ほぼすべて予定通りと言っていいでしょうね。
しかし、2時間はやはり短い。
課題論文の半分もカバーできませんでした。
ご覧のように(私も含めて)9人の出席者でした。
なお今回の読書会の進行ぶりや、ディスカッションの様子をかなり細かく報告されているこちらの記事をご参考ください。
最初の自己紹介では、それぞれの信仰や教会背景を、「終末」「終末論」に絡めて簡単にご披露していただいたが、殆どの人は「千年王国」に関して「前・後・無」のどれを取るか・・・を一つの参照枠として使われていた。
その後のことは、上掲リンクのMH氏の記事が詳しいので、ご参照いただくとして、残りは個人的な感想を一つ二つ。
(1)聖書を「神の言葉」として受け取る者たちの責任
ライトはアポカリプティックな『言語表現』を理解する時に、『リタラル(文字通り)』と『メタフォリカル(比喩的)』との区別をベース(第一ステップ)にしろ、と提案する。
これは普段余り注意しないで聖書を読む人への提案としては、普段以上に『言語表現』の複雑性・多様性を意識させる意味では一定の効果があるかもしれない。
と言うよりも、既に一定の枠で理解してきた(聖書)箇所を、「あらためて見る」ときの「作業」として役立つだろう。
しかし、実際には『リタラル(文字通り)』と『メタフォリカル(比喩的)』の区別だけではアポカリプティックな出来事として描写されている事柄を理解するには到底間に合わないように思う。
やはり『黙示文学』と言うジャンルのまとまった理解が必要と思われる。
課題論文ではアポカリプティシズムの問題にどう対応するか、と言うのが主眼であったため、アポカリプティック表現解釈に関するもう少し立ち入って論述するまでの余裕はなかったと思われる。
いずれにしても、ライトがたびたび『リタラル』を「フラット(平板)」と形容するように、文学的に平板で、マニュアル的で、簡単に操作可能な文字の羅列とみなすような惰性的態度が「聖書の権威」を高調する者たちにあるとすれば、それは深刻な反省を必要とすることではないか。
むしろ聖書の文学性の豊かさや多様性を(解釈するのはそれなりに大変になるが)積極的に受け止めることが大切ではないだろうか。
(2)言語表現とイメージ
黙示録等にある「アポカリプティックな出来事」が、現代でもっぱらハリウッド映画を通して大衆化している。(List of Apocalyptic Filmsによれば、10年毎の本数では、2000年以降さらに増える傾向がある。)
映像による理解が、どの程度原典である新約聖書の『言語表象』に影響を及ぼすのか分からないが、やはり映像を一つの解釈として批評することは大切だろうと思う。
『リメイニング』という「携挙」を題材にした映画をプロモートする側(と思われる)は、この映画を評して次のように語っていたようだ。
「これは神を信じない者への裁きであり、そして“赦し”に関してもこの作品はきちんと描いてる。細かい描写も、聖書に忠実なんです」と説明。 「実は、聖書が予言していることが、実際に起こり始めているのです。例えば“ヨハネの黙示録”に書かれている軍隊の数は2億人。それは、現在の中国軍隊の 数と偶然にも同じ。巨大地震や日本のマイナンバー制度も、聖書には神の予言として、同じようなことが書かれている」と会場をどよめかせた。
そもそも「携挙」(Ⅰテサロニケ4章)は「残され(てしまった)者」たちについては何も語っていない。
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、ここで描写している「残された者」は、「非信者」ではなく、「キリストの来臨のとき生き残っている者」、即ち「信者」である。
それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。(4章16-17節、新共同訳)
(実際に鑑賞したわけではないので控え目に言うが)『レフトビハインド』や『リメイニング』が悲観的な終末像を、新約聖書の様々な箇所から寄せ集めて合成しているとすれば、それらの聖書箇所をもう一度聖書自身の文脈に戻し、その上で解釈の妥当性が評価されるべきだろう。
個々の箇所が「リタラル」に解釈され(映像描写に反映)ているかどうかだけでは、「細かい描写も、聖書に忠実」、 とされる根拠とはならない。
さらに、例えば所謂「携挙」の場面で言うと、描写の中心は「来臨のキリスト」であり、「キリストにあって眠っていた聖徒」と「地上で生き残っていた聖徒」とが、キリストと一同に会する、という晴れやかで栄え輝くシーンが前面に出ているかどうかも、文脈に沿った「忠実な描写」としては欠かせないことは明白である。
(3)「終末」の啓示(アポカリプス)の中心は何か
簡単に言えば「終末」の出来事の中心は既に起こったこと。
神がキリストにおいて世と和解したこと。
キリストにおいて、終末は「既に」の域に突入したのであり、新創造が開始したのである。
この既に起こったキリストの出来事を足がかりにして、「未だ到来していない」終末、究極の完成までのプロセス全体が見渡されなければならないはずだ。
足がかり、とは足がこの地に着いていなければならないことを意味する。
ここに力点を置いていないと、「神の民」は「来臨」までの間をふわふわ浮いたようになり、現在に対して疑いを抱いたり、やきもきしたり、気落ちしたり、所在無さそうにしたり、となってしまう。
新創造の働きに従事することから逸脱してしまうことになる。
地に足の付かない状態は、「再臨時期」を予測することに一生懸命になったり、僕が従事すべき務めをないがしろにしてしまうことになるであろう。
といったようなシナリオに見えるのだがどうであろう・・・。
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