2013年7月1日月曜日

FB読書会 2013年6月近況

以前(2012年3月~2013年1月)How God Became King、を読んでいた時には小嶋がディスカッションリーダーを一人でやっていた。
その反省もあって現在読んでいるSurprised By Hope、ではボランティアで何人かの人に順番にやってもらっている。

さて、「6月近況」と言っても、ついここ2日間のディスカッションをルポ的に紹介してみよう。
現在、3. Early Christian Hope in Its Historical Setting、のResurrection and Life After Death、のところを読んでいます。

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pp.35〜40の要約
「復活(アナスタシス)」という言葉が、古代地中海世界の人々、特にユダヤ人にとってどういう意味があったのかということが簡潔に述べられています。

異邦人にとっても、ユダヤ人にとっても、「復活」は死後の世界を意味しない、という点をまず押さえる必要があります。

「誰々さんが復活した」というのは「誰々さんが天国に行った」という意味ではない、ということです。古代の人々は、人が死ぬと霊魂のような存在として生き続けると概して信じていたようですが、体から抜け出た霊魂の状態になることを指して、それを「復活」と呼ぶことは決してなかったのだと。
「復活」とは何かしらのphysicality、「からだ」を伴う甦り現象として古代人に理解されていました。

また、「復活」とは「神になること」という意味でもなかった、ということも大切です。徳川家康が東照大権現になる、というような現象をさして「復活」という言葉が用いられることもなかった訳です。ですからイエスが天の国に行って、そこで神になったと信じられたとしても、それを指して「復活」という言葉が使われることも決して無かった筈です。

ユダヤ人は、サドカイ派のような人々を除けば、たいていは体を持った甦りとしての「復活」を信じていました。しかしその復活とは、「世の終わりに皆が一斉に復活する」という集団的復活(復活するのは義人だけの場合と、義人とそれ以外の全ての人を含む場合、というような見解の相違はありましたが)のことでした。誰かが世の終わりの前に、一人だけ復活するなどという期待や思想は、どこを探しても見られませんでした。またイエスも、そのような特殊な復活があると生前教えた形跡もありません。イエスは弟子たちの「復活」についての因習的理解を変革しようとはしていなかったのです。

そういう訳で、イエスが十字架に架かった時に、「イエスは死んでもすぐ復活するから大丈夫だ」などと考えた弟子は誰もいなかったのです。もちろん彼らもイエスの復活そのものを否定した訳では無かったでしょう。しかし、それが起きるのは「世の終わり」、皆が一斉に復活する時であって、三日の後だなどとは誰も考えませんでした。そのため、イエスが十字架で死んだ時、弟子たちの希望(つまり神の王国の実現)はまさに打ち砕かれたのです。もう終わりだと、誰もが理解したことでしょう
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これに対するOさんのコメント:
読みやすく、分かりやすく解説をいただき、ありがとうございます。
イエスは弟子たちに、三日後によみがえると伝えたと福音書に書いてありますが、文字通り三日とは受け取らなかった、ということですね。
リーダーの回答:
Oさん、マルコ9:9など、たしかにイエスは生前から自分の復活を予告しています。ライトは学者たちの通説に反対し、この予告は後から福音作家が付け足したものではなく、イエス自身が語ったものだと主張しています。
しかしライトはそれを「復活」の予告というよりも、神が自分をVindication(「義認」と訳されることもあります)してくださる、つまり自分に帰せられた汚名を神御自身が振り払って、イエスの正しさを証明して下さる、とイエスが予告したのだと考えているようですね。自分が文字通り「復活」することについては、イエスは明確に説明することなく、謎めいたサジェスチョンを残しただけだったので、弟子たちはそれに気づかなかった、という風に説明されています。
Oさんの感想:
なるほど。そういう理解ですね。この説をまだ全面的に受け入れられるかはわかりませんが、いろいろと考察してみたいです。
ここでTさんが加わる:
Yさん(リーダー)、イエスの弟子たちがイエスの復活預言を聞いて、終わりの日の復活のことを言っていると思ったというのは、納得できます。そのように考えることはあまりなかったので・・・ 
そうすると、三日目とイエス様があえて明言したことに大きな意味があるのですね・・・
Oさん、
このところはⅡマカバイ記7章を読んでみるともっとピンとくると思います。そこには終わりの日の復活の希望のゆえに雄々しく殉教の死を迎える様子が描かれています。(以下略)
Oさんの感想:
Tさん、解説ありがとうございます。ふ〜ん、初めて聞く、新鮮な視点です。よく考えてみます。
ジグゾーパズルが、だんだんと全体像を浮き上がらせつつ、埋まってくるような感じですね。

Ⅱマカバイ記7章を初めて読みました。家族対するすごい残虐な拷問の場面でショックです。
この書は、たぶん当時のユダヤ人のローマ人に対するレジスタンス精神に影響を与えていたということですね。

この後リーダー、Oさん、TさんのⅡマカバイ記7章に始まる「外典」が余り読まれていない現状についての意見交換が続く。そして、
Oさんの感想:
いや〜、なんとも、素晴らしい。こういう背景がわかってくると、預言書とイエスの時代、イエスの生涯とメッセージが、立体的に立ち上がり、繋がってきて、「聖書の世界、読み方はこうだったんだ〜」と見えてきて、ワクワクしてきますね。
これまでの私にとって、預言書、小預言書は、あちこち素晴らしい御言葉が散りばめられているとはいえ、現実の信仰生活にあまり関係ない、あるいは妖しげな終末論に使われる、もやに隠れた遠景でしかなかったです。
 

と言う訳でこの読書会ならでは議論の深まりと、相互啓発が垣間見える面白いディスカッションが継続中。

読者の方、今からでもまだまだ間に合いますよ。ゆっくり読み進めていますから。
あなたもお仲間に入りませんか。 

 
 

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