2019年1月8日火曜日

ライト読書会オフ会 ご案内

すっかり休養モードに入ってしまいました。
唯一「FB(フェイスブック)読書会」の方は『驚くべき希望』が順調に続いています。


さて、突然ですが「オフ会」を計画しています
「雑談会」と言ってもいいようなものです。
というのも「オフ会」の後に「講演会」に出かけようという企画だからです。

1. 講演会のご案内 

 『聖書 聖書協会共同訳』発行記念 公開講演 今を生きる私たちと神の言葉

日時:2019年2月23日(土)14:00~16:15(開場13:30)
場所:上智大学四谷キャンパス6号館101号室(JR「四ッ谷駅」徒歩5分、地下鉄丸の内線・南北線「四ッ谷駅」徒歩5分
講師:ローレンス・デ・ヴリース(オランダ・アムステルダム自由大学教授)
リスポンダント:月本昭男(上智大学神学部特任教授、立教大学名誉教授)

■参加無料(事前登録制 /2018年12月10日より受付を開始し、1月15日(火)以降に整理券を発行いたします。/定員700名/定員になり次第締め切らせていただきます)

2. オフ会のご案内
 この講演会に合わせてライト読書会のオフ会にします。テーマも「聖書」。
 日時、2019年2月23日(土)、午前10-お昼頃
 場所、活水工房ティールーム巣鴨聖泉キリスト教会となり)

《課題とする読みもの》
 今回は「雑談会」ですが、ライトの『Surprised by Scripture: Engaging Contemporary Issues』(ハーパー・ワン、2014年)



の著者インタヴューを読みたいと思います。
N.T. Wright on the Bible and why he won't call himself an inerrantist
(ジョナサン・メリット記者、Religion News Service)

軽い読み物なので講演会前の軽い腹ごなしにはなるでしょう。
それと「聖書論」、特に聖書の「無誤論・無謬論」は依然としてうまくクリアー出来ていない問題です。
このブログ記事も示唆するように、聖書をどのような性格のもの(文書群)と捉えるかは大事な問題だと思います。

いつものように、ご出席なさりたい方、関心ある方
小嶋(t.t.kojiアットマークgmail.com
までお知らせください。
※午後の「講演会」も出席したい方は早めに上記ウェブサイトから「申し込み」
をお願いします。


2018年9月26日水曜日

『驚くべき希望』読書会

4月以降、N.T.ライトFB(フェイスブック)読書会はお休みしていました。

9月になり首を長くして待っていた驚くべき希望』(あめんどう)がついに出ました。

それで読書会を再開することにしたのですが、今回新たな試みとして
(1)『驚くべき希望』専用の
(2)「公開グループ」の
(3)ライト・ビギナーに焦点を合わせた
読書会を立ち上げました。

その名も N.T.ライト『驚くべき希望』読書会 です。


公開グループですのでメンバーにならなくても読むことはできます。

でも読み始めたらいろいろ分からないことが多く、できたら一緒に読み進める仲間がいたらいいな・・・と思う方は「メンバーとして参加する」ことを考えてみてはどうでしょうか。


N.T.ライト『驚くべき希望』読書会 ページに掲載した「説明」を以下にご紹介しておきます。

よくお読みの上よろしければご参加ください。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

英国の新約聖書学者N.T.ライトの『驚くべき希望(Surprised By Hope)』(あめんどう、2018年9月刊)専用の読書会です。

『驚くべき希望』専用の「公開」グループの読書会として、
 (1)この分厚い本を読み通す仲間を作り、
 (2)質問や疑問があればシェアし、
 (3)(本を理解するための)参考となる情報をシェアするプラットホームを目指します。


「公開」グループの読書会として次のことをお守りください。
 (1)メンバーは『驚くべき希望』を入手している方に限定します。(原書、Surprised By Hope、で参加したい方も受け入れますが、シェアする内容は日本語にてお願いします。)
 (2)メンバーは、本を読み進めるのに適した《質問》や《疑問》をシェアしてください。
 (3)メンバーは、本を読み進める励ましとなるような《感想》や《気づいたこと》をシェアしてください。

※「ディスカッションや議論」について
 シェアされた《質問》や《感想》から「ディスカッション」に発展する場合もあるかと思います。
 『驚くべき希望』の(終末論と呼ばれる)神学的内容については様々な解釈がありますが、この読書会ではその一つである「ライトの解釈」を☆読んで理解する☆ことが目的です。他の解釈とどちらが正しいか議論して決着を付けることではありません。
 多少の意見の交換は構いませんが、その場合でも他の人が本を読み進める妨げとならないよう、短く切り上げるか、グループ外で続けてください。

このグループの「管理人/世話役」
 2013年から、N.T.ライトFB(フェイスブック)読書会は「非公開」グループとして活動してきました。(現在も続いています。)
 その管理人/世話役としてグループをリードしてきたのが、小嶋・中村・川向の3名です。
 この『驚くべき希望』専用の「公開」グループ読書会も同じ小嶋・中村・川向の3名がリードします。
 (ちなみに中村氏は『驚くべき希望』の訳者でもあります。)

『驚くべき希望』を他の方々と一緒に読みすすめたいなーと思われる方はどうぞ参加なさってください。







2018年8月14日火曜日

Paul within Judaism

「大和郷にある教会」ブログに、「パウロと“ユダヤ教”」と題した記事を書いた。

こちらのブログでは「新約聖書学」「パウロ研究」のトピックとしてもう少し踏み込んだことを書こう。

と言ってもあくまでネットで得られる参考記事などを列挙するだけだが。
それでも「Paul within Judaism」に関心のある方には少しは便利な記事になるのではないかと思って。

(1)ポーラ・フレデリクセン


と先日ツイートしたばかりだ。

彼女が「Bible Odyssey」に「パウロとユダヤ教 (Paul and Judaism)」を書いている。
The point is this: a Law-free Gentile mission gives us no reason in itself to assume that Paul himself was also Law-free. His teaching Gentiles that they did not have to live according to the Law tells us nothing about his own level of observance. And, as we have seen, the Gentile mission was not exactly Law-free either....
But in his own generation—which Paul was convinced was history’s last generation—the Jesus movement was yet one more variety of late Second Temple Judaism.
(2)『ガラテヤ書とキリスト教神学』
Galatians and Christian Theology: Justification, the Gospel, and Ethics in Paul's Letter

 ライトがいるセント・アンドリュース大学の研究会議でガラテヤ書が取り上げられたときの論文集である、 その書評でマーク・ノーベンソンの『パウロのユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)』について以下のようにポイントがまとめられている。
Second, Matthew V. Novenson’s essay centers on the appropriate meaning of Paul’s use of Ιουδαϊσμος in Galatians 1:13-14. Seizing upon the work of Steve Mason (who himself proposed a revision of the term) Novenson concludes that the verbal form ιουδαϊζω, means to ‘act like a Jew’, which was only something that non-Jews could do (Mason’s point). ... But Novenson, while agreeing with Mason concerning the verb ιουδαϊζειν, contends that the noun ιουδαϊσμος is actually something that Jews would doThis certainly accounts for Paul’s use of the noun in Gal.1:13, where Gentiles are not in the context. Paul’s usage also agrees with the use of ιουδαϊσμος in 2 Maccabees, where the term refers to ‘the cause championed by Judah Maccabee’ (32). For Novenson then, the verb ιουδαϊζειν refers to non-Jews who adopt Jewish rituals, whereas the noun ιουδαϊσμος refers to Jews who promote the adoption of Jewish customs and rituals. The important point to note is that not all Jews practice ιουδαϊσμος, as this term refers to a certain cause or political movement that arose in the Maccabean era. A better gloss for ιουδαϊσμος is not ‘Judaism’ but ‘the judaization movement’ (36). Novenson’s observations, along with the many other studies on this issue, will challenge any overly simplistic and monolithic reading of ‘Judaism’ as we understand the term.(色による強調は筆者)
要するにガラテヤ1:13のような箇所では「ユダヤ教」と訳すべきではなく、もっと具体的に「ユダヤ主義運動」のようなニュアンスで捉えるべきとのこと。

(3)『ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)』
Mark D. Nanos and Magnus Zetterholm, eds. Paul within Judaism: Restoring the First-Century Context to the Apostle

これも書評ですが、チャド・ソーンヒルが編著者の視点を以下のようにまとめています。
In other words, Paul was an adherent to Judaism and remained so even after he came to believe that Jesus was the Messiah. Thus, Paul’s endeavor in advancing the “cause of Christ” (Phil 1:13) should be thought of “as a new Jewish “sect” or “coalition” or “reform movement” (10), not as a conversion to a new religion.

(4)リオネル・ウィンザー
も、さきほどの(2)のマーク・ノーベンソン『パウロのユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)』とほぼ同じように理解しています。
In my book, I argue that the rare word Ἰουδαϊσμός–which is often translated “Judaism” in our Bibles (Gal 1:13-14)–doesn’t mean “Judaism” in the modern sense of a system of religious thought. Rather, it should be understood in a vocational sense:

                 ☆ ☆ ☆

以上いくつか「“回心後”もユダヤ教徒として生きたパウロ(Paul within Judaism)」と云う視点を紹介してきましたが、そんな風に考えてみるとやはり翻訳と言うのはニュアンスに左右されるものだなと思います。

最後に《イスラエル・バイブル・センター》のリゾーキン-アイゼンバーグ博士(Dr. Lizorkin-Eyzenberg)の『パウロは回心したのかそれとも召命を受けたのか(Was Paul Converted or Called?)』を紹介してみたいと思います。
博士の見方は、パウロはユダヤ教からキリスト教に回心したのではなく、ダマスコ途上のイェシュアとの出会いの後、パリサイ派ユダヤ人として「アポカリプティックな体験をしたキリストの弟子」となった、というものです。
As you can surely anticipate, I will seek to convince you that Paul (Paulos) was not converted from Judaism to Christianity. Instead, Paulos as he called himself in his own surviving writings, was called to the service of Israel’s God as were many other Israelite prophets. Before he personally encountered Yeshua/Jesus on road to Damascus, he was a pharisaic Jew. After that earth-shaking encounter, however, something dramatic had happened. He became an apocalyptic and Christ-following pharisaic Jew.

「一世紀の文脈では『ユダヤ教』と『キリスト教』というような宗教的区分はまだなかった」、という視点からですが問題となっている「ユダイスモス(ガラテヤ1:13-14)」については以下のように訳すのがいいとしています。
For you have heard of my former manner of life in Judaism, how I used to persecute the ekklesia[6] of God beyond measure and tried to destroy it; and I was advancing in Judaism beyond many of my contemporaries among my countrymen, being more extremely zealous for my ancestral traditions. (Gal. 1:13-14 NASB 強調はリゾーキン-アイゼンバーグ博士)
この訳では今一つはっきりしませんが、要するにパウロが“以前”のこととして振り返っているのは(キリスト教徒になる前)「ユダヤ教徒であった(within Judaism)とき」というようなニュアンスではなく、当時「ユダヤ教徒であることを前面に出すような(過激な)行動を取っていたとき」というニュアンスだ、というもののようです。
要するに以前も以後も「ユダヤ教徒」であることに変わりはなく、変わったのはその生き方なのだ、ということです。
In the above quoted text, the choices are not between Judaism and Christianity, i.e. the former way of Judaism vs. the newer way of Christianity, but it is rather a comparison between Paul’s former ways and his newfound ways, i.e. Christ-centered and apocalyptic Judaism.[7]

こうしてみるとなかなか「宗教」のカテゴリーでパウロ自身のアイデンティティー理解がどうであったかを論ずるのはなかなか難しい感じがします。
やはりポイントはパウロにとって「キリストはどういうお方であったか」とキリストのアイデンティティーを中心に持ってくる必要があるのではないかと思いました。


なおこの辺の複雑な事情を考究した本として、デーヴィッド・ルドルフ『ユダヤ人に対してはユダヤ人として(A Jew to the Jews)』を「良さそうな本だなー」として言及しておきます。

[2018/8/15 追記]

このブログでは既にお馴染みのアンドリュー・ペリマンが、(3)『ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)』
Mark D. Nanos and Magnus Zetterholm, eds. Paul within Judaism: Restoring the First-Century Context to the Apostle
の出版を受けて、自らの「(新約聖書の)歴史的ナラティブ解釈枠」の視点からは「ユダヤ教徒としてのパウロ(Paul within Judaism)」はどのように受け止められるか、と云うレスポンスを記事にしています。

2018年6月29日金曜日

今日のツイート 2018/6/29

「今日のツイート」という形での投稿は過去にもあります。

今日のツイート 2017/1/6

今日のツイート 2017/1/17


さて今回の「今日のツイート」は (詳しい文脈は分かりませんが)14歳の少年たちに「いかに聖書を教えるか」みたいなトピックのようです。


オーストラリア・シドニーの学校のことのようですが、先生はみな「カルヴァン主義」の方々のようです。
聖書クラスでの授業の効果はどうも余り芳しくないようです。

それでこのリプライなのですが、カルヴァン主義の「選びの教理」では子供たちは感化されないだろう、みたいな意見を述べ、かの有名なスポルジョン(19世紀英国の著名な説教家)でさえ、「もし彼が今の世に生きていればN.T.ライトやバイブル・プロジェクトに触れているだろうから、とてもカルヴァン主義者ではいられないだろう」と申しております。


2018年4月29日日曜日

God and the Faithfulness of Paul(追記)

GFP(God and the Faithfulness of Paul)については

 (1)ライトのパウロ研究をめぐる論集
 (2)God and the Faithfulness of Paul
で紹介していますが、大分経ちましたが「追記」をしたいと思いました。




(2)God and the Faithfulness of Paul の方で「目次」を全部紹介していますが、その中の「Part Ⅱ」の最後にあるジョエル・R・ホワイトの論文がacademia.eduサイトから読めるようになっている、と先日案内がありました。

筆者はすでにGFPを購入しているので特に必要なわけではないですが、GFPに関心があり、ホワイトの論文のタイトルが「N・T・ライトのナラティブ・アプローチ」ということなので、特に「ナラティブ」「物語り」アプローチに関心のある方にはお勧めと思い追記しました。
Joel R. White, N. T. Wright's Narrative Approach

 (2)で紹介したクリストフ・ハイリッヒの指摘にあるように、ライトのPFGは「教会論」とか「救済論」とか「従来の組織神学的」枠組を用いず、「世界観」や「ストーリー」を使ってパウロを解釈している点で注意深く読むことが必要です。

ホワイトの論文はその辺りのナラティブ・アプローチの基本的な事柄を丁寧に解説し、ライトのナラティブ・アプローチの斬新さを理解させようとしている点で有益だと思います。一読をオススメします。

2018年4月23日月曜日

FB読書会 2018年2、3月報告

もう4月も大分過ぎGW間近となりました。

すっかり月例報告が遅くなってしまいました。

ツイッターの方では割合細かく経過報告のツイートをしているのですが、ブログの方は更新されずにきてしまいました。

既に3月末で『シンプリー・ジーザス』は読了しているのですが、そのことも含めて「2、3月」の報告をしておきます。


第14章 新たなる支配のもとで(331-356)


昇天と即位 イエスの帰還(337-347)

《引用①》  すなわちこの書全体は、イエスが天と地を運営するCEOでその権限を行使しながら神の王国を現実のものとするために、その大使である弟子たちをいかに派遣したかというストーリーなのである。(342)
《引用②》 原始キリスト教徒のグループは、目立たないマイノリティであり、非常に脆弱な立場からイエスについての大胆な、正気の沙汰でないような主張をした。彼らは、いくらかもっともな理由から、既存の社会体制への脅威と見なされ、それゆえ批判、脅迫、処罰、そして処刑すらされた。しかし、彼らが当時の社会にもたらした脅威は、通常のものと異なっていた。彼らは革命家ではなく、武器を取って立ち上がることもなく、既存の体制を転覆して自分たちの新体制を作ろうともしなかった。(343)
《引用③》 人々に平和と繁栄と自由と正義を約束する帝国が、その目的を果たすために何万人もの命を奪ってきたというアイロニーを、私たちは誰もが知っている。イエスの王国はそんなものではない。イエスによって、アイロニーは反転する。イエスの死、そして彼に従う者たちの苦難が、天にあるように地においても、平和と自由、そして正義を生み出す手段なのである。(344)
イエスの帰還(続き)、今日のイエス(347-356)
《担当された方がこの部分を要約したものを一部紹介します。》  ライトは、「聖書的な正しい意味での『再臨』なしにイエスに従うことは、ただの『敬虔なあり方』に矮小化されてしまう。そこには、曖昧で不確かな個人的希望をもたらす私的霊性はあっても、正しい主であるイエスによって、世界全体が根本的に変えられるという展望がない」と言います。(P.347-8)

キリスト教信仰が単なるpersonal pietyに陥ってしまうことへのライトの厳しい指摘に、私はドキリとさせられます。我が身を振り返るとき、長い間、Me and my Godの信仰の中にいて、いわゆる伝道も、奉仕も、personal pietyの延長上にあったように思います。フードバンクでボランティアするとか、ホームレス伝道とか、さまざまな社会的にも良い働きがクリスチャンによってなされていますが、私たちはその先に、イエスが始めてくださった新しい創造、可能にしてくださった新しい世界を見ているだろうか、と考えさせられます。社会的に良い働きだけでなく、聖書の学びや祈りといったことも、イエスの再臨がもたらす新創造の完成というヴィジョンがなければ、結局self-servingなだけだなあと思わされました。

第15章 イエス・世界の支配者(359-403)
イエスの主権に対応する「四つの立場」(359-367)
《要約》 すでにイエスの死と復活によって開始した新しい創造のもと、イエスの主権による神の王国はどう進展して行くのか、をめぐる議論を整理するための座標軸を示すため、「四つの立場(アンディー、ビリー、クリスとデイビー)」で代表させています。
 このうち「リアライズド・エスカトロジー」に立つ「クリスとデイビー」の描写により重点が置かれ、しかし「クリスチャンの立場」とはいえその議論の仕方は「古代ストア派と古代エピキュロス派」の哲学、端的に言えば「汎神論か二元論」に回収されてしまうと指摘しています。
 これら二つに対し、ユダヤ・キリスト教の「天と地は重なり、インターロックする」世界観からはどう言えるか、と導いていきます。しかしその前に「驚くべき希望(Surprised By Hope)」で何度も釘を刺したように、クリスチャンは神の王国を「建てる」のではなく、神の王国の「ために」働くのだということを強調します。
神の支配 私たちを通して(367-376)
《引用1》 すなわち人間は、神のイメージを担うべき存在である。人間は神の至高の支配を世界に投影すべき存在なのである。人間は、神の王国プロジェクトにとって不可欠な構成要素だ。・・・・・・聖書全体から導ける答えは、神の権威を、そしてイエスの権威を、人間に委譲することに関連してくる。(368)

《引用2》 だが、イエスが天と地を自らにおいて融合させたことで、イエスに油を注ぎ、王国の働きをするよう力づけた聖霊が、いまや弟子たちに降臨した。こうして弟子たちは、いわば新しい神殿の拡張部分となったのだ。彼らのいるところ、天と地は一つになる。イエスは彼らと共におり、イエスの命は彼らの中に、彼らを通して働く。エルサレムであれ、他の広い世界のどこであれ、いまや弟子たちは、この世界を再びご自身のものにされる神が生き生きと活動し、至高の支配を打ちたてようとする場なのである。(374)
礼拝の中心性(377-382)
《引用①》 すべての王国の仕事は、礼拝に根ざしている。逆に言えば、イエスのうちに働いておられる神を礼拝することは、私たちのなしうる中でも最も政治的な意味を帯びた行動である。クリスチャンの礼拝は、イエスが主であると宣言する。それゆえ、そこで強く示唆されるのは、イエス以外に主はいないということだ。・・・それは礼拝者に、イエスへの忠誠、イエスに従うこと、イエスによって形作られ、導かれていくことを求める。(377)
《引用②》 私たちは、「良い行い」というキリスト教的な考え方を飼い慣らしてしまい、それを単に「倫理的な規則を守ること」にしてしまった。新約聖書において「良い行い」とは、より広い共同体における、またそのためにクリスチャンに期待される働きのことである。イエスの主権は、このようにして具体化されていくのである。(381)
教会の役割(383-397)
《引用①》 教会は偉大な仕事をする完璧な人々の集りだと考えるべきではない。それは罪赦された罪人たちが、あらゆる方法でイエスの王国のために働くことで、返しきれない愛の負債を返済しようとしている集まりである。(384)
《引用②》 彼ら [原始キリスト教徒たち] の信仰とは、イエスがいまや高く上げられ、支配をされていて、すでに諸国に責任を問い始めておられる、ということだ。(390)
《引用③》 教会の歴史が始まって数世紀間、司教たちは貧しい者の側に立つ人々であるという評判を広く世間で勝ち得ていたことは多くを物語る。彼らは貧しい者の権利を擁護し、彼らを虐げたり、不当に扱ったりする者たちに非難の声を挙げた。・・・その役割は今日まで続いている。そしてさらに拡大している。教会には、教育、健康支援、高齢者のケア、難民や移民たちのニーズや痛みなどの分野における豊かな経験と、数世紀にわたる慎重な省察とがある。私たちはそうした財産を充分に活用すべきだ。(392)
まとめ(イエスの現在的統治と権力構造)(397-403)
《引用①》 イエスは当時の権力構造(power structures)よりも自らを上に置き、そこかしこで彼らの責任を問いただした。・・・
 言い換えれば、イエスはすでに彼らに責任を問い始めており、それは再臨の際に完結するだろう。つまり権威に対して真理を語るという教会の務めは、まさにそういう意味なのである。(399)
《引用②》 そうして私たちは「王であり祭司」として仕えることができるようになる。イエスの支配をこの世界で実現し、それを創造主への賛美へと集約する。今日イエスが世界を運営するということは、このように見えるものなのだ。(402)
今後の研究ガイドと訳者あとがき(404-414)
《引用①》 エイレナイオスは、神の子であるキリストがこの世界に来られた目的は被造世界全体を回復させ、完成させることにあった、と語ります。その神学エッセンスはrecapitulatioという言葉に要約されますが、それはエフェソ・・・・・・という救済理解です。分断され、バラバラになった被造世界はキリストにおいて再び統合され、そうして全被造世界は完成に向かって進んでいく、という宇宙的な救済理解です。(408)
《引用②》 このようにエイレナイオスについて書いていると、不思議とN.T.ライトの神学を巡っての昨今の様々な議論と重なる部分が非常に多いことに気づかされます。・・・など、ライト神学の特徴とされているものは、そのままエイレナイオスにも当てはまるからです。(410)

ということで、2017年4月から読み始めた『シンプリー・ジーザス』をちょうど一年で読み終えることが出来ました。

その他、
(1)ライトのローマ書釈義に関するブログ記事の紹介

(2)ライト邦訳書新刊の紹介
  『悪と神の正義』(本多峰子訳、教文館)
 『新約聖書と神の民・下巻』 (山口希生訳、新教出版)

以上の紹介がありました。


「新規入会メンバー」について。
2018年2、3月は、入退会者なく、トータル232名のままです。

以上2、3月の報告でした。

2018年2月3日土曜日

聖書ストーリーの神学的解釈とライト誤読?

たまたまツイッターTLに流れてきた「ブログ記事」を取り上げただけなので、大した意味はないですが・・・。

暇の人のための「ライト誤読」を考えるブログ記事・入門編

とでも題してブログ記事にしてみようかと思い立ちました。
というわけで「たまたま時間に余裕ある方」にでも読んでもらえれば幸いです。
聖書ストーリーの全体(overarching story)での「アダム(人類)」の役割をどう見るか、はライトの神学的解釈でも重要なものだと思います。
特にその「コスモス管理」の役割は「贖い」の計画の中心を占めるものと思います。
この記事はライトの神学的解釈を(ある意味見事に)誤読しているように思うのです。
「アダム(人類)」と「コスモス」を切り分け、前者よりも後者を大事にするライト!!、といったような批判を展開しています。

単純に指摘できるポイントの一つは、「(神学的)視角の違い」を殆ど意識できてない、ということがあるのではないかと思います。

かなり初歩的な「誤読」と思いますが、聖書の神学的解釈において「(神学的)視角の違い」の持つ意味・重要性を考察する上では(反面教師的には)意外に「良い」一例になるのではないかと思います。

(たまたま最近暇のある)皆さんはこの記事をどう読まれるでしょうか。

※この方は「リフォームド」の方のようですが、「リフォームド」の神学的視角を揶揄する意図は毛頭ありません。最近元フラー神学校学長リチャード・マウの本を読みながら、あらためてリフォームドの「世界観」神学の貢献を思っているところです。(ライトもマッギル時代その影響を少なからず受けたようですし・・・。但しリフォームドのライトシンパの方々が思うほどライト神学はリフォームドではないと思います。ライトにとってやはり「一世紀ユダヤ教の世界観」研究が何よりも基盤になっていると思うので。)

2018年1月31日水曜日

FB読書会 2018年1月報告

今日はまだ1月ですが、いつもより少し早く「1月」の報告をしておきます。

1月は13章と14章の最初の部分をカバーしました。

今回は(ヴォランティア)担当者が少なかったので《感想》は割愛、引用された箇所だけ(全部ではありませんが)紹介しておきます。


第13章 なぜメシアは死なねばならなかったのか(292-330)

(292-303)

《引用①》 イエスの人生には特定の瞬間があり、それらの瞬間は、すでに象徴的な意味付けがされている特定の地理的空間で起こった。ユダヤの偉大な祝祭日、とりわけ過越祭、またはユダヤの偉大なランドマーク、とりわけヨルダン川やエルサレムでのことを考えてみれば分かる。
 私たちの手にある資料を通じ、繰り返し出てくるこれらの瞬間や場所で、三つの流れが一つに終結するのに気づく。それは私たちの扱ってきたパーフェクト・ストームを作る三つの要素というより、別々の谷を下ってきた三つの川の流れが一つに合流し、圧倒的な水流となったイメージに近い。 ・・・イスラエルの王朝の、長く波乱に富んだ歴史におけるメシアの役割という偉大な川の流れと、苦難のしもべという漆黒の流れが激突する。そしてその二つの流れは、イスラエルの神の帰還という、長く、暗く、そしてさらに強力な信仰の流れに飲み込まれていく。(295-6)

《引用②》 しかしイエスは、これらの召命を一つにした。彼はバプテスマのヨハネから洗礼を受けた。バプテスマには、重大な復興に必要とされる悔改めと、かつてイスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入った行為の象徴的再演という意味があった。・・・すなわち僕としての召命と王としての召命とが、イエスの心と頭の中で一つに溶け合ったのである。(299)

《引用③》・・・世界の多くの自称「正統な」または「保守的な」クリスチャンたちは、王国なしの十字架を求めてきた。つまり、この世界と何の関わりもなく、この世から逃れる手段だけを提供してくれる抽象的な「贖罪」である。(303)
新しい出エジプト(303-312)
《引用①》 イエスの生涯のクライマックスをこのように見るのは、標準的でも伝統的でも、「正統的」でも「保守的」でもないが、それは新しい角度から「受肉」と「贖罪」という「伝統的」な教義に光を当てるものだ。私が主張したいのは、このような見方は私たちに、本来の歴史的現実を理解させてくれる、ということである。これらの教理は、これまで非歴史化され、抽象的な要約になってしまっていた。(306)

《引用②》 エルサレムは余りにひどく道を踏み外してしまっていた。ユダヤの指導者たちのローマとの共謀、腐敗、圧政、貪欲によって、ひどく堕落してしまった。ユダヤの民、イエス自身の民は、軍事的な暴力と武装蜂起で神の勝利を世界にもたらそうと決意していた。(308)

《引用③》 だがイエスは、反逆の民に神の裁きを宣告しただけではなかった。イエスは民に先立って進み、破壊的な諸力に自ら対峙し、そのすべての重みを自分の身に引き受けるかのように語り、行動した。そうすることで神の民が刷新され、諸国を照らす光となる召命を彼らが再発見し、長く続く隷属と捕囚から民が解放されるためだった。(310)
十字架(312-321)
《引用①》 この食事の重要なポイントは、弟子たちが新しい形でイエス自身の命を分かち合うことで、その恩恵を分かち合えるようにしたことだ。パンとぶどう酒という贈り物は、すでに重要な象徴的意味を持っていたが、新たな深みを獲得する。すなわち、弟子たちの間でイエスの臨在を体験する方法になるだろう。献げものと臨在。これこそ新しい神殿である、過越しに見立てた食卓での、この不思議な集まりが神殿なのである。(314)

《引用②》 こうしてイエスは、新しい召命への道を拓く。土地、神殿という民族のアイデンティティを守ろうとする熱烈な圧力に代えて、イエスの信従者たちの新たにされた心と生活を通して、全世界のための王なる祭司という初期のヴィジョンを取り戻す。全世界はメシアの嗣業だが、今や彼らのものにもなる。これらすべてものの背後に、献げものがある。イエスはそのようにして「アッバ、父よ」と呼んだ方に従順を献げる。そして、長い間履行されなかったイスラエルの召命である従順が、ついに達成される。(315)
 《引用③》 多くの読者は、ヨハネの福音書でこのようなテーマを無視し、この書を「霊的な」、または「神学的な」論文として、個人的霊性と来世での救済の希望を促す書として読もうとしてきた。しかし、この書はきわめて明快だ。ローマ帝国の権力とイスラエルの指導者の裏切りが、神の愛と出会う。そのとき生まれた大いなる渦巻きで、王としての神の勝利がもたらされる。それは、この世の諸王国を凌駕する神の王国の勝利である。(317)
《引用④》 この対決 [ヨハネ18、19章] の核心にあるのは、神の王国の持つ政治的、神学的意味の両方である。イエスは神の王国を宣言し、行動でそれを具現化した。(318)
(320-331)
《引用1》ではイエスの死をどのように解釈すればよいのだろうか?(略)同様に、イエスの死を神学的に過小評価してしまうことも簡単だ。《引用終》

《引用2》その理解(刑罰代償説)を先のモデル(メシアであるイエスはイスラエルを代表し、したがって世界を代表する)と合わせれば、刑罰による死という理論に向けられてきた主な批判はその力を失う。《引用終》

《引用3》イエスのストーリーを読み、研究し、祈れば祈るほど私が確信に至ったのは、これらのモデルはさらに大きな枠組みの中で理解されるべきだということだ。(略)すなわち、いずれにせよイエスの死は、彼自身にとって、またそのストーリーを語り、最終的にそれを書き下ろした人々にとって、神の王国を樹立する究極の手段と見られていた、ということである。十字架は、神の王国が天にあるように地上に来るようにという祈りへの、ショッキングな答えなのだ。《引用終》

第14章 新たなる支配のもとで(331-356)

新しい世界(331-337)

《引用①》
 イエスがイースターの朝に死者の中からよみがえったそのとき、イエスは新しい世界の始まりとしてよみがえった。そしてその新しい世界は、神がつねに創造しようと意図していた世界なのである。これがイースターの意味について知るべき最初の、そしておそらく最も重要なことである。(332)

《引用②》
 今日の西洋世界の多くの人は、物質的な肉体は「天」にいることができない、と考えている。彼らはプラトン主義者で、もし「天」があるとすれば、それは空間や時間や物質と関わりのない、非物理的なところだと考えている。(334)

《引用③》
 さらにこう考えてみよう。--そこで創造主なる神は、自ら圧政者の武器を打ちこわし、創造本来の目的が満たされる新世界を始めるためにやって来られた。原始キリスト教徒たちは、よみがえったイエスに会ったとき、そのように考えていたようなのだ。よみがえったイエスは、「天」において自由に活動できるが、彼らにはそれが見えない。だが、イエスが「地」にいるとき、彼らは見ることができた。(334)


その他、2月末に出版予定のライトの『パウロ(伝記)』の紹介インタヴューがベン・ウィザリントンのブログで(今日の時点で)7回に渡って取り上げられているのを紹介しました。

この引用部分などちょっと目を引きました。

I had in mind the ‘general reader’, including students, and – I hope! – radio or TV: I want Paul to be seen as what he was, one of the primary public intellectuals of the ancient world (i.e. not just a ‘religious’ figure as people in our world tend to imagine).





「新規入会メンバー」について。
2018年1月は、退会者1名で、トータル232名でした。

以上1月の報告でした。

2018年1月3日水曜日

FB読書会 2017年12月報告

明けましておめでとうございます。
今年もN.T.ライト読書会(リアルとフェイスブックともども)よろしくお願いします。


いつものように先月12月の報告をば。

12月は11章残りの部分と、12章をカバーしました。
今回は担当者が揃ったので《感想》も一部交えてご紹介しておきます。

第11章 空間、時間、そして物質(233-264)


新しい種類の革命(256-264)

《引用箇所》 第一の間違った見方は、人々に「天国に行く方法」を教えにイエスがこの世に来られたと考えることである。(中略)イエスが語ったことは、神はまさにいまここで、「地上」において支配を始められたのであり、人々はこのことの実現のために祈るべきであり、またイエスご自身の働きのうちに、それが実際起きているしるしを認識すべきだ、ということだった。(256)
《感想》 (中略)ライトさんの著書に出会えて良かったと思ったのは、すでに分かり切っていると思っていることについて再考する、ということを教えられたからです。教会で教えられている解釈も、いつからか、誰かが言い始めたことであって、時間とともに作り上げられてきたものに他ならない。それをまるで聖書とセット梱包された、改変してはならないもののように扱ってしまっていたのではないか、ということに気づかされたのです。
第12章 嵐のただ中に(265-291)

イザヤ書の僕(しもべ)(265-279)
《引用箇所》  ローマは背後に控え、いつものやり方で帝国の要求と野望とを押し付けようとしていた。イスラエルもまた、過越の祭りを祝いながら民族の解放と異教徒に対する勝利を待ち望んでいた。そしてイエスが「アッバ、父よ」と呼んだ神は、ある使命のためにイエスをこの世に送ったが、その使命は、ローマのものともイスラエルのものとも異なっていた。その使命は両方からの妨害に遭い、絶望的で悲惨な失敗に終わりそうに見えた。私たちがこうした全体像を持ち続けることができれば 、イエスが何者で、なぜあのように行動したのかを理解する途上にいる。(266-7)

《感想》 パーフェクトストーム(「ローマ帝国からの圧力と、イスラエルの千年越しの希望がぶつかりあうところに、さらに別の角度から激しく吹き込む不可思議かつパワフルな神ご自身の目的が出会うところ」)のメタファーは、実は私はあまりピンときていなかったのですが、ようやく見えてきたような気がします…
ダニエル書、人の子(279-287)
《引用》 「不正なぶどう園の農夫たち」が主人の「息子」を殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまったとき、主人は帰ってきて彼らに復讐する。これは詩篇118篇22節の成就となるだろう。・・・すべてが一致している、すべてが同じ聖書の物語と共鳴している。(285-6)
 《感想》 ダニエル7章(人の子)、ダニエル2章(石)、次に福音書のイエス語録での「捨てられた石」を関連付けたことが大きいと思う。
つまり「神が王となるストーリー」であるダニエル書7章だけでなく、2章の「石」も同様「神が王となるストーリー」であることをくっきりさせたことで、十字架の「苦難」が「王国樹立」ストーリーであることを意識させられた。
ゼカリヤ書の王(287-291)
《引用》 わたしたちのここでの目的にとって注目すべき大切な点は、ゼカリヤがイザヤやダニエルと同じく、三本の線が一つに収斂していくのを思い描いていたことである。すなわち、神とその民に戦いを挑む邪悪な異教の国々、失敗したユダヤ民族の指導者達、そして他の誰も成し得ないことを成し遂げるために来られる神である。この3つは、イエスがそう見ていたように、パーフェクト・ストームを形成する三要素である。(290)
《感想》 マタイ22章の王子の婚礼のたとえ話ともどこかでつながっているような気がしています。この終末に関するマタイ22章の王子の婚礼での出来事の話は、現代人としては、当惑してしまうようなたとえ話なのですが。

以上12月の報告でした。

「新規入会メンバー」について。  2017年12月は、入退会者ともに0名で、トータル233名のままでした。


以上、ご報告まで。

2017年12月1日金曜日

FB読書会 2017年11月報告

12月です。
いつものように先月11月の報告をば。

11月は10章をカバーし、さらに11章に入りました。
今回は担当ボランティアがお一人でした。
感想は割愛して引用された部分だけご紹介しておきます。

第10章 戦いと神殿(213-232)

サタンとの戦い(220-226)

《引用箇所》 イエスは王としての任務を、真の問題が存在するところから再定義した。そうすることで、イエスは自分自身の召命を再定義した。・・・その召命とは、神の民を自由にし、神の主権と救済的な支配を打ち立てるための重要な戦いに勝利を収めることである。しかも、彼自身の苦難と死を通じて。(226)
イエスが見据えていた最後の戦いとは何だろうか?それはもはやローマ帝国への軍事的戦いではなく、神殿やエルサレムを奪い返すためのヘロデや祭司長たちに対する反乱でもない。・・・それはもっと根源的なものだ。それはサタンへの戦いである。(225)
善と悪との境界線は、神のレベルと、そしてサタンのレベルでは、はっきりしている。しかしそれが人間のレベルになると、個人であれ集団であれ、その区分がますますぼやけてくる。(219-220)
《感想》 この時代はシリアがエルサレムを支配していたのを、ユダ・ハンマーが3年間にわたるゲリラ戦に勝利し、神殿から異教の影響を一掃したそうです。ユダヤ教のハヌカがそれを祝うお祭りだったとは知りませんでした!
出来事のストーリー(性)とその意味解釈(226-232)
《引用箇所》  同じように、私たちがイエスのさまざまなストーリー、特に最後の数日間に起きた出来事のストーリーを読むときは、そこにあるさまざまなテーマを組み合わせ、一貫性のある一つの全体像を作り上げるのに相当の努力を要する。しかし、過越祭で賑わう当時のエルサレムで、イエスがろばに乗って入城する姿を見た人々は、ちょうどこの経験豊富な艦長のような立場にいた。
 イエスの行動、その行動が喚起する預言、過越しの何重ものテーマ(暴君への勝利、奴隷の解放、献げもの、神の臨在)、これらによって一つの一貫性ある、しかし非常に挑戦的な全体像を、人々は難なく作り上げただろう。当時の彼らの世界観や、その根幹となるストーリーをよく学んでいない私たちは、(少なくとも初めは)それらをばらばらの要素として見てしまうが、当時のエルサレムにいた人たちは、一つの濃密な出来事として見ただろう。彼らは一目見ただけで、すべてを理解しただろう。その意味するすべてを。
 ではその「意味」とは何だったのか? 何よりも、それは紛れもなく王の行動、イスラエルの真の王であると言う主張だった。・・・にもかかわらずこの平和な王の到来は、全世界的な彼の支配の確立を意味するのである。(228-9)
第11章 空間、時間、そして物質(233-264)
神殿という「空間」認識をめぐって(233-241)
《引用》 そこで私たちがイエスを理解しようとするなら、彼の住んでいた世界と私たちの世界との違いについて把握することがぜひとも必要になる。(233)
 だが、このような時間、空間、そして物質について現在の西洋的な考えを抱いたままイエスのストーリーを読んでも、イエスとは誰かを理解することは決してないだろう。(234)
・・・言い換えれば、その結合点とは、イエスのいた場所であり、イエスの活動そのものだった。イエスはいわば歩く神殿だった。生きて呼吸する人間が、神の住まわれるところだった。
 多くの人がすぐさま気づくように、これは後の神学者たちが受肉の教理と呼んだ、まさにそのものだった。だがそれは、多くの人が考えている受肉の教義と大きく異なっているように見える。(237)
・・・だが、この嘲笑的な批判は大事なことを忘れている。そう、確かにイエスは神について語った。しかしイエスは、まさに自分の行っていることを説明するために、神について語ったのだ。(237-8)
時は満ちた(241-247)
《要約》 時間!イエスの時代のユダヤ人も今日のユダヤ人も、時間について極めて特殊な感覚を持っている。ユダヤ人にとって時間は直線的に前へと進み、そこには始めがあり、中間があり、終わりがあると考えられている。それは、すべてのものが循環的にぐるぐる回り、必ず同じ時点に戻ってくるという別の人々の時間感覚と違う。(241頁) しかし、聖書の冒頭にはもう一つの特徴がある(241頁)
古代の異教徒たちがユダヤ民族について知っている数少ないことの一つは、異教徒の視点からすれば、彼らが一週間のうち一日は怠け者になることだった。しかしユダヤ人からすれば、それは怠けているのではない。(242頁)
安息日は、歴史の初めの礎の時から究極の回復へと進む時の流れを感じる瞬間でもあった。神殿が、神の領域と人の領域とが出会う空・間・であるならば、安息日は、神の時と人の時が一致する時間だった。(242頁)
新しい創造(247-255)

《引用①》 神の栄光はエルサレム神殿に降臨したのでもなく、またシナイ山の頂上に降り立ったのでもなく、イエスの上に、そして彼の中で輝き出た。彼はその成就の瞬間に、律法と預言者、つまりモーセとエリヤと語り合った。「キリストの変貌」と私たちが呼ぶものは、核心的な瞬間である。それは、イエスの生涯において、神殿の空間と安息日の時間の指し示すものが明らかになったように、イエスにおいて、より正確にはイエスの肉体において、物質世界そのものの指し示すものが明らかにされた瞬間であった。(252-3)
《引用②》 聞く耳と見る目を持っている人にとって、山上でのキリストの変貌のストーリーが証しているのは、イエスはいわば神の「物質」ーー新しい創造ーーと私たちの時間が交差する場だ、ということである。イエスが神の世界と私たちの世界、神の時間と私たちの時間が交差する場であったように。・・・新しい創造のすべては、大地に蒔かれた種、新しい世界の初穂としてよみがえられたイエスから始まる。(255)

以上11月の報告でした。

その他11月6~8日開催された「日本福音主義神学会・全国研究会議」関連の投稿が幾つもあり、ディスカッションが続きました。
 ※このサイトで講演のまとめ・レスポンスが読めます。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年11月は、入会3名で、トータル233名になりました。


以上、ご報告まで。

2017年11月3日金曜日

FB読書会 2017年10月報告

11月です。
いつものように先月10月の報告をば。


10月は9章(10章への準備的な内容みたいですが)をカバーし、さらに10章に入りました。
今回は担当ボランティアがお二人加わりましたので助かりました。


第9章 王国、現在と将来(192-212)

ユダ・ハンマー(192-197)
《引用箇所》 最も有名なのはパリサイ派である。彼らは自分たちなりの理解に従って、古代の伝承に忠実であろうと徹した大衆運動であり、神が再び行動を起こしてくださるのを熱烈に待ち望んでいた。そこで大切なことは、かの偉大なストーリーが、彼らの心と聖書の読み方の習慣に深く刻み込まれていたことである。(196-7)
《感想》 この時代はシリアがエルサレムを支配していたのを、ユダ・ハンマーが3年間にわたるゲリラ戦に勝利し、神殿から異教の影響を一掃したそうです。ユダヤ教のハヌカがそれを祝うお祭りだったとは知りませんでした!
星の子(バル・コクバ)シモン(197-204)
《引用箇所》 そして多くのユダヤ人は、メシアを待ち望むのはまったくの誤りだという結論に達した。ともかく、ユダヤ人の反乱はその後、途絶えてしまった。彼らはひっそりと神と律法に従って生きることに満足し、他民族が世界を支配したければ、それはそれでよしとした。……
星の子シモンのストーリーはユダ・ハンマーから300年後のことであるが、結末はまったく違うものの、そこに驚くほど共通のパターンがある。……
シモンと彼の支持者たちの信じたストーリーは、ユダ・ハンマーと同じストーリーだった。それこそが聖書の語るストーリーだと彼らは信じ、聖書の約束は、そのストーリーどおり成就すると信じていた。それは、神がついに王となられると語ったイエスの言葉を聞いた人々の脳裏に浮かんだストーリーだった。それはイエスがエルサレムに入城した際、人々が歌に込めたストーリーだった。(203-4)
《感想》 こういう歴史的背景を知るのはとても興味深いです。ユダ・ハンマーのように、イエスが登場する前にメシアとおぼしき人物が現れるのはわかるのですが、イエスが登場して、十字架の死と復活を遂げたあとでもなお、メシアを待ち続けていたユダヤ人… 彼らは、自分たちが待ち望んていた王が異教徒によって殺されるとか、終わりの日の前に1人だけ復活するとか、どうしても受け入れられなかったのでしょうか…
王国樹立のアジェンダ、ヘロデ大王、シモン・ベン・ギオラ(204-212)
《引用》 人々が「ユダヤ人の王」に期待した一連のことは広く知られていた。・・・それらの期待の最上位に来るものは、異教徒に対する勝利と神殿の清め、また再建であった。(176-7)
《感想》 9章はイエスの王国樹立のアジェンダを見通すための、いわば「座標軸」作りだったということでしょう。それを「回り道」をして・・・と言っています。  そして取り出した要素は「敵に対する勝利」と「神殿清め/再建」でした。この二つが10章のテーマになります。
第10章 戦いと神殿(213-232)

戦い(213-220)
《要約》 9章において示された、「ユダヤ人の王に対する期待」の最上位は、異教徒に対する勝利と神殿のきよめまたは再建でした。これを10章では「戦いと神殿」と題して提示します。分担されたところは、「戦い」の前半です。イエスは戦いに関与します。しかしその戦いは、人々が期待した異教徒に対する勝利を目的とするような戦いでは無く、「サタンとの戦い」でした。・・・・・・
《感想》 クリスチャンは自身を善の側にいると捉えがちなのではないかな。??

以上10月中の報告でした。

その他「第6回N.T.ライト・セミナー」が終わったところで様々な感想やら何やらが続けざまに投稿されしばらく賑やかでした。

最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年10月は、入会1名で、トータル230名です。


以上、ご報告まで。

2017年10月1日日曜日

FB読書会 2017年9月報告

10月です。今年もあと三ヶ月。


今月は23日に第6回N.T.ライト・セミナーもあり忙しくなりそうですが、『シンプリー・ジーザス』の方はしゅくしゅくと進行します。


9月は第8章をカバーしました。今回は担当ボランティアが一人に減りましたので、《感想》部分はほんの少しだけ紹介します。


第7章 説明するストーリー、変革をもたらすメッセージ(162-191)

ストーリー、ラザロと金持ち(162-169)

《引用箇所》 その良い例が、ルカの福音書16章19節から31節の、死後、別々の世界に住んだ二人の男についての不思議な話である。この話のポイントは、貧しい者を助けるべきだという警告と、悔改めの緊急性である。(163)
イエスは、種を蒔く人のたとえ、・・・そこに含まれている旧約聖書の響きが、聖書によく親しんだ聴衆の心に根を下ろすことを願った。・・・だが、罪人と思われていた人たちがそのメッセージを受け入れた一方、正しい人々の多くはまったく分かっていなかった。
 ・・・・・・イエスの言葉がどう機能するかを研究する専門家は、その「言語行為」効果を描く。すなわち、ストーリーを語ることで新しい状況、新しい世界が作り出される。(168-9)
「種まきのたとえ」と「ぶどう園と農夫のたとえ」(169-176)
《引用箇所》 イスラエルはまさに、再び蒔かれている種である。しかし多くの人は、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ままでいる。多くの種が、道端や岩の上や茨の中に落ちてしまう。
 ここで言われているのは、イスラエルはいまのままではいけないということだ。(172)
次のストーリーは別の意味で重苦しい。イスラエル全体がイエスの神の王国のヴィジョンにまったく関心を示さないばかりか、それに激しく抵抗している痛ましい現実がそこに映し出されている。(174)
外側だけの改革以上のものが必要(176-181)
《引用箇所》 ・・・神の計画が成し遂げられ、イスラエルの運命が成就する。まさにその道筋の中にねじれが生じてしまっているのだ。
 いまこそ、イエスは単なる「偉大な宗教の教師」であって、新しい霊性のあり方や新しい救いの方法を教えたというたぐいの考えは退けるべきだ。(176-7)
 イエスは、もし神が天におけるように地においても王となられるのなら、外側だけの改革以上のものが必要であるとよく理解していた。それは単に既存の律法や規則の運用を強化し、厳格に実行することではない。それは、パリサイ派がやろうとしていたことだ。(181)
変容される心(182-191)
《引用箇所》  イエスのポイントは、神が王になられるとき、心の汚れの解決を提供してくださると言っているのだ。……その人のすべてを内側から刷新するのである。(185)
イエスは、神が王となるときに被造世界そのものが刷新されることを強調している。それゆえ神の王国における支配とは、創造の秩序の意味を明らかにする支配なのである。……

 心に関する他のすべての箇所を考え合わせれば、私たちは自信を持ってイエスの示したポイントはこうだと断言できる。すなわち、神が天でそうであるように地においても王となられるとき、*神は心の頑なさという病への解決をもたらしてくださるのだろう*。病める体へのイエスの癒しは、その人の奥底までも貫徹する。内側からの癒しによって変えられた人生は、神が王となられるとき、それにふさわしい創造の秩序を示すものとなるだろう。……

 イエスの教えが生活の私的領域での敬虔さについてだけのものでは決してない。(188-9)
《感想》 「心の頑なさ」は神が王になるときに癒される「病」であるとは、なんと感謝なことでしょうか。…… あと、この箇所は原文で読むと、神が王となるときになされる刷新が、いかに根本から徹底的になされるものかがはっきりわかります。

以上9月中の『シンプリー・ジーザス』は予定通り第8章を読了したことを報告します。


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年9月は、入会1名で、トータル230名となりました。


以上、ご報告まで。

2017年8月31日木曜日

FB読書会 2017年8月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて5ヶ月が過ぎました。

ほぼ「1章/月ペース」で進んでいます。

8月は第7章をカバーしました。5つのパートに分け3人の方が担当してくださいました。上手く捗りました。

ということで今回は《感想》部分も少し多く紹介しました。


第7章 キャンペーンここに始まる(129-161)


イントロ(129-131)

《引用箇所》 紀元一世紀の眼鏡をかけたまま、イエスと、そしてイエスがイスラエルの神について語ったことを振り返ってみよう。使者が公式の布告を宣言するやり方に倣って、イスラエルの神がついに王となられたことをイエスは宣言した。「時は満ちた!」と彼は言う。「神の王国はいまや到来しようとしています。・・・」(マルコ1章15節)
こうした宣言がどんな効果を生むか、少し考えてみよう。民主主義の下で生きる今日の私たちは、新しい大統領や総理大臣と共に新しい政府が誕生することを経験している。それをラジオやテレビのニュースで聞き、それが新しい政治の始まりであることを知り、新体制を受け入れる。(129)
「祝宴、癒し、赦し」(131-140)
《引用箇所》 赦しは実際のところ、癒しの一種なのである。それは、人々を押し潰して身動きできなくする重荷を取り除いてくれる。赦しは掛け値なしに人を真っ直ぐに立ち上がらせるのだ。それは社会全体に広がっていく。(136,137)
赦しと癒し。この二つは個人的にも社会的にも、分かちがたく結びついている。社会全体が、積年の恨みから生み出されれる不和によって身動きが取れなくなり、内乱へと発展する。直視されることも、赦されることもなかった一つの出来事や行動のために、家族も引き裂かれることになる。同じように社会も家族も、そして個人も、赦しを通じて和解がなされ、新しい希望と新しい愛を見いだすことができる。 (138)
《感想》 イエスの宣言は「神があなたの心の王座に着かれた」のではなく「神がこの世界の王座に着かれた」である。私たちは、プロテスタントの流れの中で「神と私」の関係を強調しすぎてしまい、神が世界(あるいは社会)に対して為されることに興味関心を持たなくなってしまってはいないか。それに加えて、私という個人が世界、社会、隣人に対して為すべきことをあまり考えなくなっているのではないだろうか。神との関係を強固に保つことが第一の目的になってはいないだろうか。・・・・・・
神はこの世界を通して私という個人を癒し、そして私という個人を通して世界を癒そうとされているのではないだろうか。また、自分自身は家族や隣人との関係の癒し(回復)にどれほど関心を払い、祈り求めているだろうか、と思わされた。

「最初の宣言」(140-146)

《引用箇所》 イイエスの最も正式な宣言は、ルカの福音書の中で(ルカ4:16~20)、その公生涯の最初になされた。・・・イエスは立ち上がり、イザヤ書の巻物の中からある一節を読んだ。
 その箇所は来たるべき世、奴隷状態からの解放、新しい出エジプト、捕囚後の回復に言及した偉大なる聖書箇所の一つだった。(140)
《感想》 >奴隷状態からの解放
これが、実は救いの理解なのだと、実はライトさんの著作を読み始める7年くらい前までは明確に言語化できなかったのですが、ライトさんの本を読み始めて、これで読むと非常に明確に、スッキリと、旧新約聖書が読めることに気が付き、それ以来、個人的には、あぁ、なるほどこう読むのか、と従来バラバラで、セメダインやガムテープでガチガチに固めていたものを一旦外して、きれいに並べ替えて、非常にスムーズに聖書を理解できるようにはなりました。
「あなたの罪は赦されました」(146-151)

《引用箇所》  これらのストーリーは、それに類した他のストーリーと同様に、待望久しいヨベルの希望と共鳴するものだった。それはイスラエルの罪によってもたらされた捕囚からの解放であった。また一方でこれらのストーリーは、偉大な出エジプトのストーリーによって喚起されるイスラエルの希望とも共鳴するものだった。そのどちらにおいても、罪を赦すとイエスが宣言した際、彼のしたことに対する不満の声が上がった。パリサイ派のシモンの家にいた人々は、「罪さえ赦すこの人はいったい何者なんだ」と尋ね、癒された中風の男を見た律法の専門家は、罪の赦しは神だけができると指摘した(マルコ2:7)。(150)
《感想》 イエスのキャンペーンのテーマである「祝宴、癒し、赦し」がここで再び浮き上がってくるのが分かります。「イエスの癒し、祝宴、それを切実に必要とされている人への赦し、これらすべてが、神が王となられると彼が語った時、いつも聴衆の心に生れただろう大きなヴィジョンの手近な現れなのである。」と結んでおられるのが心に残りました。
「ヨハネとヘロデ」(151-161)
《引用箇所》 しかしヨハネは、彼の従兄弟のイエスこそ、来るべき王であると信じていた!イエスの行動を通して、神はついに王となるーー暴君の圧政を打ち砕き、民を解放する!もしそれが起こるとすれば、まさにうってつけの役割がヨハネにあったのではないか?ヨハネの公生涯のクライマックスは、とどのつまりイエスの宣教を開始させることにあったのだ。イエスを、神の時の人として立ち上がらせることだった。それではなぜ、イエスはヨハネの苦境を知りながら何もしてやらなかったのだろうか?(152-3)
《感想》 この部分の記述は、所謂なぜ、神は悪を放置するのか、議論(所謂神義論?)ともつながる問だと思います。我々は、このような問いをすぐに、それも安易に立てたがる傾向があると思いますが、神のご計画はそれこそは不可知なことでは無いか、と思っております。それが次の部分にもつながっていると思います。そして、今も神は善なのに不善を許すのか、というような問になって、いまも続いているのかなぁ、と思いました。


以上8月中の『シンプリー・ジーザス』第7章ほぼ読了・・・という進捗・経過報告でした。

その他「フリーeBook情報」ということで以下の二つのリンクを紹介しておきました。
 (1) The Gospel According to Acts by N.T. Wright
 (2) Was Jesus a Jew? Discovering the Jewish Jesus


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年8月は、入会2名で、トータル229名となりました。


以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年8月8日火曜日

Salvation By Allegiance Alone 7

さて、『Salvation By Allegiance Alone』という一冊の本についての様々な紹介記事を見てきました。

それだけこの本が、「福音・救い・信仰・キリスト者生活」をトータルで再確認する、特に「王なるキリストを中心に」再構築する必要を訴える本になっているので注目を集めたのではないかと思います。

今回この「7」でシリーズを終了するにあたって、もし一番簡単な紹介文、最も導入として的を射ている「帯文」は・・・(まだ本書そのものを読んでいないで言うのも何ですが)これではないでしょうか。


"Matthew Bates argues that faith or believing is not mere assent, not easy believism, but covenantal loyalty to the God who saves his people through the Lord Jesus Christ. Bates forces us to rethink the meaning of faith, the gospel, and works with a view to demonstrating their significance for true Christian discipleship. This will be a controversial book, but perhaps it is the controversy we need!"
Michael F. Bird, lecturer in theology, Ridley College, Melbourne, Australia
 このバードの表現に即して言えば、
(1)easy believism
(2)Christian discipleship
(3)covenantal loyalty
あたりが特に目に付きます。

マクナイトの紹介でも何度か出てきたと思いますが、ボンヘッファーが強調した「弟子(付き従う)」としての能動的信仰面が、「救いの恵みを受ける(「安価な恵み」の問題)」という受動的信仰ではなかなか伴わない、ということがこの本の主張の背景にあると思います。

また宗教改革来の課題である(信仰に対して)「行い」をどうするか、倫理とか「キリスト者生活」の問題が、(組織)神学的には「聖化」や「キリスト教倫理」という形では取り組まれてきましたが、やはり「(個々人の)救いの完成」というフレームを越えては解決できていないのではないか、ということがあると思います。

一つの《中間考察》として

前回6でも言いましたが、このシリーズは「大和郷にある教会」ブログの『救いについての「教理」』
と並行して進めてきました。

いまこちらのシリーズを終えるにあたり思うことを一つ二つ挙げておきたいと思います。


(1)(救いの)共同体面をどのように回復するか

これだけ注目を集める『Salvation By Allegiance Alone』が様々に指摘している「救い」をめぐる問題群は、(宗教改革後の)プロテスタント諸教派共通の問題となってきたように思います。

簡単に言えば「個人的な視点」がかなり強くなったわけです。

それは「制度的な教会」、つまりカトリック教会への様々な過剰反応として現れてきた面を含むと思います。(たとえばその一つは「サクラメント」と「ヒエラルキー的職制」の問題がダイレクトに繋がって見えるということとか・・・。)

いま宗教改革の伝統に属する教会の「教えと実践」でかなり基本的なところで見直しが起こっていることの背景に考えられるのは・・・やはり一つの大きな要因は「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)」ではないかと思います。

たくさんの書評を紹介してきましたが、ある意味指摘されている問題群は「キリスト教文明」に典型的に起こりそうな問題だと思います。

簡単に言えば「キリスト教が文化」な環境、「信仰」や「救い」に中途半端に接することが多い環境です。

ノミナル(名ばかり)・クリスチャン、(幼児)洗礼は受けたが・・・その後はさっぱり、というクリスチャン文化です。

キリスト教がマイノリティーだったり、キリスト教に対して敵対的だったりする文化圏では、信仰にしても救いにしても中途半端に過ごすことはそれなりに難しい。やはり覚悟がいります。

(しかし「キリスト教がマイノリティー」だからといって「教会文化」がない、育たないと言うことではありません。)

そういう意味でも、バードが(アリージャンスと同意に?)使った「covenantal loyalty」はなかなか示唆的です。

個人主義的視点から見た場合、「救い」の「信仰」に「契約共同体」的側面があることを自覚するのはなかなか難しい。

「洗礼式」の式文では「(教会)入会式」的な側面がありますが、リバイバリズムの背景が強い教会では「回心」の後に 「洗礼を受けて・教会に入る」意識がどうしても強くなりがちです。
(「回心」と「洗礼」とは教会共同体を中心にしてなるべく分離しない、時間的にも重なるような枠組みが必要に思います。)

(2) 「日本」の文脈との連絡の仕方

第1点で指摘した「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」がそれなりに正しいとすると・・・いわゆる日本における「欧米の最新神学思潮・流行導入傾向」 ということで二重に注意が必要になるかもしれません。

日本語文化圏というのは「近代」国家ということでいえば「日本語の代わりにどれか近代諸国家の言語を第一言語として国家制度を整える」という国家政策を取らずにきた結果である、と言えます。(この現象の文化面からの重層的分析として水村美苗の『日本語が亡びるとき』があります。この記事この記事 など。)

明治以来、一生懸命「知識人」たちが最新科学技術及び文化情報を「翻訳」して国民全体の教育レベルを維持してきたわけです。

残念ながら福音派「神学」では最近この志向にブレーキをかける傾向があるみたいですが・・・。

さて、『Salvation By Allegiance Alone』がNPP等のアカデミックな議論の延長上、つまり「聖書学」からの「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への波及、という文脈で捉えた場合、「日本」の文脈との連絡の仕方は二つのフロントで評価・導入するという問題になると思います。

① すなわち「聖書学」での議論の積み上げへの評価が必要と言うこと。

このことは「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」への影響とはある程度切り離した形で必要だと思います。
※このシリーズでは紹介しませんでしたが、ニジェイ・グプタが「この本は内容はわざわざ議論される必要がないほど(聖書学的見地からは)すでに前提的なものである・・・」みたいな嘆きをその紹介記事で添えています。
現状は「聖書学」の評価を独立してするほどまだ(欧米の福音主義でも)基盤が強くないような印象です。そのため予防・防衛的に悪影響のありそうな思潮・潮流に限定して 水際作戦を展開するメンタリティが先行気味・・・などと言うことも散見されるのでしょう。

もちろん「トレンド・流行」にだけ敏感になるのも問題ですが、日本が「島国鎖国的メンタリティ」を引きずる伝統があるとすると、世界の(神学的)動向に絶えず注意を向けていることには積極的であっていいと思います。

② もう一つのフロントである「(宗教改革神学と言う伝統的)福音主義神学」のフロントですが、これに関してはむしろ「教派神学」的伝統にしても、「福音主義」という今日(20世紀)的神学運動にしても、日本ではほぼ受動的であったし、今後も同様に推移しそうな感じです。

だとすると、逆に言えば、「ポスト・キリスト教文明(post-Christendom)的背景」に対しては(皮肉な言い方になりますが)ある面余裕をもって対応できるのではないか・・・。

「キリスト教がメジャーからマイナーに転落する」経験は日本においては得られそうにありませんが、「キリスト教がマイナー」な環境でどう「教えと実践」を展開するかという問題に対してはそれなりの備えがあると思います。

今回のシリーズで紹介した中では、アンドリュー・ペリマンが最も自覚的にこの問題を捉えているので、この面では一番参考になると思います。

ただしペリマンの「キリスト教の福音の地平線」設定は慣れないとかなりラディカルに響くと思いますが・・・。

それでは7回も連載したシリーズを(めでたく)終了いたします。



2017年8月7日月曜日

Salvation By Allegiance Alone 6

スコット・マクナイト(ジーザス・クリード)の『Salvation By Allegiance Alone』紹介・インタヴュー(全9回)の2回目になります。

マクナイトの書評と著者インタヴュー、 
 Faith as Allegiance
 What Allegiance (Faith) is Not
 The Gospel of Allegiance
 Three Elements of Faith
(以上前半)

以上を前回カバーしました。

今回は以下の5つとなります。
 Is Salvation by Allegiance a Kind of Works?
 Is Faith-as-Allegiance Yet Another Instance of the Law of Moses?
 So How Much Allegiance is Required?
 When the Gospel includes New Creation
 Matthew Bates: When Justification Meets Allegiance


前回もそうですが、5つの記事それぞれにコメントはしません。

正直言ってベイツの主張が引き起こす論争の多くは「恵みのみ」「信仰のみ」の宗教改革原則にもとるのではないか、といったような「神学的要請」と「新約聖書テクスト」の意味・ニュアンスの中心・はばはどの辺にあるか・・・というかなり押し問答的な様相を呈するわけです。

一応著者であるベイツ自身も、紹介するマクナイトもその辺りのことをかなり意識していろいろやっているわけで、どうしてもそれらをいちいち紹介しようとすると「くどくなる」感じなのです。

たとえば「恵みのみ・信仰のみ」に関して、神からの一方的「賜物」として受け取るはずが、「アリージャンス」は「付加する」ニュアンスを伴うのではないか・・・という疑問に対して、マクナイトはジョン・バークレイ『たまもの』やハワード・マーシャルを引き合いに出しながら反論しています。

これを有名な「NPP対OP論争」のフレームで戦わせると「義」を獲得する道が「トーラー遵守」なのか「信仰」なのか・・・という風になるわけですが、ベイツはこのような論争の細かいニュアンスを(マクナイトの引用によれば)以下のように潜り抜けている、としています。
In other words, the real “faith” versus “works” divide in Paul is more accurately framed as a divide between works performed as allegiance to Jesus the king versus works performed apart from new creation in the Christ. And the latter usually but not always takes the form of a system that seeks to establish righteousness through performing prescribed regulations. 
この他にも救いと言うことに関連して、「新創造/天(国)」の様相や、「救いの秩序(ordo salutis)」の問題などでも、「(改革派系)神学的要請」に対して新約聖書(パウロ書簡)テクストの持つニュアンスがどのようなものかベイツの主張・強調点を拾い上げています。

義認においては(復活し義とされた)王なるイエスとの結合(union with Christ)、その(個人的な性格ではなく)集合(教会)的な救いの性格、などが「アリージャンス」ニュアンスの長所として紹介しています。(改革派神学に対しては修正点となります。)


以上たくさんリンクを挙げた割には簡単な紹介になってしまいました。(さすがに飽きてしまいました。)

「大和郷にある教会」ブログで連載しています「義認論ノート(、)」がここで紹介した論点等について、より踏み込んだ議論をしていますのでそちらもお読みいただけると感謝です。

2017年8月4日金曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー 参考資料

今回のライト・セミナーでは《共同研究》としました。

※「第一次応募締め切り」が4週間後となりました。


宗教改革500周年の《聖書のみ》と《万人祭司》にあやかってみたのですが、「『死者の復活』の教理」をめぐって、たった1節(コリント第一15章17節)
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
にしぼって、みんなで意見交換してみようと言うわけです。

たくさんの「現代訳を比較検討」してニュアンスの違いみてみるのもいいかもしれませんね。



今回は少しネット検索した中から二つ紹介します。

(1)説教(ノーザン神学校のチャペル・メッセージ?)

Our Victor – 1 Corinthians 15:17-20
By: Northern Seminary

For many years I never thought of the resurrection as important, as if Easter was about having your sins forgiven through Jesus’ death on the cross, and the resurrection on the third day was little more than a really happy ending.

Eventually Paul’s words in 1 Corinthians 15 helped me to see that Jesus’ resurrection wasn’t nice but necessary, and wasn’t a happy ending but a glorious beginning.


(2) 研究論文

Rollin Ramsaran

 この論文は
「コリント第一の手紙」が、(書かれた手紙だが)パウロが(口頭によって)スピーチした内容を下敷きにし、手紙の読者に対して口頭で読まれるために、特に「15章がクライマックス」となるよう様々工夫されて全体が構成されたもの、
という方法論的前提(オーラル・パフォーマンス)に立って分析されています。

数箇所、関連のありそうなところを引用してみます。


“Christ raised” becomes the basis for Paul’s argument through oral performance in 15:12-58. Going forward, Paul does not attempt to “prove” that Jesus was raised – he assumes it and he expects his audience to continue following him in that common belief. Paul, through his envoy, comes alive once again before the Corinthians as the proclaiming apocalyptic teacher and guide who was, in that very preaching, originally the occasion for their coming to faith.

Paul’s first question in 15:12 ( “How can some of you say that there is no resurrection of the dead?”), from a set of imaginary (?) interlocutors in Corinth, provides an opportunity to assert the necessity of Christ’s resurrection as the representative pattern for believers.

Much work has been done recently on  analyzing the oral performance indicators embedded in written texts (orally-derived texts).
My burden to this point has been to show the likelihood of Paul’s having composed the letter of 1 Corinthians in memory and then dictating it to a scribe. The written text then functioned as an aide-memoire for a sent envoy who would orally perform Paul’s message.


以上、何か参考になればと思い・・・。

2017年7月31日月曜日

FB読書会 2017年7月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて4ヶ月が過ぎました。

なんとか「6章」が終わるところまでたどりつきました。

夏休みに入るとどんなペースになるか・・・多分それほど変わらないでしょう。

ぼちぼち続いているでしょう。


第5章ハリケーン(75-110)


「統治とイスラエルの希望」(97-105)
《引用箇所》 これらはすべて、私がここまで説明してきたテーマである第三の大いなる嵐、すなわち南東から迫り来るハリケーン、およびイエスの時代の人々が熱望していた「王」の最終的な姿に、ぴたりと焦点を合わせている。神のみが彼らの王となることを待ち望んでいた人たちは、聖書に明示された希望にすがりついていた。
 その希望とは、何年か後に神は戻って来られ、彼らとともに住まわれ、彼らを救い、立ち直らせ、彼らの敵を裁き、正義を行い、彼らがこれまで見てきたような人間の王とまったく違う、善き王としてすべてを整え、支配される、という希望だった。ただ、エゼキエル書34章やゼカリヤ書の文章を読んでいくと、神なる王は最終的に、人間の王として登場することが分かる。(103-104)
「神の王国とメシアの王国という二つのテーマの統合」(105-108)
《引用箇所》 イエス到来前の二百年間、およびイエス到来後の民族闘争の百年間、これらすべての期待を一つにまとめあげ、ダビデ家の王という姿 でイスラエルの神がやって来られると示唆した人は一人もいなかった。・・・・・・
 だがいうまでもなく、神の王国とメシアの王国という二つのテーマを統合したいちばん良い例は、イエスの運動だった。・・・むしろ不可解な組み合わせ、つまりダビデ家の王であると同時に、戻って来られた神として賛美を捧げた。(105-6)
 しかしここに問題がある。イエスについての究極の謎である。それは次の二つの問いに要約される。(107)
 
「第Ⅰ部 しめくくり」(108-110)
《引用箇所》 イエスは、神が自ら王となられると語った。それがどんな意味で、またどういう意味を今後持つようになるかを語り、実演し続けた。

第6章 いまこそ神が支配される(113-128)

「第Ⅱ部 導入」(113-120)
《引用箇所》  多くの人々がイエスについて知っていることと言えば、彼が村にやってくると必ずパーティーになることだった。…預言者が町にやってきた。それは皆にとって良い知らせなのだ!…病の人が癒やされた。そう、どんな病気でも癒やされたのだ。(113)
(この箇所を担当したYさん)
・パーティー人としての「イエス」
このパーティーのイメージが二部の幕開けというのもこのイメージの重要性を示している気がします。どうしてもイエスとかキリスト教というと儀式とか静寂とか大人しげなイメージが先行してしまうのですが、あるいはイエスの生涯と言うと十字架への悲壮な決意のような渋い顔のイエスを思い描きがちなのですが・・・、イエスが巻き起こした喜びとその表現としてのパーティーのイメージももっと鮮明に持っていてもいいのだろうなと思いました。
「問題解決担当者が問題になる」(120-123)
《引用箇所》 ユダヤ人たちは、アブラハムの子孫である自分たちこそ、世界を修復して正常に戻す計画の重要な部分、問題解決を担う者であると信じていた。
 だが、ユダヤ人が信じていたように、彼らが神の世界救済計画における鍵となる存在ならば、彼ら自身の民族としての歩みが、これほど長いこと惨憺たる状態であったことは、二重にいらだたしく、困惑させられ、頭を悩ませる問題だった。
「出エジプトのストーリー」(123-128)
《引用箇所》
 イエスはこの出エジプトのストーリー、過越しのストーリーを選び、自らの公生涯における劇的なクライマックスの背景として用いたように思われる。
(123)
・・・・・・神の支配というテーマは、その中でのみ意味をなす。それはまた、神は王となられるというストーリーでもあった。(127)


以上7月中の『シンプリー・ジーザス』進捗・経過報告でした。


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年7月は、入会3名で、トータル227名となりました。


以上、簡単ではありますが、ご報告まで。

2017年7月20日木曜日

Salvation By Allegiance Alone 5

ではスコット・マクナイト(ジーザス・クリード)の本書紹介・インタヴュー(全9回)に移って行きます。

多分一回では無理だと思うので、今回は前半となると思います。


マクナイトの書評と著者インタヴュー、 
 Faith as Allegiance
 What Allegiance (Faith) is Not
 The Gospel of Allegiance
 Three Elements of Faith
(以上前半)

 Is Salvation by Allegiance a Kind of Works?
 Is Faith-as-Allegiance Yet Another Instance of the Law of Moses?
 So How Much Allegiance is Required?
 When the Gospel includes New Creation
 Matthew Bates: When Justification Meets Allegiance


スコット・マクナイトがこの本を高く評価しているのはご存知のとおり。序言を書いていますし、ベイツの研究がマクナイト(もちろんその前にN.T.ライト)の「『福音』とは何か」の新約聖書学的探求を受けてのものだからです。

つまり「信仰とは何か」の前に「福音とは何か」が問われるべきなのです。そしてその流れの中で「義認」が問われ、「キリストとの合体(union with Christ)」が問われ、「救いの順序(オルド・サリューティス)」 や救済論の位置付けが問われるべきなのだと思います。

Ⅰ. 問いを枠付けるのは福音

ベイツがSBAAで「信仰」をあらためて問い直し、その中心的な意味を「アリージャンス(忠誠)」と捉え直すのは、すなわち「福音」が新約聖書においてどのようなものとして捉えられているか、という問いに基づいているわけです。
「信仰」とはその「福音」に対する応答だからです。
It all depends on how the gospel is framed. Is it about how to go to heaven when you die? About being released from guilt? About liberation from some kind of (spiritual or social) slavery? Let this be said over and over: How we frame the gospel determines what the response is.
Ⅱ. 「痩せた福音(truncated gospel)」の問題
 いわゆる「矮小化された福音」、マクナイトが『福音の再発見』で問題にした「罪の処理に特化した福音提示」の問題、などがそうです。
 
Ⅲ. 福音
… the gospel is the power-releasing story of Jesus’s life, death for sins, resurrection, and installation as king, but that story only makes sense in the wider framework of the stories of Israel and creation. The gospel is not in the first instance a story about heaven, hell, making a decision, raising your hand after praying a certain prayer, justification by faith alone, trusting that Jesus’s righteousness is sufficient, or any putative human tendencies toward self-salvation through good works. It is, in the final analysis, most succinctly good news about the enthronement of Jesus the atoning king as he brings these wider stories to a climax (30).
Ⅳ. (この)福音への応答: Allegiance to the Enthroned King

Ⅴ. 信仰/アリージャンスの三要素
 アリージャンスが「信仰(ピスティス)」 のすべての意味、というわけではなく、様々なニュアンス(信頼、忠実、信仰/ビリーフ、etc.)を「王となられたイエスへの忠誠」が大きく包み込むような形。

  1. Mental affirmation/intellectual agreement: certain enough to yield.
  2. Professed fealty to Jesus as Lord (Rom 10:9-10).
  3. Enacted loyalty to the king, as in the obedience of faith.
“If we remember that the allegiance concept welds mental agreement, professed fealty, and embodied loyalty, foregrounding allegiance makes excellent contextual sense in all of these crucial passages” (82).

以上、主に、The Gospel of Allegianceと、Three Elements of Faithから紹介しました。

(次回に続く)

2017年7月3日月曜日

第6回 N.T.ライト・セミナー ペーパー募集

第6回 N.T.ライト・セミナー
「ライトの終末論: 1コリント15章における『死者の復活』の教理をめぐって」

ペーパー募集!!!

「ライト・セミナー」ウェブサイトで案内した、2017年「第6回 N.T.ライト・セミナー」の《ペーパー募集》の応募要項をお知らせします。

1. ねらい

1コリント15章16-19節でパウロは「もし『死者の復活』がなかったら」と仮定を使って「使徒の福音」にとっていかに『復活』を事実として受け止めることが大切かを議論しています。

さてその一連の「もし・・・復活がなかったら」のうち、17節は以下のようになっています。
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる のです。」(新改訳)
はたしてパウロが言う「今もなお罪の中にいる」とはどういうことなのでしょうか。

パウロは同じ15章の3節で「使徒の福音」を簡潔に要約していますが、後半は次のようになっています。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために 死なれたこと、」(新改訳)
ということは「キリストは確かに“私たちの”罪のために(十字架で)死なれたけれども、まだ復活していないとしたら贖罪は不成立になってしまう」、ということでしょうか。

それともこの場合「復活」は「十字架の死による贖罪」も含めた“一つながりの出来事”として言っているのでしょうか。そして一つながりの出来事として復活も含めて完了しなければ贖罪は不成立、ということでしょうか。

この17節の「今もなお、自分の罪の中にいる 」についての神学的意味を入口にして、ライトにおける終末論、キリストの復活によって開始される「新創造」に一歩足を踏み入れてみたいと思います。

2.ペーパーの内容

ライトはSurprised By Hope の247ページ最初のパラグラフ(13行)で次のように言っています。
"We begin with Paul's great statement of the new world in I Corinthians 15:12-28. He is battling to get it into the heads of the ex-pagan Corinthians, many of whom clearly didn't fully grasp that the gospel meant what it said about Jesus's resurrection. The crunch comes in verse 17: if the Messiah isn't raised, then your faith is futile and you are still in your sins. In other words, with the resurrection of Jesus a new world has dawned in which forgiveness of sins is not simply a private experience; it is a fact about the cosmos. Sin is the root cause of death; if death has been defeated, it must mean that sin has been dealt with. But if the Messiah has not been raised, we are still in a world where sin reigns supreme and undefeated so that the foundational Christian belief, that God has dealt with our sins in Christ, is based on thin air and is reduced to whistling in the dark."(SBH/247)
このライトの註解を適宜参考にしながら(反論も含め)、「各自の視点や問題意識」で意見をまとめそして発表してください。

3.字数制限、締め切り等

・1200~2000字くらいを目安にお願いします。
・締め切り
 第一次締切日・・・8月31日
 第二次締切日・・・9月24日

・セミナー当日(10月23日)に出席して発表・討論できる方を優先しますが、当日参加できない方のペーパーも「独自の視点や解釈を含むもの」はできるだけ当日のレジュメに入れたいと思います。

・「神学生・若手奨励」
応募してくださった方の中から2人の方に
ライト著『使徒パウロは何を語ったのか』(2017年、いのちのことば社)
を贈呈します。奮ってご応募ください。

4.応募のアドレス
サイト左に表示してあります「問合せ連絡先」まで(氏名・所属教会/学校・立場等)を付記してお送りください。 

5.問合せ
応募の条件や内容等に関し不明な点があれば同じアドレスまでお問合せください。

以上よろしくお願いします。
小嶋 崇(ブログ管理人) 

2017年7月2日日曜日

FB読書会 2017年6月報告

『シンプリー・ジーザス』を読み始めて3ヶ月が過ぎました。
まだまだペースはあがらず・・・です。

今回は引用だけでなく、「担当者の感想」も少し入れてみました。


第5章ハリケーン(75-110)


「歴史の複雑さという問題」(75-77)

イエスは、自分の抱いていた神のハリケーンである預言者的ヴィジョンと、人々の心理状態とが衝突してしまう瞬間が、いま再び起きつつあると信じていた。しかし、それだけではなかった。イエスは自分の語ってきたストーリーを、自分が実証すると信じていたように思える。つまり、イエスがエルサレムにやって来ることそのものが、イスラエルの神が力と栄光をもって帰還することの体現、顕現であると信じていたようなのだ。(p.76)
《Oさんの感想・・・パーフェクト・ストームがローマとユダヤと両方の背景を説明するものとして》
What St. Paul Really Said [『使徒パウロは何を語ったのか』] でも、ライトは「福音」(ユーアンゲリオン)の背景として、ユダヤ教的背景とローマ的背景の両方を考えていますし、この視点は、福音書に限らず、新約聖書全般の歴史的背景を考える際のライトの一般的視点とも言えるようです。私自身は、こういった視点で新約聖書を読むことはあまりなかったので、最初は斜めに見ていたところがありますが、繰り返しライトのこういった視点に触れ続けることにより、自然な視点として捉えられるようになってきました。


「神の愛のハリケーン」(77-79)

 それは神の愛のハリケーンが、ローマ帝国の冷酷な力やイスラエルの過熱した民族的待望と衝突する瞬間だった。この衝突について考えることを通じて初めて、私たちはイエスの死の意味を理解し始めることができる。真の神の子、真の大祭司が、どのように世界の王となったかを理解し始めることができるのだ。
 もちろん、これらを理解できるようになるのは、まだ先のことである。こうした深い理解に達するために、神の主権とその独自の行動というテーマが、旧約聖書の中でどれほど強力なものであるかを知っておく必要がある。
《感想》
 「旧約聖書背景」というような簡単なことではなく、イスラエルの信仰における「神の主権(とその行動)」に対するある意味「実感的な認識」を身につけることではないかと思います。

「飼いならされた神」?(79-81)
《引用》
 ・・・古代のユダヤ人たちが神についてどのように考えていたにせよ、神は、飼いならされた神ではなかった。・・・
 ある意味で、神の風を他の二つの風と同列に論じることそのものがおかしなことなのだ。それでもあえてそうする理由は、一世紀のユダヤ人たちが、自分たちの民族のストーリーだけでなく、彼らの神のストーリーも語っていたからだ。・・・熱烈な信仰心を持って、彼らの神は唯一の神であること、彼らの苦悩は世界の痛みであること、彼らの苦しみこそが世界の中心にあること、こうした信仰を彼らの神は一つにつなぎ合わせていた。
《感想》
 この部分、「一つの民族とその民族神との関係が作るストーリー」がどうしようもなく自民族中心的になるのに、イスラエルの場合は「唯一創造神」ゆえに「飼い慣らす」ことができなかった。むしろ身から出た錆びとはいえ周辺強国に翻弄され苦難を負うストーリー・・・というようなことを言っているように響きます。

「神政政治」(81-86)

《引用1》
 長いあいだの希望と、もっと長いあいだの悲嘆の中から生まれたこの運動は、神が、神だけが王となれると主張した。神は戻ってこられ、人々を治めるだろう。

《引用2》
 神政政治と言う思想は、現代人が思うほど突飛な考え方ではない。

《感想》 「神のみが王となられる」ということと、「それは神かダビデか、というような二者択一の問題としては捉えられなかった。それは両方を意味すると思われる。」のあいだに「どこまで人間的エージェンシーによる統治なのか」という「あいまい領域」があるように思います。
「王なる神」(86-97)

《引用1》
実際のところ、イスラエルのストーリーが進展していくにつれて、古代の詩人や預言者たちは、神ご自身が王であり、実権を握っておられ、すべてのことを解決するだろうと公然と語るようになった。彼らは、神がそのようになさるとき、物事がどうなるかについての印象的な歌を残した。(86頁)
詩編10:16-18・詩編47:1-10・詩編95:3-7・詩編96:10-13・詩編145:1, 10-13・イザヤ52:7-10・マラキ1:14
 長いあいだの希望と、もっと長いあいだの悲嘆の中から生まれたこの運動は、神が、神だけが王となれると主張した。神は戻ってこられ、人々を治めるだろう。
《感想》 ライトが明らかにしているのは、預言者が語る神が、
 A)完全な支配者の「王」
 B)完全に世話をしてくださる「羊飼い」
として表現されており、どちらも普通の人間の「支配者」にはそのようなことはできないのだ、だから「ほんとうの王」「ほんとうの羊飼い」を求める機運が歴史的に高まった、というイスラエルの歴史としてのストーリーを紡いでいるように思います。

以上6月中は「5章」の三分の二くらいをカバーできました。

担当してくれる方も、まったく初めての方も含め2名いました。


最近の動向として『シンプリー・ジーザス』があっちこっちの読書会で用いられたり、またこの本を読むために読書会が作られたりしているようです。


最後に「新規入会メンバー」について。 
2017年6月は、入会6名で、トータル224名となりました。

以上、簡単ではありますが、ご報告まで。