すなわち、ストーリーを語ることで新しい状況、新しい世界が作り出される。(168-9)
「種まきのたとえ」と「ぶどう園と農夫のたとえ」(169-176)
《引用箇所》 イスラエルはまさに、再び蒔かれている種である。しかし多くの人は、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ままでいる。多くの種が、道端や岩の上や茨の中に落ちてしまう。
 ここで言われているのは、イスラエルはいまのままではいけないということだ。(172)
次のストーリーは別の意味で重苦しい。イスラエル全体がイエスの神の王国のヴィジョンにまったく関心を示さないばかりか、それに激しく抵抗している痛ましい現実がそこに映し出されている。(174)
外側だけの改革以上のものが必要(176-181)
《引用箇所》 ・・・神の計画が成し遂げられ、イスラエルの運命が成就する。まさにその道筋の中にねじれが生じてしまっているのだ。
 いまこそ、イエスは単なる「偉大な宗教の教師」であって、新しい霊性のあり方や新しい救いの方法を教えたというたぐいの考えは退けるべきだ。(176-7)
 イエスは、もし神が天におけるように地においても王となられるのなら、外側だけの改革以上のものが必要であるとよく理解していた。それは単に既存の律法や規則の運用を強化し、厳格に実行することではない。それは、パリサイ派がやろうとしていたことだ。(181)
変容される心(182-191)
《引用箇所》  イエスのポイントは、神が王になられるとき、心の汚れの解決を提供してくださると言っているのだ。……その人のすべてを内側から刷新するのである。(185)
イエスは、神が王となるときに被造世界そのものが刷新されることを強調している。それゆえ神の王国における支配とは、創造の秩序の意味を明らかにする支配なのである。……

 心に関する他のすべての箇所を考え合わせれば、私たちは自信を持ってイエスの示したポイントはこうだと断言できる。すなわち、神が天でそうであるように地においても王となられるとき、*神は心の頑なさという病への解決をもたらしてくださるのだろう*。病める体へのイエスの癒しは、その人の奥底までも貫徹する。内側からの癒しによって変えられた人生は、神が王となられるとき、それにふさわしい創造の秩序を示すものとなるだろう。……

 イエスの教えが生活の私的領域での敬虔さについてだけのものでは決してない。(188-9)
《感想》 「心の頑なさ」は神が王になるときに癒される「病」であるとは、なんと感謝なことでしょうか。…… あと、この箇所は原文で読むと、神が王となるときになされる刷新が、いかに根本から徹底的になされるものかがはっきりわかります。

以上9月中の『シンプリー・ジーザス』は予定通り第8章を読了したことを報告します。


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年9月は、入会1名で、トータル230名となりました。


以上、ご報告まで。

2017年8月31日木曜日

FB読書会 2017年8月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて5ヶ月が過ぎました。

ほぼ「1章/月ペース」で進んでいます。

8月は第7章をカバーしました。5つのパートに分け3人の方が担当してくださいました。上手く捗りました。

ということで今回は《感想》部分も少し多く紹介しました。


第7章 キャンペーンここに始まる(129-161)


イントロ(129-131)

《引用箇所》 紀元一世紀の眼鏡をかけたまま、イエスと、そしてイエスがイスラエルの神について語ったことを振り返ってみよう。使者が公式の布告を宣言するやり方に倣って、イスラエルの神がついに王となられたことをイエスは宣言した。「時は満ちた!」と彼は言う。「神の王国はいまや到来しようとしています。・・・」(マルコ1章15節)
こうした宣言がどんな効果を生むか、少し考えてみよう。民主主義の下で生きる今日の私たちは、新しい大統領や総理大臣と共に新しい政府が誕生することを経験している。それをラジオやテレビのニュースで聞き、それが新しい政治の始まりであることを知り、新体制を受け入れる。(129)
「祝宴、癒し、赦し」(131-140)
《引用箇所》 赦しは実際のところ、癒しの一種なのである。それは、人々を押し潰して身動きできなくする重荷を取り除いてくれる。赦しは掛け値なしに人を真っ直ぐに立ち上がらせるのだ。それは社会全体に広がっていく。(136,137)
赦しと癒し。この二つは個人的にも社会的にも、分かちがたく結びついている。社会全体が、積年の恨みから生み出されれる不和によって身動きが取れなくなり、内乱へと発展する。直視されることも、赦されることもなかった一つの出来事や行動のために、家族も引き裂かれることになる。同じように社会も家族も、そして個人も、赦しを通じて和解がなされ、新しい希望と新しい愛を見いだすことができる。 (138)
《感想》 イエスの宣言は「神があなたの心の王座に着かれた」のではなく「神がこの世界の王座に着かれた」である。私たちは、プロテスタントの流れの中で「神と私」の関係を強調しすぎてしまい、神が世界(あるいは社会)に対して為されることに興味関心を持たなくなってしまってはいないか。それに加えて、私という個人が世界、社会、隣人に対して為すべきことをあまり考えなくなっているのではないだろうか。神との関係を強固に保つことが第一の目的になってはいないだろうか。・・・・・・
神はこの世界を通して私という個人を癒し、そして私という個人を通して世界を癒そうとされているのではないだろうか。また、自分自身は家族や隣人との関係の癒し(回復)にどれほど関心を払い、祈り求めているだろうか、と思わされた。

「最初の宣言」(140-146)

《引用箇所》 イイエスの最も正式な宣言は、ルカの福音書の中で(ルカ4:16~20)、その公生涯の最初になされた。・・・イエスは立ち上がり、イザヤ書の巻物の中からある一節を読んだ。
 その箇所は来たるべき世、奴隷状態からの解放、新しい出エジプト、捕囚後の回復に言及した偉大なる聖書箇所の一つだった。(140)
《感想》 >奴隷状態からの解放
これが、実は救いの理解なのだと、実はライトさんの著作を読み始める7年くらい前までは明確に言語化できなかったのですが、ライトさんの本を読み始めて、これで読むと非常に明確に、スッキリと、旧新約聖書が読めることに気が付き、それ以来、個人的には、あぁ、なるほどこう読むのか、と従来バラバラで、セメダインやガムテープでガチガチに固めていたものを一旦外して、きれいに並べ替えて、非常にスムーズに聖書を理解できるようにはなりました。
「あなたの罪は赦されました」(146-151)

《引用箇所》  これらのストーリーは、それに類した他のストーリーと同様に、待望久しいヨベルの希望と共鳴するものだった。それはイスラエルの罪によってもたらされた捕囚からの解放であった。また一方でこれらのストーリーは、偉大な出エジプトのストーリーによって喚起されるイスラエルの希望とも共鳴するものだった。そのどちらにおいても、罪を赦すとイエスが宣言した際、彼のしたことに対する不満の声が上がった。パリサイ派のシモンの家にいた人々は、「罪さえ赦すこの人はいったい何者なんだ」と尋ね、癒された中風の男を見た律法の専門家は、罪の赦しは神だけができると指摘した(マルコ2:7)。(150)
《感想》 イエスのキャンペーンのテーマである「祝宴、癒し、赦し」がここで再び浮き上がってくるのが分かります。「イエスの癒し、祝宴、それを切実に必要とされている人への赦し、これらすべてが、神が王となられると彼が語った時、いつも聴衆の心に生れただろう大きなヴィジョンの手近な現れなのである。」と結んでおられるのが心に残りました。
「ヨハネとヘロデ」(151-161)
《引用箇所》 しかしヨハネは、彼の従兄弟のイエスこそ、来るべき王であると信じていた!イエスの行動を通して、神はついに王となるーー暴君の圧政を打ち砕き、民を解放する!もしそれが起こるとすれば、まさにうってつけの役割がヨハネにあったのではないか?ヨハネの公生涯のクライマックスは、とどのつまりイエスの宣教を開始させることにあったのだ。イエスを、神の時の人として立ち上がらせることだった。それではなぜ、イエスはヨハネの苦境を知りながら何もしてやらなかったのだろうか?(152-3)
《感想》 この部分の記述は、所謂なぜ、神は悪を放置するのか、議論(所謂神義論?)ともつながる問だと思います。我々は、このような問いをすぐに、それも安易に立てたがる傾向があると思いますが、神のご計画はそれこそは不可知なことでは無いか、と思っております。それが次の部分にもつながっていると思います。そして、今も神は善なのに不善を許すのか、というような問になって、いまも続いているのかなぁ、と思いました。


以上8月中の『シンプリー・ジーザス』第7章ほぼ読了・・・という進捗・経過報告でした。

その他「フリーeBook情報」ということで以下の二つのリンクを紹介しておきました。
 (1) The Gospel According to Acts by N.T. Wright
 (2) Was Jesus a Jew? Discovering the Jewish Jesus


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年8月は、入会2名で、トータル229名となりました。


以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年8月8日火曜日

Salvation By Allegiance Alone 7

さて、『Salvation By Allegiance Alone』という一冊の本についての様々な紹介記事を見てきました。

それだけこの本が、「福音・救い・信仰・キリスト者生活」をトータルで再確認する、特に「王なるキリストを中心に」再構築する必要を訴える本になっているので注目を集めたのではないかと思います。

今回この「7」でシリーズを終了するにあたって、もし一番簡単な紹介文、最も導入として的を射ている「帯文」は・・・(まだ本書そのものを読んでいないで言うのも何ですが)これではないでしょうか。


"Matthew Bates argues that faith or believing is not mere assent, not easy believism, but covenantal loyalty to the God who saves his people through the Lord Jesus Christ. Bates forces us to rethink the meaning of faith, the gospel, and works with a view to demonstrating their significance for true Christian discipleship. This will be a controversial book, but perhaps it is the controversy we need!"
Michael F. Bird, lecturer in theology, Ridley College, Melbourne, Australia
 このバードの表現に即して言えば、
(1)easy believism
(2)Christian discipleship
(3)covenantal loyalty
あたりが特に目に付きます。

マクナイトの紹介でも何度か出てきたと思いますが、ボンヘッファーが強調した「弟子(付き従う)」としての能動的信仰面が、「救いの恵みを受ける(「安価な恵み」の問題)」という受動的信仰ではなかなか伴わない、ということがこの本の主張の背景にあると思います。

また宗教改革来の課題である(信仰に対して)「行い」をどうするか、倫理とか「キリスト者生活」の問題が、(組織)神学的には「聖化」や「キリスト教倫理」という形では取り組まれてきましたが、やはり「(個々人の)救いの完成」というフレームを越えては解決できていないのではないか、ということがあると思います。

一つの《中間考察》として

前回6でも言いましたが、このシリーズは「大和郷にある教会」ブログの『救いについての「教理」』
と並行して進めてきました。

いまこちらのシリーズを終えるにあたり思うことを一つ二つ挙げておきたいと思います。


(1)(救いの)共同体面をどのように回復するか

これだけ注目を集める『Salvation By Allegiance Alone』が様々に指摘している「救い」をめぐる問題群は、(宗教改革後の)プロテスタント諸教派共通の問題となってきたように思います。

簡単に言えば「個人的な視点」がかなり強くなったわけです。

それは「制度的な教会」、つまりカトリック教会への様々な過剰反応として現れてきた面を含むと思います。(たとえばその一つは「サクラメント」と「ヒエラルキー的職制」の問題がダイレクトに繋がって見えるということとか・・・。)

いま宗教改革の伝統に属する教会の「教えと実践」でかなり基本的なところで見直しが起こっていることの背景に考えられるのは・・・やはり一つの大きな要因は「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)」ではないかと思います。

たくさんの書評を紹介してきましたが、ある意味指摘されている問題群は「キリスト教文明」に典型的に起こりそうな問題だと思います。

簡単に言えば「キリスト教が文化」な環境、「信仰」や「救い」に中途半端に接することが多い環境です。

ノミナル(名ばかり)・クリスチャン、(幼児)洗礼は受けたが・・・その後はさっぱり、というクリスチャン文化です。

キリスト教がマイノリティーだったり、キリスト教に対して敵対的だったりする文化圏では、信仰にしても救いにしても中途半端に過ごすことはそれなりに難しい。やはり覚悟がいります。

(しかし「キリスト教がマイノリティー」だからといって「教会文化」がない、育たないと言うことではありません。)

そういう意味でも、バードが(アリージャンスと同意に?)使った「covenantal loyalty」はなかなか示唆的です。

個人主義的視点から見た場合、「救い」の「信仰」に「契約共同体」的側面があることを自覚するのはなかなか難しい。

「洗礼式」の式文では「(教会)入会式」的な側面がありますが、リバイバリズムの背景が強い教会では「回心」の後に 「洗礼を受けて・教会に入る」意識がどうしても強くなりがちです。
(「回心」と「洗礼」とは教会共同体を中心にしてなるべく分離しない、時間的にも重なるような枠組みが必要に思います。)

(2) 「日本」の文脈との連絡の仕方

第1点で指摘した「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」がそれなりに正しいとすると・・・いわゆる日本における「欧米の最新神学思潮・流行導入傾向」 ということで二重に注意が必要になるかもしれません。

日本語文化圏というのは「近代」国家ということでいえば「日本語の代わりにどれか近代諸国家の言語を第一言語として国家制度を整える」という国家政策を取らずにきた結果である、と言えます。(この現象の文化面からの重層的分析として水村美苗の『日本語が亡びるとき』があります。この記事この記事 など。)

明治以来、一生懸命「知識人」たちが最新科学技術及び文化情報を「翻訳」して国民全体の教育レベルを維持してきたわけです。

残念ながら福音派「神学」では最近この志向にブレーキをかける傾向があるみたいですが・・・。

さて、『Salvation By Allegiance Alone』がNPP等のアカデミックな議論の延長上、つまり「聖書学」からの「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への波及、という文脈で捉えた場合、「日本」の文脈との連絡の仕方は二つのフロントで評価・導入するという問題になると思います。

① すなわち「聖書学」での議論の積み上げへの評価が必要と言うこと。

このことは「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への影響とはある程度切り離した形で必要だと思います。
※このシリーズでは紹介しませんでしたが、ニジェイ・グプタが「この本は内容はわざわざ議論される必要がないほど(聖書学的見地からは)すでに前提的なものである・・・」みたいな嘆きをその紹介記事で添えています。
現状は「聖書学」の評価を独立してするほどまだ(欧米の福音主義でも)基盤が強くないような印象です。そのため予防・防衛的に悪影響のありそうな思潮・潮流に限定して 水際作戦を展開するメンタリティが先行気味・・・などと言うことも散見されるのでしょう。

もちろん「トレンド・流行」にだけ敏感になるのも問題ですが、日本が「島国鎖国的メンタリティ」を引きずる伝統があるとすると、世界の(神学的)動向に絶えず注意を向けていることには積極的であっていいと思います。

② もう一つのフロントである「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」のフロントですが、これに関してはむしろ「教派神学」的伝統にしても、「福音主義」という今日(20世紀)的神学運動にしても、日本ではほぼ受動的であったし、今後も同様に推移しそうな感じです。

だとすると、逆に言えば、「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」に対しては(皮肉な言い方になりますが)ある面余裕をもって対応できるのではないか・・・。

「キリスト教がメジャーからマイナーに転落する」経験は日本においては得られそうにありませんが、「キリスト教がマイナー」な環境でどう「教えと実践」を展開するかという問題に対してはそれなりの備えがあると思います。

今回のシリーズで紹介した中では、アンドリュー・ペリマンが最も自覚的にこの問題を捉えているので、この面では一番参考になると思います。

ただしペリマンの「キリスト教の福音の地平線」設定は慣れないとかなりラディカルに響くと思いますが・・・。

それでは7回も連載したシリーズを(めでたく)終了いたします。