2014年5月18日日曜日

ついにPFG読書開始

暫く前入手したN. T. Wrightの
Paul and the Faithfulness of God (ご存知略称、PFG)
をついに手に取って読み始めました。!!!

先ずは「序」から、幾つか紹介。

これだけの長さ(1600ページ)ともなると「序」だけでも書くことは色々あるだろうと思うが、そんなに長くない。

先ずPFGのoverall argumentを押さえておくために大事だと思われる部分を引用する。
My proposal is that Paul actually invents something we may call 'Christian Theology', in this particular way (Jewish beliefs about God, reworked around Messiah and spirit), for this particular purpose (maintaining the new messianic people in good order). We only understand the need for Part III, in other words, when we have understood Part II; and we only truly understand both of these together when we see them within the wider world mapped in Part I and engaged with in Part IV. (p. xvi)
なーんだ「ちゃんと全部読め」と言うことじゃないか、と思われるだろうが、確かにそれは違いないが、何しろこれだけの長さだから、「見当をつける」と言うことは非常に大事だ。

それでやはりこの指摘には、全体を読みこなす時に覚えておいたほうがいいヒントが幾つかあると思う。

先ず小嶋がキーワードだと思うのが、
Christian Theology
そして「パウロ研究」と言うことで言えば、特に「パウロ神学」に関心が高い研究者は、勢いパート3の9、10、11章に意識を集中しやすいと思うが、その時に
for this particular purpose
と断っている部分が効いて来るのだと思う。つまりこの「クライマックス部分に当たる章」を理解するためには、6、7、8章の読解が不可欠だと。
(更に言えば、ライトの最近の動画で指摘しているように、「6章で展開しているテーゼの重要性にこれまでの書評者たちの多くは気が付いていない」、を考え合わせると、ここを丁寧に読むことが大切のようだ。)

この関係は別な角度から言えば、「救済論」に焦点を当てた「パウロ神学」の解題に、「教会論」が不可分に付いてくる、と言う主張になる。


あと少しマニアックでマイナーなことになるが・・・。

「PFGと日本」の関係:
①「謝辞」の中に、わが読書会のメンバーで、ライトのもとで博論を書いている山口希生兄の名前が出てくる!
②二分冊を繋ぐ「ポエム」のようなものを、知友の、Michael O'Siadhail(ミホール・オシール)、に問い合わせたところ、 近作のTonguesから3篇を寄せてくれた。で、この詩集は日本語漢字から着想を得ているとのことだが、ライトのPFGに寄せた詩は「中」から。
※二分冊なので二箇所に「中」の漢字が出てくる。ご確認あれ!

最後に、自伝的エピソード。
ライトが聖書を読み始めたきっかけは、1953年6月2日、エリザベス女王戴冠式の日に、両親から記念聖書がライトと姉(?)に贈られた時。

二人は早速読み始めたわけだが、その文書は一番短い「ピレモン書」だったのだ。
そのピレモン書の講解を導入としてPFGが書き始められているのは、如何に適切か・・・と言う事。

なるほどそう言う訳か。納得。


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